鬼狼伝(19) 投稿者:vlad
 その日は、御堂静香(みどう しずか 第八話参照)にとっては特別な日であった。
 仕事から帰ると、彼女は仏壇の前に座り、線香の先端に火を灯した。
「お父さん、お母さん、私は元気でやってます。心配しないで下さい」
 畳に額をつけるほどに頭を下げる。
 その日は、父の命日であった。
 仏壇には、彼女がエクストリーム大会一般女子の部で準優勝した時にもらったトロフ
ィーが置いてある。
 静香が格闘技をやり始めたのは、警察官だった父の影響である。父は、真面目な人で、
警察官となる以前から武道をやっていて、静香が産まれて物心がつく頃にはかなりの実
力者になっていた。
 その父に教えられて格闘技を始めた。
 彼女は今、エクストリーム大会を題材にしたドラマの撮影現場で主演女優の格闘部分
の演技指導をしている。
 それが終わったら、女性向けにフィットネス性を重視した「フィットネス空手」の指
導員にならないかと誘われており、静香はそれを受けることを決心していた。
 母親が死んだのはもう十年も前だった。幼かったために人目も気にせずに泣いた。
 父親は三年前に死んだ。殉職であった。
 年齢もあったのだろうが、静香は泣かなかった。一人っ子の彼女はもう誰も頼る者が
いなくなり、それを思うと泣くどころではなかった。
 母親が死んだ時には父親という、泣きながら我が身を委ねる存在があり、父親の死の
時にはそれが無かったというのも静香が泣けなかった原因かもしれない。
 ただ、短期間だが父親に世話になったという部下の人がよく訪ねてきてくれた。
 おかしな人だった。
 ただやってきて、座っているだけなのだ。
 特に慰めの言葉をかけたりするわけでもなく、ただ座っているだけなのだ。
 なぜか誠意だけは感じられたので、別にいやな顔もせずに食事を御馳走したりしてい
た。
 その内に、異動で遠くへ行くということになり、来なくなった。
 去年の命日には父の死を悼む手紙が来た。
 無愛想で表情の変化に乏しい人だったが、妙に生真面目な人物であった。
 帰りにポストを見たが、中には何も入っていなかった。
 あの人……お父さんのことを忘れてしまったのだろうか……。
 なんだか、ちょっと寂しくなった。
 自分の部屋に戻って着替える。着替えながら音楽を聴くことにした。
 お気に入りはもちろん緒方英二だ。もはやプロデュース業に転向してしまって新曲が
出ないというのが悲しいところである。
 緒方英二初のアルバム「EIJI」が中でも一番のお気に入りだ。ジャケットで当時
の若い英二が見下すような視線をこちらに向けている。
 前々からシングル曲をいい感じだと思っていた当時高校生の静香が初アルバムが出る
というので見てみようとCDショップに行き、このジャケットの英二の視線の直撃を受
け「はぅぅぅぅ」な状態になってしまったのが全ての始まりであった。
 やたらとミーハーな入り方だが、とにかく、気に入ってしまったものはしょうがない。
 引退ライブにも行って、周りの一瞬前まで知らない人だった人間たちと手を取り合っ
てともに泣いた。
 一曲目の英二のデビュー曲が流れ始めた時、インターホンが鳴った。
 丁度着替え終わった静香はタンスの上のナックルを拳に装着して部屋を出た。女の一
人暮らしなので用心は過剰なほどにしている。
 ドアの覗き穴から来客を確認する。ここで、相手が体をずらしたりして覗き穴から見
えない位置にいる間は絶対にドアの鍵を開けない。
 静香の目に映ったのは、よく知っている人物だった。ただ、まさか来ることを予期し
ていなかったので驚いたことは確かである。
 静香はドアを開けた。
「お久しぶりです」
「ああ」
 若い、二十代中盤ぐらいの男だ。
「三日前から何度か留守番電話に、本日訪ねるとメッセージを入れておいたのだが……」
「え! ……あ、あの、すいません! 私、ここ数日仕事が忙しくて留守電聞いてなく
て……」
「そうか……頑張っているんだな」
 男は、安堵したような笑みを浮かべた。
