鬼狼伝(31) 投稿者:vlad
 開会式は当然ながら派手であった。
 ショーアップされたそれをもちろん、好恵は好きにはなれない。
 テレビ中継されるエクストリームを何回か見たことはあるが、いつも見るのは試合だ
けで、そういう「余分な」ところはチャンネルを変えて見ないようにしている。
 しかし、今日は、会場にいるためにチャンネルを変えるわけにもいかなかった。
「いい席なのよ、それ」
 と、チケットをくれた綾香がいったように、最前列から三列目の指定席であった。
 開会式が終わると、30分の準備時間を置いた後、男子高校生部門と女子高校生部門
が始まるとのことだった。
 好恵は、席を立った。
 選手の控え室に行って、葵と綾香の様子でも見てみようと思った。
 なんだかんだいって、葵には頑張って欲しい。
 角を曲がった瞬間、目の前に肉の壁が出現した。
 急ぎ足だった好恵は止まれずにそれに当たった。
 日頃から鍛えた自分の体が、ゴムまりが跳ねるように飛ばされていた。相手は微動だ
にせず、好恵だけが飛ばされていた。
「っと」
 好恵が体勢を立て直そうとした時、腰の辺りが引っ張られていた。
 気付くと、傾いていた体が真っ直ぐに立っている。
 手が、好恵の腰に触れて、引いたのだ。
「おっと、ごめん」
 背の高い男だった。
 ぶつかった瞬間は物凄い量の肉に当たったような感触がしたのだが、それから瞬間的
に想像したよりもスマートである。
 ただ、好恵も素人ではないから、その体が引き絞られた筋肉と僅かの脂肪によって構
成されていることがわかる。
 男は道着を着ていて、胸元が少し空いている。
 そこを見る限りでは、筋肉と脂肪が絶妙のバランスでその体を包んでいた。
 歳は若い。おそらく、二十代の前半であろう。
 短く刈った髪の下に、人の好さそうな顔がある。第一印象で好青年という感想を抱い
ておかしくないだろう。
「大丈夫だったか」
 男が心配そうに声をかけてくる。
 それはいいのだが、手が腰に回ったままである。
「大丈夫です」
 と、いいながら、好恵は身を引いた。
「ところで、こっちに何の用だい? こっちには野郎の控え室しか無いぜ」
「え……」
 どうやら、道を間違えたらしい。女子の控え室は男子のそれとはやや離れたところに
あるようだ。
「坂下じゃねえか」
 その、聞き覚えのある声は背後から来た。
 振り返ると、浩之がこっちに歩いて来るところだった。後ろに佐藤雅史がいる。
「おう、浩之の知り合いか」
 男がいった。
「この子、女子の控え室に行きたいらしいんだ。お前、案内してやれよ」
「はい」
「それじゃ、おれはトイレに行くから」
 そういって、男は去っていった。
「藤田」
「おう、女子の控え室はこっちだぜ」
 と、浩之は好恵が曲がろうとした角とは逆の方向の角を曲がった。
「あの人、誰だい?」
「柏木耕一」
「あの人、強いね」
 綾香と同じことを、好恵はいった。
「ああ、強い」
 浩之は同じ返事を返した。
 控え室には人だかりができていた。丁度綾香が、マスコミに囲まれているところだっ
た。
 その人だかりから少し離れたところにいた葵を見付けて、浩之は声をかけた。
「よっ、葵ちゃん」
「あ、藤田先輩に佐藤先輩に……好恵さん、来てくれたんですね」
「坂下が迷子になってたんで案内してきたんだよ」
 好恵は、一瞬だけ何かいいたそうな表情を見せたが、結局浩之を無視して葵を見た。
「葵……負けるんじゃないよ」
「はい!」
「それじゃ、頑張りな」
「おい、それだけかよ」
「ああ」
 試合前にゴチャゴチャいわれるのは好恵は好きではなかった。だから、きっと葵もそ
うだろう。
 ただ、一言だけいいたかっただけだ。
 控え室を出る寸前、人と人の間に綾香の顔が見えた。
 冷静な落ち着いた表情だ。
 あっちには何もいう必要はないだろう。
 好恵は、控え室を後にした。

「あの、段々緊張してきました」
 御堂静香は自分の心拍数が急激に上昇していることを自覚していた。
「一般部門はまだ先だぞ、今から緊張してどうする」
 柳川祐也は落ち着いたものであった。
「ど、どうしましょう」
「掌に人と書いて飲め」
「はい」

