鬼狼伝(29) 投稿者:vlad
 知り合いの青年が、店の窓にシャッターを下ろす音で、英二は時計の針が自分が思っ
ていたよりも遙かに進んでいたことに気付いた。
 既に、十一時を回っている。喫茶店エコーズにはもう、英二以外に客はいない。
「ああ、もう閉店か」
「英二さん、スポーツ新聞見ましたよ」
 青年がいった。そういえば、今日はこの青年とまともに言葉を交わしていなかった。
英二が来店した時はまだ店が混んでいたこともあったが、英二が、いつになく黙ってい
たからだ。
「どの新聞だい?」
「ええっと……『緒方英二血迷う』とかいう見出しのやつです」
「ああ、あれか」
 自分が三ヶ月後のエクストリームの一般部門に出場することを報じた新聞の中でも、
最もその行為を嘲ってくれたやつだ。
 と、いっても、どの新聞も「何を考えてるんだこの男は?」というのが基本的なスタ
ンスらしいが……。
「さっき、理奈ちゃんが来ましたよ。英二さんが来るちょっと前に」
「へえ」
 確か今日は、この近くのテレビ局で歌番組の収録があるはずだから、その行きか帰り
にここに寄ったのだろう。
「なんかいってた?」
「兄さんが馬鹿なことやろうとしてるから僕の方からなんかいってやってくれって……」
「はは……馬鹿なことか」
「なんか理奈ちゃんがいうには、学生時代にちょっとボクシングでいい線行ってたから
って、兄さんはエクストリームを舐めてるって」
「うーん、舐めてるつもりはないんだけどねえ……」
 しかし、理奈から見たら英二はそういう情報に疎いように見えているに違いない。自
分が妹にはその類のことを知らせないようにしているのもある。
 さらに、理奈は今出演しているドラマのために、エクストリームの試合のビデオをか
なり多く見ている。何も知らないはずの兄に向かって、一言いってやりたくなるのも当
然だろう。
 だが、英二は決してエクストリームを軽んじてはいない。むしろ、試合の観戦数は理
奈よりも多いかもしれない。
「なんでまた。エクストリームに出場しようなんて思ったんです?」
 青年がカウンターの奥で洗い物をしながら問うた。
「またやりたくなったんだよ。今度は総合格闘をね」
 やりたくなったからやる。
 やりたくなくなったら止める。
 一番英二に相応しい答えかもしれないと青年は思った。
「でも、何かきっかけがあったんじゃないですか?」
「……そうだな」
 英二は、手短に、藤田浩之という男の話をした。
 その話の過程で、もちろん柏木耕一と月島拓也の名も出た。
「それじゃあ、その人たちの試合を見たのがきっかけですか」
「いや……」
 英二は、ぽつりと呟いた。
 そして、それきり沈黙した。
 青年が、洗い物の手を止めて、英二を見た。
「たぶん、一番最初のきっかけはあれだろうな……」
「あれ?」
「昔の知り合い……っていうほどの仲じゃないかな……とにかく、知っている人間がね、
テレビに出てたんだよ」
「テレビですか」
「ああ、一年ぐらい前かな……深夜のボクシング中継だったよ」
 打たれても打たれても前に出ていくスタイルは、あの頃と全く変わっていなかった。
「プロになっていたのか……」
 深夜の0時過ぎに、英二はテレビを見ながら呟いた。
 自分と同年齢だから、ボクサーとしてはもはや若いとはいえない。
 試合途中のアナウンスで、それがウエルター級の日本タイトルマッチであり、彼が挑
戦者であることを知った。
 6ラウンドまでで三度のダウンを奪われ、7ラウンド開始早々、相手が打ち疲れたの
を衝いてラッシュを仕掛け、二分の間に二度ダウンさせた。
 その二度目のダウンから相手は起き上がれずにそのまま担架の世話になった。
「挑戦者のいつもの勝ちパターン!」
 そんなアナウンスが飛んでいた。どうやら、相変わらずのファイトスタイルでここま
でやってきたらしい。
 それを見た時──。
 心が動いたのだ。
「英二さん?……」
 洗い物を済ませた青年が、手を拭きながら英二に問い掛ける。英二は、いつしかその
時のこと、そしてあの時のことを思い出して、青年の声が聞こえていなかったらしい。
「あ、ああ、なんだい」
「で、その昔の知り合いがボクシングやってるのを見て、やりたくなったんですか?」
「ああ」
 英二はそう答えた。我知らず、拳が強く握られていた。
「おれの心が、やりたいっていうんだよ」
「……」
「おれの闘う心は……まだ死んでいなかった……」
「……英二さん」
 青年が、空になったコーヒーカップを下げ、グラスを二つ棚から取り出して、英二と、
自分の前に置いた。
「出場を辞退する気は無いんですね?」
「無い」
「……そうですか」
 青年が苦笑して、そして微笑んだ。
「ま、今ので理奈ちゃんの頼みは聞いたってことで……」
 また苦笑した。
「もう止めませんよ」
「藤井くん……」
「ブランデー、嫌いじゃないでしょ?」
 青年が、冷蔵庫からブランデーの瓶と、氷の塊を出してきた。
 アイスピックが氷解を削り、削り出された氷がコップに投じられる。
「いつからここは酒を出すようになったんだ?」
「売り物じゃありませんよ、仕事が終わったら、時々、彰と一緒に飲むんです」
「そうか」
 英二がそういっている間にも、コップにはブランデーが注がれていた。
 氷の表面を滑って琥珀色の液体がコップの底に溜まっていく。
「いや、そのままでいただくよ」
 冷水の入った水差しを手に取った青年を制して、英二は、グラスを口につけた。
「それじゃあ、おれも、今日は強く行くかな……」
 青年も、水差しを傾けることなく、グラスを口に持っていった。
「試合、見に行きますよ」
「ああ」

