鬼狼伝(9) 投稿者:vlad
「あかりぃぃぃ!」
 友人の長岡志保は、平気で人の名前を大声で呼ぶ。
 恥ずかしいが、もう馴れたといえば馴れてしまった。なんといっても、中学生の頃か
らの付き合いである。
「あかり、こないださ、アンケートに参加してもらったじゃない」
 そういった志保はやたらと興奮しているようだ。
 アンケートといえば、この前、志保がメモ帳を片手に質問してきたことがあった。あ
のことをいっているのだろう。
 確か、学校で一番気になる男子は? とかいうのを筆頭にいかにも志保とその仲間た
ちが好きそうな質問群であった。
 どうせ、イベント好きの志保が立ち上げた企画だろう。
「結果が出たのよお!」
 やはり、やや興奮気味である。
「へえ、どうなったの?」
 あかりは、もちろん、気になる男子という質問には浩之の名前を答えておいた。なん
といっても付き合っている最中だし……浩之ははっきりいって無愛想なので、あんまり
票が集まらないだろうと思ったのだ。
「えっとね、1、2年を中心に158人に聞いたんだけどね」
「ず、随分、頑張ったのね」
「ま、これが結果なんだけど」
 ずいっ、と志保があかりの目の前に広げたメモ帳を突き出す。
 一位は……知らない人だ。
「あっ、雅史ちゃん」
 あかりは、三位のところに雅史の名を見付けた。
「そうなのよ、雅史が三位に入ってんのよ」
「ええっと、浩之ちゃんは?」
 やはり、気になる。
「それがねえ……」
 志保は困ったような表情でページをめくった。
 
 11位 ヒロのバカ
 
  と、書いてあった。
「あの馬鹿、もうちょいでトップテン入りするとこだったのよお! 信じられる!?」
「す、すごいね」
 と、いいつつ、あかりの中にはやはり不安が沸き上がらざるを得ない。
「浩之ちゃんって人気あるんだ……」
「なんかねえ、最近、クールでカッコいいっていう意見が多いのよ、ただ無愛想さに磨
きがかかってるだけなのにね」
 確かに、志保のいう通り、無愛想さに磨きはかかっているかもしれない。ここのとこ
ろ、笑顔を見せることが少なくなった。
「あ、怖い男子部門ではヒロの奴、ぶっちぎりのトップよ」
 確かに、近づきがたさにも磨きがかかったかもしれない。
「ん、どしたの、あかり、暗いじゃない」
 沈んだ表情に気付いて、志保がいった。
「志保……最近、浩之ちゃんの様子変じゃない?」
「ん……そういえば……そうかな」
 志保も思い当たるところがあるのだろう。ヘラヘラした笑いを引っ込めて、珍しく真
剣な顔になった。
「三週間前からだと思うの……浩之ちゃんが変わったのって……」
「三週間前……それって……」
「うん、あの時から浩之ちゃん、ちょっとおかしいの」
 さらに、その数週間前から忙しそうにしていて、会う時間が少なくなっていたが、明
らかに浩之の雰囲気が変わったのはその時からだった。
 最近、ちょっと休みがちなのも気になる。
 現に、今日も休んでいる。
「そりゃあ……恋人の前で情けない姿見せちゃったら気にはするかもしれないけど……
でも、相手は五人もいたんだし……」
 志保の声には弾みが無かった。
「……あ」
「どうしたの? 志保」
「あの時の五人って、明日停学がとけるんじゃなかったっけ?」

