鬼狼伝(30) 投稿者:vlad
「浩之ちゃん、あーんして」
「あーん」
 右腕を吊った浩之があかりに昼食を食べさせてもらいながら屋上で雑誌を読んでいた。
「あ、藤田先輩」
「おう」
 後輩の松原葵がやってきた。浩之を訪ねて来たらしい。
「ここにいたんですね、教室に行ったんですけどいないんで、もしかしたらここだと思
って……」
「葵ちゃん、なんか用かい?」
「藤田先輩。昨日、お医者さん行ったんですよね、どうでした?」
 どうでした? と、いうのは、無論二週間程前に月島拓也に折られた右腕のことであ
る。
「もう二週間したら完治するとさ」
「え、本当ですか」
 葵が我がことのように喜色を表した。
「それじゃあ、二ヶ月半後のエクストリームに出場できますね」
「ああ、きれーに折ってくれやがったからなあ」
「でも、不便じゃありませんか?」
「まあな、箸が使えねえからパンとかばっかり食ってんなあ、後はあかりに食わせても
らったりだな」
 と、浩之がいった側から、あかりが御飯を摘んだ箸を差し出す。
「おう」
 それに食い付いて顎を動かす浩之に、葵が顔を寄せた。
「ご、ごめんなさい。お邪魔だったでしょうか?」
 小声で囁いた。
 頬がほんのりと染まっている。
「いやいや、んなことねえって」
 浩之がそういいながら手を振って、雑誌のページをめくった。
「おっ」
 と、浩之が呟いた。知り合いの顔を見出したからだ。
「あ、それ今週の『格闘道場』ですね」 
「ああ」

 伍津流の刺客、柏木耕一豪語す。「加納は一分で潰せる!」

 その文字を読んで、浩之は苦笑した。
「耕一さん、ヒールみてえだなあ」
「藤田先輩、その方御存知なんですか?」
「ああ、ちょっとね」
「ところで、藤田先輩。エクストリーム参加申し込み、明日までって知ってました?」
「あれ、そうだったっけ?」
「はい、申し込みをまだしてないんだったら、今日、一緒に行きませんか?」
「おう、そうすっか」
「綾香さんと待ち合わせしてますから、何かわからないことは綾香さんに聞けばいいし」
「そんじゃ、放課後、校門のところで待ってるよ」
「はい……神岸先輩、お邪魔しました」
 葵は、腰を直角に近い角度で曲げて、去っていった。
「お邪魔なんかじゃねえのに、なあ」
 浩之があかりにいった。
「うん、気にすることないのに……あ、浩之ちゃん、御飯粒ついてるよ」
「取ってくれ」
 するなといっても水準以上のデリカシーのある人間ならば同席は遠慮するであろう。