 あれは、確か二週間ぐらい前だったと思う。
 道場に行くと、師匠と、見たことのない二人の男が何か話していた。男の片方は、や
たらと高価そうなカメラを持っていた。
 二人の男は自分と入れ違いで帰ろうとしていたところらしい。
「おう、耕一、丁度いいところに来た」
 師匠の伍津双英がそういって手招きした。
「彼がそうなんですか?」
 と、好奇心溢れる視線で耕一を見ながら、男の一人がいった。
「よし、写真をお願いしますよ」
「うむ」
 と、双英が頷くので、耕一はカメラマンらしい男が指示するままにファイティングポ
ーズを取り、写真を何枚か撮られた。
「それでは、この記事は、二週間後発売の号に載りますから」
 そんなことを男が確かにいっていた。
「先生、あの人たち、どっかの雑誌の人ですか?」
「うむ、週刊『格闘道場』とかいう雑誌の記者だ」
 なんでも、伍津流の秘密兵器(ということになっているらしい)柏木耕一がエクスト
リームに出場するということで取材が来たらしい。
「本当はお前にインタビューがしたかったらしいんだが、時間の折り合いがつかんらく
してな、代わりにわしが答えておいた」
「はあ、そうですか」
 その時は、別になんとも思わなかった。
 ただ、雑誌に自分の写真が載るのかと思うと、やや恥ずかしいと思ったぐらいである。
 だが、二週間後、その『格闘道場』最新号を見て、耕一は開いた口をしばらく閉じら
れないことになる。

 昼休みに、昼食を済ませて席に座っていたら、少し眠気が襲ってきたので微睡んでい
た。
 別に聞こうとしていたわけではないが、隣で数人の男子が話しているのが聞こえた。
 エクストリームがどうのこうのいっている。
 薄目を開けて横を見ると、一冊の雑誌を広げてそれを見ながら話しているらしい。そ
ういえば、そいつらは格闘技が好きで、よくそんな話をしている。
「なあ……柏木に聞いてみようぜ」
 そんな声が聞こえた。
 は? あたしに何を聞くって?
 けっこう、格闘技を見るのは好きな方だが、その連中ほどの知識は持ち合わせていな
い。
「絶対、これそうだよ。鶴来屋で柏木っていったら、あの柏木家以外にねえって」
 そんな声も聞こえた。
 梓は、いい加減歯がゆくなって目を開けた。
「さっきからなんだよ。あたしになんか用?」
 眠っていると思っていた梓にいきなり問われて、そいつらは驚いたようだが、やがて、
梓の方から尋ねられたのを幸いといわんばかりに聞いた。
「お前の親戚か何かに、柏木耕一って人いるか?」
「え? 従兄弟にそういう名前のがいるけど……それがどうしたんだよ」
「これ、その人じゃないのか?」
 そういって、ある男子が広げたままの雑誌を梓の机の上に移した。
「……」
 見覚えのある人物が、ファイティングポーズを取って、こちらを睨み付けている写真
がでかでかと載っていた。

 伍津流の刺客、柏木耕一豪語す。「加納は一分で潰せる!」

 と、見出しが踊っている。
「……」
 その記事の中に、隆山にある鶴来屋という旅館の経営者の親戚であることも書いてあ
った。
「なあ、どうなんだよ」
「これ、なんて本だよ」
 梓は、雑誌の表紙を見て、それが『格闘道場』という雑誌であることを確認した。
 それから三時間ほど経った頃、柏木家の玄関を慌ただしく開いた梓の姿があった。
「楓っ、初音っ、いるんでしょ」
 梓は、居間のテーブルの上に帰りがけに買ってきた『格闘道場』最新号を置いて、そ
れを広げた。
「なあに、梓お姉ちゃん」
「何かあったの?」
 やってきた二人の妹に、梓は、開いた『格闘道場』を見せた。
「わあ、凄い。耕一お兄ちゃんが本に載ってる!」
 初音は素直に驚いた。
「……耕一さん……写真写りがいいですね」
 楓は、内容よりもそれが気になるらしい。
「全く、耕一の奴、なんか格闘技を始めたってのは聞いてたけど、こんな話は聞いてな
いぞ」
 梓は、そんな重大なことを耕一が教えてくれなかったのが頭に来ているらしい。
「応援に行かなきゃね」
 初音がウキウキとした様子でいった。
「うん」
 楓が頷いた。
「まあ……しょうがないねえ、応援に行ってやりますか」
 梓はぶつくさいいながら立ち上がり、いそいそとカレンダーに印を付けた。
 エクストリーム大会は、もう二ヶ月半後に迫っている。

「先生、なんですかこれは」
「ああ、例の雑誌か」
「先生、加納は一分で潰せるとか記者の人にいいました?」
 そもそも、耕一が今度のエクストリームに出場するのは『ザ・バトラー』誌上で伍津
流を「なんとか流」呼ばわりした格闘家、加納久(かのう ひさし)に双英が激怒した
のが原因である。
「いったぞ」
「なんか、おれがいったことになってるんですけど」
「……大勢には影響なかろう」
「そんな……なんかおれ、ヒールみたいになってんですけど」
「……試合には影響なかろう」
「まあ、そうですけどね」
「さ、練習を始めるぞ」
「……はい」

                                     続く

     どうもvladです。
     第29回目となりました。
     以前、40回で終わらすといってたんですが、少しだけオーバーす
     るかもしれません。もう下手なこというの止めます(笑)

 

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