 放課後。
 校外を道着姿でランニングする一団があった。
 空手部の面々である。
 人数は十一人。内、六人が女子だった。
 先頭に立って走っているのは、その内の一人。
 坂下好恵。
 女子空手部の主将をつとめる、校内ではそこそこの有名人である。
 本来は、女子空手部と男子空手部は別々に練習する。
 だが、今は、五人の一年生らしい男子部員も好恵に率いられるように走っている。
 本当は、男子部員の方が女子部員より数が多いのだ。しかし、今はとある事情で、男
子部員の半数が停学中なのである。
 好恵は、右手に神社へと続く階段を見た。
 表情に、僅かに影が差す。
 個人的にも、そして、女子空手部主将としても、この階段の上に少々いやな場所があ
るのだ。
 その階段を、一人の男が下りてくる。
「よう」
 知っている顔だ。
 藤田浩之。
 ここのところ、目つきの悪さに拍車がかかったという話である。
 頬に、ガーゼを貼り付けている。
 好恵は思わず立ち止まった。
 彼女は浩之とは違うクラスのため、彼が今日、学校には顔を出していないことは知ら
ない。
 好恵の後ろに続いていた部員たちも仕方なく停止して、その場で足踏みをしている。
「ん……そうか……あいつらがいねえから、お前が男子の方も見てんのか」
 浩之は意味ありげな笑みを浮かべながらいった。
 今、停学になっていない男子部員は全員一年生で、ほとんど初心者である。しょうが
なく好恵が指導しているのだ。
「あんたは何を……もう、葵はあそこにはいないだろ」
 そういった好恵の目は、階段の上を見ていた。
「まあな、ちょっと一人でな……」
 その時、浩之は鋭利な視線を男子部員に向けた。
「てめえ……おれの顔になんかついてんのかよ」
 元々、あまり口調や態度が温和な男ではないが、この時の浩之は、明らかに好恵が知
っている藤田浩之ではなかった。
 好恵が知っている浩之は、いつもマイペースで、その表情からは常に余裕が消えるこ
とは無かった。もちろん、真剣になる時もあるが、そんな時でも浩之はどことなく、精
神的なゆとりを持っていた。
 しかし、今の浩之の焼き付くような視線はどうだ。
「てめえら、この上で会ったよな」
 殺気。
 というものを、好恵は話に聞くだけで、それを肌で感じたことはなかった。大事な試
合の時でも、せいぜい、相手から発されるのは、闘気であった。
 好恵の肌に鳥肌が立ち並ぶ。
 これが……殺気。
「待ちなさい」
 だが、好恵は浩之の前に立ちはだかった。
「あんた、うちの一年に手を出す気?」
「……いや、そんなつもりはねえよ……ただ、そいつらがおれの顔見て笑ったような気
がしたんでな」
「あんたたち、笑ってなんかいないだろ」
 好恵が振り返っていうと、男子部員たちは、震える声で、
「はい!」
 と、叫んだ。
「ふうん……だったらいいんだ……お前ら、おれの顔見て笑わない方がいいぞ」
「もういいだろ!」
 好恵が強く、叩き付けるようにいった。
「藤田、ちょっと話がしたい」
「あん? だったら、この上でいいか?」
「ああ……みんな、道場に戻って筋トレ始めてなさい」
 ただならぬ雰囲気を発散する二人に、女子部員たちは興味がありそうだったが、好恵
にいわれて、走り去った。男子部員としては、願ったりな指示であったろう。
「お前も大変だな、面倒見る奴らが増えてよ」
 階段を上り切った浩之は、振り返っていった。
「……」
「それというのも、あいつらが停学になんかなるからだよな」
「ああ」
「無期停だっていうからいつまでかと思ったら三週間か……けっこう早くお許しが出た
じゃねえか」
「……あんた」
「なんだよ」
「もう、空手部とのいざこざは無しにしてくれないか」
「なに……」
「どうせ、明日、あいつらが学校出てきたらやる気なんだろ」
「……」
 浩之は無言である巨木に歩み寄って、その幹を掌で叩いた。
 この木からサンドバックをつり下げて、それを叩いたものだ。
「引いてくれないか」
 好恵は真剣な表情でいった。このままでは、浩之の方がやられ損だというのはわかっ
ているのだ。
 それを知った上での頼みであった。

