鬼狼伝(4) 投稿者:vlad
 なんでここでこいつと相対しなければならないのか、と耕一は不満であった。
 通っている大学の空手部の道場。
 自分がここにいるのはいい。自分で望んだ、というわけではないが、少なくともここ
にいることには、自分の意思が大きく関係していた。
 しかし、目の前にいる棟方という男とピリピリした空気の中で睨み合っているのは、
決して耕一の意思から生じた状況ではなかった。
 張本のことで話がある。と、いうので着いてきたらいつのまにかこんな始末である。

「張本が入院した」
 と、耕一を道場に連れてきた棟方はいった。
 初耳であった。
「お前がやったんだろう」
 冗談ではない。
 そういえば、いわれて思い出したのだが、一週間ぐらい前、格闘技に関して耕一は張
本と口論になったことがあった。
 違う流派の格闘技を学ぶ者として、意見や考え方にやや相違があったのが原因であっ
たが、それほどに根の深いものではなかったはずだ。
 それが原因だろうと彼らはいうのだ。
「実際に、この中の誰でもいいから、おれと張本が口論をしているところを見た奴はい
るのか?」
 もちろん、耕一はそう尋ねた。
 耕一をここに連れてきた五人と合わせて、道場には十四人の男がいたのだが、一人も
首を縦に振る者はいなかった。
 口づてに「柏木と張本が格闘技のことで口論していた」という話を聞いて、早とちり
したのだろう。
 もちろん、耕一は疑惑を否定したのだが、それほど物分かりのいい連中では無かった。
 何をいってもしらばっくれていると思われてしまう。
 そんなわけで、耕一は今、棟方と向かい合っている。
 棟方はこれから自分に「制裁」を加えるらしい。
 理由は当然、張本の仇討ちだ。
 
