鬼狼伝(18) 投稿者:vlad
「警察官?……」
 拓也は薄闇の向こうにいる男に向けていった。声にも、視線にも、ただならぬ気が含
まれている。
「そうだ」
 男は、簡潔に答えた。
 風が男の背後から吹いた。
 男が持つ菊の花の香りが拓也の鼻にまで漂ってくる。
「それじゃあ、僕を逮捕しますか?」
 いいながら、足を進めた。
 ジリジリと薄氷を踏むように慎重に。
「いや、そこまではしない」
 男は、微動だにせぬままいった。
「今日は非番だ」
 だから、面倒なのは御免だ。
 そういいたいような表情であった。
 拓也は、男の言い草におかしみを感じて笑った。
 声を出さずに笑った。
 とにかく、この男は自分の楽しい一時を邪魔したことに変わりはない。
 自分は、これまで自分を邪魔した人間を許したことはない……。以前、瑠璃子の付き
添いで行った病院で柏木耕一とかいう男を取り逃がしたことはあるが、あれは特別な例
外だ。あの時はなぜか、こちらの気をくじかれてしまった。
 目の前の男。
 拓也が体勢をやや低くして近付く間も、動こうとしない。
 間合いに、入った。
 足がギリギリで届く位置だ。
 もうだいぶ近い。
 それでも、動かない。
 警察官というからには、柔剣道や逮捕術の心得があるはずなのだが、依然、微動だに
しない。
 眼鏡のレンズ越しに、ひんやりとした目で、拓也を見ている。
 足腰はそれほど強靱そうに見えない。
 少し低くなっていた拓也の体勢がさらに沈んだ。
 同時に、前に出る。
 下半身を狙ったタックル。
 その動きは迅速であった。これで思い切り腰にぶち当たり、手で足を刈って倒して寝
技に持ち込む。
 そのつもりであった。
 男の右足が跳ねた。
 足を刈るために前に出ようとしていた拓也の両腕が眼前で交差する。
 男が右膝を蹴上げて顔を迎撃してきたのだ。
 ドンッ。
 と、重い音がした。
 音にひけを取らぬ重たい一撃だった。両腕を交差して十字受けしたからよかったもの
の顔面に喰らっていたら一発でKOされていたはずだ。いや、顔面にもらわずとも、腕
を交差させず、腕一本で受けていたらしばらくその腕が使いものにならなくなったかも
しれない。
 それほどに、重たい一撃であった。
 拓也の上半身が浮いた。
 即座に大地を蹴って後方に飛ぶ。
「ほう」
 男が嘆息した。
 なかなかやるじゃないか。
 そんな感じだ。感心はしているらしいが、強者が弱者を見下ろす時の感心であった。
 拓也の内部に熱が生まれた。
 しかし、その熱さに身を委ねて突っ掛かっていくほど拓也は愚かではない。
 先程の一瞬の攻防でこの男が相当の実力を有していることはわかっている。こんな奴
に不用意に突っ込むのは死期を早めるだけだ。
 タックルに行く寸前まで、男の体は動いていなかった。
 拓也は、最高のタイミングで動作に入ったはずだ。あの時の彼我の距離から考えて、
こちらが動いた後にその動きを判断して対処したとは考えにくい。おそらく、状態や、
拓也の気配などでタックルに来ることを読んでいたのだろう。でなければ、あそこまで
正確に顔面を狙った攻撃があれほどスムーズには出てこないだろう。
 ただならぬ相手だ。
 思わぬところで、すごい奴に会った。
 こうも短期間に、自分に冷や汗をかかせる人間に二人も巡り会うとは──。
 戦慄が全身を駆け抜け。
 歓喜がその後を追った。
 こうも短期間に、たまらないほどに潰しがいのある人間に二人も巡り会うとは──。
 拓也は震えた。
 戦慄と歓喜が、交互に体を揺さぶっているようであった。
 この前の柏木耕一は逃がしてしまったが、今度は逃がさない。
 この人には……自分の遊び相手になってもらう。
 拓也の体勢が沈んだ。
 男の右膝が跳ね上がる。
 腕を組んでの十字受け。
 それが、先程の動作のリピートではなかったのは、その膝蹴りを受けた拓也の上半身
の浮き上がりがそれほど大きなものではなかったことだ。
 先程は、思わぬ速度で膝が上昇してきたので驚いて腕を十字に組むと同時に体を後ろ
に引いてしまったので大きく飛ばされてしまったが、初めからそれあるを期して体重を
前にかけていれば、それほどに大きくは飛ばされない。
「む!」
 男が、目を見開く。
 そうだ。そういう顔が見たかった……。
 いい顔じゃないか。
 そういう顔ができる人なら好きになれそうだ。
 拓也の両腕が男の右足に絡みついた。

