鬼狼伝(14) 投稿者:vlad
「なんですってえ!?」
 月曜の昼休み、長岡志保が屋上で咆哮した。
 寒い屋上で昼食などいやだったのだが、あかりが話がある、といって屋上に志保を誘
ったのだ。
 この時期、寒空の元に好んで身をさらす生徒などそうそういないから屋上には人影は
少ない、と、いうか、皆無である。
 人に聞かれたくない話ね。
 と、志保は即座に察した。
 と、いうわけで、二人は屋上に来ていた。
「志保、お昼ご飯まだでしょ」
 あかりがそういって弁当を広げ、志保に、どこかで見たことのあるような弁当箱を差
し出した。
 それを受け取ってじっと見てみる。
 以前、ある知人がこれに顔を押し付けるようにして中身を口中に掻き込んでいたのを
目撃して、食べ方が下品だと苦言を呈したことがある。
 どうりで見覚えがあるはずだ。
「あかり、ヒロと一緒に食べるつもりだったんでしょ?」
 あかりは一瞬、困ったような顔をして、頷いた。
「うん、でも……浩之ちゃん、今日は食欲無いっていうから……」
 そこで、冒頭部の咆哮が炸裂するのである。
「なんですってえ!?」
 志保は我がことのように怒った。これはいつものことで、浩之があかりと付き合い始
めてからというもの、浩之があかりにひどいことをしている、と思った途端に志保は激
怒するのである。あかりはそれを志保の友情によるものだと思っていたが。実際には、
もっと入り組んだ感情が志保にはある。
 とにかく、志保はこの場合も怒った。
「あの馬鹿! せっかくあかりが作ってきたんだから吐いてでも食べりゃいいのよ!」
 志保は叫ぶや否や、浩之専用の弁当箱を顔に押し付けるようにして凄まじい速さで飯
を掻き込んだ。
「ごちそうさん!」
 僅か三分後、叩き付けるように弁当箱を置き、跳ね上がるように立った。