 耕一は張本を入院させた覚えは無い。
 こいつらは口でいってもわからない。
 痛いのはやだ。
 
 以上、三点の理由から、耕一は棟方を前にして構えていた。
 棟方は耕一の見る限りはけっこうやる奴だ。そもそも、
「一対一で勝負だ」
 と、伍津流を学ぶ耕一にいっただけでも、相当の自信があるということだ。
 棟方が右拳を放った。
 スピードはなかなかのものだ。
 耕一は左手で弾いた。
 相手が空手家だという認識が、耕一を捕らえていた。
 右拳を弾かれた瞬間、棟方が半回転しながら耕一のふところに入ってきた。
 棟方の背中が耕一の腹にぶつかった。棟方の体勢が低い。
 投げられる!
 思った刹那、耕一は逆らわずに飛んだ。
 棟方は耕一を背負い、投げた。
 手を離す。
 投げっぱなしか!
 危険である。柔道の練習などでも危ないので「投げた時、絶対手を離すな」と、禁止
されている。
 耕一は宙に跳ね上がった。
 頭が思いっきり下を向いている。こうなると非常に受け身が取りにくい。
 柔道の道場ではないので、床は板の間だ。頭から落ちたらただでは済むまい。
 耕一は両足を振った。
 その動きに合わせて耕一の体が空中で回転する。
 両足が床に着く。
 即座に振り向いた。
 追撃を恐れての機敏な行動だったが、棟方は呆然として元の位置から動いていない。
 あれで仕留めた、と確信していたのだろう。
 このまま呆然としたまま戦意を喪失するか。
 おのれ小癪な真似を! と、怒るか。
 まあ、大体こういう時の反応はこの二通りに別れる。
「野郎っ!」
 怒った。
 タン、タン、と床を蹴って突進してくる。
 しかし、耕一だっていつまでも平和主義者ではないし、無制限に寛大でも、人格者で
もない。殴られれば殴り返してやろうと思うし、あまりに聞き分けが無い人間には、口
でいってもわからないのなら痛い目にあってもらおう、という対策を立てることもある。
 右、右、左。
 耕一はそれを片手でさばいた。
 右手が伸びてきた。
 拳を握っていない。やや掌が開いている。
 左の袖が掴まれた。
 あっちはしっかりと道着を着ているからいいが、こっちは普通のトレーナーである。
「伸びるだろ」
 耕一は呟いて、その手を取った。
 右手で手首を掴んでいる。
 ここから左手を相手の肩の上を掠めるように伸ばして、手を巻き込みつつ引き倒して
右手をロックすれば脇固めになる。
 その気になれば腕の一本ぐらいへし折るのはわけはない。
 だが……腕の一本も折ってやるほどでもないかな……。などと考えていたら振りほど
かれた。
 うん、指の一本ぐらいに止めておこう。
 拳が飛んできた。
 拳を握られていると指を一本だけ取るというのは難しい。
 棟方は続けて打ってきた。
 右、左、右、そして右の蹴り。
 左、右、左、そして左の膝を上げて耕一はこれを防いだ。
 そして左。
 拳を握っていない。
 掴んで、投げてくるつもりだ。
 耕一は右手を振った。
 耕一の手刀が棟方の左手の内側を掠めるように伸びる。
 瞬間、棟方の左肘が弾かれるように曲がった。
 手刀は、ぴたりと棟方の首筋の直前で停止している。
 十三人の観客たちは、寸止め──と、思ったであろう。
 しかし、耕一はそこまで甘くはない。
 一拍置いて、棟方が絶叫して退いた。
「う! ぐ……」
 左手の親指を押さえて呻く棟方に耕一の視線が刺さる。
 その視線を外すと、耕一は無言のまま道場の隅に置いてあったバッグを取って、沈黙
を保ったまま、道場を後にした。
 親指を折られた棟方がどう出るか、と思ったが、彼は追っては来なかった。
「張本と話をつけておくか……」
 どこの誰が張本をやったのかは知らないが、えらい迷惑である。
 と、いっても今更引き返してあの連中に張本の入院先を尋ねるのもなんなので、空手
部関係ではない張本の知人をとっつかまえて話を聞いた。
 張本は自宅の近くの病院に入院していた。
 耕一のアパートからは正反対の方角だ。
 確か、この近くに黒輝館の道場があるはずだ。
 張本の病室は四人部屋であった。
「おう」
「……ああ」
 意外。
 と、いった感じの張本であった。特に深い付き合いでもない耕一が見舞いにやってき
たのだからそれも当然であろう。
「どうだ?」
「ん……特になんてことはない。頭を強く打ったんでな……念のためだ」
「相手は誰だったんだ?」
「……」
 張本は何もいわない。
「おれ、じゃあないよな」
「……」
 今度の無言には明らかに困惑が含まれていた。
「ほら、お前の知り合いに棟方っているだろ、空手部の」
「ああ、棟方がどうしたんだ」
「あいつらがさ、おれがお前をやったと思ってるんだよ」
「なに……」
「そんで、さっき道場に呼び出されたよ」
「そ、それでどうした」
「まあ、おれはなんともなかったけどさ」
 耕一は、先程の一件を張本に語り聞かせた。
「そうか……すまん、おれのつまらんプライドのせいだ……」
 張本は苦い顔をしながら、頭を下げた。
「たぶん……あれは高校生だ……高校生に負けたなんていえやしないからな……あいつ
らにはそのこと黙ってたんだ」
「へえ、高校生」
 この張本というのはけっこうな実力者だ。
「棟方たちにはおれの方からいっておく」
「ああ、頼む」
 耕一は一安心して病室を出た。
 その目の前に、先程親指をへし折った男の顔が出現した。
「……」
「……」
 突然のことなので、さすがに双方言葉が無い。
「てめえっ!」
「よう」
 双方、距離を取って、しばしまた無言。
 棟方の親指に包帯が巻かれている。ここで治療を受けて張本の見舞いに来たのだろう。
「……」
「……」
 耕一は、どうしたものかと思案した。この男、どうやら先程はいきなり親指を折られ
て瞬間的に戦意を無くしただけであるらしい。
「そんじゃ」
 何気なくさり気なく何事も無かったように去る、という耕一の策は通じなかった。
「待て」
 肩に手が置かれた。
 反射的に耕一の体がピクリと震える。後ろから肩に手をかけられた時の対処法、とい
うのを昨日練習したばかりであった。
 ぐっ、とこらえて耕一は振り向いた。
「なんだよ」
 まさか、病院の廊下で喧嘩などしないだろう。とは思うものの、いかにも単純そうな
棟方の顔を見れば見るほど自信が無くなってくる。
「あのな、おれにどうこういう前に、張本に話を聞け」
 耕一は、こうなっては却って逆にこれを好機として、張本からこいつにいってもらお
うと思った。幸い、張本は壁一枚隔てたところにいる。
「どいて下さい」
 男の声がした。
 それが耕一と棟方に向けられた言葉であろうことは容易にわかった。二人である程度
の距離を取っているものだから、ただでさえあまり広くない廊下が余計に狭まっている。
「うるさい、黙ってろ!」
 棟方が怒鳴る。
「おいおい」
 耕一はさすがに止めた。このあまり思慮が深いとはいえない男の牙が自分はともかく
他の人間に向けられることは避けねばなるまい。
「止めろって……邪魔になってんのは確かなんだから」
 耕一は棟方を止めることで、この場を収めようとしたが……。
「病院の廊下で騒ぐとは……とことん非常識な人ですね」
 耕一が「助け」ようとした男が見事にその努力を無にしてくれた。
「なんだと……」
 棟方の馬鹿はもはや耕一など眼中に無しといった感じだ。
「病院ではお静かに……常識でしょう?」
 耕一はやっと、その人物に注目した。
 背はけっこう高い……が、それほどごつい体格ではない。一目見て、なにか格闘技を
やっているようには見えない。
「喧嘩売ってんのかてめえ!」
 こういう状況でそういう台詞を吐く奴こそが喧嘩の売人であるが、わざわざそんなこ
とをいっても棟方の頭に血を上らせるだけだろう。
「おれはこう見えても空手をやってんだ」
「へえ」
 馬鹿にしたような響きの声が、棟方の癪に触った。
「ん?……」
 棟方を止めねば、と思った耕一の表情に変化が生まれた。
 棟方に喧嘩を買わされそうになっている男の背後にいた少女に気を取られたのである。
 神秘的。
 と、いう言葉が即座に耕一の頭に浮かんだ。
 男が後ろを向いて、少女に向かっていった。
「瑠璃子……下がってなさい」

