鬼狼伝(25) 投稿者:vlad
 やるのか?
 何の変哲もない親指が、鎌首をもたげた蛇のように見えた。
 やるのか?
 よく研がれた、女のように綺麗な爪だった。
 バーリ・トゥード・ルールで反則をやるのか!?
 浩之は強引に顔を斜め下方に逸らした。
 こいつならやりかねない。
 と、思ったからだ。
 それが正しかった。
 拓也の左手の親指は、浩之の左目のすぐ横、こめかみの上を滑るように突き抜けた。
 野郎っっっ!!
 やりやがった。
 ルールとは、いわば制限である。その中でもバーリ・トゥード・ルールはもっとも制
限の緩いルールといっていい。
 目突き。
 噛み付き。
 この二つ以外は何をやってもいいのだ。
 浩之も、このルールならかなり自由な闘いができると思っていた。
 ルールを破ろうなどという考えは一切抱いていなかった。
 しかし──。
 拓也はそれでも、平然と、ルールを破ってきた。
 はじめからそういうものの存在を知らぬかのように、無造作に目を狙ってきた。
 戦国時代などに創始された古武術には、現在の感覚からいうと「えげつない」ような
技が少なくない。
 その中に、目に指を突き入れ、頭蓋骨に指を引っかけて引っ張るというやり方がある
のだと浩之は聞いたことがあった。
 へえ、やっぱり戦国時代とかに作られた技は違うな。
 などと、浩之は思っていた。
 冗談ではない。
 ここに、この現代に、その技を事も無げに使う人間がいるのだ。
 そして、そいつと自分は闘っているのだ。
 おまけに、ただいまバックを取られているところである。
「くっっっっ!!」
 思わず、浩之は呻いた。
 おそらく、拓也は親指を目に突き入れ、浩之の顔を上に引っ張り上げてがら空きにな
った喉に右腕を食い込ませてチョークスリーパーに持っていくつもりだったのだろう。
「拓也!」
 小倉が何か叫んでいるが、拓也はこれを黙殺した。
「このぉ……」
 凄まじい怒り。
 だが、それと同時に同量の恐怖が生まれたのも事実である。
 怖いのだ。この男が──。
 また、拓也は目を狙ってくるかもしれない。
 正直、怖かった。
 頭に、桐生崎の顔が浮かんだ。
 ごつい顔だ。
 自分にビールを注いでくれた顔だ。
 月島拓也との試合、がんばれよ、といってくれた顔だ。
 同時に目まぐるしく、桐生崎の話が思い出される。
 自分は桐生崎と同じパターンにはまっている。平然と反則を犯してくる拓也を恐怖し
て萎縮してしまっている。
 恐怖を克服せねばならない。
 いや、逆に拓也を恐怖させるほどの気概を持たねばならない。
 だが、こんな狂った男をどうやって? ……
 自分も狂えばよいのだ。
 そう思った時、浩之の目は座っていた。
 目には目を──と、行きたいところだが、背後にいる拓也の目を突くのは困難である。
 と、なれば──。
 歯だ。
 拓也の左腕が動いた。
 親指が、浩之の左目を狙ってくる。
 先程と同じ。
 警戒などしている様子はない。
 いまいち、自分が相手をしているのがどういう男かわかっていないらしい。
 それを、教えてやらねばならない。
「があっ!」
 浩之が口を大きく開けて叫んだ次の瞬間。
「いいいぃぃぃっっっ!!」
 初めて、拓也が悲鳴を上げた。

「ど、どうなったんです?」
 丁度、二人の背中が向く位置に座っていた祐介は隣の英二に尋ねた。
「噛み付きだ」
 英二は、笑っていた。
 暖かいといっていいような微笑だった。
「普通の闘いになるとは思わなかったが……まさかこんなことになるとはねえ」
「反則……ですよね」
 祐介が呟く。
「これほど行儀の悪い闘いは初めて見るよ」
「……」
「でも……いいね、この闘いは」
 英二は、やはり笑っていた。