 ことの発端は、男子空手部が校外ランニングのコースを変えたことにある。
 今まで素通りしていた階段を上って神社の中を回ることにしたのだ。
 確か、神社では後輩の松原葵と、そのトレーナー気取りの藤田浩之が練習しているは
ずだ。と、いうことは好恵は知っていた。
 もしかしたら……何かいざこざの元になるんじゃないか。とも思ったが、葵に限って
もめ事を起こすようなことは無いだろう。と思って、男子たちには別に何もいっておか
なかった。
 よくできた後輩と一緒にいる男のことを失念していたのは今にいたるも後悔の種であ
る。
 男子部員と浩之が衝突したのだ。
 後で話を聞いてみると、男子部員たちは、練習している二人を見付けて、しばらく見
物していた。浩之は主に葵のサポートをしていた。
 そのことから、浩之のことを、ただ単に女の子といちゃつくのが目的の男と思ったの
だろう。彼らは、浩之を軽蔑した。
 その場は何事も無かったが、その内、校内で時々、一悶着あった。男子部員が浩之を
馬鹿にするようなことを本人に面と向かっていったのだ。
 浩之は自制しているようだったが、三週間前。
 とうとう、浩之が手を出した。
 中庭に、恋人の神岸あかりと一緒にいた時にちょっかいを出されて激怒したらしい。
「お前、あの子と二股かけてんのか?」
 それが直接の引き金となった発言だろう。
 その時、その場にいたのは、五人の男子部員であった。全員、二年生で中学校の頃か
ら空手をやっている。
 女の尻目当てでサンドバックを支えているような奴にひけをとるつもりはなかった。
 浩之の右拳が一番手近にいた男の顎をふっ飛ばした。

「引け……っていうのか?」
 浩之は好恵の方を向こうとはしなかった。
「頼む」
 好恵は浩之の背中に向かっていった。
「やだね」
 断固とした強い意志が感じられる声。
 
 あの時、一人目の顎をぶん殴った後、二人目を蹴り飛ばしたまではよかった。
 しかし、学校の中庭のような広い場所では、人数の多さは圧倒的に有利になる。しか
も、全員、素人ではないのだ。
 三人目を殴った時に、既に敗北していたといえる。
 その時、残りの二人が後ろに回り込んでいたのだ。
 後頭部に蹴りが来た。
 脇腹に拳が入った。
 息を吹き返してきた連中が前から殴りかかってきた。
 五人を相手にして、一度、形勢が不利になってしまえば、立て直しは難しい。
 二人に後ろから手を取られて無防備になった顔を、腹を、遠慮なく殴られ、蹴られた。
 とうとう、吐いた。
 前のめりに倒れたが、なんとか両手をついて持ちこたえた。
 目の前に、自分が吐いたものがあった。
 上から、後頭部を踏み付けられた。
 そこで教師がやってきて、その場は収まった。浩之は、先に手を出したということで
一週間の停学を貰ったが、その時の浩之の状況からして、停学にならずとも、そのぐら
いは学校を休まざるを得ないであろうことは明白だった。
 五人の空手部員は、空手をやっている人間が大人数で一人の人間をリンチしたことが
大いに問題視され、無期停学となった。

「坂下ぁ……」
 浩之が振り返った。
 刃のような眼光を、好恵は辛うじて目を見開いて受けた。
「顔中ゲロだらけになったことあるか?」
「……」
「どうなんだ?」
「……ないよ」
「だったら……おれの気持ちはわからねえよ」
 それだけではない。あの時、その場にあかりがいたのだ。
「一度、地面に落ちたゲロだからよ……土が混じってジャリジャリしてやがるんだ」
 あかりに、見られた。
「引け……っていうのか? 坂下ぁ」
 返答次第では、自分の身も安全ではないだろう。
 好恵は自然にそう思った。
 思った直後、我ながら驚いた。
 こんなに自分は弱気だっただろうか。
「どうしても……駄目か……」
「ああ」
 浩之は好恵に背を向けた。
 浩之の姿が見えなくなった時、好恵はその場に座り込んだ。

                                     続く

     どうもvladです。
     いよいよ第九回目とあいなりました。
     うーむ。特に何もないなあ……ほとんど繋ぎの回だし……。
     と、いうわけで失礼いたします。