鬼狼伝(32) 投稿者:vlad
 綾香さんが端っこにいる。
 自分も端っこにいる。
 綾香さんが一番右端。
 自分が一番左端。
 つまり──。
 綾香さんがBブロック第四試合。
 自分がAブロック第一試合。
 距離は遠い。
 道のりは遠い。
 その道に、三人の猛者がいる。
 みんな、自分と同じところを目指している。
 倒さねばならない。
 倒さねば通してもらえない。
 みんな、倒して通ろうとしている。
 この道はそういう道だ。
 そういう道を自分は選んだのだ。
 相手を倒す。
 それ以外は考えないようにしよう。
 それ以外は全て邪念だ。邪魔なものだ。
 必死にやろう。
 一生懸命やろう。
 一瞬一瞬を全て一生懸命で埋めよう。
 一生懸命なことが、自分が唯一つ他人に誇れることだから──。
 行こう。
 それで行こう。
 ぱん、と両手で挟み込むように頬を叩いた。
 控え室のドアが開く。
「松原選手、時間です」
 立ち上がった。

「葵に、何か声をかけたの?」
 控え室から出ていく葵を見送った浩之に、綾香が声をかけてきた。
「いや……」
 浩之は首を振った。
「アガってもいないみたいだしな、黙ってたよ」
「ふうん」
「ここんとこ、おれ、葵ちゃんとは疎遠だっただろ」
「……」
 疎遠、という言葉が的確な表現かには疑問があるが、確かにここ数ヶ月、正確には葵
がエクストリーム同好会設立を断念してから、浩之はあまり葵とは一緒に練習をしなく
なった。
 葵は綾香のところに行って練習していたのだが、綾香の目から見ても、彼女は時折、
寂しそうにしていた。
「だから、だいぶ心配してたんだ。その……葵ちゃんにはさ……良くも悪くも優しいと
いうか……人を気遣うところがあるから……」
「うん」
 浩之のいわんとするところを、綾香はなんとなく理解した。
 葵には一生懸命なところはあるが、死に物狂いなところが無いのである。
 格闘家としての資質はあると綾香は思っているが、性格的にはあまり格闘家向きでは
ない要素が多いのだ。
 それゆえ、実力はありながらそれほどの結果を出していたわけではなかった。
 綾香が通っていた空手の道場でも、誰もが葵の実力を知っていた。その道場の女子の
部で双璧をなしていた綾香と好恵が特にそれを認めていた。
 だが、公式戦での結果はあまり芳しくなかった。
「でも……今日の葵ちゃんは違ってた」
 浩之の声に、この男らしくもない感傷的な響きがあった。
「お前と練習したおかげかな?」
「……あの子は、強い子だから……」
 綾香はそういって首を横に振った。
「私もうかうかしてらんないわ」
 綾香の目に研ぎ澄まされた光が宿る。
 元々、綾香は葵のことを自分を越えうる存在であると、それほどまでに評価していた。
 自分には、天賦の才があるらしい。
 それを確信したのが中学生の頃だ。
 平均的な人間の半分のスピードで技を覚えることができる。
 葵には、そういう才能は無いと思っていた。
 ただ、努力をできる人間だと思った。
 最近、考え方が変わった。
 葵には才能──それも天賦といっていい才能がある。
 努力ができる才能だ。
 努力を苦とも思わない。
 努力することに喜びすら感じている。
 ここまで行けば一個の才能であろう。
 努力をする才能のある葵が積み重ねてきた努力の成果がそろそろ十二分に発揮されよ
うとしているような気がしてならない。
 それが今日なのではないだろうか。
 綾香はゆっくりと柔軟体操を始めた。
「葵ちゃん、決勝まで来れるといいんだが……」
 浩之が呟いた。
 葵は綾香を目指してエクストリームに足を踏み入れた。
 今回も、綾香が一般部門に出場するから葵もその道を選んだ。
 葵にとって、綾香が目標だった。
 綾香がいるところが目的地だった。
 そんな葵には、綾香と思い切り闘って欲しい。
「お前の目から見て、なんか要注意って相手はいねえのか」
「そうねえ……」
 と、いいながら綾香は、にわかに葵のセコンドのようになってしまった浩之を好もし
げな目つきで見ている。
「あの子がAブロックの決勝で当たるかもしれないあの人なんて強いわね」
「どの人だ?」
「あの人」
 と、綾香が指差した先に、一人の女性が座っている。
 不覚にも見とれてしまった。
 美人である。
 花咲くような笑顔をしている。
 なんかやたらめったら喜んでいるらしい。
「あの人、前回の準優勝者の御堂静香さんっていってね、ああ見えて強いのよ」
「へえ」
「今度やるエクストリームのドラマの主役やってる緒方理奈の格闘の演技指導してる人
でね」
「英二さん」
 浩之は、思わず呟いていた。綾香が要注意だという前回準優勝者と何か楽しそうに話
している緒方英二に意識が引きつけられていた。
「む……」
 英二の方も浩之に気付いて、女性に二言三言何かいってからこちらに近付いてきた。
「やあ」
「どうも」
 浩之と軽く挨拶を交わすと、英二は綾香に手を差し出してきた。
「妹がお世話になってるそうで」
「いえ、こちらこそ」
 互いの手を握る。
「英二さん、あの人と知り合いなんすか?」
「ああ、一度仕事の関係でうちに来たことがあってね……おれの大ファンなんだってさ」
「そうすか、なんか楽しそうに話してましたけど」
「食事に誘ったら思っていたより喜んでくれてね」
「へえ、いいっすねえ」
