鬼狼伝(10) 投稿者:vlad
 男子空手部主将、磯辺道孝(いそべ みちたか)は、道場に向かっていた。
 三週間ぶりの部活だ。
 少し遅くなった。他の連中はもう練習を始めているかもしれない。
 道場の前には、一年の前原(まえばら)という男が突っ立っていた。
 その背後の扉はぴったりと閉ざされている。
「あいつ……なにやってんだ?」
 磯辺ならずともそう思うであろう。
「おい」
「あ、お久しぶりです!」
 前原はギクシャクとした動きで一礼した。
 声にも態度にも、何やら恐怖のようなものが浮き出ている。
 磯辺は、後輩には舐められないようにしているが、ここまで怖がられるような覚えは
無かった。
「なにしてんだ?」
「は、はい……ここで、誰も入ってこないように見張っておけっていわれまして……」
「は? なんだそりゃ」
 何か中で悪事でも働いているのだろうか。
「あ、磯辺さんが来たら入れろと……」
「ああ」
 やはり、なんか部外者に知られたらやばいことをやっているらしい。今日は男子空手
部が道場を占有していい日だから女子が来ることはない。
「お前ら、なにやって……」
 絶句……するしかなかっただろう。
 四人の一年生が道場の隅っこで正座をして並んでいる。
 四人の同級生が寝転がっていた。
「よう」
 それを見下ろしていた男が顔を磯辺の方にと向けた。
 彼が昨日まで三週間の停学をもらっていたことの原因といえる男だ。
「随分、ゆっくりだったな」
 そういった浩之の顔に、点々と赤い飛沫が付着していた。
「前原……どういうことだ」
 磯辺は、背後にいる前原に、背中を向けたままいった。

 一年生は、先輩が来るまでに道場を掃除しておく決まりであった。
 特に、今日から先輩たちの停学がとけてやってくる。しっかり掃除しておかねば自分
たちがいない間にたるんでいたと思われてしまうだろう。
 彼らは、授業が終わるとすぐに教室を出た。
 廊下で順次合流して五人で連れだって道場に来た。
 先客がいた。
 先客は、既にある程度体を動かしたらしく、うっすらと汗をかいていた。
 やばい、と彼らが渋面になったのは、てっきり先輩の一人が自分たちに先んじて道場
にやってきていたのだと思ったからだ。
「おう」
 その男は、一度見たら容易に忘れられない印象的な眼光で彼らを射抜いた。
「!……」
 彼らは、声も無かった。
 その男がここにいることが一瞬、理解できず、理解した後は戦慄した。
 この男が、今日ここに、穏やかな理由でやってくるはずがないのだ。
 藤田浩之。
「ま、入れよ」
 浩之は彼らを招いた。
 彼らはその眼光に逆らえずに、道場の中に入った。
「なんの用ですか?」
 とも、彼らは尋ねなかった。
 目を合わせようともしなかった。
 とにかく、刺激してはいけない。
 笑ったら……殺されるだろう。
 少しすると、先輩の一人がやってきた。
 篠原(しのはら)という二年生の中では一番、弱い男だった。と、いっても、もちろ
ん一年生などよりは遙かに強い。
「おう」
 やや呆然として入り口のところに突っ立っている篠原に、浩之が手を上げた。
 前原たち一年生の背筋を悪寒が走った。
 さっき、自分たちに対した時には、確かに刃物を振りかざしたような凄みがあった。
が、それでも、唇の端が笑っていた。
 篠原に手を上げた浩之の唇は……さっきよりも曲がっていた。
 さっきよりも、にっこりと微笑んでいた。
 それでいて、さっきよりも遙かに怖い。
 目が、笑っていないのだ。
「入れよ」
 篠原は、何かに引かれるように入り口を潜った。
「扉を閉めろ」
 浩之がいった。
「なんでだ?」
 篠原は、生気の無い顔で聞いた。
「表を人が通るだろ」
「……」
 無言のまま硬直した篠原には何もいわずに、浩之は入り口に向かって歩いていった。
 篠原と擦れ違い、扉を閉める。
 篠原はまだ動かない。
 浩之が、後ろからその肩を、ぽん、と叩いた時も動かなかった。
 前原たちの位置からは、篠原がいきなり横に回転したとしか見えなかった。
 浩之の蹴りが後ろから篠原の側頭部を襲ったのだ。ということを理解した時、篠原の