「あんた、その右腕、大丈夫なの?」
 開口一番に、綾香がいった。
「大丈夫だって、二ヶ月前には完治するから」
 浩之は左手で右腕を包むギプスを叩いて見せた。
 浩之は、葵と綾香とともに、エクストリーム大会の参加申し込みに来ていた。場所は
大会を運営している会社の本社受付である。
 入り口のところで、綾香は悪寒を感じて、こちらに向かってくるある男を見た。
 葵の視線も綾香のそれと同じところへ注がれている。
 殺気、といっていい悽愴な気をその身にまとった男だった。
 綾香にも、葵にも目もくれず、浩之のことを見ている。
 浩之もその男を見ている。
 細い目が印象的な男だった。
 男と浩之が擦れ違う瞬間、綾香も、そして葵も、知らず知らずの内に拳を握っていた。
 葵が、安堵の溜め息をついた。
 二人が、何事もなく擦れ違ったからである。
 男も浩之も、振り返らなかった。
「浩之、今の人知ってるの?」
 しばらく歩いたところで、綾香が尋ねた。
「おれの右腕折ってくれた人だよ」
 事も無げにいって、唇を曲げた浩之に、綾香と葵は沈黙した。
「色々と、面白そうなことがあったようじゃない」
 ようやく口を開いた時、綾香の顔には笑みが浮かんでいた。
「今度、詳しく聞かせてね」
「おう」
 受付は、それほど面倒なものではなかった。ただ、書類に必要事項を記入して、一ヶ
月後に体力テストを主体にした審査があることが告げられただけである。
 エクストリーム大会は、アマチュア格闘家が出場する大会であるから、プロの大会に
比べて制限が厳しく、それなりの体が出来ている人間でないと出場はさせてもらえない
のである。
 特に、エクストリームは大会ルールがアマチュアにしては、グラブを着用していると
はいえ、頭部を殴ることが許可されていたりと非常に激しいものであるので、その審査
もそう簡単には通れない。
「体力測定と、軽いスパーリングがあるだけよ、ま、葵だったら大丈夫よ」
 綾香は頼もしげに請け負った。が、浩之の実力というのは彼女にとっては未知数であ
る。
「落ちちゃ駄目よ、浩之」
「あんまし甘く見んなって、軽い軽い」
 と、まあ、右腕を吊った状態でいってもあまり説得力が無いのは確かである。
 申し込み用紙を貰って、ペンを借り、ロビーの方へ行くと、一人の男が椅子に座って、
用紙に何か書き込んでいた。
「耕一さんじゃないですか」
「あん?」
 忘れるはずもない。浩之が本格的に格闘技を始めてから、もっとも恐ろしいと思った
男が、目の前に座っていた。
「おう、浩之か」
 耕一も、浩之のことを覚えていた。彼にとっても浩之は、印象深い相手として記憶に
残っていた。
「浩之も出るのか」
「はい」
「高校生部門かな」
「いえ、一般部門です」
「へえ、じゃ、おれと当たるかもしれないな、おれも大学生部門じゃなくて一般に出る
んだよ」
「そうらしいですね」
 そのことは、『格闘道場』の記事に書いてあった。
「あの……この人……」
 葵が、耕一を見ながら浩之に小声でいう。
「ああ、さっきの雑誌の人だよ」
「あ、やっぱりそうだったんですね」
「なんだ。お前ら、あれ見たのか」
 苦笑した耕一が頭を掻く。
「松原葵です。女子一般部門に出場します。よろしくお願いします」
「おう、よろしく」
「どうも、来栖川綾香です。私もあの記事読みましたよ」
 綾香は、そういって手を差し出した。
「ああ、やっぱりそうだったのか。なんか似てるなーとは思ってたんだけど」
「よろしく」
「ああ、こちらこそよろしく」
 耕一は、綾香の手を握った。
 綾香は、強くその手を握り返した。
 握手を交わした一瞬の間に、綾香の脳裏には幾つものイメージが浮かんでいた。
 この手を捻って関節を取ろうとした場合。
 手を引っ張りつつ蹴りを突き出した場合。
 飛びついて首刈り十字固めを仕掛けた場合。
 なぜ、そのようなことを考えたのか、綾香は我ながら不思議に思っていた。格闘家の
本能という言葉で説明できないことはないだろうが、それにしても、別にさしあたって
自分と闘う可能性の無い人物である。
 幾つものイメージが浮かんでは消える。
 綾香は耕一に手を捻り返され、蹴りを防がれ、十字固めを外されていた。
 何をやっても返されそうな気がする。
 こんなことは初めてだった。
 相手からは、殺気も、闘気すらも発されておらず、闘う姿勢もしていない。ただ、棒
立ちになっているだけだ。
 そんな相手である。
 しかし──。
 イメージの中での綾香の攻撃の悉くが外れていた。
 今の綾香と似たような気持ちを、かつて月島拓也が抱いたということを、もちろん彼
女は知るよしも無い。
「それじゃ、おれは行くから」
 耕一はもう、申し込み用紙への記入を済ませていた。
「はい、予選会場で会いましょう」
「ああ」
 去っていく耕一の背中に視線を注いだまま、綾香が呟いた。
「強いわね、あの人」
「ああ、強い」
 浩之の目も、耕一の背中を見ている。
 浩之の目は、綾香が初めて見る目の色をしていた。
 なんといったらいいのか……。
 尊敬の眼差しとでもいったらいいのか……。
「あの人と、何かあったの?」
 綾香は好奇心を押さえきれなかった。
「負けたんだよ」
 いいながら、浩之が椅子に腰を下ろした。
 その隣──を葵に譲って、綾香は浩之の向かいに腰掛けた。
「私……加納選手にも会ったことあるのよ」
「え、そうなのか」
 浩之は、加納久という男について、ほとんど知識が無かった。なにしろ、その名前を
知ったのがついさっき、『格闘道場』の例の記事なのである。
「何度か試合を見たこともあるんだけど……強いわよ」
「そうか……」
 浩之は眉間にしわを寄せた。
「耕一さん……一分で潰すとかいって大丈夫かなあ」
「私、あの記事読んだ時、随分と大言壮語だと思ってたんだけど……」
「だけど……なんだよ?」
「私が間違ってたみたいね」
 綾香がいった時、耕一の背中はもう見えなかった。
「あの人、強いわよ……一分で潰せるっていうのもハッタリじゃないわ」
「へええ」
 打倒耕一を目指している浩之としては、やや怯んだが、考えてみれば、あの人の強さ
はよく知っているつもりである。
「優勝しても不思議じゃないわよ、あの人」
 てことは、おれがあの人に勝ったら、おれの優勝もありえるわけだ。
 耕一に勝つということが容易なことではないということはわかっている。そのために
は今まで以上の修練が必要であろう。
 浩之は、ギプスに包まれた右腕を恨めしげに見やった。

