鬼狼伝(15) 投稿者:vlad
 緒方英二に取り次いでくれ、という浩之の言葉に、長い髪で右目を隠している美人が
返したのは沈黙であった。
 冷たい沈黙。
 と、浩之は一瞬思った。
 その女の表情や振る舞いに冷然としたものを感じたからだ。
「お取り次ぎはいたしかねます」
 そんな表情のままいった。
 冷たい。
 と、いうわけではなさそうだと浩之は思い直した。
 冷たい。
 と、いうより、手も足も出ない。という感じがする。
 とにかく、そそり立つ鉄壁を思わせる人だ。
 しかし、浩之も浩之でそう簡単に引き下がらない。むしろ、他人よりもしつこいタチ
である。
「そこんとこ頼みますよ」
「駄目だと申し上げました」
「弥生さん」
 と、森川由綺が女に声をかけた。
 それにより浩之は彼女の名前を知った。
「理由ぐらいは聞いて上げてもいいんじゃないですか?」
 おお、優しいお言葉。
 イメージ通りだ。
 アイドルなんて実際は性格悪ぃんじゃねえか、おう? とか、偏見を持っていたのは
間違いであった。森川由綺に限ってそのようなことは無いと浩之は断言できる。
「それもそうですね」
 あんたもなかなか話がわかる!
「で……何の用でしょうか?」
「え?」
「だから、理由です」
「な、なんとなく」
「お引き取り願います」
 いい終えない内に、弥生は身を翻した。
「ちょ、ちょっと待って下さい! 今のは冗談ですってば!」
 浩之はそういってから理由を考え始めた。
 昨日。浩之は柏木耕一と勝負をした。
 その後に耕一とその場にいた緒方英二に運び込まれた病院で浩之は検査を受け、特に
後遺症の残るような怪我をしていないことがわかったのだが、浩之はしばらく気を失っ
ていて、気がついた時には耕一しかそこにはいなかった。
 浩之は、その耕一から緒方英二の名刺を貰ったのである。
「渡しておいてくれってさ、なんかおれも名刺貰ったよ」
 耕一はそういって、緒方英二の名刺を眺めていた。
 それで、名刺にあった緒方プロダクションの住所を見て、なんとなくここにやってき
たのである。
「治療費、英二さんが払ってくれたよ」
 とも、耕一はいっていた。
 そうだ。これだ!
「ええっと、昨日、緒方さんに大変お世話になりまして、是非ともその御礼をいいたく
参上いたしました」
 浩之は、辿々しくいった。
「……」
 弥生が、探るように視線を注いでくる。
「……」
 浩之は探られるままに突っ立っていた。
「頼みますよ」
 それに弥生が何かいう前に、
「二人ともこんなとこにいたの?」
 由綺の背後に、いつのまにか緒方英二が立っていた。
「弥生さん、話があるって?」
 英二は弥生にそういってから、彼に気付いた。
「ども」
 と、彼は頭を下げた。
「ん? ……藤田くんだったかな?」
「そうです。藤田浩之です」
「早速来てくれたかね……藤田くん」
「どうも、昨日はお世話に……」
「ま、なんか飲みながら話そうか……あ、弥生さん、おれはこの青年と話があるんで」
「あの……」
「エコーズにいるから、なんかあったら電話ちょうだい」
 英二はそういうと、浩之の肩を叩いた。
「行こうか」
「はあ……」
 エレベーターが最上階で停止しているのを見て、どちらがいうともなしに二人は階段
を使って下りた。
「由綺さんは中に入っていて下さい」
 そんな声が後ろから聞こえた。
 それに続いてハイヒールが踏み鳴らす独特の甲高い音が近付いてきた。
「待って下さい」
「ん? どしたの、弥生さん」
「お話があります」
「……ああ、はいはい、そんなこといってたね」
 英二はほんの少し前に「話があるって?」と、いいつつ登場した人間とは思えぬよう
な表情で振り返った。
 三人は、三階と二階の間の踊り場で立ち止まった。
「おれ、外しますか?」
 浩之がそういって階段を下りる素振りを見せる。
「弥生さん」
「……第三者が聞いても特に差し支えはないかと……」
「ああ、そう」
「一応、お耳に入れておこうと思いまして」
 弥生は、もはや浩之などそこにいないかのように英二に話しかける。
「なんだい?」
「由綺さんにあまりタチのよくないファンがいるようでして……」
「タチのよくないファン?」
「はい、ここ数日、私たちを尾行しています。おそらく、由綺さんの住所を突き止めよ
うとしているのではないかと……」
 押し黙って聞き耳を立てていた浩之は、この場に志保がいたら狂喜乱舞するだろうな
あ、と思っていた。
 しかし、それにしても、やはり森川由綺ぐらいのアイドルになるとストーカー紛いの
ファンがついてしまうらしい。
「大体、テレビ局の前で待ち伏せているんです」
「ほうほう、ま、アイドルの宿命ってやつだなあ……特に何をしてくるというのはない
んだね」
「はい、今のところは上手くまいていますから由綺さんの住所も知られてはいません」
「その調子で頼むよ、直に手出しをしてくるようだったらすぐに警察に連絡してしょっ
ぴいてもらっちゃって」
「はい……」
 と、答えた弥生の表情が驚いたものに変わった。短い接触時間ながら弥生という女性
が容易にそのような表情を見せる人ではないということを知っている浩之はすかさずそ
の視線の先を追った。
 男が、階段を上がってくる。
 特になんてことない、二十代中盤ぐらいの男だが、ただ、首からカメラをぶら下げて
いるのが少々不気味といえば不気味だ。
 男は、浩之を一瞥しただけで後は相手にせずに英二を見た。が、その視線もすぐに外
