鬼狼伝(6) 投稿者:vlad
 拓也は、折る気であった。
 腕ひしぎが完全に決まっている。
 この形になってしまえば、もう折ったようなものだ。
「ひあっ!……」
 喉の奥が掠れるような声は棟方が発したものだ。
 表情もそれに比例して顔中に苦悶を浮かべている。
 ここで仮定してみる。
 もし、棟方が苦しそうな声を出さなかったら。拓也は詰まらなくなって止めたかもし
れない。
 もし、棟方の表情に苦悶が浮いていなかったら。拓也は面白くなくなって止めたかも
しれない。
「や、止めてくれ……」
 それは、拓也を喜ばせただけであった。
 べきぃ。
 と、鳴った。
 ぱきぃ。
 と、聞こえないこともなかった。
 音は鳴った後、一切の余韻も無いまま消える。
 音が消えた後、あらゆる音が少しの間だけ聞こえなくなる。
 静まり返った世界に浸った全身を凄まじい歓喜、充実感、興奮が駆け抜ける。
 いつも通りだ。
 その感動の中、拓也はただでさえ細い目を、さらに細くして笑う。
 手を伸ばして頭髪を掴み、顔を自分の方に向かせる。
「まだまだ」
「ひいっ!」
 先程まであれほど獰猛だった男が、自分の顔を見ただけでこの恐れようだ。
 仕方があるまい、この男はもう、自分に対して本能的な恐怖を抱いてしまったのだ。
その恐怖はそうすぐには克服できるものではない。
「おい、止めとけ」
 後ろから肩に置かれた手を、拓也は握ろうとした。
 何者であろうとも、邪魔をする奴は許さない。
 拓也の手の動きは素早かった。が、先方がそれを上回った。
 手に触れた。と、感じた刹那、その感触が消失し、拓也の手は上から押さえ付けられ
ていた。
「もういいだろ、止めとけ」
 拓也はその手を振り払いつつ振り返った。
 今、腕を折ってやった男が「柏木」と呼んでいた男がこの状況下にあって穏やかな笑
顔を崩さずに突っ立っている。
 こいつも、恐怖させてやる。
 拓也は陶然としながら思った。
 僕を、本能的な恐怖に彩られた目で見るがいい。
「止めとけって……なっ」
 気付いた時には、拓也の両肩が掴まれていた。
「!……」
「確かに、そいつが先に手を出したけど……それ以上はやりすぎだ」
 殴るか、蹴るか。
 咄嗟に、拓也は考えた。相手は肩を掴んだ両手を思い切り伸ばしている。腕のリーチ
にはほとんど差が無い。
 と、なると拳は当たらない可能性が高い、ならば蹴りだ。
 間接技に対するほどではなかったが、打撃技だって一通りやっている。その気になれ
ばさっきの男程度だったら打撃技だけでもなんとかなったのだ。
 拓也は、右足での前蹴りを放とうと、膝を曲げて右足を上げた。
「止めろってば」
「!……」
 拓也は再び驚愕した。
 次の瞬間、膝を伸ばして右の前蹴りを打とうという時に、左足が伸びてきて、足の裏
でそっと拓也の右膝を押さえたのだ。
 前蹴りは封じられた。
 ならば、と拓也は考えた。この執念深いところは格闘家としては長所といっていいか
もしれない。
 足を横にずらしつつ引き、回し蹴りに変化させるか。
 だが、前蹴りを膝を押さえて封じたような相手である。そう来ることは承知している
のではないだろうか。
 ならば、フリーになっている両手で肩を掴んでいる相手の手の一方を取って間接を決
めに行くか。
 だが、少しでも手こずれば蹴りが飛んでくるだろう。
 ならば……どうする。
 拓也にとって初めての経験であった。
 何をやっても返されるような気がする。
 打つ手が全く無いような気がする。
「もう、いいだろ」
 その声が、天上から投げ掛けられたもののように絶対的に思えた。
「……」
 声には出さずとも、拓也の闘気が霧散したのがわかったのか、耕一は手を離した。
 拓也の目は、耕一を何か全く違う生き物を見るかのような光を帯びていた。
 何かが全身を貫く。

 本能的恐怖。

 拓也の全身を貫いているものは明らかにそれであった。
「さっさと逃げちまいな、こいつも一対一でやり合ってやられたんだ。警察に届け出た
りはしないだろ」
 耕一は棟方を親指で、ちょい、と指差して拓也に囁いた。
「あの……あなたは?」
「柏木耕一ってもんだ。ま、詳しいことは聞きっこなしってことで……なっ」
 そういって、耕一は笑った。
「月島拓也です。……失礼します」
 拓也は真顔のままそういうと、妹を促して去っていった。
 一度だけ振り返る。
 耕一が、棟方に肩を貸しているところだった。
 全身を貫くものはまだ消えない。
 だが、それとは全く別種の、正反対に近い感情が生まれていた。
 その二つが混じり合った時に拓也の中に芽生えたのは、
「あの男……なんだ?」
 と、いう凄まじい興味であった。

