鬼狼伝(8) 投稿者:vlad
 電気がついているということは妹が帰っているということだ。
「ただいま」
 帰宅した時に、そういったのは久しぶりだった。このところ、妹がドラマの撮影に入
って忙しかったのだ。
 妹は、そのドラマのヒロイン役であり、主題歌も歌っている。今年はそのドラマに賭
けているようだ。
 自分の方が後になるのは久しぶりであった。
「おかえりなさい」
 と、いう声を期待したわけである。が、家の中はしん、と静まり物音一つしない。
「うん、帰ってきてる」
 足下に、妹が朝履いていた靴を発見して一人頷く。
「ん?……」
 その隣に見たこともない女物の靴を見付けて、英二は首を傾げた。
「理奈! いるんだろ!」
 靴を脱ぎ捨てて廊下を進む。
 居間にはいない。
 台所にもいない。
 自分の部屋にもいない。
 屋内は人がいるとは思えぬほどに静かである。
「そうか……あそこか」
 あまりにも静かなことが英二の足を地下へ向けさせた。昨年、この家を作る時に思い
切って地下にスタジオを設置したのだ。これも、さすがミュージシャン緒方英二ならで
はとマスコミに騒がれ、テレビカメラが入ったことも一度や二度ではない。
 妹は、そこで歌の練習でもしているのだろう。と、英二は思った。その地下スタジオ
はもちろん完全防音なので、そこにいるとしたらこれだけ家が静かなのも頷ける。
「理奈」
 英二は地下に下り、スタジオのドアを開けた。
「お前が愛する兄さんが帰ってきたぞ」
 そういったきり、英二の口は開いたままになった。
「なにしてんの?」
 しばらくしてから、ようやく英二は尋ねた。
  我が愛する妹と、見知らぬ女性がレオタード姿で寝そべって体を重ねて、手足を絡ま
せているのである。
「見ればわかるでしょ」
 妹の返答は素っ気ない。
 見知らぬ女性の方は、軽く頭を下げた。
「い、いかんぞ! 同性愛は!」
 英二は叫んだ。兄として、妹を変な道に踏み入れさせない義務がある。
「あまりに男として完成されたおれを兄に持ってしまって、世の男性が皆、ろくでなし
に見えるのはわかるが、そっちに走ってはいかぁん!」
「なに馬鹿いってんのよ!」
 妹思いの兄の言葉に、理奈は激怒して立ち上がった。
「演技の練習よ! 演技の!」
「は? レズビアンの役だったっけ?」
 そんな話は聞いていない。
「違うわよっ! エクストリーム優勝を目指す格闘少女の役っ!」
「ああ、そうだったねえ」
 そういえばそうだったような気もする。確か、エクストリームの過去の優勝者などが
多数脇役で出演するドラマとして話題になっていた。
「えっと……そちらの美人は?」
「ど、ど、どうも、御堂静香(みどう しずか)です」
 年齢は二十代中盤といったところだろうか。お世辞ではなくて、けっこう美人だ。
「御堂さんはね、今回の格闘方面の演技指導の人なのよ」
「ああ、そうなの、それはそれは理奈がお世話になりまして」
「いえ、そ、その、そんな」
「……静香さんって……あがり症?」
「違うわよ」
「だって……」
 英二が視線を向けると、静香は真っ赤になって俯いている。
「……兄さんの大ファンなんだってさ」
「ああ、はいはいはいはい」
 英二は幾度も頷いた。自慢ではないが天才ミュージシャンなどと呼ばれている身であ
るからして、熱烈なファンというものと遭遇するのは珍しくない。
「どうも」
 英二は改めて一礼した。
「ど、ど、ど、ど、ど、ど、どうも」
「まあ、楽にして」
「は、はい、あ、あ、あ、あのっ!」
 びしいっ!
