鬼狼伝(5) 投稿者:vlad
「彼がここに来たのは一年前だ」
 一年前、その男は小倉の道場にやってきた。丁度、稽古が終わり道場生が帰ってしま
った後なので、小倉は彼を道場に上げて話を聞いた。
 空手をやってみたい、ということだった。
「僕に、できますか?」
 いかにも素人らしい問いだ。
 やる気さえあれば誰にでもできる、という小倉の答えに、男は入門を決意した。
 その男というのが月島拓也である。細い目が特徴的な青年であった。
 元々運動神経は良いようで、拓也は練習にはしっかりと着いてくることができたが、
どことなく物足りないところがある男だった。なんでもそつなくこなすのだが、意欲が
乏しいように思えたのだ。
 ある日、間接技を教えてみると、これが余程性に合ったのか熱心に練習するようにな
った。やはり、上達の糧に一番いいのは本人の意欲である。拓也の腕は上がり、それに
引っ張られるように打撃技にも以前より熱心に取り組むようになり、次第に道場でもト
ップクラスの実力者となった。
「ところがね……いつごろからかな……彼が怖くなったんだよ」
「怖く……ですか?」
 小倉がそれに初めて気付いたのは寝技の組手の時だ。
 拓也が腕ひしぎ十字固めを使った。
 それはいい。
 完全に決まり、相手が拓也の腕を二回叩いた。
 相手を二回叩くのはギブアップの合図である。もちろん、拓也はそのことを知ってい
た。
 骨が軋んだ。
 相手は計八回拓也の腕を叩いた。
 相手の腕が折れなかったのは、拓也が技を解いたからではなく、小倉が割って入って
無理矢理に技を解いたからだ。
「彼はね、嬉しそうだったよ」
「嬉しそう……」
「ああ、顔がね、恍惚としているんだ」
「それで……破門っスか」
「同じようなことが何度も続いたんでな……他の道場生のことも考えて破門にした」
 正直、その話だけでは月島拓也という男のことはよくわからなかった。
 寸分の無駄もなく技が決まれば、我ながらそれに惚れ惚れとしてしまうという経験は
浩之にもあった。
 だが、小倉が恐怖を感じ、破門にしてしまうほどだ。おそらく、何か浩之が考えてい
るようなことを超越した「歓喜」が月島拓也の面上に浮かんでいたのかもしれない。
「もしやるのなら、間接技に気を付けることだ。決められたら折られると思っていい」
「はい、そん時は気を付けます」
 浩之は一礼して小倉の元を辞した。

「瑠璃子……下がってなさい」
 その一言で、妹は後ろに下がった。素直なよい妹だ。
 我ながら、平地に乱を起こすような真似をするとは自覚しないでもなかったが、通行
の邪魔になっていることを指摘すれば怒り、病院では静かに、といえばまた怒る。
 そのような人間を穏便に扱うのは、彼──月島拓也には不可能であった。
 見たところ相手は二人、だが、片方には戦意が無く、むしろ好戦的な連れ(?)を制
止しようとする素振りが目立つ。
「せあっ!」
 棟方は、耕一が瑠璃子に気を取られている隙に、だっ、と踏み込み右拳を打ってきた。

 何か格闘技をやろう、と思ったのは、妹の瑠璃子のためらしい。
 いざとなった時、瑠璃子を守るのに少しは肉体的な強さが必要なのではないか、と漠
然と思っていたような覚えがある。
 とりあえず行動してみようと思い。通学路の途中にある空手の道場に行ってみた。
 しばらく、義務的にそこで練習していたのだが、ある日教えてもらった間接技という
のが妙に気に入ってしまい、ハマった。
 あれは、一年ほど前だったろうか。
 拓也は道着を肩から吊して帰り道を急いでいた。
 なぜか二人組の男に絡まれた。
 今でもよく理由がわからない。
 道着を吊していた帯が白い色をしていたのでナメられてしまったのかもしれない。
 ただ喧嘩がしたいだけの連中だったのかもしれない。
 それとも、案外、自分の顔が他人に不快感を与えるのか。
「てめえ、ガンつけてんじゃねえ!」
 と、いわれても拓也はそんな連中は一瞥すらしていない。
 そういったきり、拓也の弁明も聞かずにいきなり殴りかかってきたので拓也は道場で
教えられたように夢中でそれをさばいた。
 次の瞬間、顔面に拳をぶち込んだのも教えてもらった通り。
 その一発でそいつがダウンしたのは予想外であった。無我夢中で狙う余裕など無かっ
たのだが、偶然にカウンターになったらしい。
 どっ、と男が背中を地に打ち付けた時、拓也は構えを取った。もう一人の奴がどう出
るか、一発で仲間を沈めたのを見て戦意を無くしてくれれば、と拓也は思った。
 しかし、そいつは仲間が倒れるのを見ると激昂して向かってきた。
 左足で横蹴りを放った。
 素人だ。キレも速さも無い。
 右手を上げてガードした。
 足の動きが止まった刹那、その右手を一転させて、足を潜らせ膝の裏に持っていく。
 そして、左手ですねを掴む。
 左手を固定したまま右手を一気に左回りに半転させると男はあっさりとうつぶせに倒
れた。
 習った通りだ。体がスムーズに動く。
 拓也は即座に両手で男の足首を挟んだ。
 右手が踵を、そして左手が爪先を掴んでガッチリと挟んだ。
 それを、思い切り全力で捻る。
「痛っ!」
 男が叫んだ。
「や、止めろ! 離せ!」
 拓也はただただ力を籠める。
「!!……」
 抵抗が無くなった。
 どうしても越えられないラインをひょい、と越えたような感じ。
「っっっ!!」
 やった。
 折れた。
 折った。
 練習の時にはもちろん本当に折るわけにはいかないので、ある程度力を抜いて、相手
がギブアップすればすぐに外す。と、いうより、間接技が完全に決まった瞬間に相手は
ギブアップするし、こっちもそれを見越してあまり力は入れない。
 しかし、実戦では関係無い。
 折るのだ。
 折っていいのだ。
 いい。
 こんなに気持ちのいいものだとは思わなかった。
 男は左腕を後ろに振った。
 後ろを見ずに夢中で振ったその腕は難なく拓也に受け止められてしまった。
 相手がうつぶせになっていて、腕を取っている。
 この体勢からだと、脇固めにすぐに行ける。
 拓也は半ば無意識の内に男の左脇に移って左腕を決めていた。
「や、止めろ!」
 折ってやろう。
「離せ!」
 駄目だ。
 折れる。折れる。もうすぐ折れる。
 またあの快感が全身を駆け抜けるのだ。
「くあぁっ!」
 確かな感触。
 やはり間違いではなかった。
 拓也はある種の感動に打ち震えながら立ち上がった。
 しばらく、重苦しい悲鳴を聞きながら拓也は陶然としていたが、やがて我に返ると、
さすがにやりすぎたような気がして男の顔を覗き込んだ。
「ちょっと……」
「う……ああ……ひぃ」
 掠れるような声。
 男は、明らかに拓也に本能的な恐怖を感じていた。
 理性ではない、本能が感じる根源的な恐怖だ。
「ふふ」
 自然に笑みが浮かんだ。
 それから二週間後である。通っている道場の主に破門をいい渡された。このままでは
いつか練習中に間違いが起こると思ったのだろう。拓也に異存は無かった。基本は既に
学び取った。後は独学で行ける。

