鬼狼伝(27) 投稿者:vlad
 ガタイのいい男だった。
 長身で、肩幅もある。
 一目で、何か格闘技をやっていそうだというのがわかる。
 実際に、男は柔道は二段の腕前であり、現在はキックボクシングのジムに通っていた。
 今まで、喧嘩で負けたことはない。一度負けても、絶対にリターンマッチを仕掛けて
相手をぶっ潰してやった。
 元々、喧嘩が好きなのだ。
 長い間喧嘩を売られないと、自ら売る。
 相手は誰でもいい、少しガタイのいい奴……時には自分よりもでかいのに喧嘩を売る。
 酒が少し入っているようなのがいい。
 素面だと、喧嘩を買わずに行ってしまう奴が多いからだ。
 だが、酒が体内に入っていると大概の人間が理性の幅が狭くなる。
 口で喧嘩を売って、向こうが手を出してきたら開始だ。
 体が触れた途端に、拳を、あるいは脚を叩き込む。
 相手が一人で余裕があれば投げて、関節技を極めてやる。
 そんな男だった。
「よく来てくれた。佐原(さわら)くん」
 その男を、家の主は笑顔で迎えた。
 緒方英二。
 ミュージシャン──というより、最近ではプロデューサーといった方が通りがいい。
妹の緒方理奈、そして森川由綺の二大アイドルは、どちらも英二がプロデュースしたも
のだ。
 男は、以前、この緒方英二に仕事を頼まれたことがあった。
 今回も、仕事を頼みたいと呼ばれたのである。
「早速、仕事の話をしようか」
 微笑みながらいった英二に、男──佐原はいった。
「まず初めに聞いておきたいんだが……この前の奴じゃないだろうな」
 真剣な表情であった。

 佐原は喧嘩屋である。
 と、いっても、もちろん自称しているだけで世の大半の人が彼を無職と断定するだろ
う。
 きっかけはなんだったか……。
 知人に喧嘩の助っ人を頼まれたことだったろうか。
 女を寝盗った野郎をぶっ叩いてやりたいが、そいつにごつい友人がついてやがるから
助けてくれ、とか……確かそんな話だったと思う。
 首尾よく佐原はそのごつい友人とやらを叩きのめして、佐原の知人も目的を遂げた。
 謝礼に酒を奢ってもらった。
 その話を聞いた別の知人が似たような話を持ちかけてきたので謝礼を現金でよこせと
いったら向こうが承諾した。
 それがきっかけだったと思う……。
 ある時、酒場で商売抜きの喧嘩をしていたら緒方英二に出会った。
 その場を取りなしてもらい、さらに酒を一杯奢ってもらっていい気分になって自分は
喧嘩屋だといい、冗談半分で、
「あんたも殴って欲しい奴がいたらおれんとこに来なよ」
 と、いったら、なんと英二がその場で仕事を依頼してきたのである。
「喧嘩というより、試合だがね」
 英二はそういって笑い、とある道場に道場破りに行って欲しいといった。
 門下生がゴロゴロいるようなところへ道場破りに行くのは危険極まりないので遠慮し
たいところであったが、話を聞いてみると、その道場には一人か二人しかいないらしい。
 そこにいる柏木耕一という男と英二の前でやり合えばなんと十万円をくれるという。
しかも、勝ったらではない、勝敗に関わらずだ。
 もしその柏木耕一とかいうのが予想を遙かに超える強さだったとしても、佐原は自分
のタフさに自信があった。それほどに大怪我を負わされるということはないだろうと踏
んだ。
 佐原はその依頼を受け、その柏木耕一というのがいる道場へ行ったのだが……これが
ひどい目にあった。(第11話参照)
 佐原が英二にいった「この前の奴」とはいうまでもなく耕一のことである。
「もしそうだったら……おれは帰るぜ」
 佐原は表情から怯えを隠そうともしなかった。
 かなり獰猛で喧嘩っぱやい男のはずなのだが、柏木耕一という存在にだけはもう二度
と関わりたくないらしい。
 だったら来なければいいようなものだが、英二は金を持っている上に、それを惜しむ
ということをしない。
 かなりの「上客」なのだ。
 それで、ノコノコとやってきたというわけである。
 それでも、やはり、相手があの男ならば恥も外聞もなく佐原は逃げるつもりであった。
「安心したまえ」
 英二がいった。
「今回の相手は彼ではないよ」
 佐原は安堵の溜め息を吐いた。
「誰なんだい? 相手は」
 耕一ではないと知ると、佐原の表情に活力と──獣性が溢れてきた。
「おれだ……緒方英二だ」
 英二は右手の親指で自分を指していった。