 浩之の腕からギプスが取れて一ヶ月後に、エクストリームの出場審査会があった。
 百人ほどの希望者の約半数が体力測定で落とされた。それからスパーリングを行い、
優秀と判断された十六人が本戦出場の資格を得た。
 浩之は審査に通った。
 前回優勝者の綾香は審査無しであった。
 葵も、耕一も拓也も英二も通った。
 加納久も通っている。
「審査で落ちてくれりゃよかったのになあ」
 などと、耕一はいっていた。

「ヒローーーーーーっ」
 屋上に駆け込んできた志保に目もくれずに、浩之は腕立て伏せを続けていた。
 右腕がスムーズに屈伸する。
「ヒロ、あんた、聞いたわよ」
「何をだよ」
 浩之の傍らには、タオルを手に持ったあかりが立っている。
「あんた、エクストリームに出るって本当!?」
「情報遅いじゃねえか、一週間前だぞ。審査を通ったの」
「雅史に聞いたのよ、なによ、あんたら、あたしのことのけ者にしたわね!」
「雅史は前から知ってたんだよ」
「で、どうなのよ、まさか優勝狙ってなんかいないわよね、ちょっとした腕試しのつも
りなんでしょ?」
「狙って悪いか」
「嘘ぉ!?」
「だからこうして練習してるんだろうが」
 と、志保とやり取りをしながらも、浩之の体が上下するスピードは変わらなかった。
全く、ペースが乱れないのである。
 そこで初めて、志保は浩之の体を見た。
 上着は、薄いシャツ一枚だけしか着ていないので、体の線がよく見える。
 志保が、最後に浩之の体を見たのは去年の夏にあかりと雅史も加えたいつもの四人で
プールに行った時だったと思うが、その頃よりも体全体がやや大きく、いたるところの
筋肉が発達しているのがわかる。
「志保、ジロジロ見るなよ」
「見てなんかいないわよ!」
「で、なんの用だ? ひやかしか?」
「応援に来てやったんじゃない」
「どうだか」
 浩之が腕立て伏せを止めて立ち上がると、すぐにあかりがタオルを手渡した。
「後、三週間だな」

 そして──。
 その時は来た。
                                      続く

     どうも、vladです。
     とうとう30回目までこぎつけました。
     審査とかは、思い切ってはしょってしまいました。
     少々、エクストリームについて己の考えを述べます。
     ゲーム中からわかるのは、どうやら流派など関係なく出場者を募っ
     ているらしい、オープンな大会であること、多くのスポンサーがつ
     いていて、賞金も出るという大会であること、などです。
     賞金が出るのでは、プロの大会なのではないかと思ったのですが、
     どうもその参加者のオープンな求め方からするとアマチュアのよう
     な気がするので、非プロのアマチュア大会としてこの作品では扱う
     ことにしました。どうやらアマチュアの大会でも高額の賞金が出る
     ということは例があるようなので、問題無しと判断しました。
     そうなると、グラブやナックルを着用するとはいえ、頭部に拳によ
     る攻撃を行うというのがおかしくなってきますが、拳による顔面攻
     撃無しのいわゆるフルコンタクト・ルールにすると、ちょっと展開
     上、戦闘の幅が狭まって私が困るので拳による顔面攻撃はありにし
     ました。さらに、そうなるとアマチュアの大会では、頭部をガード
     するヘッドギアのようなものや、ヘルメットのごとき防具をつける
     のが一般的のようですが、それも無しにしました。なんかイメージ
     的に違うような気がしまして……。
     そういうわけで、現実と照らし合わせてみれば、所々におかしいと
     ころがあるでしょうが、御了承下さい。