「えっと、お父さんにお線香上げに来たんですよね、どうぞ、上がって下さい」
「ああ」
「柳川さん、今、警部補でしたっけ?」
 廊下を歩きながら、静香が尋ねた。
「ああ」
 男──柳川祐也は簡潔に答えた。
「すごいですねえ、もう、お父さんよりも偉くなっちゃってるんですね」
 静香の父は死んだ時、巡査部長だった。
 柳川は一年の巡査勤務、一年の巡査部長勤務の後に警部補試験に合格してのスピード
出世を果たしていたのでもはやかつての上司を追い越してしまっている。
 しかし、警察官になって一番気楽だったのはあの頃だった。
 と、線香をあげながら柳川祐也は思うのである。
 御堂巡査部長の下にいた巡査時代が──つまりは、一番下っ端だった頃が一番気楽で
楽しかったような気がする。
 警部補の今、なぜかあの頃が無性に懐かしい。
 地位が上がるごとに、自分は笑うことが少なくなった。
 元々、あまり笑顔を見せないような人間だったが、下っ端の巡査時代は、よく笑って
いたような気がする。
 笑っている時には、いつでも御堂巡査部長が傍らにいたような気がする。
 柳川は、合わせていた手を左右に開き、頭を上げた。
 仏壇の遺影が笑っている。
 花瓶に、柳川が持ってきた菊の花が刺さっていた。
「生活の方は大丈夫か?」
「はい」
「女の一人暮らしは危険だ。防犯上の注意はちゃんとしているか?」
「はい」
「そろそろいい人は見つかったか?」
「いえ……それはまだ」
 親元を離れた娘と久しぶりに会った父親のようなことを柳川はいった。この男は、も
しかしたら少しでも、静香の父親の代わりになろうとしているのかもしれない。
「今日は……隆山の方からわざわざいらっしゃったんですか?」
「いや……つい先月、また異動になってな……こっちに来ているんだ」
「あ、そうなんですか!」
「住所だ。何かあったら連絡を……」
 そういって、柳川はポケットからメモ帳の一頁を破り取った紙片を取り出して静香に
渡した。
「それでは、そろそろ帰る」
「あ、はい」
 静香は、柳川を見送って玄関まで出ていった。
「あの……」
 去り際の背中に、静香はいった。
「今日はありがとうございます。わざわざ父のために来て下さって……」
「いや……」
 それまで、静香と一緒にいる間、この男としては珍しいほどに明るい表情をしていた
のだが、この時、その相貌に影が差した。
「おれが殺したも同然だからな……御堂さんは……」
 静香は沈黙し、硬直した。
「そんな……」
 後に続ける言葉が見つからなかった。
「おれが足を引っ張ったせいで御堂さんは死んだ……」
 沈黙。
「お父さんは……あなたをとても気に入っていました」
 随分長い沈黙の後、静香は辛うじてそれだけをいった。
「何かあったら連絡を……」
 柳川はそういって背を向けた。
「遠慮はするな」
 背中を向けたままいった。
「……ありがとうございます」
「戸締まりをしっかりとな……」
 柳川は、一度も振り返らずに歩き始めた。静香が、もう一度、礼をいっているようだ
った。
 自分がここにこうして「人間」として存在できるのは御堂のおかげだと、柳川は思う。
 御堂が死んだことで、自分が人の死の冷たさを知っていたからだと思う。
 段々と冷たくなっていく体を抱えて、柳川はその冷たさに怯えた。
 その御堂の死から一年と少し経った頃……。
 あれは……なんといったか……なんとかいうチンピラ……。
 時間が経つごとに冷えていくその体に触れながら、柳川は思い出し、確認していた。
 人の死とは、冷たいものなのだ。
 御堂の死とは比べものにならぬぐらいに冷たかった。
 自分が作り出した死だからであったろうか。
 隆山から東京の方に異動になるという話を聞いた時、柳川はなんとか隆山に止まれな
いかと上司の長瀬警部にいった。
 長瀬は不思議そうにしていた。首都への異動は「栄転」であるからだ。
 どうしても駄目ならば警察官を辞職してでも隆山に止まる覚悟があった。
 その柳川が、未だ警察官として、ここにいるのは、ある日の朝に彼が隆山に執着する
理由が無くなったからだ。

