鬼狼伝(17) 投稿者:vlad
 月島拓也は門を潜った。
 なかなか大きな家だ。庭も広い。
 その庭の隅に、広さ六畳ほどのプレハブが建っている。
 話に聞くと、物置に使っていたプレハブをこの家の息子が自分の部屋にしてもらって
いるのだという。
 拓也はそのプレハブの前に立った。
 話し声が聞こえる。
 拓也は、無造作にドアを叩いた。
 しばらくして、声がした。
「誰だよ?」
 警戒が色濃く浮き出た声だ。
「月島拓也だ」
「は?……」
 拓也はノブを回した。鍵は閉まっていないようだ。
 思い切り引いた。
 引いたドアに貼り付くようにして男が転がり出てきた。拓也は、その男の襟を掴むと
その体を屋内に戻し、自らも中に入った。
「な、なんだ。お前!」
 その男とは別に二人、中にいた。
 拓也が襟を掴んでいる男はゆったりとした普段着を身につけ、後の二人は制服を着て
いる。
 拓也が着ているものと全く同じものだ。
 男たちの間に小声が飛び交う。
「前の生徒会長じゃねえのか?」
「ほら、うちのクラスの月島の兄貴だよ」
「あ、そうか」
 理解の後には、新たな疑問が生じた。
「前の生徒会長がなんの用です?」
 ここの家主らしい、普段着の男がいった。
「溝口くんだね」
 拓也がにっこりとした表情でいった。
「それから……河東くんに……伊月くん」
 やはり、にっこりとしていた。
「丁度いい……三人とも揃ってるじゃないか……」
 やはり、にっこりとしていた。
 だが、少し口の辺りの皮がめくれた。
 唇の端が吊り上がっている。
「な、なんの用だって聞いてんですよ!」
 溝口は叫んだ。だいぶ、拓也のことを気味悪がっている。その後ろで河東と伊月がな
にか耳打ちした。
「相手は一人だ。そんなにビビることはねえよ」
「そうそう」
 確かに、拓也は見た目はそれほど体格が良いというわけではない。背が高いには高い
が横幅はそれほどに無い。
 彼らが一対一ならともかく、三人いれば恐れるほどのものではないと値踏みしたのも
当然であった。
 拓也は、そんな彼らのヒソヒソ話を聞きながら、鼻を鳴らしていた。
 臭い。
「シンナーか」
 テーブルの上に、小瓶が置いてある。鼻をつく臭いはそこから来ていた。
「月島さんも吸いますぅ?」
 伊月が小瓶を指で摘んでいった。
「ここに来たのは他でもない」
 拓也は、それを無視していった。
「君たち、一昨日、僕の妹に何をしたか思い出してみるといい」
「一昨日?」
 三人とも、首を捻った。やがて、河東が呟いた。
「あのことじゃねえの?」
 一昨日、彼らは三人揃って帰ろうとしていた。今日のように、そのまま溝口の家に直
行しようとしていた。いつも両親の帰りが遅く、プレハブの部屋があるので、格好の溜
まり場になっているのだ。
 帰り道、一人で校門のところに立っている月島瑠璃子を見かけた。
 瑠璃子は彼らのクラスメートであった。
 けっこう綺麗な子だけど……ちょっと変なので遠慮したい。
 抱いている感情は、三人とも他の男子と大差無かった。
 いつもは挨拶もしないのだが、その日は、ある噂を聞いたばかりだった。
 どうやら、男ができたらしい。
「月島、男を待ってんのか?」
 河東がいった。
 瑠璃子は、微笑んでいる。
 透き通るように。
「男がいるってことはやることやってんだろ?」
 伊月がいった。
 瑠璃子は、微笑んでいる。
 透き通るように。
「いいねえ、おれたちもお願いしたいもんだねえ」
 溝口がいった。
 瑠璃子は、微笑んでいる。
 透き通るように。
「おい……」
 伊月が、白けた。というよりも、気後れしたような表情でいった。何をいっても透明
な微笑で返す瑠璃子に何をいっても無駄だと悟ったのだ。
「行こうぜ」
「ああ」
 他の二人も同感だった。
 そのことを、この瑠璃子の兄貴はいっているに違いない。確かに、それほど親しくな
い女の子に対して随分失礼だったかもしれないが、家にまで乗り込んでくるほどのこと
ではないように思える。
 しかし、最近、三人が瑠璃子と接触したのはその一件だけなのである。
 それ以外に考えられなかった。
 そのことをいうと、拓也は、
「その通りだよ」
 頷いた。
「あれは……ただの冗談のつもりで……」
 河東が憮然とした顔をしていった。
「君たちは冗談のつもりでも、相手がそう取らなかったら、それはもう冗談じゃ済まな
い」
 正論ではある。
 拓也は、その場にいた知人からその話を聞き、妹を問い詰めてみた。
「瑠璃子は……なんといっていたと思う」
 拓也の細い目が冷たい光を放つ。
「なんて……いってたんです?」