 棟方の右拳は身を捻った拓也の頬を掠った。
「おい、止めろって」
 もはや手遅れかと思いながらも棟方を制止した耕一は、すぐに身を翻して拓也を見た。
「おい、君、大丈夫か」
「……見ましたね」
「え?……」
「その人が先に僕を殴ったんですよ、それをお忘れなく」
「おい、落ち着いて……な」
「いざという時には証言して下さい」
「おい!」
「どけ! 柏木!」
 棟方の馬鹿が喚いている。
「ええい、待てっていってんだろうが」
 くい、と袖が引っ張られた。
「誰だ」
 振り向いた耕一の目の前で一人の少女が微笑んでいた。
「えっと、君は」
「月島瑠璃子だよ」
「あ、ああ、それはどうも」
「お兄ちゃんの好きにさせて」
「はあ?」
「うん、瑠璃子、僕に任せておけばいい」
「お前らなあ……そいつは空手やってんだぞ、けっこう強いんだ」
「お兄ちゃんも強いよ」
「うん、瑠璃子のお兄ちゃんは負けないぞ」
「どけ! 柏木!」
「ええい! お前ら好きにしろ!」
 とうとう、耕一はさじを投げた。
 瑠璃子の手を引いて離れる。
 だっ、と焦れに焦れた棟方が突進した。
 右拳。
 さっきと同じ。
 だが、拓也の動きは先程とは打って変わって流麗、かつ迅速であった。
 左に避け、棟方の右手が伸びきった瞬間、右手が手首に、左手が肘に。
「ぐあっ!」
 右手を引き、左手を押す。
「上手い」
 耕一が呟いた。
 右手の間接を取られて、棟方は仕方なく上半身を曲げた。
 瞬間、拓也の右足が上がって棟方の顔面に激突した。
 上半身が跳ね上がったところへ、拓也の左のローキックが膝裏を叩く。
 膝が曲がった。
 腕は拓也に取られたまま。
 拓也が棟方の右腕に飛びつく。
 左足が棟方の首を刈った。
 膝が曲がっているところに足で首を前から刈られては、後方に倒れざるを得ない。
 棟方が気付いた時には彼は仰向けに倒れていた。
 次の瞬間、右腕が拓也の両足に圧迫される。
 間隙を置かずに、激痛が右腕を走った。
「くくっ!」
 腕ひしぎ十字固め。
 完全に決まっていた。
 決まれば、後は折るのみ。

                                    続く

 オリジナルキャラ紹介。

 三嶋常久(みしま つねひさ) 黒輝館三段。
                同門の辻という男と決闘しようと赴いた夜の公園で
                藤田浩之と戦って敗北する。

 辻正慶(つじ しょうけい)  黒輝館三段。
                名前しか出ていない。三嶋と同期でライバルである
                が、第三者の評価は概ね、三嶋の方が高いのが不満
                であるようだ。

 張本剛(はりもと つよし)  黒輝館初段。
                耕一と同じ大学に通っていて、黒輝館で空手を学ぶ
                傍ら、大学の空手部へも顔を出している。
                浩之との野試合で敗れ、入院してしまう。

 棟方(むなかた)       耕一と同じ大学に通っている。空手部に所属してい
                て、張本の友人である。
                張本の野試合の相手を耕一と勘違いして勝負を挑み
                親指を折られ、今回は拓也ともめて腕ひしぎを決め
                られる。元々、この話のオリジナルキャラはほとん
                ど「かませ犬」なのだが、こいつはその中でもその
                色が濃い。

  小倉四郎(おぐら しろう)  浩之の家の近くで空手の道場を開いている。
                練習の時は厳しいが、基本的に温厚で道場生にも慕
                われている。


     どうもvladです。
     確たる構想もないまま書き始め、確たる構想が完成しないまま書き
     続けている鬼狼伝もついに第五回目となりました。
     現時点ではどこまで続くか皆目見当つきません。

 では、失礼いたします。