 二匹の大蛇──。

 男の表情から余裕が消えた。
 余裕が消えて……鬼が現れた。
 鬼というものを拓也は見たことがないが、これからは鬼と聞けば、この時のこの男の
顔を脳裏に思い浮かべるだろう。
 菊の花束が宙に投げ出された。
 拓也は右肩で男の腹を押しつつ、両腕の中の右足を引き、右足で左足を払った。
 足首を左脇の中に捕らえる。
 それでアキレス腱に圧迫を加えつつ、スキあらば金的を蹴る。
 男が後方に倒れていく。
 相変わらず鬼の顔をしていた。
 拓也の右足に払われた男の左足が、苦しい体勢ながらも足の裏で着地した。
 来る!
 左足で蹴ってくる!
 右足を取られたこの体勢では大した威力ではなかろうが、おそらく、股を狙ってくる
に違いない。股には男の大急所がある。
 右掌を下に向けて突き出した。
 男の左足が、拓也の右掌に衝突する。
 瞬時に、男の両手が伸びてきて手首を掴まれていた。
 よほどの腹筋力と瞬発力が無ければ無理な芸当だ。
 ぞくり。とした。
 手首が氷付けにされたのかと思った。
 それほどに「冷たい」ものが拓也の手首から全身に伝播した。
 アキレス腱を固めるどころではない。
 拓也は、男の右足を解き放って自らの左手を右手の救援にと駆けつけさせた。
 左手で相手の右手首を掴んで引き離すと同時に右手を引く。
 男が拓也の右手から手を離し、跳ねるように立ち上がりながら距離を取る。が、拓也
の左手は依然、男の右手首を捕まえている。
 一瞬、互いに横に並んだ格好になった。
 拓也の後頭部が鳴った。
 ゴン、と鳴った。
 拓也が体勢を立て直すよりも速く、男が右の上段回し蹴りを拓也の後頭部にぶち当て
てきたのだ。
 頭部への衝撃に拓也の手が緩む。
 男は右手を引いて拘束から脱した。
「くっ!……」
 脳が揺れている。
「その辺にしておけ」
 男が菊の花束を拾い上げながらいった。
「……」
 まだ、揺れが収まらない。
「おれは、闘うのが嫌いというわけではないが……今は……そういう気分じゃない」
 顔が、鬼ではなくなっていた。
 諭すような男の表情と声が気に入らなかった。
 僕と似たような人種だろ? あんた?
 否定したって駄目だ。自分はもうそのことを知ってしまったのだ。
「殺して……やる」
 敵意は殺意にと変わった。
「殺す?」
 男はスーツについた土を払い落としながらいった。
 僅かにだが、先程の鬼の顔が覗いた。
「おれを……殺す?」
「そうだよ……」
 自分は人を殺したことはないが……なんてことはないはずだ。
 人を殺すなんて、なんてことはないはずだ。
 自分は人を殺したことはないが……いつだって殺す覚悟はできているんだ。
 いつだって……なろうと思えば僕は人殺しになれる。
 僕はそういう人種なんだ。
「軽々しく口にする言葉じゃないな」
 何をいってるんだこいつは?
 いきなり説教か?
 ついさっき、鬼の顔をして僕の後頭部に蹴りを叩き込んだ男が、人の命の大切さでも
僕に教えようっていうのか?
「おそらく……」
 鬼の顔になった。
 鬼の顔だが、拓也と攻防を繰り広げていた時の感じとは違う顔だった。
「お前が思っているより、人の死は冷たい」
 拓也の全身を何かが駆け抜けた。
 駆け抜けた。
 うねった。
 のたうち回った。
 その何かが、拓也の体内で荒れ狂った。
「あなたは……」
「できれば……人なんて殺さない方がいいぞ……」
 男は拓也に背を向けた。
「あなたは……」
 拓也の手が小刻みに震えていた。
 その震えをどうしようもない。
 恐怖、ではないような気がする。
 ただ、無闇に体が震えた。
 自分は、似たような人間を知っている。
 柏木耕一。
 あの男は、どこかが柏木耕一に似ていて、どこかが決定的に違う。
 とにかく、拓也の好奇心が激しく刺激されたのは確かであった。
「あいつら……なんだ? 一体なんだ?」
 拓也が呟く内に、男の背中はだいぶ小さくなっていた。
「あなたは……」
 人を殺したことがあるのか?
 それは、声にならなかった。

