鬼狼伝(11) 投稿者:vlad
 日曜の午後。
 英二はその道場の前に立っていた。
 古い建物だ。
 幾重もの年輪を感じさせる。
「こんにちわ」
 そういって道場に入った英二は、逆さの顔と対面した。
「なんですか?」
 と、両手の親指と人差し指の計四本の指を床につけ、足を天に向かって突き上げてい
る青年がいった。
「あれ?」
 と、いいながら、そのまま腕を動かして近付いてくる。
「えっと……ミュージシャンの緒方英二さんじゃないですか?」
「はい」
 青年は両手を肩の辺りまで上げ、瞬間、くるりと軽やかに一転して着地した。
「その緒方英二さんがこんなところになんの用ですか?」
「柏木耕一というのは……」
「おれですけど……」
 青年──柏木耕一は不思議そうにいった。
「なんの用でしょう?」
 耕一はただの一介の大学生である。別に芸能界に知り合いはいない。あの緒方英二が
訪ねてくるような心当たりは皆無であった。
「いえ、少し練習を見せてもらいたいと思いまして」
「は? 格闘技に興味おありですか?」
「見るだけだけどね」
「はあ……」
 耕一は納得がいかぬように首を傾げた。俳優かなにかがよく格闘技をやるという話は
聞いたことがあるが……。
「ええっと……お仕事の一環なんですか?」
「いえ、完全な趣味」
「はあ……」
「上がっていいかな?」
「あ、どうぞ」
 と、耕一は英二を招き入れた。今日は、師匠の伍津双英が出かけてしまっていないの
で大丈夫だろう。なにしろ、あの師匠は、
「ここに入っていいのは、伍津流を学ぶ者か、伍津流と闘う者しかいない」
 などといって、ちょっと見学を、などという人間は速やかに追い返してしまう。
 耕一はその点、甘いのか、器量がでかいのか、あまりこだわらない。
「今日はおれ一人で練習しますんで……見ててもあまり面白くないと思いますよ」
 などと、せっかく見学に来た英二のことを気遣った。
「いえ、大丈夫です」
 英二は道場の隅に正座した。
「それでは……」
 耕一は英二に向かって一礼して、柔軟運動を始めた。
「誰かいるかい?」
 と、入り口のところで声がしたのはその時であった。
「ん?」
 妙に来客の多い日だ。と、思いつつ耕一は入り口の方に視線をやった。
「邪魔するぜ」
 その男は、入っていいともいっていないのに、靴を脱いで上がり込んできた。耕一だ
けだから少しムッとするだけで済んだが、師匠がいたら、
「耕一、やれ」
 と、命令が下るか、師匠自らが奇声を発して飛び掛かっていただろう。
「なんだよ」
 傍若無人な振る舞いに、かなり気分を害され、さらにその男が自分と同年齢のような
ので、耕一はぞんざいな口調でいった。
 その男は、スマートな耕一よりもやや広い肩幅と長身の耕一とほぼ同程度の身長を有
していた。
 一回り、とはいわないが、半回りぐらい耕一よりも大きな体格をしている。
 眼光は鋭く、常に前方を射抜いている感じで、決して温和そうには見えない。
「おれは佐原(さわら)って者だがよ」
 聞いたことの無い名前である。
「知らないな……先生の知り合いか?」
「知らないのは当然さ……先生もたぶん、おれのことは知らないよ」
「入門か?」
 佐原は、首を横に振った。
 と、なると……思い当たるのは一つ。
「道場破りだよ」
「へえ」
 耕一は困ったような顔で頭を掻いた。
「なんだってここに来るかなあ……看板も出してないのに」
 ブツブツと呟いてから、佐原に向かっていった。
「ここからちょっと行ったところにさ、おれの兄弟子の熊木って人が開いてる伍津流の
道場があるから、そっちに行ってくれ」
 なんだったら地図を……と、いいかける耕一を、片手を上げて制して、佐原はいった。
「おれはここに道場破りに来たんだぜ」
 口調にも物腰にも、挑戦的な態度がありありと表れている。
「表に出してねえっていっても、看板はあるんだろ」
 耕一の表情から、笑みが消えた。
「そいつを賭けて、やろうじゃねえか」
 自分の目の前に突き出された握り拳を、耕一は別に気負うこともなく見つめた。
 拳に、タコができている。
 道場破りになどやってくるのだから、心得はあるようだ。
「経験は?」
「柔道二段……だけど……キックボクシングのジムにも通ってるからな……こっちの方
も」
 と、佐原は右のストレートと右のローキックを立て続けに軽く放った。
「けっこうなもんだぜ」
 耕一は、無言で佐原の目を見ている。
「やるのか? やらねえのか?」
 佐原は、また握り拳を突き出した。
「やらねえなら、不戦勝ってことで、看板を持って帰らせてもらうぜ」
 耕一が、笑った。
「何を笑って──」
 やがる。と、続けようとして佐原は声を吐くよりも息を飲み込んだ。
「やめときなよ」
 耕一の笑みは、一瞬だけ凍土のごとき冷たさを閃かせたのみで、氷解した。
 にっこりと笑っている。
「おれがその気だったら今ので終わりだ」
 耕一の右拳に、佐原の息が当たっていた。
 ただの握り拳ではなく、親指を握り込んで、中指だけを突き出し爪を親指に引っかけ
るようにしている。
 その中指が、佐原の唇と鼻の間を狙って一直線に伸びている。
 寸前──ほんの数ミリ前で拳は停止していた。
