鬼狼伝(16) 投稿者:vlad
 エコーズは落ち着いた雰囲気の喫茶店であった。
 場所柄、芸能人などがよく訪れ、英二も常連らしい。
「緒方さんは、どうして昨日あそこにいたんですか?」
「英二でいいよ……知人に物凄く強そうな人がいてね……」
「はあ」
「その人が負けたっていうから、柏木耕一というのがどんな人間か興味があってね」
「はあ、なるほど」
 長瀬源四郎はいっていた。
 あれほどの男にようやく会えたのに、自分はもう老いてしまっている。と……。
「君は、どうするんだ? まあ、残念ながら負けてしまったわけだが」
「それなんスよ!」
 浩之はホットコーヒーに息を吹きかけるのを止めて叫ぶようにいった。
「今、色々考えてんですけどね」
「何を?」
「リベンジですよ、リベンジ!」
 喜色。
 浩之は楽しそうにいった。
 何か、吹っ切れたな……。
 英二は、復讐を口にしながら笑み崩れている顔を見て思った。
「こないだは立ち技でやって負けちまったから、次は寝技系も絡めて挑んでみるかと思
ってんですが」
 嬉しそうにいう。
 一皮むけた。と、英二は思う。
 この藤田浩之という男は勝ち続けている内は大した格闘家ではないのかもしれない。
 長瀬源四郎はいった。
 自分がもう少し若ければ……自分に全盛時の肉体があったら……もっといい勝負がで
きただろうに……。
 若さとは、可能性であると英二は思う。
 数年前、プロデューサー業に転向した。そして成功した。
 今や緒方英二といえば、ミュージシャンというよりもアイドルのプロデューサーだ。
しかし、英二とて必ずその転向が成功するとは思っていなかった。
 周りから聞こえてくるのは好意的ではない声の方が多かった。
 それを跳ね返したのは、自分の若さであると英二は思う。
 あの時、年齢が十歳違っていたら、周りの声に負けていたかもしれない。
「とにかく、足掻いてみますよ、例え悪あがきでもね」
 浩之はいった。
 声にも、表情にも、若さがあった。
「あ、もうこんな時間か」
 あかりが、自分の家に来る前に帰宅するのにギリギリの時刻だ。
 二人は店を出た。会計はまたまた英二が支払ってくれた。
「どうも、ごちそうさまでした」
「うん」
「しかし……あの緒方英二とこういった話をするとは思いませんでした」
「はは、そうかね、まあ、再戦の時は呼んでくれ」
「色々ありがとうござました」