 浩之は、雅史と一緒に中庭にいた。
 今、昨日のことを雅史に話し終えたところである。
「それじゃあ……その耕一さんに……」
「おう」
 浩之は努めて無表情を装っているように見えた。
「食欲が無いっていうのは……」
「昨日、自棄食いした」
「そう……」
 浩之は、不機嫌そうに沈黙していたが、やがて雅史を真っ正面から見据えた。
 にっ、と笑った。……ように見えた。
 しかし、浩之は笑ったのではなく、雅史に歯を見せようとして唇を動かしたのだ。そ
の証拠に、目は笑っていない。
「それは……」
 歯並びの良かった浩之の前歯に、黒い穴が空いていた。上の、中心から見て右に三つ
ほど行ったところの歯がすっぽりと無くなっている。
「ぶん殴られた時に、折れちまったみてえなんだよな」
 そういって、浩之はポケットからティッシュの塊を取り出して開いた。
 中には、歯が一つあった。
「今度、差し歯作ってもらわねえとな」
 浩之は自虐的な嘲笑を洩らすと、改めて雅史の目を見た。
「これ、あの人が拾っておいてくれたんだよ」
 ほら、拾っておいたぞ、これ。
 そういって耕一に折れた自分の歯を渡された時、浩之は、
「なんていい人なんだろう……って思っちまったよ」
 浩之の表情が引きつるように歪んだのを、雅史は心配そうに見ていた。
「笑っちまうぜ、自分のことぶん殴って蹴っ飛ばした奴に歯を拾ってもらって感謝して
んだぜ」
「浩之……」
 雅史は穏やかに友人の名を呼んだ。
 穏やかだが、強い意志を秘めた声。
「それは、素直な感情の動きだよ。恥ずかしがることはないよ」
「……」
「浩之は、その耕一さんと闘って……耕一さんを憎んだの?」
「いや……」
「浩之は、耕一さんと闘って……後悔したの?」
「いや……」
 むしろ、尊敬に値する人物であると思った。
「だったらさ……」
「いや……わかっちゃいるんだ。たぶん……」
 浩之はゆっくりと首を振った。
 自分は、わかっているはずだ。
 あの闘いが、かつてないほどに充実したものであり、心身をともに躍動させる素晴ら
しい闘いであったこと、そして、尊敬すべき敵手を──。
 自分は、わかっているはずだ。
「余計な手間をかけさせたな、雅史」
 浩之の表情に余裕が戻っていた。
 どことなく不適で、見る人によってはあまりよい印象を持たないようなその表情が、
浩之の一番「いい顔」なのだと雅史は思っていた。
「お前には甘えちまうなあ……」
「あかりちゃんに甘えたらいいのに」
「なに?」
 浩之は、表情から余裕を無くして、弾かれたように雅史の方に向き直った。
「あかりちゃんに甘えたらいいんだよ」
 自分が何をしているのか、そろそろあかりに話してしまえ、と雅史はいっているのだ。
「ああ、そうだな」
 浩之の目に、柔らかい光が宿った。
「あかりに……甘えてみるか……」
 雅史が笑った。
 少しだけ寂しそうに、そして、とても嬉しそうに──。
「あ、浩之」
 雅史が、浩之の方を指差した。
 その指が、肩越しに自分の後ろを指し示しているのだと悟って、浩之は振り返った。
「ヒィィィィロォォォォォォ!!」
 軽やかに舞い上がった。
 跳躍距離は、縦に約1.7メートル。横に約3メートル。
 相手が余程の長身でなければ頭部を強襲するのに十分な高さを有し。
 頭部に命中すれば大ダメージを与えうる助走と横の飛距離を有している。
 走り込んでの跳び蹴り。
 いわゆる志保ちゃんキック。
「喰らうかよ!」
 浩之は白い太股と靴の裏を視界に認めた刹那、両腕を跳ね上げて十字に組んだ。
 その交差点に足刀が激突した時、十字を形作った腕は寸分も動かず、逆に足刀の方が
弾かれた。
 ちぃっ。
 舌打ちを洩らしながら、着地する。
「なにしやがんだ。志保!」
 浩之は、腕についた汚れを払い落としつつ、目の前で舌打ちしている志保に怒声を叩
き付けた。
「あんた、どういうつもりよお!」
「何が? それよりお前、黒い下着は止めろ」
「み、見たわねえっ!」
「見えるわい」
 志保ちゃんキックの欠点は、丈の短い制服のスカート着用時にやると、ほぼ間違いな
く下着が露出することである。
「なんの用だよ?」
 浩之が見るからに面倒臭そうに尋ねた。
「あんた! あかりがせっかく作ってきてくれたお昼ご飯をいらないっていったそうじ
ゃない!」
「……その話か……」
 浩之はバツが悪そうに、真っ直ぐに自分を睨み付ける志保の視線から逃れるように横
を向いた。
「今日は、食欲がねえんだよ」
 そっぽを向いたままいった。
「だったら吐いてでも食べなさい! あかりがあんたのために作ってきたんだから!」
「なんだとぉ……」
 と、低く呟いた浩之が、不意に、
「ああ……」
 と、声を洩らした。
「そうだな……」
 不意に、浩之は納得してしまった。
 志保のいう通りだ。
 あかりが自分のために作ってきてくれた弁当なのだから、吐いてでも食べるべきなの
かもしれない。
 本気でそう思った。
「お前のいう通りかもな」
 浩之は、志保と視線を合わせていった。
「無理矢理にでも食うべきだな……せっかくあかりが作ってきてくれたんだから」
 ありがたい連中だ。
 浩之は雅史と志保を見ながら思った。
 でも、もちろん口には出さない。
「……ま、わかればいいけどさ」
 志保は、妙に物分かりのいい浩之にやや戸惑いつつも腰に手を当てて、大仰に頷きな
がらいった。
「よし、じゃ、あかりんとこ行ってくる」
「あんたのお弁当もう無いわよ」
「なんで?」
「あたしが食べちゃった」
「なんだとぉ!」
 浩之が叫んだ時、校舎の廊下を早足で歩いているあかりが見えた。
「おーい、あかり」
 浩之が呼ぶと、あかりはキョロキョロと辺りを見回し、やがて浩之たちを見付けて中
庭にやってきた。
「浩之ちゃん」
「おう」
「志保……」
「なによ」
「二人とも……なんともないの?」
 あかりは、心配そうにいった。
「なんともねえよ」
「なんともないわよ」
「そう……よかった……」
 安心しきった笑顔になったあかりは、浩之からの視線を感じた。
 じいっと浩之は、あかりを見つめていた。
「あかり、今晩、飯作りにきてくれないか?」
 いつになく、真面目な顔をしていた。
 普段、どのような緊迫した場面でも、努めてそれを表情に出さないようなところが浩
之にはあった。
 だから、浩之のこんな顔はあかりもそうそう見たことはない。
「うん」
 あかりは、ただそういって頷いた。
「六時頃来てくれや……そん時、全部話すから」
「え?」
「とにかく、頼むわ」