「本当にいいんだな?」
 その問いが佐原の口から発されたのは、それで五度目だった。
 それで、最後にしようと思っていた。
 もう、佐原と英二は向かい合っている状態である。
 「始まる」までにもはやなんの動作も必要としていない状態であった。
「かまわんよ」
 英二がいった。
「そうかい」
 佐原は呟いて、無造作に前に出た。
 この元ミュージシャン、現アイドルプロデューサーとスパーリングをすれば、十万円
の現金が転がり込んでくることになっている。
 この男の真意が、佐原は全くわからなかった。
 一体、何を考えているのか。
 英二は決して弱そうには見えないが、それほど強そうにも見えない。
 全くのずぶの素人ならともかく、柔道二段でキックボクシングをやっている自分にと
っては怖くもなんともない相手だ。
 まあ、依頼主の我が儘に付き合ってやるつもりだった。
 金をくれるのなら文句は無い。
 場所は、緒方家の地下スタジオ。
 プロレスやボクシングのリングぐらいのスペースが空いているので、かなり自由な動
きが可能だ。
 ルールは、目、金的への攻撃の禁止。倒れた相手への打撃禁止。肘、額の使用禁止。
ヒールホールドなどの危険な技の禁止。噛み付きの禁止。
 どこかで聞いたようなルールだと佐原は思っていたが、それがなんなのかは思い出せ
ないでいた。
 知っている人間ならば、すぐにこれが「エクストリーム・ルール」に酷似したもので
あることを看破しただろう。
 佐原は数歩前に出て停止した。
 今の前進が「試合開始」の意志表示であることは英二に伝わっているだろう。
 と、なれば、英二は構えを取るはずだ。
 その構えを見て、英二の格闘技の技量、経験がどの程度のものか大雑把に量るつもり
であった。
 英二の唇が微笑の形を作った。
 こちらの意図が見透かされているような気持ちを抱かせる笑みだ。
 人を食ったような、と英二は思われることが多いのだが、その原因の半分ぐらいはこ
の笑みであろう。
 英二の足がステップを刻み始める。
 両手が拳を握って頭の高さまで上がる。
 肘は曲がっていて、脇に引きつけられている。
 ボクシングか……。
 佐原はその構えを見て思った。
 そういえば……自分が英二と初めて会った酒場で、自分が柔道とキックボクシングの
経験者であることをいった時に英二が、
「ふうん、実はおれも学生時代にボクシングをやってたことがあってねえ」
 確かに、そういっていた。
 どれほどの選手だったのか詳しく聞いたわけではないが、今、目の前の構えとフット
ワークを見る限りではそこそこできるらしい。
 ボクサーを攻めるには足だ。
 格闘技の素人でも思いつきそうな常識だ。
 だが、軽快なフットワークで動き回るボクサーの足を捕らえるのは素人では無理だ。
そのボクサーの実力にもよるが、ある程度経験のある者でも難しい。
「足を攻めればボクサーはもろいよ」
 とかいっていた奴が実際にボクサーと喧嘩になった現場に立ち合っていたことがある。
 日頃の言葉通り、そいつは足を狙ってローキックを放ったのだがあっさりかわされて
右のフックを顎の横に喰らって脳震盪を起こし、一発でダウンしてしまった。
 でも自分は違う。と、佐原は考えている。
 なんといっても自分はキックボクシングをやっている。
 単純な理屈になるが、手足を使うボクシングだ。手しか使わないボクシングよりも攻
防両面においてバリエーションが多い。
 とりあえず、浅く踏み込んでローキックを放って様子を見る。
 英二は下がった。
 ボクサーがローをかわすにはそれしかないだろうな。
 佐原はそう思った。
 瞬間。
 英二が前に出てきた。
 蹴り足が戻るのとほぼ同時に英二は佐原の前にまで移動していた。
 全身の動きが止まる前に右腕が走っている。
 右のストレートだ。
 それが佐原の右腕を叩いた。
 防いだには防いだが、右腕に痛みが生じる。
「この!」
 佐原が反撃するよりも早く。
 英二の右腕が引かれ、次の瞬間、英二の全身が佐原の腕はおろか足の射程距離外にま
で脱していた。
「くっ!」
 これは、相当のレベルのボクサーだ。
 今の極めて鮮やかな一撃離脱でわかる。英二はアマチュアだといっていたが、プロテ
ストに充分に合格するだけの実力はある。
 佐原の表情から余裕が消えた。
「シッ!」
 短く呼気を吐くと同時に、ローキックを打ち込む。
 今度は深く踏み込んだ。
 両手は頭部をガードしている。
 頭部へ反撃を受ければこれで防げる。
 もし、ボディーに来たらそれはそのまま受ける。
 英二のパンチは思っていたよりも強力なようであるが、頭部ではなく腹部であれば、
思い切り水月にでも喰らわない限り一撃でダウンさせられることはないだろう。
 喰らう瞬間に体をずらして急所への直撃を避ける程度の技術は持っているつもりだ。
 そして──。
 反撃が頭部へ来て防ぐにしろ、腹部へ来て受けるにしろ、その後の方針は決まってい
る。
 踏み込む。
 踏み込んで掴む。
 高レベルのボクサーの怖さは素早いフットワークにある。佐原ほどの体格と格闘技の
経験があれば英二程度のウエイトから繰り出されるパンチはそれほどに脅威ではない。
 素早い動きで攻撃をかわされ、体勢が崩れたところに死角からパンチを貰うのが一番
怖い。
 キックボクシングだけでなく、柔道の経験もある佐原がそれを防ぐとしたら最も手っ
取り早く確実なのが組み合ってしまうことだ。
 下は畳ではなく床だ。
 技の決まり具合によっては投げ技一発で終わる。
 バランスを崩して足払いで倒したとしても、ウエイトで勝る佐原が倒れる際に体重を
乗せていったらそれだけで英二に大ダメージを与えられる。
 やはり、自分の方が有利だ。
 予想を遙かに上回る英二のパンチ力とスピードにやや度肝を抜かれてしまったが、冷
静に考えれば考えるほど自らの有利が確信されていく。
 佐原の放ったローキックに対して英二は前に出た。
 なるほど。
 蹴り足が伸びきる前に接近してしまえば、佐原のスネ、若しくは足刀ではなく腿がヒ
ットポイントになってしまい威力は著しく軽減する。
 佐原の腿が英二の足に接触した。
 もちろん、ダメージは少ない。
 
