鬼狼伝(24) 投稿者:vlad
 十二時には、既に浩之は英二とともに小倉道場に入っていた。
 約束の時間まで一時間ある。
 浩之は道場主の小倉四郎に挨拶をしてから、Tシャツに道着のズボンという戦闘態勢
に着替え、ウォーミングアップを始めた。
 十二時半。
 二人の男がやってきて、道場の隅に座している小倉の前に座った。
「お久しぶりです」
 細い目をした背の高い男がいった。
「はじめまして」
 どことなく、ひ弱そうな男がそういった。
 どちらも、不思議といえば不思議な感じがする男たちだった。
 特に、細い目の男より年下に見える男の方は、外見をさっ、と一瞥しただけではあま
り強靱そうな印象を受けぬが、その目は強い意志の存在を示していた。
「どっちが月島さんだい?」
 浩之が二人の男の背に向かっていった。
「僕だよ」
 細い目の男が振り返った。
 それに一瞬遅れてもう一人の男が振り返る。
「僕の方の立会人だ」
「長瀬祐介です。よろしく」
 そういって、その男は頭を下げた。
「こちらはおれの立会人」
「緒方英二だ」
 拓也と祐介は、僅かに怪訝な色を表情の端に見せただけであった。
「時間より早いが、始めるかね」
 英二がそういって、その場にいる一同を見回す。
「おれはいつでも」
 浩之がいった。
「僕は少しだけウォーミングアップをしたいのですが」
「よし、だったらそっちのアップが終わったら開始ってことで」
「ああ」
 初めて、浩之と拓也の目線が合った。
 すぐに拓也がそれを逸らした。
 ぞくっ、と浩之の体が凍える。
 拓也の目線が自分の体に移っていた。
 心なしか、両手両足の関節部分を見られているような気がする。
 物色してやがるのか。
 浩之は、背を向けた拓也の後ろ姿を睨み付けていた。
 拓也のウォーミングアップは十分ほどで終わった。ごくごく普通の柔軟運動をやった
だけだ。着用しているのは、拓也がこの道場に通っていた時から使っている道着だ。
「それでは……私が審判を勤める……」
 小倉が二人の間に立っていた。
「目突きと噛み付きは無し……金的は、藤田くんの方はいいといっている」
「僕もかまいません」
 一瞬の躊躇いもなく、拓也はいった。
 目への攻撃と噛み付き以外は全てあり、いわゆる「バーリ・トゥード・ルール」だ。
 最近、その関係の愛好者の耳には既に馴染んだ名前であろう。ポルトガル語で「何で
も有効」「何でもあり」という類の意味を持つ。
 これまた一つの潮流となりつつある「エクストリーム・ルール」と大きく異なるとこ
ろは、金的への攻撃が許可されていることに加えて、肘と額による攻撃の許可、さらに
は倒れた相手への打撃技が許されていることである。
 最後の項目によって、マウントポジションを取っての殴打が可能になり、これがこの
ルールではいわば「決まり手」の一つのようなものになっている。

「ミュージシャンの緒方英二さんですか?」
 道場の隅に並んで座ってすぐに、英二は祐介にそう尋ねられた。最近、道場とかそう
いうところでこの質問を受けることが多い。まあ、当然ではあるが。
「そうだ」
「どうして……ここに?」
「あの藤田くんに立ち会うように頼まれてね、彼とはちょっとした知り合いなんだ」
「へえ……僕は……」
 と、祐介は自分のことを話し始めた。相手のことを聞いたのだから、自分の方もそれ
をいわねばならないと思っているらしい。
「あの人の妹さんの……恋人……って、まだ月島さんには認めてもらってないんですけ
どね……」
 そういって、祐介は苦笑した。
「おかげで最近、キスもできません」
 もう一度、苦笑した。
「緒方さんは、格闘技とかお好きなんですか?」
「ん? 学生時代に少しボクシングをやってたけどね……結局音楽を取ったからな。今
は見るだけだね」
「そうですか……それじゃ、いざとなったら僕が止めないといけませんね」
 平然とした顔で、そんなことをいった。
 この長瀬祐介という青年、どう見ても肉体的に強いとは思えない。むしろ、同年代の
平均よりも体力は低いように見える。
「君は、何かやってるのか?」
「いえ、全然……体育はいつも2です」
「あの二人を止めるというのか?」
「ま、片方はあの先生が止めてくれるでしょう」
 に、しても、片方だけでも十分に祐介の手に余ると英二は思うのだが。
「ようは手を触れなければいいんです」
 不思議なことを祐介はいった。
 にっこり笑った笑顔は自然なものであった。
 この青年……少し電波系か?……。
 英二は祐介を見ながら思った。