 と、静香は手を突き出した。
「ん……手刀ですか?」
「あ、あ、握手して下さい!」
「ああ、はいはい」
 英二はやたらと硬直している静香の手を取って、それを握った。
「ところで、寝技の練習してたのかい?」
「うん、今度の撮影でそういうシーンがあるから」
「あ、あ、あの、サインして下さい!」
「ああ、はいはい……後でね、ところで、すいませんねえ、家にまで指導に来てもらっ
て」
「い、いえ、そんな! あ、あの、緒方さんのCDは全部持ってます!」
「ああ、それはどうも……ところで、練習しないの?」
「し、しますよ! じゃ、理奈ちゃん、さっきの続きから」
「はい」
 英二は椅子を引っ張ってきて、練習を見物していた。英二に見られているせいかコー
チの動きがややぎこちないが、寝技の攻防としてはなかなかサマになっている。
 目まぐるしく二つの肢体が動き、最後には理奈が腕ひしぎを決めていた。
 ここでこうして、あそこでこうして、という約束の上で行われるお芝居なのだが、動
きが素早く、二人の表情が真剣なため、素人がなんの予備知識も無しにこれを見て、演
技であると看破するのは不可能ではないだろうか。
「それでは、今日はこれまでにしましょう」
「はい」
「二人とも、シャワー浴びるんだろ、お茶入れとこうか?」
「うん、お願い」
「お、お、お願いいたします」
 一汗流した後は、理奈はテレビに出る時に比べるとだいぶ地味な普段着に、そして、
静香は悲しいほどに露出度と化粧気の無い姿になっていた。
「静香さんはドラマには出てないのかな?」
「わ、私は格闘の演技指導だけです。お芝居なんてできないから」
 だいぶ、馴れたのか、どもりは少なくなってきた。が、英二の顔を正面から見ようと
しない。
「ふうん、なにか格闘技をやってるんですか?」
「なにいってんのよ、兄さん、静香さんは去年、エクストリームの社会人女子の部で準
優勝してんのよ」
「エクストリームで準優勝……って、すごいんだよねえ」
 日本で二番目に強い、といったら誇張になるが、それに近いとはいえる。
 なにしろ、近頃のエクストリーム大会は参加者の数もレベルも数年前の比ではない。
「あの、元々、父が警官でして……武道はかなりやってたんです」
「ああ、なるほど」
 人は見かけによらない、という言葉の生きた実例がこの人らしい。
 静香は見た目は背中に軽くかかっている黒髪が綺麗な純和風美人で、着やせするのか、
下手をすると小柄にも見える。
「趣味は生け花です」
 と、でもいうような台詞が、その口紅を塗っていない薄い桃色をした唇の間から出る
のが当然だと思えるような女性だ。
「失礼ですが、とてもそうは見えませんねえ」
「そ、そうでしょうか?」
「はい」
 英二は断言した。
「静香さんもドラマに出ないかって監督さんもいってたんだけどね」
「そんな……私、お芝居なんてできないから……」
 確かに、格闘技ができてこんな容姿をしている人が現場にいたら使いたくなるかもし
れない。
「明日も撮影あるの?」
「うん」
「ああ、そうなの、面白そうだから見物に行こうかな」
「……兄さん、もしかして暇なの?」
「うーん、由綺の新曲を作るんで昨日からまるまる一週間休みをとったんだ」
「そういえば、そんなこといってたわね」
「それがねえ、昨日一晩で終わっちゃった」
「え?」
「す、す、すごいです! 一晩で一曲書いてしまわれたんですか」
 静香の両目が放つ尊敬の眼差しが心地よい。
「だから暇なのよ、おれ」
「ふうん、だったら遊びに来れば……そういえば、明日は来栖川綾香が特別出演するの
よ」
「ええっと……エクストリームのチャンピオンだよね」
 英二も、テレビ放映されているエクストリーム大会を見ているので、知っている。け
っこう美人で、ファンもついているようだ。
「ふうん……歌手デビューする気はないのかな?」

 翌日。
 英二は、ノコノコと、としか表現できない風情で撮影現場にやってきた。
 どこかの空手の道場を借りて撮影現場にしているらしい。
「どうもどうも、理奈がお世話になってます」
 英二は撮影の合間をぬって監督のところに挨拶に行った。
 主演女優の兄であり、所属事務所の社長であり、番組の主題歌の作詞作曲をした英二
であるから、監督とは何度か顔を合わせたことがあった。
「あ、どうも、緒方さん、ご苦労様です」
「いえいえ」
 と、いいながら、英二の視線は現場の隅でメイクをしている少女に注がれていた。隣
に妹がいて、親しげに何か話している。
「どうですか? 彼女」
「ああ、来栖川綾香ですか? ……いいですよお」
 監督はやたらと力を入れていった。
「素人だっていうけど、演技もなかなかだし美人だし、性格は明るいし……いや、実の
ところ、あの来栖川のお嬢様って聞いてたから、ちょっと内心ビクビクでしたがね」
 くっくっく、と苦笑した監督に合わせて、英二は顔を綻ばせた。