                                     続く


          どうもvladです。
     第18回目を数えました。
     正体バレバレなのに「男」で通してしまった人物の正体は次回で明
     らかになります。
     以前、20回ぐらいで終わる。と書いたのですが、18回目でこん
     な感じですから当然、後2回じゃ終わりゃしません。
     たぶん……おそらく……30〜40回ぐらいで終わると思います。
 
 では、この辺で……。
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  HMR─28さん。
 感想ありがとうございました。

 魔法の袋 くまさん
 その袋には男入れちゃいかんでしょ(笑)
 初音とか琴音とか入れなきゃ。
 女性陣に大評判のミニ浩之ですが、そんなのが私の部屋にいたら、たぶん踏みます(笑)
 感想ありがとうございました。

 狗福さん。
 感想ありがとうございました。
 あのイッちゃった兄貴には、耕一より、あの人の方が相手として相応しいかなあ、な
どと思った次第です。
 
 『耳を澄ませば 〜どうしようもない僕に降りてきた天使・番外編3〜』 
                               久々野 彰さん。
 ああ、真面目に考えてんだなあ。
 と、いうのが感想っていえば感想です。随分、失礼ないい方かもしれませんが。
 私がこの類の問題にはほとんど思考を割かない人間なんで……。
 ええっと……どうしてもこの主人公「考えすぎ」のような気がしてしまうのですが…
…まあ、それを承知の上で書いているんでしょうけど。
 以前、久々野さんと私のやり取りにあったように浩之だったらここまで悩まないでし
ょう。私も割り切ってしまっています。
 変な感想ですいません。一応、こんなのでも二十分かかってしまっています(笑)
 あと、本家の作品への感想ありがとうございました。
 すんません、あれは今までの私の作品で一番の駄作だったかもしれません。

 雛山家の一族 takatakaさん
 こいつらどんな家に住んでんだ?(笑)

 床は土。
 ガラスが存在しない。

 この二点ははっきりしとりますが(笑)
 感想ありがとうございました。
 柳川出すと強さのバランス取るのが難しいので、登場させるのにかなり悩みました。
 まあ、でも、作品の性質上、耕一と柳川が「鬼化」することはもちろん無いです。そ
れこそバランスが大崩壊しますから。

 LF98(15) 貸借天さん
 私も……二次創作なんだから、あんまりオリキャラ出しちゃいかん、というのはわか
っているんですよ……これでも……。でも、どうしてもリーフキャラじゃ困る時とかは
やっぱり使ってしまいますね。で、その時は出来るだけ、目立たないチョイ役にするか、
それなりにキャラクターが立つように心がけることにしています。
>ああっ、裏切り者ぉ〜〜〜〜!(笑) 
  思えばvladの人生は時代がそうさせたとはいえ、裏切りの人生であった。(全部
時代のせい)
>え、週2本ですか? ガビーン。ますます離される……。
  希望です。希望(笑) そうなったらいいなぁ、という希望ですって。
>さては、当初の予定より大幅に増えますね?
 上の方で書いた通りです。増えます(笑)
        
 尋問レミィ takatakaさん
>『にゃはー、勝った!』
 ……って、くそ、可愛いじゃねえか。(笑)
                 
 『あなたを、待っていました』 久々野 彰さん
 しかし……実際にいるんでしょうかね? 後輩に「様づけ」で呼ばれてる女子学生っ
て……(笑)
 感想ありがどうございました。
 月島兄やんはもう……「キレろキレろ、キレちまえ!」って感じで……(笑)今回を
読んで頂ければわかると思いますが、その分、柳川は落ち着き気味です。

 シュガーベイブ Foolさん
 これは面白いですねえ。
 畳みかけるような小さなギャグ部分がよかったです。
 橋本って硬派だったのか……(笑)

 はい、今回はこんなもんですね。
 そんでは。