鬼狼伝(21) 投稿者:vlad
 様子見の右のローキック。
 浩之の右足が低空で飛ぶ。
 桐生崎の左膝が上がり、スネでブロックする。
 それが着地すると同時に桐生崎も右のローを放ってきた。
 浩之の左足の腿が音を立てる。
 もう一度来た。
 もう一度鳴った。
 もう一度来そうだった。
 浩之はそれに備えた。
 前に出て正拳を胸部にぶち込む。
 そのつもりだった。
 桐生崎の右足がローキックを放つ。いや、ややローというには上の……ローとミドル
の間ぐらいの位置の蹴りだった。
 そう見えた。
 それが瞬時にして上段回し蹴りに変じて頭部を襲ってきたのは次の刹那であった。
 左手で防いだ。少しでも左手を上げるのが遅れていたら側頭部を蹴り抜かれていただ
ろう。
 しかし、防いだといっても完璧にではない。不意をつかれただけにガードに使用した
左手にそれほど力が籠もっていなかった。
 押されて浩之は上半身を大きく右に逸らした。
 浩之の右手が桐生崎の眼前を横切って彼の右の膝裏に掛かった。
 一瞬後、その手が離れた。
 桐生崎の右足が下がると同時に左拳が打ち出された。それを横から浩之の右手が弾く。
 すぐに右拳が来た。
 脇腹の辺りを狙ったそれを体をずらしてかわす。
 浩之と桐生崎の体が激しく接触し、その衝撃ですぐに離れる。
「!!……」
 桐生崎が気付いた時には、浩之の左手に右手首を掴まれていた。
 ぱっ、と浩之の手が離れる。
 互いに距離を取り合い、睨み合う。
「ラスト、一分!」
 磯辺が叫んだ時、二人は同時に前に出た。
 凄まじい打ち合いになった。目まぐるしく拳が交換され、時折、足が跳ね上がる。
 好恵も、磯辺も、他の誰も何もいわない。
 肉と肉が──鍛えられた肉と肉が激突する音だけが妙に澄んだ音で響いていた。
「それまでっ!」
 磯辺がそういって二人の間に割って入った時には、双方、息を切らしていた。ルール
の性質上、顔は綺麗なものだが、服の下の体はアザだらけになっているに違いない。
「坂下ぁ、タオル取ってくれよ」
 好恵の足下に浩之のカバンが置いてあり、その上に一枚のタオルが被さっている。好
恵はそれを手に取って、浩之に向かって投げた。
 浩之は受け取ったタオルを額に当てた。
 こいつ……ここまでやるとは……。
 好恵は戦慄をもって、汗を拭っている浩之を見やった。
「あんた、なかなかやるね」
 タオルを顔を拭いている浩之に、好恵がいった。
「あん? やるのは前からわかってただろうが?」
 浩之がぬけぬけといってのける。
「桐生崎さんとまともにやり合えるほどだとは思ってなかったよ」
 桐生崎の名を聞いて、浩之の表情に真剣味が差す。
「やっぱ、あの人やるんだな……」
「ああ、一年の時にそこそこ大きい大会で優勝したことあるらしいからね」
「へえ」
 浩之が桐生崎の方を見ると丁度、こちらに向かってくるところだった。
「お前、やるなあ」
 ごつい顔が少しだけ綻んでいる。
「おれは大会に出た時に荒っぽいっていわれたんだけど……お前、まともに打ち合って
きたもんなあ」
 確かに、荒っぽい闘いだった。これで拳による顔面攻撃がありのルールだったら、今
頃どちらの顔も見れたものではなかっただろうし、どちらかがKOされていたに違いな
い。
「まあ、大会で判定になったら僅差でおれの優勢勝ちだろう……ルールに助けられた勝
ちだが……」
「はあ」
「お前、何度かおれの関節取ろうとしただろう」
「あれ、気付きました?」
「ああ……おれはほとんど関節技の知識は無いからな、寝技、関節技がありのルールだ
ったらお前の勝ちだっただろう」
「いや、そうとは限らないっスよ」
「藤田ぁ……」
「はい」
「なんか食いに行くかぁ」
「は、はい」
 よくわからんが、気に入られてしまったらしい。
 浩之が着替えている間、桐生崎は磯辺たちと何か話していた。
「ども、お待たせしました」
「おう、藤田」
 そういった桐生崎の背後に並んでいる連中が揃いも揃って意気消沈しているのが一目
でわかった。
「これからも時々、こいつらに稽古つけてやってくれや」
「あ、はい」
「んじゃ、行くか……おめえら、ちゃんと練習しとけよ」
「押忍!」
「お疲れさまでしたぁ!」
 相変わらず、腰を直角に近い角度で曲げて磯辺たちが叫ぶ。よほどこの桐生崎という
のは恐れられているらしい。
「主将だった頃は、随分あいつらをしごいてやったからな」
 と、道を歩きながら桐生崎はいった。
「ま、あいつらも、根性は人並み以上にあるんだ。部を辞めなかったんだからな」
「はあ」
「しかし、磯辺の野郎は素質は悪かないんだが、ちぃと甘いな」
「はあ、そうっすかねえ」
 と、話しながらも桐生崎は浩之の半歩前を進んでいく。なんでも行きつけの店に連れ
ていってくれるらしい。
「ここだ」
 学校からそう遠くは無い駅前であった。浩之は徒歩通学だが、電車通学をしている生
徒のほとんどがその駅を使っている。
「ここっすか?」
 俗にいう、ガード下にある飲み屋だった。看板の文字が掠れてしまっていて店名がよ
くわからない。