目に光は無かった。
「ぼさっとすんなよ」
 浩之は篠原の襟首を掴んで引き起こした。
「止めてくれ……」
 篠原は両手で頭部を覆っていた。
「お前……もう駄目だな」
 到底、こいつが自分をピリピリさせてくれるとは思えない。
 浩之は、捨てるように篠原を振り払った。
「おう……端に転がしとけ」
 一年生に命じて、浩之は道場の真ん中を陣取って腰を下ろした。
「おい、お前」
 と、浩之がいった。
「お前だ。お前」
 指差した。
 その指の先にいたのが前原であった。
「表で誰も入ってこないように見張ってろ」
「は、はい」
 一瞬、そのまま職員室に駆け込もうか、とは思った。
 だが、視線を背中に感じて振り返った時、浩之は笑っていた。
「チクったりすんなよな」
 笑顔のままいった。
 前原は、表に出て、その場に直立して先輩の来るのを待った。
「おう」
 土井(つちい)という二年生がやってきた。
 主将の磯辺といい勝負の実力者である。
 扉を少しだけ開けて隙間から覗いてみたら右の蹴り、左の正拳、の二発で終わった。
 その十倍以上の攻撃を土井は繰り出していたが、浩之にかすりもしなかった。
 もうしばらくすると、酒木(さかき)と古橋(ふるはし)という二年生が来た。
 土井や磯辺にやや劣るが、二人でなら……と、前原は思った。
 右のローキック、体勢が崩れたところへの右の正拳で酒木が轟沈。
 後ろに回り込んだ古橋には後ろ回し蹴りが見舞われた。
「お前、あん時も、後ろっから蹴っ飛ばしてくれたよなあ」
 そういうと、浩之は倒れた古橋を引き起こして顔面を立て続けに殴った。
 そして、磯辺が現れたのである。
「藤田ぁ……お前、まだおれたちとやる気か?」
 磯辺の言葉が終わるか終わらぬかの内に、浩之が哄笑した。
「お前……おれとサシでやって勝てる気かよ」
 この前は、五人がかりだったから、お前らはおれに勝てたんだぞ。
 浩之は言外でそういっていた。
「来いよ……」
 浩之はそういいながら、自らも前に進んだ。
「おれは、まだ一発も貰っちゃいねえぞ」
 手がダラリと下がっている。
 磯辺は、息を飲んで待った。
 浩之が、射程内に入ってくるのを。
「なあ……来ねえならこっちから行くぜ」
 無造作に、浩之は一線を越えた。
 磯辺ほどになると、自分の腕と足のリーチは熟知している。
 磯辺の右足が床から跳ねた。
 中段回し蹴り。
 脇腹を狙ったその一撃は、浩之の左腕にガードされていた。
 右足を下ろすと同時に磯辺は前に出た。
 左の正拳を、打ち出そうとした刹那。
 何かに、ぶち当たった。
 崩れ落ちる直前に磯辺が見たのは、掌底を突き出して笑っている浩之だった。
「おう」
 倒れた磯辺の顔を覗き込んだ時、浩之はもう笑っていなかった。
「駄目だ。お前ら……ピリピリしねえよ」
 浩之はそれが不満であった。
 しかし、ピリピリ、などという非常に感覚的なことをいわれても、磯辺には何がなん
だか、この男が自分たちに何を求めているかがわからない。
「ふん、おれはもう行くぜ」
 浩之はひたすら不機嫌である。
「二度とおれと目ぇ合わすな」
 最後に、倒れた磯辺の顔を蹴飛ばして、浩之は道場を出た。

 坂下好恵は、空手部が使用している道場に向かっていた。
 いつもならば、今日は女子空手部の練習が無い日なので、さっさと帰って自宅でトレ
ーニングに励んでいるはずだった。
 しかし、今日は、気になることがあったのだ。
 六時限目の授業の終了が遅れた。
 好恵は急ぎ足になっていた。
「好恵さん」
 その足を止めたのは彼女を呼ぶ声であった。
 振り返ると、後輩の松原葵が立っていた。
「葵、あんた今日は綾香のとこに行く日じゃないのか?」
 例の浩之と空手部の一件があってから、葵はエクストリーム同好会設立を断念した。
 同好会が部活として認められる前に、「会員」である浩之が大問題を起こしてしまい。
これによって学校側の態度が厳しくなるであろうことは明白であったからだ。
 結果的に被害者になったが、先に手を出したのは浩之なのだ。
 好恵は、もちろん、この機会に葵を空手部に入れてしまおうと考えていた。