 そういえば、英二は現役ミュージシャンの頃は年に二回ぐらいは女優とか歌手とかと
「熱愛発覚」していたものだ。
 結局、未だに独身だが、英二の「婚約者候補」と報じられた女性は何人かいるはずだ。
「なんか可愛い人ですねえ、準優勝するような人には見えませんよ」
 はたから見て明らかにウキウキとした様子で柔軟運動をしている静香を見ながら浩之
がいった。あかりや志保がいないので羨望の念を隠そうともしない。
「真面目な警察官の父親に育てられて、趣味らしい趣味は格闘技だけだっていうからね
え」
「百戦錬磨の英二さんにかかっちゃそんな初心なお嬢さんはイチコロですね」
「まあねえ」
 英二はヌケヌケといってのけた。 
「さてと……んじゃ、おれは葵ちゃんの試合見に行かないといけないから」
「いや、おれも行こう」
 丁度、葵の名前がコールされるのが試合場の方向から聞こえてきた。
 エクストリームの試合場は観客席最前列からやや低い場所にある。
 十メートル四方の正方形の形をしており、プロレスやボクシングのリングよりも少し
広い。
 リングのように四方にコーナーポストが立ってロープが張られているわけではなく、
下にラインが引かれていて、そこから体の一部が出ると試合が中断して一度中央に戻っ
て仕切り直しになるというルールであった。
 押されて出るのはよいが、相手とほとんど接触せずに自らラインを割ると減点のペナ
ルティが課せられる。
 マットは、先程浩之が乗ってみたところ、シートの下にゴムが布いてあるらしく思っ
ていたよりも弾力がある。しかし、学校の柔道場の畳などよりは遙かに固く、投げを喰
らって頭から落ちたらそれ一発で勝負が決まることもありうるだろう。
 浩之たちが控え室を出て、廊下を通って、選手通路の入り口付近に行くまでに試合は
第一ラウンドを二分過ぎていた。
 エクストリームは五分三ラウンド制なためにフルタイムで闘うと十五分間の戦闘時間
になる。
 浩之が試合場を見た時、葵はレフリーの前でファイティングポーズを取っていた。
「松原、立ち上がりました」
 アナウンスが聞こえてくる。
「葵ちゃん、ダウンしたのか!?」
 浩之が思わず叫び、試合場に向かって歩き出した。綾香は少し躊躇った後、それに続
き、英二はその場から動かなかった。
 近付けるところまで浩之は近付いた。試合場は場外も含めると十五メートル四方にな
る。場外に五メートルの遊びが設けられているのだ。
 その端っこの上に手を置き、身を乗り出して浩之は葵を見上げた。
 目だ。
 葵の目が見たい。
 浩之は葵が背を向けている位置からぐるりとその反対側に回った。
 葵が顔を上げていた。
 浩之は離れた。
 試合場から少し離れた位置に立って試合を見ていた綾香が自分の隣に来た浩之に一瞬
だけ視線を走らせてまた、試合場にそれを戻した。
「あの子、いい目をしてるわよね」
「ああ」
 相手選手の右ストレートが伸びる。
 葵の体が前のめりに倒れるように動く。
「当たってねえ!」
 浩之が叫んだ。
 確かに、少しだけ触れたが、相手のストレートは葵の頭を掠っただけであった。前に
出つつ、ギリギリの見切りで相手の攻撃をかわしたのだ。
 相手はパンチを打つために踏み込んでいる。葵も攻撃をかわしながら踏み込んでいる。
 両者の胸と胸が接触するほどに接近する。
「行った」
 浩之がぽつりと呟いたのとほとんど同時に葵の両手が相手の腹部を立て続けに殴りつ
けていた。軽量だが、それゆえのスピードとキレを有する葵にとって懐に入っての強襲
は一つの戦闘パターンである。
 僅か一秒程度の間に四発のボディーブローを叩き込んだ葵が離れる。組み合っては不
利である葵は一撃離脱の場面が多くなる。
 丁度、掴みかかろうとしていた相手をすかした形になった。
 前方に泳いだところを逃さずに葵の蹴りが唸った。
 ミドルとハイの間ぐらいの胸の高さに等しいぐらいのキックであった。
 それが前にのめっていた相手の側頭部に炸裂した。
「立てねえだろ」
「ええ」
 浩之と綾香が短く言葉を交わした十秒後、松原葵に勝利が宣告された。

 勝った。
 自分は勝ったらしい。
 相手にくっついて腹を打ち、離れて──。
 離れた時に、相手の選手の頭が下がっていた。
 そこから記憶が一瞬飛んだ。
 意識が繋がった時、相手の選手が頭を押さえて倒れていた。
 蹴り──だったような気がする。
 足に、そんな感触があった。
 やっぱり、蹴りで決めたらしい。
 こんなことは初めてだった。
 時間が経って、試合場から下りた時、生々しい記憶が頭の中に蘇ってきた。
 相手の頭の位置を確認した刹那、足が自然に動いていたのだ。
 蹴りを──。
 意識した時には足が頭に接触していた。
 自分は勝ったのだ。
 入退場の通路の脇に先輩がいて、掌を横に伸ばしていた。
 葵は、軽く、その掌に自分のそれを合わせる。
「やったな、葵ちゃん」
「はい!」

                                     続く

     どうもvladです。
     32回目。いよいよ試合に入りました。
     葵が一部、堤城平のごとくになっているのは勘弁して下さい(笑)
     なんか生真面目そうなとこがイメージ被るんですよ。 

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