「ま、飲めよ」
「あ、ども」
 桐生崎がビール瓶の口を突き出してきたので、浩之はコップを、泡が立たぬように傾
けて出した。
 コップ越しに冷たさが伝わってくる。
 凍って固体化するギリギリ寸前のように冷たい。
 つい先程まで汗をかいていたこともあり、そのビールが無闇に美味かった。
 そう広くない店の奥の方のテーブル席だった。二人が向かい合って座る小さな席だ。
 二人とも学生服である。店内は暖房が少し効いているので上着は脱いで、自分が座っ
ている椅子の背もたれに引っかけている。
 浩之とて、酒を飲んだことがないというわけではない。むしろ、嫌いな方ではないの
で時々飲む。
 しかし、さすがにこのような格好で飲み屋に入るのは初めてであった。
 いいんだろうか?
 と、思いつつ、冷たいビールが美味であるのは否定しようのない事実であり、早くも
浩之は一杯目を空にした。
 周りの人間は、どこかの大学の運動部とでも思っているのか、学生服の二人に特に視
線を注いでくるということもない。
 お酒は二十歳になってから! と、黄色いナレーションで注意されることもなく、浩
之は二杯目のビールに口をつけた。
 桐生崎が、日本酒の熱燗と肴を幾つか店員に頼んだ。
「ところで、さっきの話なんだが……」
 いいつつ、桐生崎が湯気の立つ猪口を口に持っていく。
「は? さっきの話って……」
「磯辺の野郎がちぃと甘いって話よ」
「ああ、その話っすか」
「一応、後輩をまとめちゃいるようだがよ、もう少しばかり怖がられるぐらいでいいと
思うんだよ」
「はあ……」
「その点、おめえはいいなあ」
「そうっすかねえ?」
 確かに、空手部の一年は自分のことをやたらめったら怖がっているが。
「素質も、磯辺にゃ悪いが、お前の方が全然上だ。藤田よ、空手部に入る気はねえか?」
「え!?」
 思わぬ桐生崎の言葉に浩之は狼狽して、沈黙した。
「おめえさえやる気なら、磯辺の奴を張り倒してでもお前を主将にしてやってもいいぜ」
「それは……」
 これはまた随分と高い値段をつけられたものだ。会ってから二時間も経っていないと
いうのに。
「すんませんけど、おれは……」
「だろうな……」
 桐生崎は、初めからわかっていたとでもいうように、納得した表情で頷いた。
「お前のやりたいことは『空手』じゃねえんだろうな」
「……はい」
「見たところ、今流行りの総合格闘ってやつだな……エクストリームとかに出ようとし
てんのか?」
「はい、その内に出場しようとは考えてます」
「でも、お前、突きとか蹴りとかの打撃技は空手に似てるな。どこかでやってたのか?」
「はい、まあ……」
 浩之の格闘技の師匠は後輩の松原葵である。その葵もエクストリームを志す以前は空
手一本をやっていたので、自然、打撃技にはその名残が濃厚であり、それは当然、浩之
にも受け継がれている。
 さらに、葵が他の道場に行くので休みになってしまう月曜と水曜にはちょくちょく家
の側にある小倉四郎(おぐら しろう)の空手道場に顔を出していたのでやはり自分に
は空手が身についてしまっている。
「お前、公式の試合には出たことないのか?」
「はい、それはまだっすねえ」
「でも、非公式なやつなら何度かやってるな……しかも、けっこうルールが無いに近い
ようなもんをよ」
「わかりますか?」
「ああ、なんとなくだけどな、お前の目とか……闘気っていうのか? とにかく、そう
いう気配とかでな……」
「そうっすか」
「おれはな……ねえんだ」
「え?」
「そういう闘いをやったことがねえんだ。こう見えても、中学生になってから喧嘩なん
てしたことがねえ」
「はあ……」
「だから……」
 桐生崎はいった。
「お前が怖かったよ」
 信じられぬことをいった。
 この空手部の連中に恐れられている男が、浩之のことが怖かったといった。
「おれが……」
「そうだよ……」
「まさか……」
「本当だ」
 桐生崎は割り箸をテーブルの真ん中に置いてある丼に伸ばした。
