鬼狼伝(28) 投稿者:vlad
 後ろに立っていた。
 その男が──。
 背中に、研ぎ澄まされた刃物のような気配が当たっていた。
 緒方英二が、後ろに立っていた。
 佐原の呼吸が次第に回復していく。
 脳へ酸素が順調に送られているのだ。時を刻むごとに、思考が鮮明になっていく。
「いやぁ……まいった」
 声が漏れた。
 と、その声から刹那にも満たぬ寸瞬の時を置いて佐原の上半身が左向きに回転し、左
手が伸びて疾走していた。
 裏拳で背後の英二を狙ったのだ。
 その裏拳は打ち抜けずに、すぐに何かに当たって停止した。
 英二の左腕に止められたのだ。
 佐原が中腰になっているために、その裏拳はもし阻まれなければ英二の脇腹の辺りに
炸裂していただろう。
 降参の意思を口にした直後の奇襲なのでほぼ確実に当たると思っていた。そのために
思い切り打ち抜くつもりで行った。
 だが、甘かった。
 そのような思惑など、英二は見通していたのだ。
 思い切り打ったために戻しが遅れた。
 英二の左手が翻って佐原の左手首を掴んだ。
 佐原は中腰のまま英二に体の左側面を向ける形になっている。
 佐原の左手首が捻りながら引かれた。
 捻られまいと力を込めた瞬間を見計らったかのように、英二の右拳が佐原の左耳の下
の辺りに打ち下ろされた。
 ジョーと呼ばれる急所に、英二の拳は炸裂していた。
 佐原の顎の先端が、勢いよく右にふっ飛ぶ。
 脳が激しく揺れていた。
 脳震盪、とまでは行かないがそれの直前の状態であろう。一瞬だが、意識が完全にど
こかへ飛んで無くなった。
 気付いた時には、ジョーを打った英二の右腕が佐原の左肩の上を通り抜けていた。
 左肩に、ずっしりと英二の体重がのしかかってきた。
 その重みに負けて自分の胸が床を打った。
 左腕に重く、鈍い痛みが生まれていた。
 脇固め。
 よりにもよって、柔道二段の自分がボクサーの英二に元々柔道の関節技である脇固め
を極められるとは。
 いや……。
 この男をボクサーだと思っていたのが間違いの大元だ。
 こいつはそんな簡単な形の枠にはまっている人間ではない。
「折るよ」
 耳元で声がした。
 英二の声だ。
「折るよ」
 もう一度、囁いた。
「治療費は別に出すから」
 不思議と、優しい声だった。
「待て!」
 折れた。
「くああっ!」
 左肘が折れ曲がっていた。
「これか……」
 英二は立ち上がりながら呟いていた。
 これか……。
 これが人の腕を折った時の感触か……。
「すまないな」
「う……ああ……」
「一度もね、人の骨を折ったことがなかったんだよ、関節技のやり方は知ってるのにね」
 だから、折ってみたかった。
 この男は初めから佐原の腕でも脚でもへし折ってしまうつもりだったのだ。
「病院に行こうか」
 そういって、英二は部屋の隅のテーブルに置いてあった車のキーを取り上げた。