「うぎぎぎ」
 肘が思い切り曲がっている。
 伸ばす。
「うぬぬぬぬぬ」
 もう一回曲げる。
 伸ばす。
「浩之、ここにいたんだ」
「おう」
 浩之は視界に佐藤雅史を認めるとそういって立ち上がった。
「久しぶりじゃない、ここって」
「ああ、なんか変に初心に帰りたくなってな」
 浩之にとって、この、学校の近くにある神社の境内は格闘技の発端ともいえる場所で あった。
「雅史、親指立てふせできるようになったぜ」
 いいつつ、浩之は二本の親指を屈伸させた。
「へえ、一週間前まで無理だったのに」
 ここ一週間、雅史はサッカー部の方が忙しくて浩之の練習には立ち合っていなかった
のだ。今までもずっと思ってきたことだが、彼の友人の成長の速さには目を見張るもの
がある。
「そういえば、松原さんは?」
「葵ちゃんは、ここはもう使ってねえよ。綾香のとこで練習してる」
「そうなんだ。もうすぐだっけ、エクストリーム大会」
「おお、そん時は応援に行かなきゃな」
 現在の浩之の技はほとんど我流に近いが、ゼロから我流で初めて強くなれるはずがな
い。浩之は案外と基礎はしっかりとしているのである。
 その基礎的な部分を浩之に叩き込んでくれたのが後輩の松原葵であった。見た目より
も義理がたいこの男は、未だに葵のことを自分の師匠みたいなものだと思っている。
「浩之は出ないの? エクストリーム」
「ま、その内な」
 浩之は今のところ、エクストリームにはあまり興味が無いようだった。
「おれは、ええかっこしたいんだよ」
 と、浩之はいっている。つまり、確実に優勝できるというレベルになるまで出場した
くないらしい。
「そういや、九人目はどうした?」
「ああ、そのことなんだけどね、一昨日来たみたいだよ」
 浩之は今、「十人抜き」に挑戦中である。
 その中のターゲットに現在、黒輝館の双璧と呼ばれている東京支部の三嶋常久(みし
ま つねひさ)と神戸支部の柄谷光吉(からたに こうきち)がいた。
 三嶋の方は八人目に撃破し、柄谷が九人目のターゲットである。
 神戸まで遠征しようかと思っていたのだが、東京支部と神戸支部との対抗戦があり、
柄谷が神戸支部の代表としてこっちに来るというのでそれを待つことにしたのである。
「で、どこにいるんだ?」
「うん、それがね、昨日、対抗戦が行われたんだ」
「へえ、柄谷の相手は誰だったんだ?」
「辻さんだよ」
「ふうん」
 辻さんというのは黒輝館東京支部の辻正慶(つじ しょうけい)のことである。三嶋
のライバルと目されている人物で、東京支部に限定すれば三嶋と、この辻が双璧になる
だろう。
 過去の公式戦の詳細な内容を見て、三嶋の方が強いと浩之は判断して十人抜きからは
外していたのだが、とある理由から、十人抜きの相手が一人足りなくなってしまったの
で最後の一人の候補を色々と考えていた。
 その中に辻正慶の名もあった。
「で? どうなった」
「柄谷さんが負けちゃったんだ」
「なに!」
 と、浩之は一瞬驚いたが、辻だって三嶋と実力伯仲している猛者である。驚くには値
しないかもしれないと思い直した。
「柄谷は?」
「腕を骨折したみたいだよ」
「……」
「浩之……」
「九人目は辻だ」
 浩之はそういうと前方に倒れ込んで、両手を地面に着いた。
 八本の指が浮き、二本の親指だけが重みを支える。
「明日、やる」
 浩之の手がスムーズに屈伸運動を開始した。
「ところで浩之」
「なんだ?」
 ぐっと曲げて、ぐっと伸ばす。
「最近さあ」
「おう」
 額から垂れた汗が地面にシミを作った。
「あかりちゃんと会ってる?」
「ん、そういや……会ってねえなあ」
 十人抜きを開始してからは朝早く起きてランニングして学校に行き、サッカー部の部
室で軽く筋トレをしてから制服に着替えて授業に出て、休み時間には睡眠以外のことは
せず、授業が終わればまたもやサッカー部の部室でトレーニングである。昼休みもパン
を食べたら間髪入れずに寝てしまうので、そういえばここのところあかりと話していな
いような気がする。
「あかりちゃん……浩之に嫌われちゃったんじゃないかって心配してたよ」
「あ? なにいってんだあいつは」
「浩之、あかりちゃんはね、ずっと浩之のことが好きで、やっと恋人になれたんだ……
だから、嬉しい反面、いつか浩之と別れる時が来るんじゃないかって不安なんだよ」
「あいつが……そういってたのか?」
「うん」
「相変わらず心配性な奴だな」
「浩之……」
「わかったわかった。少し安心させてやればいいんだろ。とりあえず、九人目をやって
からだ」
 浩之は親指立てふせ五十回を終えて起き上がった。
「とりあえず、今晩電話してみるわ」
「うん、それがいいよ」
 そういうと、雅史は我がことのように笑みを浮かべた。

                                    続く

     どうもvladです。
     とうとう第六回目となりました。
     今回、思ったことが一つ。
     とりあえず浩之という男はあかりとくっついておけば問題ない。と
     いうことです。非常に落ち着きます。
     ところで、この話、六回もやってまだ終わりが見えません。現時点
     ではどういう終わり方をするのか全然わからんです。