 上唇と鼻の間には、人中と呼ばれる人体上の急所が存在する。
 耕一が「その気」で打ち抜けば、今頃、佐原はただでは済まなかっただろう。
「やめときなよ」
 もう一度、耕一はいった。
 佐原は、チラリと道場の隅に正座して一連の成り行きを見守っている英二を見た。
 英二は細い目をして佐原の目を見返した。
 微かに、英二の肩が揺れた。
 溜め息をついたように、佐原には見えた。
 耕一が右腕を引いた。
 もはやその体からは、闘気は感じられない。
 入れ代わるように、佐原の右腕がしなり、右拳が走った。
 当たった。──はずであった。
 目の前に、耕一の顔があった。
 耕一が佐原の拳を横にかわしつつ、互いの顔が密着するほどに前に出たのである。
 攻撃──。
 防御──。
 いずれとも判断しかねる内に、佐原の頭部は耕一の両手に挟まれていた。
「やめとけっていってんだろう!」
 至近で、目と目が合った。
「いい加減にしないと……どうでもよくなっちまうよ」
 耕一の目が、怖かった。
 怖くてたまらなかった。
 これは、果たして人間の目なのだろうか。
「どうでもよくなっちまうよ、おれだってさ」
 目を逸らしたいのだが、逸らせない。
 こいつと目を合わせるのは怖い……。
「おれが刑務所に入ったら従姉妹が悲しむだろうなあ、とか」
 だが、目を逸らすのはもっと怖い。
「お前にもしものことがあったら、御両親が悲しむだろうなあ、とか」
 蛇と蛙だ。
「全部……どうでもよくなっちまうよ」
「……」
 口を幾度か開閉した。
 魚みたいだな、と耕一は思った。
 佐原の口からは、音声は発されなかった。
 ただ微かに、風を切るような、ふひぃ、とでもいうような音が出た。
「やめときなよ」
 頭部から離した両手で、耕一は佐原の肩を軽く叩いた。
 膝が、床を打った。
「いや、どうも、変なとこを……」
 頭を掻きながら、耕一は英二の前にやってきて頭を下げた。
「いえ……」
 と、英二は首を横に振った。
「おい! あんた!」
 佐原が、立ち上がって叫んでいた。
「まだなんかあるのか?」
 振り返った耕一は、佐原の瞳に、微笑んでいる英二の顔がうつっているのを確かに見
た。
「金は、いらねえ! おれは、もうやめるぜ!」
 叫ぶや否や、佐原は入り口に幾度か倒れそうになりながら向かい、慌てて靴を履き、
踵を踏み潰したまま、ひょこひょことした足取りで出て行った。
「ふう……」
 英二は、大きな溜め息をついた。
「英二さん……」
 耕一の視線が少し痛い。
「彼はね……喧嘩屋なんだよ」
「喧嘩屋?」
 あまり聞き慣れぬ言葉である。
「と、いっても、彼が自分でそう称しているだけなんだけどね……」
「はあ……」
「柔道二段でキックボクシングをやっているというのは本当だ。あれであの男、なかな
かのものなんだよ、でもね……ちょっと自分の強さに自惚れるところがあってね」
「はい」
 確かに、ここに入ってきた時の態度から、そういう感じは受けた。
「それで、金が無くて、でもコツコツ働くのはいやなんで、喧嘩屋なんてものをやって
いたというわけさ。幾らかの金を貰って人を殴ったり蹴ったり」
「はあ……」
「いつもは一万とか二万とかで請け負ってるらしくてね、おれが十万出すっていったら
喜び勇んで引き受けてくれたよ」
「ええっと……つまり……」
「しかしね、やっぱり君の相手じゃなかったな……力不足はともかく、依頼主をバラし
てしまうなんてね! 全く、しょせんアマチュアだよねえ、プロ根性ってものが無いん
だよ! そうだろ、青年!」
「あ、はい……」
「探偵だって殺し屋だって依頼主が誰かは絶対にいわないもんだよ、常識だよ! ねえ」
「はい……ところで……」
「なんだい」
「つまり……今のは英二さんの差し金だったわけですね」
「そうだよ」
 沈黙。
 静寂。
 溜め息。
「はあ……勘弁して下さいよぉ」
「いやいや、ゴメンゴメン」
 英二は素直に頭を下げた。先程の耕一を見ていただけに、本気で怒ったらどうしよう
とちょっと心配ではあった。
「うーん、君の闘っているところをどうしても見たかったんだよ」
「なんで、そこまでして……」
「あの長瀬さんに勝ったなんて聞いたら……見たくなるのも当然だろ」
 英二がにやりと笑った。
「長瀬さんと知り合いなんですか?」
 思わぬ人から思わぬ名前が出てきたので、さすがに耕一は驚いた。
「ま、ちょっとね」
 英二がそういった時、
「すんません」
 また、入り口の方で声がした。
「なんだってんだ。今日は……」
 呟きながら、耕一が入り口の方を見ると、一人の男がそこに立っていた。
 ごくごく普通の服装をした高校生ぐらいの男だった。
 だが、眼光が先程の佐原以上に鋭い。
「えっと……どちらさん?」
「藤田浩之っていいます」
 目が、研ぎたての刃物の光を帯びる。
「……面白いねえ」
 小さな呟きは、目を細めて微笑んでいる緒方英二が発したものであった。

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     どうも、vladです。
     なんとかかんとか第11回目となりました。
     次回、ようやく、浩之VS耕一です。