 トーナメント表を見た時、月島拓也は歯軋りしたといっていい。
 Aブロック八人、Bブロック八人の計十六人で大会は行われる。
 柏木耕一。
 藤田浩之。
 緒方英二。
 その三人の名は、Bブロックにあった。
 自分の名がAブロックにいる。
 ぎりっ。
 歯軋りした。
 肝心要の連中と自分が引き離されてしまっている。
 Aブロックの他の七人が決して弱いとは思わない。ここにいる十六人は全員、審査を
通って来た人間である。
 だが、自分を受け止めてくれる人間は結局、あの三人なのではないか、と拓也は思う
わけである。
 自分の技を受け止めてくれる人間はたくさんいるだろう。
 しかし、自分の「情念」を受け止めてくれる人間は何人いるだろうか。
 情念を「狂気」といっても構わない。
 そう思っていた時。
 四人目を見た。
 自分を受け止めてくれる四人目の男だ。
 女子の控え室に近い廊下にその男はいた。
「ひ、人と書いて飲む」
「それは人じゃなくて入だ」
「は、はい」
 いつか見た女性と何やら話している。
 確か、柳川祐也、警察官をやっているはずだ。
 トーナメント表のどこにもその名は無かった。選手としてではなく、観客として来て
いるのだろう。見ると、女性の方が道着を来ている。
 おそらく、彼女の応援であろう。
「じゃあ、頑張れよ」
「は、はい」
 女性が去っていき、柳川が拓也の方にと来た。
「……」
 柳川は無言で拓也の傍らを通り抜けた。その表情から察するに、拓也のことは覚えて
はいるらしい。
 拓也はその背中を慕うように体の向きを変えた。
 受け止めてくれ。
 僕を受け止めてくれ。
「待て」
 柳川が、背中を向けたままいった。
 拓也の手が、もう少しでその後ろ襟に触れそうだった。
「この位置だとおれの方が有利だ」
「!……」
 拓也の顔色に疑惑の色が加わった。
 背後から掴みかかろうとしている自分のどこが不利なのだ。
 疑惑が生じたただ一瞬の間に、柳川の体はすうっと前に進み、進みながら後ろを振り
向いていた。
「これで互角」
「貴様!……」
 拓也が踏み出すのに合わせて柳川が下がる。
「これから試合だろう。止めておけ」
「そんなの、どうでもいいんですよ」
 拓也の体がゆらりと前に出た。
 右手を伸ばす。
 柳川の左肩に触れたかと思えた刹那、拓也の右手は空を掴んでいた。
 ほんの僅かに、柳川が左肩を後ろに反らしていた。
 左手を伸ばした。
 空を掴んだ。
 拓也の口から舌打ちが漏れた。
 かわされたからではない、人が来たからだ。
「それではな」
 身を翻して柳川が去るのを、拓也は歯軋りしながら見送った。

