鬼狼伝(26) 投稿者:vlad
「っぎぃぃぃぃ!」
 変な声が自分の口から出ていることを浩之は自覚していた。
 右腕がキリキリと、曲がらないようにできている方向に曲げられていく。
 完全に極まっていた。
 浩之は左腕を振った。
 堅く握った拳で、思い切り拓也の左足のスネを叩いた。
 二発目を打とうとした時、右腕にかかる痛みが激しさを増した。
 折られる!
 折られる……。
 折られるに違いない。
 右腕はもう駄目だ。
 そう思った時、不思議と浩之は落ち着いていた。
 もう右腕は駄目だ。
 もう右腕は無いものと思うしかない。
 浩之の顔は、静かな顔になっていた。

 ぺきっ。

 そんな乾いた音だった。
「おおおおおおおおお!」
 浩之が絶叫した。
 泣きそうな顔になっていた。
 いい声で鳴く。
 いい顔をする。
 拓也は、たまらなく嬉しくなった。
 これだ! と、思った。
 この瞬間が楽しみなのだ。
 この全ての音が消え去って静寂に包まれた世界に、どこか遠くから、微かに悲鳴が聞
こえてくるこの瞬間。
 相手の腕が折れたからこれでおしまい。と、いうような考え方をする拓也ではなかっ
た。
 特に、この相手は自分を散々に手こずらせてくれた。少しきつめのお返しをしなくて
はならない。
 左手で右腕を押さえて浩之は無防備な体勢で寝転がっている。
 上に乗ってパンチの雨を降らすのもいいが、その前に立ち上がって骨折した右腕を思
う存分踏みにじってやるのもよいかもしれない。
 この男はもう「敵」ではなく「玩具」だ。
 何をしてもいい。
 手がもげても、足が千切れても、もう二度と遊べなくなっても──いいのだ。
 拓也が上半身を起こした。
 浩之を見下ろす。
 浩之は、静かな顔をしていた。
 拓也にとって、信じられぬことが起こった。

 英二は中腰になり、祐介は完全に立ち上がって、それを見ていた。
「あっ!」
 と、祐介は叫び、
「おお」
 と、英二は感嘆した。
 小倉は、ストップをかけるかどうか一瞬迷った。彼は、腕を折られながらも相手の腕
を折り返し、足を折って勝った人間を知っている。確か……伍津とかいったろうか……。
 だが、痛みに悲鳴を上げる浩之を見て、小倉は決意した。あれでは到底戦えない。こ
のまま拓也にいたぶられるのがオチだ。
「勝負あ……」
 小倉が上半身を起こして、倒れた浩之に何かしようとしている拓也を止めようとした
時……。
 それが起こった。

 信じられぬことが起こった。
 「玩具」が蹴ってきたのだ。
 「玩具」のくせに蹴ってきたのだ。
 「玩具」の足で蹴ってきたのだ。
 拓也は腕ひしぎ十字固めで右腕を折って、その場で立ち上がろうとして中腰になって
いた。そこにその「玩具」の蹴りがやってきたのだ。
 左足だった。
 速くて強い蹴りだった。
 拓也は咄嗟に、なんとか右腕で防いだ。
 息をつく間もなく、今度は右足が来た。
 それは蹴りというには勢いが無かった。
 それは拓也の左脇腹に踵を引っかけて拓也を引き倒そうとした。
「!!……」
 蹴りを放った左足が右脇腹に接触していた。
「ぐっ!」
 と、いう間に──拓也は背中を床につけていた。
 腹部を挟んだ両足によって引き倒されてしまったのだ。
 二人の体は回転して入れ代わり、拓也は上に乗られていた。
 「玩具」の左拳が降ってきた。
 真正面から口の辺りにぶち当たってきた。
 唇の裏側が前歯と激しく接触して切れたようだ。
 口の中に血の味が広がっていく。
「まいったしてねえっっっっっ!!」
 「玩具」がそんなことを叫んでまた左拳を打ち下ろしてきた。
 頬に思い切り入った。
 血の味が濃くなった。
 「玩具」の三発目が顎に来た。
 あっていいことではなかった。
 「玩具」が自分を殴るなど、あっていいことではなかった。
「おらぁぁぁ!」
 四発目がもう一度顎に来た。
 こいつは……。
 「玩具」じゃなくて「敵」だ。
 五発目は、拓也の右腕に当たった。
「ちっ!」
 と、浩之は舌打ちした。このまま拓也を戦闘不能にしてしまおうとしていたのだが、
どうやらその前に、相手が張り詰めた戦意を取り戻したらしい。
 と、なると、右腕を骨折している浩之は不利である。
 この状態では掴まれただけで右腕に激痛が走る。
 浩之は拓也の右腕を掴んでそれを引っ張り上げた。
 拓也の体が浮き、僅かに生じた床との隙間にスルリと浩之が入り込んで浩之は拓也の
背後に回っていた。
 左足が横から拓也の首に巻き付き、次の瞬間、右足が左足首を抱き込むようにして左
足の上に乗った。
 その両足でできた三角形の中に、拓也の首と右腕が入っている。
 腕を上げさせ腕ごと首を絞めつけ、頸動脈を圧迫する三角絞めと呼ばれる絞め技である。
 右腕を骨折している浩之は、抜け目無く拓也の右腕を巻き込んでいた。
 拓也の左腕がバタバタと泳ぐが、浩之の右腕には到底届かない。
 拓也の腰が跳ね上がった。
 右足が信じられぬ柔軟さで伸びてきて浩之の右腕に到達し、痛烈に叩いた。
「くっっっ!」
 驚異的といっていい体の軟らかさだ。
 右腕の痛みに気を取られた瞬間に、拓也の左手が浩之の左足と、自らの頸動脈との間
にねじ込まれた。
 頸動脈をガードされてはこの技の意味はない。巻き込んだ右腕を折りに行くにしても
右腕の使えない状態では力不足だ。
 このままでは足を取られて関節技に行かれる。
 浩之は足を解いた。
 と、同時に、左拳で後ろから拓也のテンプルを打ち抜く。
 浩之は立ち上がり、数歩退いた。
 右腕をダラリと下げ、腰を低く落とし、しかし目だけは肉食獣のそれで、浩之は拓也
のことを見ていた。