 家の前でスーパーの袋を持っているあかりに会った。
「おう、ギリギリ間に合ったな」
「浩之ちゃん、どこかに行ってたの?」
「まあな」
 緒方英二と茶を飲んできた。といったら驚くだろうか。
「えっとね、今日はね、ビーフシチューを作ろうと思うんだけど」
「そうか」
「えっとね、前に作った時、浩之ちゃん、すごくおいしいっていってくれたから」
 そういえば、そんなような記憶がある。もっとも、浩之はあかりの料理をおいしいと
思わなかったことは無いが。
 台所で立ち働くあかりの後ろ姿を、浩之は応接間のソファーに寝転がりながら見てい
た。
 ここ最近、あかりがエプロンを着ているところを見たことがなかった。自分は格闘技
に熱中していてあまり気にしていなかったがいかにあかりとの時間を減らしていたかが
わかる。
 一人暮らしで料理などほとんどできない浩之は以前からよくあかりに夕食を作りに来
てもらっていた。それが最近は無くなっていた。
 久しぶりだな、この感じは……。
 ソファーの上から、あかりの後ろ姿を見る。
 包丁とまな板が接触して音を立てている。
 その音を、全身をソファーに横たえたうっとりとした状態で聞いている。
 まるで何かの音楽かのように耳に心地よかった。
 こういう一時を自分は手放していたのか……。
 その代わりに得るものはあった。
 強さだ。
 ここ数ヶ月で自分は見違えるように強くなった。今ならば葵のスパーリングパートナ
ーも充分つとまるだろう。
 だが、その代わりに失うところだったのかもしれない。
「あかりちゃんが、浩之に嫌われているのかもしれないと心配していたよ」
 雅史がそういっていた。
 格闘技を本格的に始めるだけならば、そのことをあかりに話しておいても良かった。
元々、あかりは自分が葵の同好会に顔を出していたことを知っている。
 だが、浩之がやろうとしているのは危険極まりない「野試合」であった。
 あかりが心配するだろうと思い、伏せておいた。
 それで、あかりのことを気遣ったつもりだった。
 結局、あかりを心配させてしまった。
「浩之ちゃん、もうすぐできるからね」
 台所の方から弾むような声がする。
 あいつ……嬉しそうだなあ。
 おれの世話やくのが半ば趣味になっちまってるような奴だからなあ。
「ああ、食器出しとくよ」
 浩之はソファーから立ち上がった。
 あかりの料理は相変わらず上々の出来だった。いや、相変わらずどころかまた腕が上
達したように思える。
 浩之は頻りに「うまいうまい」を連発しながら食った。このところ、味より栄養分を
優先した食事ばかりだったので余計にそう感じられた。
「ごちそうさん」
「おいしかった?」
「ああ」
 嬉しそうに笑いやがる。
 さて……どっから話したものか。
「あかり……」
 名を呼んだものの、続けて言葉が出てこない。
「なあに? 浩之ちゃん」
「その……ここのところ、すまなかったな」
「え?」
 違う違う、いきなりそんなこといったって駄目だろ。
「ほら、最近、あんまり会ってなかっただろ」
「あ……うん」
 あかりは頷いて、その顔を完全には上げずに上目遣いで浩之を見た。
「ええっと……飯作りに来てもらったのも随分久しぶりだよな」
「うん……私、もしかしたら浩之ちゃんに嫌われちゃったかと思ってた……」
 泣きそうな顔で、すがるようにいいやがる。
 おれを見つめてる。
 なんか、ドキドキしてくるだろうが。
 切り出せ。
「そうじゃない、ここのところ、ちょっと用事があったんだ」
「そうなの?」
「ああ、おれはお前のこと好きだ。嫌いになんかならねえよ」
 あかりがもたれ掛かってきた。
 泣いてやがる。
 その泣き顔は、おれの左腕に隠れて見えない。
 あかりが、泣きっ面をおれの腕に押し付けているからだ。
 いい女だよ、こいつは。
 そんな女と、おれは十数年も一緒にいたのか。
 なんだ。おれって自分で思ってるよりずっと幸せな人間だったんだな。
 左腕が、暖かい。
 まだ泣いてる。
 こいつがこんなに泣いてるの見るの久しぶりだな。
 昔はよく泣かしてたからこいつの泣き顔なんて見馴れてたんだけどなあ。
 いい加減、泣き止めよ、あかり。

「格闘技?」
 首を傾げるあかりの前で、浩之は上着を脱いでシャツ一枚になった。
「どうだ? 体つきが前とは違うだろ」
「うん……」
 あかりは恐る恐る浩之の腕に触れた。
 以前よりも明らかに固い、そして一回り太い。
「松原さんの同好会が無くなってから止めちゃったのかと思ってた」
「そっか」
「あの……浩之ちゃん?」
「おう」
「格闘技って……空手部の人たちに仕返しするため?……」
 そういえば、そういうこともあった。
「違うよ」
 そんな小さなことじゃない。
 もっとでっかいことだ。
 でも……。
「そうか……あいつら使えるな……」
 浩之は小さく呟いた。
「浩之ちゃん」
「ん、ああ、なんだ」
「気をつけてね……」
「ああ」
 止められるのではないか、と思っていた浩之は、やや拍子抜けして頷いた。しかし、
よく考えてみればあかりは浩之がやろうとすることに表立って苦言を呈したことは一度
も無い。
「近々、ある男と闘おうと思ってる」
「どんな人?」
「けっこう危ない奴らしい、下手すっと骨の一本や二本は折られるだろうな」
「……」
「腕折られたら、お前が飯を食わせてくれ」
「なんていう……人なの?……」
「月島拓也って奴だ」

 その月島拓也。
 浩之が自宅の居間であかりと深刻な表情を突き合わせていた時、道路を歩いていた。
 通っている高校からはそれほど遠くない場所だ。
 手に、一枚の紙片がある。
 便箋か何かに地図を書き付けたものだ。
 時々、それに細い視線をやりながら、月島拓也は歩いていた。

                                     続く

     どうもvladです。
     第16回目と相成りました。
     次回からまた殴ったり蹴ったり関節取ったりする話になりそうです。