 しかし、好恵が行動を起こす前に、浩之と綾香の間で話がついてしまい。葵は週に何
日か、綾香の家で練習することになってしまった。
 自分のせいで葵の夢が失われてしまったことに責任を感じた浩之が、綾香に、葵に練
習する環境を与えてくれるよう頼み込んだのである。
 組手の相手ができていいわ、と綾香はいっているそうだ。が、綾香が組手の相手に不
自由するとは考えにくい、浩之と葵が気を遣わないようにする彼女の配慮であろう。
 こうして、結局、葵を「エクストリーム」から「空手」に引き戻そうという好恵の目
論みは無に帰してしまった。
「藤田先輩を見ませんでしたか?」
 葵がいった。
「今日は、先輩と一緒に綾香さんのところに行こうと思ったんですけど、教室にいなか
ったので……」
「帰ったんじゃないのか?」
「いえ、カバンが残ってました」
 葵は首を傾げつつ、
「好恵さん、どこか心当たりないですか?」
 と、尋ねた。
 好恵には、心当たりがあった。
「葵……着いてきなさい」
 そういって身を翻した時、
「あ、先輩!」
 葵が声を上げた。
「よっ、葵ちゃん」
 制服の上着を脱いで、それを肩からかけた浩之がこっちに向かってくるところであっ
た。
 そっちは、道場がある方向だ。
「先輩、一緒に綾香さんのところに行きませんか?」
 浩之は、視線をやや上の方に持っていって低く唸った。
「うーーーん、ちぃっとばかり今日は都合が悪いんだ」
「そうですか……」
 葵が残念そうに呟く。
「時間、大丈夫なのかい?」
「えっ」
 いわれて、葵は時計を見た。
「あっ!」
 ギリギリの時間だ。今から急いでなんとか間に合うといったところか。
「早く行きなよ」
「は、はい! それでは、先輩、好恵さん、失礼します!」
「おう、頑張ってな」
「じゃあな、葵」
「はい!」
 葵の後ろ姿が角を曲がって見えなくなるまで、二人はその場から動かずにいた。
「やったのか?」
 やがて、好恵が口を開いた。
 その、主語を省略した好恵の言葉が意味するところを浩之は知っていた。
「やったよ」
 と、何をやってきたとも思えぬ涼しげな顔でいった。
「面白くなかったな」
 しみじみと浩之はいった。
「ピリピリしねえよ」
 はっきりいって途中からはほとんど諦めていた。やられっぱなしだと舐められてしま
うからやったまでだ。
 浩之は、あの感じが決して錯覚や何かだとは思っていない。
 十人抜きの最中にも感じたし、その中でも、九人目の辻正慶との闘いの時には、それ
が全身に張り付くように感じた。
 また感じたい。
 拳や、蹴りを交わしながら。
 四肢を跳ね踊るような脈動に任せ。
 感じたかった。
「もう、気は済んだのかい」
 好恵の問いに、浩之はどことなく気怠げな声で答えた。
「気は済んだ……っていうか……もういいや」
 そういった浩之の顔は、とてつもなく貪欲に「何か」を求めているように、好恵には
見えた。

 今、手の中に一冊のメモ帳がある。
 そこに書かれた人名には大抵、横線が引かれていた。
 全て、浩之が撃破してきた人間たちだ。
 いや、一人だけ、例外がいる。
 長瀬源四郎に100パーセント勝てないといわれて、十人抜きから外した男だ。
 しかし、よくよく考えてみれば、あの爺さんは自分が闘っているところを見たわけで
はない。
 やってみなければわからないではないか。と、浩之は思った。
 それに、こいつならもしかしたら……。
 別のページに簡単なデータが書き込んである。
 柏木耕一。
 10年前に、もう直弟子は取らないといった伍津流格闘術の開祖、伍津双英(ごづ 
そうえい)がつい最近取った直弟子である。そのことからも、相当の素質を持っている
と考えられる。
 現在はある大学に通っていて、大体は日曜の午後には道場にいるらしい。
「日曜の……午後だな」
 ベッドの上で、浩之は呟いた。
                                    続く
 
     どうも、vladです。
     ようやく第十回までこぎつけました。
     やっと全体的な筋が頭の中で出来てきています。おそらく二十回ぐ
     らいで終わると思います。