 一般部門は高校生部門と大学生部門の後にあるので少々時間が空いている。
 浩之は観戦しながらも、心はここにあらずといった表情で、二階席の一番後ろに立っ
ていた。
 あかりと志保は、わざわざチケットを買ってこの場に来ているが、浩之は一度も会っ
ていない。会うのは、全てが終わってからでいいと思っている。
 今、自分の横にいる雅史はセコンドとして付き添っていてくれることになっている。
 既に、大学生部門が終わり、休憩時間に入っていた。
 この後、女子の一般部門があり、そして、浩之が出場する男子の一般部門がある。
「ふう」
 まじぃ、段々緊張してきやがったぞ。
 今まで、かなり危険な闘いを何度もやってきて緊張などには慣れっこだと思っていた
のだが、これだけの観客の前で試合をするとなると、また違った質の緊張が心を張り詰
めさせる
 落ち着け、落ち着け。
 ひつじの数でも数えるか……。
「浩之、あれ」
 雅史が下の方を見ながらいった。
 その視線の先に、男がいた。
 階段に座り込んで、すぐ隣の椅子に座った女の子となにやら話している。
「耕一さんじゃねえか」
 柏木耕一である。
 順当に行けば、Bブロックの決勝戦で浩之は彼と対決することになる。
 だが、少し気になることは……緒方英二が準決勝で先に耕一と対戦する可能性がある
ことだ。
 耕一が、女の子の頭を撫でていた。
「ちっきしょう、余裕だな」
 浩之は、緊張していた自分が恥ずかしくなってきた。
「よし、ちょっと声かけて……」
 浩之が階段を下りていこうとした時、
「どいてどいて!」
 階段を駆け上がってきた女が、かすめるようにぶつかってきて浩之は捻れるように体
勢を崩した。
 接触する寸前に自ら体を捻ってかわそうとしたのだが僅かに間に合わなかった。
「おい!」
「あ、ごめん!」
 振り返ってそういった顔は、浩之とそう変わらぬ年齢の少女であった。
「くそ、なにしやがんだ。あの女」
 姿勢を立て直しながら浩之がその背中に毒づく。
「大丈夫? 浩之」
 雅史が心配そうな顔をしている。一応、浩之のセコンドというものになっている以上、
試合を前にした浩之の体を気遣っているらしい。
「いや、大丈夫だ……にしても」
 浩之の肩の辺りに柔らかな感触が残っている。
「可愛いし、いい胸してたけど許せねえ」
「……」
「畜生、どうしてくれよう。帰ってくんの待ち伏せして揉んでやろうか」
「……」
 はっきりいって、今の浩之は試合前の緊張と高ぶりで気がささくれ立っているため、
些細なことで怒りやすくなっている。
「浩之」
 ぶつぶついっていたら、下の方に座っていた耕一が気付いて声をかけてきた。
「あ、どうもどうも、耕一さん」
 浩之がいいながら下りていくと、耕一の隣にいた女の子が顔を覗かせた。
「お兄ちゃん、この人は?」
 小学校高学年……ぐらいに見える可愛らしい子だ。柔らかそうな髪が背中に垂れてい
る。
「藤田浩之、総合格闘家だ」
 耕一が答える前に、普通の人間なら恥ずかしくて口にできないような自己紹介をして
浩之は、後ろの雅史を親指で指した。
「こいつは、おれのセコンドの佐藤雅史」
「よろしく」
「どうも、よろしくお願いします」
 頭を下げたその子の隣にいたおかっぱ頭の子も、一緒に頭を下げた。
「耕一さんの妹ですか?」
「いや、従姉妹だ。……ところで、悪かったな」
「は? 何がです?」
「さっき、お前にぶつかったのもおれの従姉妹なんだ」
「あ、そうなんすか」
 そういえば、おかっぱの女の子の隣の席が空席になっている。
「ま、許してやってくれ、携帯が震えたらしくてな」
「はあ」
「十回コール以内に出ないと怒られるらしくてなぁ」
「はあ……」
「ん?」
 耕一が、浩之の後ろの方に視線を注いでいる。
 浩之が背中越しに背後を振り返ると、階段の一番上でさっき浩之に激突してきた耕一
の従姉妹が手招きしていた。
「おれか?」
 と、いいながら耕一が自分を指差す。
 ブンブン頷きながら、ブンブン手招きする。
「ちょっと行ってくる」
 耕一が立ち上がって行ってしまった後に浩之が腰を下ろす。
「もうちょいで女子の一般が始まるな」
 呟いて、横からの視線に気付く。
「ええっと……」
「柏木初音です」
「柏木楓です……」
「おう、初音ちゃんと楓ちゃんはあれかな、格闘技とか見るの好きなのかな」
「あんまり……」
「私も……」
「あ、そうなんか。じゃあ、今日は耕一さんの応援か」
「うん、お兄ちゃんがこの大会に出るっていうから」
「お家はどこにあるのかな」
「隆山だよ」
「随分遠いな……そんなとこからわざわざ応援に来たのか」
「うん」
「そうか、偉いな、よし、お兄さんが飴を上げよう」
 浩之が道着の上に着たジャンバーのポケットから飴を取り出して初音と楓に渡した。
 浩之は初音を小学生、楓を中学生だと思っている。
 周りに人がいなければ人さらいにしか見えない。
「浩之、始まるよ」
「おし、じゃ、葵ちゃんの様子でも見に行くか」
 浩之が立ち上がり、初音と楓に手を振って階段を上がっていった。
 女子の一般部門第一試合が始まろうとしていた。
 
                                           続く

     どうもvladです。
     第31回目となりました。
     もう後はおそらく闘いの連続になるでしょう。一気に行きます。

 

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