 視界に、白い幕がかかっているようだった。
 思考もまとまらない。
 脳に酸素が足りなくなっているのだ。それだけはわかった。
 後ろに、物凄い殺気を感じた。
 そうだ。自分は闘っていたのだ。
 振り返って、立ち上がろうとした時──。

「しゃあっ!!」

 衝撃が来た。
 浩之の前蹴りが、立ち上がろうとしていた拓也の顔面を捉えたのだ。

 ぐちっ。

 そんなくぐもった音がした。
 拓也は後方にふっ飛んで倒れた。
 鼻血が濁流のごとく溢れ出て唇を濡らし、顎の上を滑り、喉まで赤く染めた。
 勝った──。
 そう思った浩之の顔は、一瞬だけ喜色を浮かべて凍り付いた。
 倒れた拓也が背中は床にべったりと着けたまま、顔を上げ、両足を広げ、両手を胸の
上に浮かせていた。
 拓也の両手が動いた。
 親指以外の指が揃って前後に揺れた。
 手招きしているのだ。
 浩之は悪寒が全身を貫くのを感じた。
 こいつは、まだやる気なのだ。
 浩之の面上に獣性が蘇った。
「待て」
 その声は、審判の小倉が発したものではなく、立ち上がった英二の口から出たものだ
った。
「その辺で止めたまえ」
 いつの間にか、英二が二人の間に立っていた。
「これ以上やっては、どちらか、あるいは双方が死ぬ」
「どいて下さい」
 浩之が前に出てきた。
 今までは、警戒していた浩之だが、英二に制止されて却って戦意を逆なでされたらし
い。目に、どす黒い色をした炎が揺れていた。
 瞬間。
  英二の右拳が浩之の水月の寸前で停止していた。
「止めたまえ」
「!!……」
「こんなところで大怪我しては三ヶ月後のエクストリームに出場できなくなるぞ」
 英二は諭すようにいった。
 浩之は明らかに意表をつかれたようで戸惑った表情で沈黙していたが、やがて口を開
いた。
「今回は見送ります……」
「柏木耕一が出るぞ」
「な!……」
 声は、浩之と拓也の口から同時に漏れた。
「本当ですか?」
「本当か、それは!」
 拓也が浩之の言葉に覆い被せるように叫んだ。
「?……」
 英二も、浩之も、怪訝そうな表情を拓也に向ける。
「君は……柏木耕一を知っているのか?」
 英二の問いに、拓也は答えなかった。
 ただ、荒い息を吐きながら、どこか遠くを見ていた。
 その目が、不意に光を失い、閉じた。
「無茶をしおって……」
 小倉が、もう弟子ではない男の傍らに腰を下ろし、その頭部を優しく抱き上げた。
「うむ……大丈夫だ」
 小倉と視線を合わせて、英二が頷くと、その横で、浩之がその場に、どっと倒れ込ん
でいた。
「いてぇ……」
 浩之の口からぽろりと声が漏れた。
「痛いか、藤田くん」
 英二が笑っていった。
「骨折れてんですよ、いてぇに決まってんじゃないっすか」
 その割りには、闘っている最中には一言もその言葉を洩らさなかった。
 英二は、心中でそういって、浩之を見ていた。
 微笑んでいた。
「おれも行く」
 「いてぇいてぇ」と喚いている浩之にも、拓也を介抱している小倉にもその声は聞こ
えなかったが、立ち上がって、英二に近付いてきていた祐介は、微かにそれを耳に捉え
ていた。
「緒方さん……嘘をつきましたね」
「ん?」
 突然、背後から祐介に問い掛けられて英二は一瞬驚いたようであったが、すぐに苦笑
を表情に浮かべた。
「僕みたいな素人にもわかりますよ、かなり強いんでしょう?」
「……」
 英二は、無言で微笑していた。
「ところで……どこに行くんです?」
「なんだって?」
「今、おれも行く、とかいってませんでした?」
 英二は微笑んだまま答えた。
「あそこにさ」
 そういった英二の視線の先に、浩之と、そして拓也がいた。
「あそこ?」
 道場の中央の床を見ながら、祐介がいった。
「ああ」
 藤田浩之。
 月島拓也。
 そして──。
 柏木耕一。
 彼らがいる場所。
 そこが「あそこ」だ。
 おれも行く。
 あそこに──。
 もう行かないつもりだったあそこに──。
 行く。
「おれも……あそこに行く」

                                     続く

     どうもvladです。
     26回目という中途半端な位置まで来ました。
     大体、次回から「エクストリーム編」に突入し、そのまんまどどっ
     とラストまで行きます。
     40回で完結するでしょう。あと14回、お付き合い下さい。

   

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