「柳川くん……君が薬物中毒のチンピラから保護した阿部くんな、ついさっき……」

 その死も、冷たかった。
 格別、冷たかった。
 警察病院に行った柳川は隣人だった阿部貴之の母親に初めて会った。
 彼女は、柳川のことを知っていた。以前、貴之が電話で話したことがあるらしい。
 警察官で隣に住んでいる……とても頼りになる……兄のような人……。
 そんな風にいっていたらしい。
「あの子は……一人っ子でしたから……嬉しかったんでしょう……」
 兄、といったか。
 貴之は、自分のことを兄といったか。
 正直、嬉しかった。
 そして、重かった。
 自分は、貴之を守れなかったから。
 だから、重かった。
「いつまで……」
 柳川は、肩越しに振り返った。
「つけてくるつもりだ?」
 背中に、その男の「気」が吹き付けてきた。
「さすが……警察官ですね、バレていましたか……」
 先程と寸分変わらぬ姿で、月島拓也は街灯の下に立っていた。
「まだ、懲りていないのか」
「さっきの人……恋人ですか?」
「あの娘のことは忘れた方がいいな……」
 他人事のように、柳川はいった。
「ほう……」
「あの娘のことを知っていることが、お前に不幸をもたらす可能性がある……結果的に
な……」
 恐れるまいと拓也は思っていた。
 この男と向き合った時、恐れるまいと思っていた。
 絶対に気迫負けしてはいけないと思っていた。
 しかし……。
 ぞくり、とした。
「ふふ……女を狙おうなんて考えてはいませんよ」
「……」
「僕にも……妹がいますからねえ」
「……」
「よくできた妹です」
 拓也の表情に恍惚としたものが混じった。
「なんの用だ……さっきの続きがしたいのか……」
 このまま放っておけば、妹の自慢話を始めてもおかしくない雰囲気なので、柳川は、
素早く話題を変えた。
「とりあえず……今のところはけっこうです……ただ、このままあなたの名前も知らず
に別れるのはどうかと思いましてね……」
「柳川祐也……警察官だ」
 それだけいって、柳川は歩き出した。
「覚えておきますよ」
 射るような視線を、柳川は背中に感じた。
 物色するような視線だ。
 どこを折ってやろうか……。
 そんな視線だ。
 構わず、柳川は前進した。
 足音は聞こえない。
 今度会ったらどうなるか。
 漠然と考えたが、それも一瞬でしかなかった。

                                     続く
 
     どうもvladです。
     第19回目であります。
     補足説明をさせていただきます。
     柳川はもちろん鬼を制御しています。貴之の件は同居人の吉川が彼
     を虐待していたのを保護したということにして上手く処置したよう
     です。あまり鬼とかエルクゥとかいうことを作中に出したくなかっ
     たので、ここで補足という形にしました。
          あとそれから、間違い一つ発見!(畜生!)
     以前、エクストリームの社会人部門、といういい方をしていたので
     すが、葵シナリオ再プレイしたら「一般部門」の間違いでした。
     それほど、致命的な間違いではないので、過去のそれはそのままに
     しておこうと思います。どうか、御了承下さい。

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 王道の狗福 狗福さん
 感想ありがとうございました。
 修○の門なんか入ってませんよお……と、思いながら読み返してみたらしっかり入っ
てました(笑) 人殺し云々のとこですね。不破戦はけっこう気に入ってるので無意識
にパクってしまったようです。
 >そうそう、もしこの作品が漫画化される場合、絵を描かれるのはアノ人がいいと感
 >じますが…どうでしょう?
 え? アノ人ってどの人でしょうか? 谷口ジローでしょうか?(笑)
 いや、今日、話にだけ聞いていた谷口ジローの『餓狼伝』を読んだのですが、板垣恵
介(刃牙の作者の人)のやつとはまた違った感じがしてよかったです。

 フランケンシュタイン・コンプレックス takatakaさん
 >なんだと!?
  >ははーん、殺す気だな?
 ここ最高です。他の部分もいいですが。
 とにかく、浩之の心の声の部分がとても面白かったです。
 感想ありがとうございました。
>なんというかとても柳川的(?)に書けていると思います。
 そういっていただけると安心です。やたらと落ち着いてる柳川っておかしいかなぁ、
と危惧していたので……。

 名前2 R/Dさん
 疑問がつきませんなあ、長瀬一族(笑)
 最近、マジで長瀬家の家系図が見てみたいです。

 UMAさん
 本家の作品への感想ありがとうございました。

 『雨の雫 雨の痕(ことば足らず こころ足らず)』 久々野 彰さん
 よいですねえ。
 私はこういう手法の話がとても好きなのです。
 なんていうんですか……元ネタの主役級のキャラ(この作品の場合は耕一と千鶴です
ね)が重要な役割を演じながらも、決して一番前には出てこないような話……。
 上手くいえてないな……(苦笑)
  自分でもよくわかってないけどわかっていただけますか?(笑)

 ふう、今回はこんなもんか。
 あ、全然関係ないけど近々日本テレビでジャイアント馬場さんの追悼特番をやるそう
です。これは必見ですな。