鬼狼伝(7) 投稿者:vlad
 黒輝館三段。辻正慶はそれを待ち望んでいた。
 ことさらに、一人で夜道を歩いていたのはもしかしたら、それが来るかもしれないと
思っていたからだ。
「辻さんだね」
 相手は二人。
「どっちがおれとやるんだ」
「やる気満々だね、あんた」
 一人が嬉しそうにいって、親指を自分に向けた。
「おれだよ」
 藤田浩之である。
 一見、やる気が無さそうにも見える。
 だが、袖から覗く腕を見れば、相当の鍛錬を積んだ者であることはわかる。
「そこの公園でやろうか」
「うちの三嶋がこないだ野試合した公園だな」
「……」
 浩之は、何もいわずに歩き出した。
 辻は、あの晩のことは、正直いってあまり覚えていない。酒を飲んだわけでもないの
に、いきなり意識が飛んで三時間経っていた。その間の記憶が全く無い。
 その日は、二時間前に三嶋と東京支部の代表の座を賭けて勝負しているはずだった。
 約束の場所には、気を失った三嶋が倒れているだけだった。
「お前なんだろ、三嶋をやったのは」
「……」
「別にそのことをどうこういおうとは思わん」
「ふうん」
「格闘家である以上、いくら野試合でも負けたらグダグダいわないもんだ」
「へえ、あんたなかなか話がわかるね」
「だから、これからどうなっても……おれを恨むなよ」
「恨みっこなし……いいねえ」
 立会人の佐藤雅史は、二人の間の空気が張り詰めたのを感じた。
 言葉で告げられたわけではない。
 空気が、告げていた。
 辻の右拳が唸った時に聞こえたのは拳が空を切った音だけだったのか。
 否。
 筋肉のしなった音が聞こえたように、雅史は思った。
 拳は浩之の目の前で止まった。
 これ以上無理に伸ばそうとしても体勢が崩れるだけだ。
 辻が踏み込んだ瞬間、浩之はそこまで後退していた。
 この辺の見切りの技術は天才的といっていい。
 辻がかわされたと見てまた踏み込む。
 左の正拳。
 を、打ち出す前に、浩之の右拳が一直線に辻の額を捉えた。
「っ!……」
 浩之は右拳が押されるのを感じた。
 格闘でも戦争でも、戦いにおいて相手の意表をつくことは有効な戦法である。
 格闘戦においてもっとも相手の意表をつく行動は、実は自ら攻撃に当たりにいくこと
ではないだろうか。
 固い。
 辻の額を打った時の浩之の正直な感想だ。
 これほどに固い額というのは初めてだ。
 当たったんじゃない。
 こいつが当ててきやがったんだ。
 そう思った次の瞬間、浩之の右肘は、ガクン、と曲がっていた。
 効いて、ねえのか!
 浩之が目を見開いて後ろに仰け反ろうとした刹那を捕らえて辻の右拳が突き上げられ
た。
 浩之の顎が跳ね上がる。
「せあぁっ!」
 続けて、辻が打ち込んだ。
 彼とて、浩之の拳を受けた額が痛まないわけではなかった。だが、そこは耐えである。
「おれの代わりに頑張ってくれ」
 ベッドに横たわった三嶋はそういった。
「よし、お前ならやってくれると思ったぜ!」
 神戸との対抗戦で勝利したことを告げた時、頭に包帯を巻いた三嶋はそういった。
 勝つ。
 辻の放ったローキックに浩之の足は軋んだ。
 必ず勝つ。
「うぐ!」
 水月に貰って、浩之は嘔吐感が喉をせり上がってくるのを感じていた。
 横殴りの一撃はしたたかに浩之の頬を打った。
 あまりの威力に浩之の体が捻れる。
 背中が、見えた。
 だんっ!
 辻が踏み込む。
 浩之は体を戻そうとはせずにそのまま回転した。
 瞬間、体をずらす。
 後頭部をかすめて辻の右拳が疾走したのがビリビリとしたうなじへの感触でわかった。
 回転。
 浩之の右腕が鞭のようにしなった。
 回転によって勢いを得たその一撃は辻のこめかみを痛烈に叩いた。
 バックブロー。
 いわゆる裏拳。
 辻がたまらず後退する。
 浩之は追撃しなかった。
「う、げええええっ」
 吐いた。
 先程の水月への一撃が効いていたのだ。
 胃の中が空っぽになるまで吐いた。
 浩之の目が細く鋭く。
 唇は、明らかに笑みの形を作っていた。
 辻はそれを見ながら血の臭いを嗅いでいた。
 自分のこめかみから、つう、と一筋の血が皮膚の上を滑り落ちている。
「ぺっ」
 と、浩之は最後に、酸味のきいた唾を吐き出した。