 自分にとっては、それが引退試合であった。
 高校生の時からアマチュアでボクシングをやっていて戦績は決して悪くなかったし、
自分でもいい線を行っていると思っていた。
 しかし、ボクシングは大学三年生の夏のその試合で止めるつもりであった。
 プロテストを受けてみろと部の先輩に何度かいわれたが、その頃、既に英二は音楽に
よって身を立てる道を選択していたのだ。
 自分には、そっちの才能があるのだと、揺るぎ無く確信していた。そろそろ、音楽一
本でやっていきたいと思っていた時に試合の話が来たので、それを引退試合にすること
にした。
 音楽ほどではないにしても、打ち込んできたボクシングである。最後の試合を無様な
ものにしないためにも必死に練習した。試合前の一ヶ月だけは、全てをその時間に費や
したといっていい。
 相手は、何度か試合を見たことのある同年齢の他の学校の男だった。見るたびに体が
引き締まっていき、技術も向上しているので、これはと思っていた男だ。きっと、真面
目に練習に取り組んでいるのだろう。
 試合前に後輩が相手の情報を仕入れてきた。
 なんでも、将来はプロを目指しているらしい。来月に受けるプロテストの結果如何で
はこれがアマチュア最後の試合になるということだ。
 英二は、全力で行った。
 相手も、全力で来た。
 その日行われた試合の中でも一際客席から沸き上がる歓声は大きかった。
 2ラウンドまでに双方、幾度かのチャンスを得て激しく打ち込んだが、ダウンを奪う
には至らなかった。
 3ラウンドのゴングが鳴ってから十秒も過ぎていなかっただろう。
 英二が素早く前に出た。
 相手は一歩も退かなかった。
 接近戦になり、英二が放った右のアッパーが相手の顎を突き上げた。
 セコンドの先輩が「よおおおおし!」と大声で叫んでいた。誰が見てもクリーンヒッ
トなのは明らかな一撃であった。
 相手はロープに背中を預けて、すぐに前のめりにダウンした。
 カウント8で立ち上がってきた。だが、アッパーのダメージがまだ残っているようで
動きが良くなかった。
 大したファイトだ。と、英二は感心しながらも、容赦なく打ち込んでいった。
 感心が恐怖に変わったのは5ラウンドの半ばぐらいであった。
 何発もいいのを入れているのに相手は闘うのを止めない。
 憑かれたように前に出てくる。
 英二は打った。
 ジャブからストレート。
 フック、アッパー。
 英二がパンチを打つのに費やしたエネルギーが一体どこに行ってしまったのか。相手
の男のダメージになってその体の中に蓄積しているのは確かである。
 確かであるが、それを疑う心が英二の中に生じてくる。
 その男は、それほどにタフだった。
 5ラウンド終盤、英二は接近して立て続けに打った。
 相手がぬうっと前に出てきた。
 いや、前に出てきたのではなく、ゆっくりと前方に倒れようとしていたのかもしれな
い。
  その瞬間、英二が放った右ストレートが真正面から顔面を捉えた。
 三メートルほど後方に泳いで、相手はまた前進してきた。
 今のでダウンしない!?
 英二が思わず後ずさった時、レフリーが二人の間に入っていた。
「なんだ!?」
 無意識の内に、英二は叫んでいた。一体、何が起こったというのか?
「ストップ!!」
 レフリーが叫んだ。
 その叫びが聞こえないのか、相手は前に出てくる。
 レフリーが体全体でそいつを止めた。
 どうも相手は既に意識がはっきりしていないらしい、レフリーのことを敵だと思って
殴ってしまうのではないか。
 そんな危惧が英二に生まれた。
 だが、パンチが唸ることはなかった。
 どっ、と相手側のセコンドやボクシング部員らが五人も六人もリング上に上がってき
てレフリーに代わって前進を続けようとする男の体にしがみついた。
 そういえば……。
 打っても打っても前に出てくる相手に恐怖を感じて気付かなかったが、5ラウンドも
2分を過ぎた辺りから相手の反撃がぱったりと途絶えていた。
 その頃には、後から考えると恐怖感に引っ張られたゆえか、けっこう大振りなパンチ
を放っていたはずだ。致命的なスキもあったに違いない。
 にも関わらず、反撃を受けなかったということは、相手にそれだけの力が残っていな
かったということだ。ただ前進することに、全ての力を注いでいたのだ。
 セコンドについていた先輩に自分が勝ったことを告げられても、英二はそれを実感で
きなかった。
 自分が勝ったということがわかったのは、リングの上に一枚のタオルが落ちているの
を見た時だった。
 相手のセコンドがたまらずに投げ込んだものだろう。
 自分は勝ったのだ。
 勝った。
 勝利の感触が心に触れた。
 ふと、相手のことが気になった。
 相手はまだリング上にいた。担架が来るのを待っているらしい。
 凄い顔をしていた。
 そういう面相に仕上げた張本人だが、その顔には心から同情した。英二とてきれいな
顔はしていないが、まだだいぶマシである。
 物凄い試合だったので場内は未だに騒然としていた。
 その騒然とした中で、その小さな声が聞こえた。
「……まだ……やれます」
 確かに、聞こえた。
 確かにいった。
 確かにいったのだ。
 ボロボロの、もう立てないような男がいったのだ。
 まだやれる、と。
 その体の状態を見ればただの戯言に過ぎないように思える。
 やれるはずがない。
 その体で、やれるはずがない。
 いくらやれるといったところで、やれるはずがないではないか。
 だが、そんな体でいったのだ。
 まだやれる、と。
 体は、もうやれない。
 でも、心はまだやれるのだ。
 この男の心は、まだやれるのだ。
 対して自分はどうか──。
 確かに、体はまだ行ける。
 だいぶ疲労してはいるものの、あと1ラウンドぐらいならダウンせずに戦い抜けるだ
けの体力は残っている。
 でも、心は駄目だ。
 もうやれない。
 もうやりたくない。
 心は、もうやれない。
 全く逆だ。
 この男と自分は──。
 自分は勝ったのだ。
 紛れもない勝者だ。セコンドのタオル投入が無くともあの相手の状態と自分のそれを
見比べれば一目瞭然だ。
 相手はもう闘える体ではない。
 でも……。
 まだ闘える心がある。
 自分の心は、もう闘いをいやがっている。
 今、あの男が立ち上がり、向かってくれば、自分はリングから逃げ出すに違いない。
 英二は、この試合を最後に決めていたことを心底よかったと思った。
 もう、こんなことをしなくてもいいのだ。
 もう、こんなところにはいたくなかった。
 レフリーが英二の右手を高々と上げて、その勝利を宣言した。
 拍手と歓声を浴びながら、英二は自分の中の虚しさと闘っていた。

                                     続く

     どうもvladです。
     28回目であります。
     つい出来心で英二さんの過去をでっち上げてしまいました。
     
 

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