「君らが本気でやり合おうというんだ。ギリギリまで止めんつもりだ」
 小倉はいった。並々ならぬ決意が表情に浮いている。
「しかし、命に危険が及んだり、後遺症が残りそうな場合は無理矢理にでも止める」
 そう、続けた。
「そうして下さい。さすがに人殺しは御免です」
 浩之がそういって、にっ、と笑った。
「そうだね、僕も同感だ」
 拓也がそういって、にいっ、と笑った。
 もちろん、本心じゃない。
 そう思った。
 そう思っていた。
 しかし、一瞬、何かが拓也の心に引っかかった。
 引っかかったものをよく見てみると、それは柳川祐也の姿をしていた。
「人の死は冷たい」
 あの男がいっていた。
 人の死は冷たいのだと──。
 だから、人殺しなどしない方がいいと──。
 拓也の、歯と歯が擦れて音が鳴った。
 ぎりっ、と──。
 ぎちっ、と──。
 鳴った。
 違う!
 自分はあの男のあの言葉を恐れてなどはいない。人の死の冷たさなど恐れてはいない。
 そう思おうとした。
 拓也は、浩之を見た。
 こいつ……殺してやろうか?
 さすがに、この場でそれを決意することはできなかった。
 だが、これから始まる闘いで、この男がさっさと敗れてくれれば良いが、もしも下手
に手こずらせようものなら……。
 自分は、この男を殺すかもしれないな。
 そんなことを、他人事のように思っていた。

 マジか。
 マジか、あいつ。
 浩之のうなじの辺りに悪寒があった。
 あいつ、人殺しは御免だなんて思ってねえんじゃねえのか?
 たまらねえな。
 たまらねえな、おい!

「うーん」
 低く、小さく、祐介は唸った。
 これはまずい。
 拓也の状態が危険なものであることを、祐介は悟っていた。やはり、いざとなったら
自分が「力」を使わねばならないようだ。
 拓也が格闘技にのめり込んで危険なルールで試合をするのは、なんとか認めるが、人
殺しにだけはさせてはならない。
 そうなったら、瑠璃子さんが悲しむから……。
 もちろん、自分だって悲しくなるだろう。
 でも、それの何倍も悲しんでしまうであろう瑠璃子さんのために……。
 祐介は、いざとなれば、この自分を未来の弟と認めてくれない未来の兄を止めねばな
らなかった。
「長瀬くん」
 英二の目が、食い入るように浩之と拓也を見つめている。
「目が離せないねえ」

「では……時間は無制限、目突きと噛み付きは禁止、どちらかが戦闘不能と見なした時
点で私がストップをかける。それでいいね?」
「はい」
「いいですよ」
 静寂。
 ただ静寂。
 張り詰めた静寂。
「はじめっ!!」
 叫んで、小倉の体が二人の間から消えた。
 ゆらっ、と拓也の体が揺れた。
 体勢が低く沈んでいる。
 微かに、拓也の手が、肩が、空中で揺れていた。
 ゆらっ。
 明らかに、空手の構えではない。
 突き、蹴りの打撃技よりも、タックルに行くのに適した体勢である。
 浩之が近付いた。
 拓也が来た。
 真っ直ぐに来た。
 速い。
 当初の予定では、タックルに来るところへカウンターで膝か、肘を顔に叩き込んでや
ろうと思っていた。
 だが、予想を遙かに上回る速さだ。
 下手に膝を上げようものなら体勢を崩す手伝いをするようなものだ。
 浩之は下がった。
 足を後退させ上半身は前のめりに。
 どすっ──と、拓也が浩之の腰にぶち当たってきた。
 足で踏ん張って、上半身を拓也の背中に被せるようにする。
「おおう!」
 浩之の右肘が拓也の後頭部に落ちた。
「っ!……」
 効いてはいるはずだが、かまわずに押してくる。
 浩之の右膝が上昇して拓也の腹部を突き上げる。
 一瞬、拓也の動きが止まった。
 浩之は少し距離を取って、右の掌底をアッパー気味に振った。
 狙いは拓也の顎。
 だが、既に拓也は動いていた。
 浩之の右腕が伸びきった時、拓也の頭部が浩之の右脇の下の辺りにあった。
「この!」
 拓也の体がするりと、浩之の体の表面を滑るように右回りに移動した。
「!……」
 寒気がした。
 ヌメヌメとした軟体動物が、自分の体の上を這っているように思えた。
 しかし、それどころではなかった。
 バックを、取られた!
 後ろから、二本の腕がやってきて、右が横になって浩之の喉元へ食い入ろうとしてい
た。左は、縦になってその掌が浩之の後頭部に当てられている。
 柔道でいう裸締め、プロレス風にいえばスリーパーホールド。頸動脈ではなく、真正
面から喉を圧迫しようとしているので、いわゆる、チョークというやつだ。
 顎の骨が、みりみりと鳴りそうだった。
 浩之は顎を引いて、拓也の右腕の侵入を阻んでいたのだ。
 三十秒ぐらいだろうか。
 浩之は拓也がチョークスリーパーに行こうとするのを阻んだまま、じっと耐えていた。
 ふっ、と、左腕の力が弱まった。
 浩之の左目は、拓也の左手の親指をはっきりと見ていた。

                                     続く

     どうも、vladです。
     二十四回目です。
     浩之VS拓也です。
     やっぱり一回じゃ終わりそうにないんで引きます(笑)