「お兄ちゃん、気にしないで……私も気にしてないから……」

「……」
「……」
「……」
 拓也が一歩前に出た。ただならぬ気配を察して三人の中では一番前にいる溝口が後退
しながら叫ぶ。
「だ、だったらいいじゃないですか!」
「僕が気にするんだよお!」
 後ずさる溝口を追って、拓也の右腕が伸びた。
 拳が正確に鼻を捉える。
 よろめきつつ、なんとか溝口は倒れずに持ちこたえた。鼻血が、顎にまで垂れた。
 その横を拓也が通り抜ける。
 横に突き出された肘が、溝口のこめかみを叩いた。
「ちょ、ちょっと待って……」
 そういった河東の口が閉じた。
 下方から、アッパーの掌底を顎に貰ったのだ。
 歯と歯が激しく打ち鳴らされて音がした。
 舌を挟んでいたらただでは済まなかっただろう。
 後方に倒れていく河東の左手を拓也の左手が掴んだ。
 引き戻し、引き落とす。
 と、同時に、拓也の右足が河東の左腕をまたぐ。
 次の瞬間、飛んだ。
 拓也の右足が河東の首を刈った。
 サンボの技である飛びつき十字固め。その足の勢いからいえば首刈り十字固めかもし
れない。
 二人揃って倒れた。
 河東が背中に感じた衝撃に呻く内に、それを遙かに上回る激痛が左腕を走った。
「ぃぃぃぃ!!」
 声が、噛み合わされた歯の隙間から漏れた。
「このっ!」
 もはや次は自分と悟ったのか、伊月が倒れた拓也に蹴りを放ってくる。
「ぃぃぃぃ!!」
 河東の絶叫が伊月の耳を打った。
 伊月の蹴りを河東の左腕で防いだ拓也が笑った。
 声を出さずに笑った。
 伊月の腹部に拓也の頭がぶち当たって来た。同時に両手で両足が刈られている。
 受け身を知らない伊月は、後頭部を打ってしまった。
 頭を振った伊月は、気付いた時には、拓也に上に乗られていた。
 テレビでやっていた格闘技の試合で見たことがある。
 マウントポジションとかいうやつだ。
 と、なると当然──。
 拳が、顔に降ってきた。
 降ってくる。
 鼻血が出た。
 まだ降ってくる。
 口の中がズタズタになった。
 止んだ。
 目を、薄く開いた。
「君……さっきなんていった?」
 拓也が笑っていた。
 糸のような細目が、自分の目を捉えていた。
「さっき……あのシンナーの入った瓶を持っていっただろう?」
 そういえば……いった。
「月島さんも吸いますぅ?」
 と。
「シンナーなんか吸ったら骨が弱くなるだろう?」
 拳が、降ってきた。
「毎日毎日、好きでもないにぼしを食べている僕の努力を無にする気かね? 君は」
「そんなこと……」
 首を横に振った。
 こめかみに、拳が降ってきた。
「冷たい牛乳を飲んだら胃を悪くするからわざわざ暖めて飲んでいる僕の努力を無にす
る気なのか? 君は」
 拳が、降ってきた。
「いや、その牛乳を温めてくれるのは瑠璃子だ。瑠璃子の僕に対する献身を無にする気
なのか? 君は!」
 拳が、降ってきた。
「ええ! どうなんだ! 無にする気なのか? そんな権利が君にあるのか! 無いだ
ろう! ええ!」
 拳が、降ってくる。
「無いです……無いです。そんな……つもりじゃ……なかったん……です……」
 伊月の顔が、親しい知人が見ても判別できぬほどに変形している。
 拓也は立ち上がった。
 その時、ドアが開いた。
 ドアを開けたのは、三人の中では一番軽傷の溝口だった。
「そうか……」
 拓也の表情に「何か」が蘇った。
 伊月に拳を打ち下ろすのを止めて立ち上がった時に消えていた「何か」が。
「君はまだいけそうじゃないか」
 溝口は、何もいわずに外に出た。
 拓也は悠然とその後を追う。
 足をもつれさせながら溝口が走って行くのを、拓也は背後から眺めながら追った。
 あんな調子ではすぐに転んでしまいそうだ。
 今の歩調で充分に追いつけるだろう。
 何かが、横切った。
 それに当たって、溝口がふっ飛ばされた。
 その何かは、ビクともせずにそこに立っている。
 岩の塊。
 一瞬だけ、拓也はそんなことを思った。
 あまりに、それが不動の姿勢を保っていたからだ。
 それは、人間だった。
 自分にぶつかって倒れた溝口を見下ろしている。
「た、助けて下さい!」
 溝口が這って、その人影の方に進んだ。足が動かぬのか、手を使って、匍匐して前進
した。
「……行け」
 その人影──どうやら声や体格からして男らしい──がぽつりといった。
 溝口はなんとか立ち上がり、逃げた。
 後ろを振り返ろうともしなかった。
「邪魔を……してくれましたね」
「一応、警察官なんでな……」
 男がいった。
 スーツ姿の背の高い男だ。年齢は二十代中盤といったところだろうか。
 眼鏡の向こうの目が、鋭い光を放っている。
 手に、菊の花束があった。

                                     続く

     どうもvladです。
     やっとこ17回目が終了いたしました。
     最後に登場した人物の正体は、まあ、瞬時にわかっていただけると
     思います。(笑)
       
 では、また……。