 先程頼んだモツの煮込みだ。
 浩之はつられるように割り箸をモツの煮込みへとやり、モツと白菜とネギをまとめて
摘んだ。
 それを口に運ぶ。
 濃い味噌味が効いていた。少し濃すぎるのではないかと思うほどに濃い。
 モツは味噌味がした。白菜も味噌味がした。ネギも味噌味だ。
 とにかく、味噌の味しかしない。
 素材の味を生かす。などという料理哲学に真っ向から反したような一品だ。
「最初の……ほら、おれが低い蹴りを上段蹴りに変化させた時、お前はその蹴りをガー
ドして、おれの膝裏を取っただろ」
「はい」
「あれ、あのままおれをうつ伏せに転がすことができたはずだ」
「はい」
「あの時にわかったのさ、こいつはおれの知らねえ技をたくさん持ってやがるってな…
…そんで、怖くなったのさ」
 一度言葉を切って、桐生崎は徳利を猪口の上で傾けた。猪口の半分ほどを満たして、
酒の流れは止まった。
「こいつがキレちまって……ルールなんて関係ねえ闘いを仕掛けてきたらどうしようか
と思ってたよ」
 そういって、飲んだ。
「意外っすね」
「そうか? でも、お前はおれを怖がっちゃいなかっただろう」
 怖がっていなかった。というわけではないと浩之は思う。現にローに近いキックがい
きなりハイキックに切り替わるような足技の上手さには戦慄を覚えた。
「以前、フルコンタクトルールの大会で、おっかねえ奴と当たっちまってなあ」
 桐生崎が遠い目でどこかを見ている。
「関節技とかは無しのルールなのに、審判の目の届かねえところで平然とやってきやが
んだよ、これが」
「へえ……」
「そんで負けちまったよ」
「……」
「あれ以来、どうも臆病になっちまってなあ」
 桐生崎が、また日本酒の熱燗を頼んだので、浩之も一緒に頼んだ。
「ところで、お前の関節技はどこで習ったんだ?」
 桐生崎が尋ねた。
「家の近くの小倉四郎って人の道場で習いました」
「小倉……四郎……?」
 桐生崎がその名を呼ぶ響きに、何か思い当たっているような様子があった。
「知ってるんですか?」
「おれが通ってる道場の先生の友人……だったと思う。おれはあまり顔を合わせたこと
はないが……」
「へえ」
「小倉道場だったら月島拓也ってのがいるだろ」
「いや、おれは会ったことないんですけど、話は聞いてます。知ってるんですか?」
「一度、大会で当たったことがある……負けちまったけどな」
「それじゃ……さっきのおっかねえ奴って……」
「月島拓也」
「……おれ、近い内にそいつとやろうと思ってるんです」
「なんだと……」
「少し、教えてくれませんか?」
「……いいだろ、なんかの足しになるかもしれねえからな」

                                     続く

     どうもvladです。
     念願の酒を飲むシーンを書いたのでなかなか気分がよいです。
     読んでいる方はわかると思うのですが、この作品に大きな影響を与
     えている『餓狼伝』には、格闘シーンはもちろんですが、男二人が
     差し向かって飲むというシーンがけっこう多いんです。
     
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 続柄 takatakaさん
 あーあ。
 またやられた。(笑)
 はい、今回も無茶苦茶面白いです。
 感想ありがとうございました。

 バレンタイン・サーガ−矢島最後の日− 紫炎さん
 矢島は……どうかなあ?
 けっこう貰ってんじゃないかな、チョコ。
 柳川は婦警さんに貰ってそう(笑)

 狗福さん
 感想ありがとうございました。

 『あかりのすきなもの』 久々野 彰さん
 このあかりは、部屋にいる時はくまに囲まれて(絶対、こいつの所持しているぬいぐ
るみは一個や二個ではないだろう)
「くまぁぁぁぁ」
 になってるんでしょうか(笑)

 はあ、今回はこんなもんか。
 そんではまた。