 放課後、浩之は学校から家に直接帰らずに寄り道をした。
「ここか」
 独語して立ち止まった浩之の手中に一枚の名刺があった。

 緒方プロダクション代表取締役 緒方英二

 と、あり、その後にプロダクション本社の住所と電話番号が記されている。浩之はそ
れを頼りにここまでやってきたのである。
 緒方プロダクションはテレビ局から近いとあるビルの3Fに入っていた。ガラス張り
の自動ドア越しに中が見える。
 何人かの人間が忙しそうに電話応対をしたり、書類に目を通したりしている。
「勝手に入って……いいのかな?」
 浩之がさすがに入り口の直前でどうしたものか考えていると、
「兄さんも、暇ができたからってフラフラしてちゃ駄目よ」
 張りのある女性の声がして、そのすぐ後に自動ドアが左右に開いた。
「えっと、次はどこだっけ?」
 浩之とそう年齢は変わらないと思われる少女が、後ろに付き従うように付き添ってい
る細身の男に声をかけながら、端に寄った浩之の目の前を通り過ぎた。
 甘い臭いがふわりとした感触で鼻腔をくすぐる。
「ほ、本物の緒方理奈だ……」
 浩之は悠然と去っていった理奈がエレベーターに乗り、その扉が閉まるまで、ぼんや
りとした顔と目で、その姿を追っていた。
「何か御用ですか?」
 ぼうっとして、顔全体の霧がかかっていたような浩之に誰かが声をかけた。
 浩之は薄目になっていた目を開いて、声の元の方を向いた。緒方プロダクションの事
務員か何かだと思ったのだが、
「どなたでしょうか?」
 ほ、本物の森川由綺だ……。
「ふ、藤田浩之といいます!」
 踵と踵を打ち合わせるように浩之は「気をつけ」の体勢になった。
「ええっと、緒方英二さんに会いたいんですが」
 と、いいながら、英二の名刺を取り出そうとポケットに手を入れた時、三人目の女性
の声がやってきた。
「由綺さん……一人で外に出てはいけません」
 知らない人だ。
 だが、美人である。
 年齢は二十代後半に見える……三十路は越えてはいまい、と浩之は踏んだ。
「どなたですか?」
 森川由綺と浩之の間に立ちはだかるようにその女性はさりげなく移動していた。いつ
の間にやら浩之の視界から由綺の顔が消えている。
「英二さんに会いたいそうですよ」
 ひょこっ、と顔を出した由綺が耳打ちした。
「藤田浩之っていっていただければたぶんわかります」
 浩之は、ようやくナマで芸能人を見た、という衝撃から立ち直って落ち着いていた。
一度落ち着くと、そこまで落ち着くか? と、いうほどに落ち着く男である。
「取り次いでいただけませんか?」

                                    続く 

     どうもvladです。
     14回目を数えました。
     数回、あんまり動きの無い回が続くと思います。