して弥生にと向ける。
「マネージャーさんですよね」
 弥生をそう呼ぶことから、その男の目的に森川由綺が大きく関わっていることが知れ
た。
 浩之は自分を無視した男の背後で、努めて表情と気配を殺していた。一目見るとただ
直立しているだけのように見えるが、ポケットに入れていた両手を出してそれをやや上
げている。
「由綺ちゃんは上にいるんですか?」
 やたらと、馴れ馴れしい態度で男は弥生に話しかけた。一瞬だけ、仕事の関係者かと
思ったほどだ。
 だが、弥生の表情は、浩之に対するよりも冷然としている。
「なんの用ですか?」
 その声も、ゾクゾクしてくるほどに低く冷たい。
「プレゼントを持ってきたんですよ」
 男は、包装され、可愛らしくリボンで飾り立てられた箱を持っていた。
「わかりました。私の方から由綺さんに渡しておきます」
 こりゃ、チェックして中身によっちゃあゴミ箱直行だな。
 浩之はそんなことを思いながら男と、弥生を見ていた。
「直接手渡したいんですけど」
 男は不機嫌そうな顔になっていった。弥生はやはり冷然とした態度で答えた。
「由綺さんはただいま手が放せません」
「いいじゃないですか、ちょっとくらい」
 男は笑った。
 あまり感じのいい笑みでは無かった。
「どいて下さいよ、由綺ちゃん、事務所にいるんでしょ?」
 とん、と、軽くだが男は弥生を押し退けるためにその肩を押した。
「野郎っ……」
 低く呟いて浩之が前に出ようとするのを英二が押し止めた。
「おれに任せて下さい。あの生き物、捨ててきますよ」
 見るからに獰猛な気配を四方八方に放つ浩之に睨み付けられて男は後ずさった。
「この場は弥生さんに任せておいて大丈夫だよ」
「そうです」
 弥生がいった。
 いつの間にかまた男の前に移動している。
「由綺さんを守ることも私の仕事に含まれていますから」
 男はその間、何をしていいのかわからぬ様子であったが、やがて、目の前の弥生に焼
けるような視線を向けた。
「どいて下さいよ」
「お引き取り下さい」
「この!」
 押した。
 先程よりも強く。
 弥生が大きく後方によろめき、左足の踵が階段に当たった。
「この野郎!」
 浩之が前に出るのを、また英二が止めた。
 おれが叩き潰してやりますよ、あんな奴!
 そう、叫ぼうとした。
 叫ぼうとして、浩之は口を開けた。
 開いた口は、言葉を出すことなく息を吸った。
 弥生を押した──というより突き飛ばした男はよろめいた弥生の横を抜けて階段に足
をかけようとしていた。
 弥生の右足が浮き、上半身が僅かに下がる。
 一瞬。
 一撃。
 見事なハイキックだった。
「すげえ……」
 呟いた浩之に男がもたれかかってきた。
 それを無造作に受け止めて、
「すげえ……」
 もう一度いった。
 男は鼻血を顎にまで垂らして呻いていた。鼻っ柱を蹴られたらしい。
「弥生さん、もしかして彼かい? 例のファンは」
「はい」
 英二の問いに弥生は頷いた。
「すみません、つい体が自然に……」
「いやいや、いいっていいって、これからもその調子で頼むよ」
 頭を下げた弥生に、英二は悠々と答えた。あまり気にはしていないようだ。
「ファンになんてことするんだ!」
 男は叫んだ。
 女を突き飛ばしておいて今更それか……。
 男を後ろから抱き留める形になっている浩之は元々あまり耐久力の無い忍耐に亀裂が
入ったのを実感していた。
 次になんというかは大体想像がつく。
 おそらく、自分が完全無欠な被害者だ。というような顔をしていうだろう。
 それをいったら「行こう」と、浩之は思った。
「う、訴えてやるからな!」
 言った。
 行った。
「調子に乗んなよ! てめえ!」
 掌を思い切り男の顔に押し付ける。ダメージの無い状態ならばなんということはない
のだろうが、男はつい先程、鼻に強烈なのを貰っている。
「てめえ、そんなことしてみやがれ、鼻の穴に指突っ込んで引きずり回すぞ!」
 浩之の指に力が籠もった。
「中指と薬指を第二関節まで入れて引きずり回すとよ、その内鼻がもげちまうんだよ」
 浩之が男を離した。
 男は、英二も弥生も見ていなかった。
 かといって、浩之を見ているわけでもない。
「消えな」
 浩之がいいながら腕を振った。
 握り拳に血管が浮いている。
「消えろよ」
 もう一度腕を振った。
 次はぶん殴るつもりであったが、男は転げ落ちるような勢いで階段を下りていった。
「ありがとう、藤田くん」
「いえいえ、あの野郎、マジで訴えなんか起こしやがったら呼んで下さい。引きずり回
してやりますから」
 浩之はどこまで本気かわからぬが胸を張って請け負った。
  弥生が床に落ちている由綺へのプレゼントを拾い上げた。
 あれは……ゴミ箱行きだな……。
 浩之はそんなことを思いながら、英二に促されて階段を下り始めた。
「ありがとうございました」
 背後でそんな声がした後、甲高い足音が遠ざかっていった。
                                     続く

     どうもvladです。
     いよいよ15回目となりました。
     今回書きたかったのは──。
     弥生さんのハイキック。
     これに尽きます。本当にそれだけのために書いた回であるといえま
     す。その気になったらこの回は無くしても充分に前後の繋がりがつ
     きます。
     まあ……見逃してやって下さい。