「彼女、芸能界デビューしてもやってけんじゃないですかね……格闘技が強くて、気さ
くなお嬢様……ってのはなかなかいいキャラクターだと思うんですがね」
「歌唱力はどうなのかな?」
 英二のその言葉に、監督は大口を開けて笑った。
「ところで、演技指導の御堂静香さんはどちらですかね?」
「ん? 御堂くんがどうかしましたか?」
「いや、今日の目当ては彼女です」
「緒方さん……彼女と面識は……ああ、そうか、昨日会ったんですね」
 監督は勝手に一人で納得した。昨夜、静香が理奈に特別指導をするために緒方邸に行
ったことを知っているのだろう。
「彼女、出てもらいたかったんですけどねえ……おれが台本書き直してもいいと思って
たんだけど」
「そりゃ、あんだけ美人ですからねえ」
「初日に、ADが女優と間違えましたよ」
「ははは」
 英二は笑いを収めた後、会話を打ち切って、静香を求めて現場内を彷徨い始めた。
「お、いた」
 と、静香を発見したのはいいのだが、なんだかその側に見覚えのある人物がいる。
「静香さん」
 相変わらず、露出度と化粧気の無い美女は、英二を認めるとやや頬を染めて頭を下げ
た。
「どうも、え、え、え、英二さん、本当にいらっしゃったんですね」
「長瀬さんも、どうも」
「どうも」
 と、長瀬源四郎は一礼した。
「あ、あの……お知り合いですか?」
「ええ、まあ、そうです……ところで、なんで静香さんと長瀬さんが御一緒に?」
「お嬢様が転びそうになったのをこの方に助けて頂いたのです」
 そういった源四郎の背後に、来栖川綾香によく似た、それでいて全く別系統の美少女
を見付けて、英二は来栖川家には二人の御令嬢がいることを思い出した。
「芹香さんですか?」
「……」
 こくり、と頷いた。
「お祖父様から名前はうかがっています」
「……」
 かなり聞き取りにくいが、はじめまして、と、いっているらしい。
「ありがとうございました。感謝の言葉もございません」
 源四郎は静香に向かって深々と頭を下げた。彼にとっては芹香は命に代えても守るべ
き存在であるから、いくら礼をいってもいい過ぎということはないのだろう。
「いえいえ、そんな」
 礼を述べる源四郎と、謙遜する静香はしばらく言葉を交換し合っていたが、やがて、
現場が慌ただしくなり始めた。本格的に撮影が始まるらしい。
「あ、私、理奈ちゃんの演技見ないと……それでは、英二さん、失礼いたします」
「はい」
 静香は、理奈の方へと歩いていった。
 部外者の英二たちは本番が始まるので現場の隅っこの方にと移動した。
「今日は、見物ですか?」
 英二は小さい声でいった。
 もう、マイクが声を拾うことができない位置まで離れている。
「はい」
「ところで、綾香さんに格闘技を教えたのはあなただそうですね」
「……それは間違いです。綾香お嬢様が格闘技を始めたのは外国にいた頃ですよ」
「はは、でも、強くなり始めたのはあなたが練習相手になってからでしょう」
「……どこでそのようなことを?」
 昨日、あれから理奈に格闘技雑誌のエクストリーム特集の増刊号とかいうのを見せて
もらったのだ。
「有名ですよ、来栖川綾香の格闘技のコーチをつとめる執事がいるというのは……あな
た以外に考えられませんからね」
「そうですか」
「だいぶ、修羅場を潜り抜けてこられたんでしょうね」
「……それなりに」
 源四郎は言葉短く答えた。
「負けたことなんかないんでしょうね」
「……そう、甘いものではありませんよ……ここぞという時には負けたことはありませ
んがね」
「へえ」
「でなければ、こうして生きてはいません」
 死線を潜ってきた老人の言葉にはずっしりとした重みがあった。
「ほう、それでは、負けたことはおありになる……と」
「はい」
「どういう人なんでしょうね、あなたに勝てる人というのは」
「あなたは……」
 源四郎が苦笑を浮かべたのを、英二は軽い驚きを持って見やった。
 この老人が表情を動かすのは珍しいということを英二は知っていた。
「あなたは……ただの音楽屋だと思っていましたが……」
「……音楽屋……」
 英二は、表情を引きつらせるしかなかった。まあ、音楽を売っているという意味では
その通りなのだが……。
「強い人間に興味がおありですか」
「少しですけどね」
「よろしければ、つい最近、私が負けた人物を紹介しますよ」
「ほう、それは面白そうですね」
「大体、日曜の午後には道場にいます」
「日曜の……午後ですね」

                                     続く

     
     どうもvladです。
     なんじゃかんじゃで第八回目を数えてしまいました。
     珍しく格闘シーンらしい格闘シーンの無い話となりました。
     ま、こんなのもたまにはいいでしょう。
 
 それではまた……。