「あんた、いいよ」
「……」
「久しぶりにいいのを貰っちまった」
「まだ。やるのか」
「思い出したからね、ピリピリする感じをさ……」
 格闘技を始めて初の実戦の時に感じた感じ。
 もっとも、その時は負けてしまい、五人ぐらいにわけがわからぬほどにリンチを受け
たが。
 痛いのは嫌いだが……。
「この感じは好きだぜ」
 棒立ちになっている浩之の顔に辻からの闘気が吹き付けた。
 浩之の両手が上がる。
「せあっ!」
 拳が、浩之の頬を打った。
 時が転じた刹那、浩之の拳もまた唸りを上げて辻の顔面を捉えていた。
 辻が蹴りを放つ。
 蹴りは、浩之の脇腹に決まった。
 次の瞬間、浩之の蹴りが辻を襲う。
 次の瞬間、浩之の拳は辻の顎を突き上げていた。
 辻が苦しい体勢から拳を放つ。
 浩之は、よけない。
 胸で受けた。
 次の瞬間、浩之の拳が辻の水月を直撃する。
 次の瞬間、浩之の蹴りが辻の右足に激突する。
 辻の拳が浩之の頬をかすめた。
 親指の爪が頬肉を削っていた。
 しかし、浩之はそれを気にも止めていない。
 次の瞬間、浩之の肘が辻のこめかみを叩いた。
 次の瞬間、浩之の拳が辻の脇腹にめり込んだ。
 速い。
 攻撃の速さなら浩之の方が段違いに上回っている。
 雅史は、これまで何度か浩之の闘いを見てきた。
 これほどに猛った浩之は見たことがない。
 一発貰うたびに二発お返ししている。
 やがて、二発が三発になり、四発になり。
 両手両足を振り回しているのは浩之だけとなった。
 手刀。
 拳。
 裏拳。
 肘。
 頭。
 足刀。
 膝。
 あらゆる武器を浩之は振るっていた。
「浩之!」
 雅史が叫んだのは浩之を人殺しにはしたくなかったからだ。
 浩之に、
「あかりとか志保には絶対秘密だぞ」
 と、いわれて浩之の「十人抜き」に協力していたが、それで、自分がいながら浩之に
殺人を犯させてしまっては二人に合わせる顔が無かった。
「おい、あんた……」
 浩之の攻撃が止まった。
「もう……倒れていいんじゃねえのか?」
「……」
「なんでそんなに頑張るのかは知らねえけど、もう、いいんじゃねえのか?」
「……」
「雅史!」
 浩之は無言の辻に背を向けて叫んだ。
 辻の目が光を帯びて足が動いたのを見て、雅史は叫び返した。
「浩之っ!」
 浩之が首をゆっくりと横に振るのと、辻が前のめりに倒れるのと、ほぼ同時であった。
 浩之も、もちろんただでは済んでいない。
 今までと違って、もろに相手の攻撃を受けていたのだ。
「浩之、大丈夫?」
「体中、いてえ」
 浩之はそういって頬を撫でた。
 手首から指先まで、べっとりと血が塗りたくられた。
「明日は、あかりとデートして御機嫌伺おうと思ったが、この顔じゃ学校は休みだな」
 雅史は黙って頷いた。その顔で登校しようものなら大騒ぎになって生徒指導の教師が
駆け込んでくる恐れすらあった。
「帰りに、匿名で救急車を呼んでおこう」
「うん」
 浩之は去り際、倒れている辻を見た。
「一番強くはなかったが……あんた、今までで一番こわい相手だったよ」

「浩之、十人目はどうする?」
 雅史がいった。十人目の相手がまだ決まっていないのである。
「いや、その前にやることがある」
 そういった浩之の目に、刃物のような輝きが宿った。
「確か……明後日だったよな、停学がとけんのは」
「浩之……」
 雅史は、心配そうに浩之を見た。
「忘れちゃいねえぜ、あの屈辱は……」
 浩之の独り言を聞くと、雅史は、さらに表情に不安を浮かべた。

                                    続く 

     どうもvladです。
     積もりに積もって第七回です。
     今まで女っ気皆無の作品でしたが、次回あたりから女性陣にもぼち
     ぼち登場していただく予定となっております。
     このまま男っ気全開の話にしようともしたんですが、それだと話の
     幅が狭まってしまいますし、なにより、私が辛いんです。
     と、いうわけで、今後の展望が未だに立たない無謀なこの作品を読
     んでくれている人に感謝しつつ、今回は失礼いたします。