「浩之っ!!」
 小倉の声を、もちろん浩之は黙殺。
 浩之の白い道着のズボンに、赤い点が生じた。
「ぐあああああっ!」
 拓也が常日頃の冷静さを捨てて喚いている。
 先程までピッタリと浩之に密着していた拓也の体が離れ、二人は口と親指で繋がって
いる状態になっている。
「浩之っ!」
 小倉がもう一度叫んだ。
 その時、浩之の口が開かれた。
 同時に、拓也の右腕を両手で掴んで前に回すように捻る。
 後ろを向きながら、浩之は叫んでいた。
「ルールなんていらねえっ!」
 飛んだ。
 右腕を掴んだまま飛びついて、体重で拓也を引き倒し、そのまま腕ひしぎ十字固めを
極める。飛びつき十字固めというやつだ。
「おおっ!」
 浩之の左足が拓也の首を刈ろうとした瞬間。
「!……」
 声無き気合を発して、拓也が空いている方の左腕を突き上げた。
 拳で、浩之の左足を突き上げたのだ。
 やや、軌道が上に逸れる。
 それだけでなく、拓也は首を右に倒して、後ろに逸らしてぐるりと左に回して、まん
まと浩之の左足を潜らせてしまった。
「っっっ!!」
 目を突かれそうになった時を上回る戦慄が浩之を襲う。
 この男の本当の怖さを見たような思いだった。
 この男が怖いのは、なにも平然と反則を犯すからではない。
 当たり前のことだが、この男が怖いのは……強いからなのだ。
 反則など使わずとも、浩之と互角にやり合うだけの実力を、上手さを、この男は持っ
ている。
 反則をするのは、この男にとっては心理戦術のようなものだろう。
 それを、無意識に見誤っていた!
 仕掛けを焦り過ぎた!
 一方、拓也の方も戦慄している。
 この、藤田浩之という男を見誤っていた。
 今まで自分が闘ってきた多くの人間とは違う。
 それだけの覚悟を決めた人間だ。
 目を突こうとすれば、その指に噛み付いてくる人間だ。
 浩之は、左足をすかされて大きく体が泳いでいた。なんとか着地したものの、体勢は
崩れている。
 ここで決める。
 拓也はなおもしつこく自分の右腕を掴んでいる浩之の両手の内、右の方に、自らの左
手を走らせた。
 掴んで、引き剥がす。
 そして、右手首を素早く、力強く旋回させて手首を掴んでいた浩之の左手から逃れた。
 浩之の口から舌打ちが漏れた刹那。
 拓也が飛んでいた。
 自由になった右手で浩之の右腕を掴んでいる。
 左足が、浩之の首を刈った。
 先程やられそうになった飛びつき十字固めを、今度は拓也が仕掛けたのだ。
「おおおっ!」
 浩之は一瞬耐えたが、拓也の全体重がかかっているし、なによりも体勢がまだ崩れて
いて、万全ではない。

 どん。

 と、遂に浩之の背中は床を打った。

「まずい、極まるぞ」
 英二の声が届いていたわけではないが──
 まずい、極まっちまう。
 浩之は歯を食いしばりながら思っていた。
 拓也は、おそらく関節技に関しては浩之を一歩上回っていると見てよい。
 それが、この体勢である。
 浩之の不利は否めない。
「うがぁぁぁぁっ!」
 浩之は絶叫しながら右腕を折り曲げた。拓也の両腕に押さえられている右腕は、ほん
の少し浮き上がっただけだったが、その間に、浩之の左腕が伸びてきた。
 ガッチリと、右手と左手が合わさった。
 親指を除く四本の指を曲げて鈎状にし、それを組み合わせている。
「くうっ!」
 拓也が呻く。
 浩之が右肘を曲げるのを許してしまったのが大きな失敗だ。
 それというのも、先程の浩之の噛み付きで拓也の左手の親指が負傷していたからだ。
今も血が流れ出ている。
 だが、そんなのは言い訳になるわけがないし、するつもりもない。
 拓也は、ただ自分の弱さを責めた。
 親指の痛みなど無視して全力で浩之の右腕を握っていれば!──。
 これしきの痛みで拘束を弱めてしまった自分の弱さが憎かった。
 拓也は、浩之の頭を押さえている左足はそのままに、右足で浩之の左腕を押した。
 浩之は堪えるが、元々、手と足では力が違う。
 に、しても、浩之はよく堪えた。
 拓也は浩之の右腕を掴んだ両手を思い切り引いていた。
 浩之の手と手が、ぶるぶると震えながら、その指が次第に伸びていく。
 いいぞ。
 もう少しだ。
 もっと手に力を籠めろ。
 左腕の親指に、痛みが走った。
 忘れろ。
 忘れてしまえ。
 そんな痛みなんか忘れてしまえ。
 痛みを感じる心を無くしてしまえ。
 心を無くせ。
 そうすれば痛くない。
 心が無ければ──痛みなど感じない。
 それを自分は知っているはずだ。
 自分は、そうやって生きてきたはずだ。
 忘れろ!
 無くせ!

 死闘を展開してきて体に浮き上がった大量の汗が拓也に味方をした。
 滑る。
 もはや、浩之の両手は第一関節しか合わさっていない。
 滑る。
 大きく、浩之の両手が開いた。

 思わず、英二と祐介は腰を浮かせていた。
 小倉は、何もいわずに目を大きく開いて二つの体を見つめている。

 極ま──
「ぐあっっっ!!」
「はぁっ!」
 ──った。

                                     続く

     どうもvladです。
     二十五回目であります。
     もう一回引きます(笑)

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