 それで……その後はどうするんだい?
 この通り、頭はしっかりとガードしてあるぜ。

 英二の口から鋭利な刃物が空を切った時のそれに似た音が発された。
 そして打つ。
 ボディーへフック。
 左脇腹に右拳がめり込んでいた。
「くうっ」

 効いた。
 効いたぜ。
 でも、この程度の痛さは覚悟してたさ。
 佐原の両手が前に向かって伸びる。
 さっきみたいに逃がさねえぜ。
 こっちはもう、あんたを捕まえるのを狙って待ってたんだ。わざと腹を打たせてよ。

 先程のように英二は一撃を加えて即座に後退しようとしたが、佐原の両手がその体に
到達する方が早かった。
 左手が、英二の右手首を掴む。
「おおうっ!」
 前に引かれた英二の腹部に佐原の腰が激しく接触した。
 佐原は英二に背を向けていた。
 曲がった右腕が英二の右脇にガッチリとはまっている。
 一本背負いで床に叩き付ける気だ。
「ふんっ」
 佐原の腰が跳ね上がった。
「!……」
 技への入りはスムーズであったし、途中経過も素早くこなしたつもりだった。
 投げきれない。
 英二の両足が佐原の腰に巻き付いているからだ。
 何時の間に!
 投げられる前に英二が自分に飛びついていたのだ。
 佐原の首に英二の左腕が触れた。
 次の瞬間には、ぐるりと回って首が極められていた。
「うぐぅ」
 喉を真正面から圧迫され、そちらに意識が行った刹那、英二は佐原に掴まれた右腕を
振って拘束から脱し、それを縦にして左手の先に添え右掌を佐原の後頭部に回した。
 裸締め。
 スリーパーホールド。
 呼び方はどっちでもいい。とにかく、極められた。
 佐原の視界に薄い白い幕がかかっていく。脳に酸素が足りなくなっている証拠だ。
 このまま、落ちるのか……。
 意識が失われるかと覚悟した時、首への締め付けが緩み、やがて消失し、腰への締め
付けまでもが消えた。
 後ろから声がした。
「まだ落ちていないだろ」
 英二の声だ。
「少し呼吸を整えればまだできるだろ?」
 そういえば……。
 と、佐原は思った。
 この闘いの前に色々とルールについて打ち合わせをした。佐原は気付かなかったもの
の、それが「エクストリーム・ルール」に似たものであることは既述した。
 そういえば……。
 色々と禁止事項などを決めたが……。
 そういえば……どのような状態になった時にこの闘いが終了するのか。
 それだけは……決めていなかった。

                                     続く                     
     どうもvladです。
     第27回目と相成りました。
     とうとう、英二さんが闘うことになりました。自分でいうのもなん
     なんですがノリました。(笑)
     

http://www3.tky.3web.ne.jp/~vlad/