「実はね、もうここにはいないんだよ」
 そういわれて、浩之は落胆した。
「そうなんですか……ちょっと手合わせしたいと思ったんですが……」
「うん……まあ、君ならいい勝負をするかもしれんな」
 浩之と対座してそういった男。
 小倉四郎(おぐら しろう)という。
 浩之の家の近くで空手の道場を開いている人物で、ほとんど我流の浩之に辛うじて師
と呼べる人物がいるとすれば、それはこの小倉ともう一人ぐらいであったろう。
 基本的に空手だが、間接技もやる、というのが小倉の道場の特徴であった。
 浩之は今日は相棒の雅史を連れていなかった。大会が近付いてきて雅史もサッカーの
方が忙しくなってきたのだ。
 今日、浩之はこの道場に手合わせに来たところであるが、小倉がいった通り、目当て
の人物はもうここにはいないらしい。
 入門してから一年たらずで道場でも並ぶ者が無いほどに強くなったと聞いて、浩之は
興味を持ったのだが、残念である。
「ところで、そいつ腕は上がってたんでしょう? なんで来なくなっちまったんスか?」
 浩之にはそれが疑問であった。大体格闘技というものの醍醐味は自分が強くなってい
くことにある。どんどん強くなっている途中で止めてしまうには、それなりの理由があ
るはずだ。
「彼がやめたんじゃない……私が破門にしたんだ」
「破門?」
 浩之は思わぬ言葉を聞いて驚いた。
 この小倉四郎という人はけっこうな人格者で、道場生も皆、彼を慕っている。練習を
離れればとびきり温厚で、今までどんなに素行が悪い道場生も無闇に破門にしたことは
ない。
「そいつ……そんなにワルだったんスか?」
「いや……そうじゃない……彼を破門にしたのは特殊な理由なんだ……」
「へえ……そいつは、是非話を聞きたいものですね」
 改めて、浩之の興味が激しく刺激された。
「そいつ、名前はなんていうんです?」
「月島拓也」
「……月島……拓也……」
 浩之はその名前を噛みしめるようにゆっくりと口にした。
「是非、聞かせて下さい。そいつの話」

                                   続く

     どうもvladです。
     第四回目となりました。
     けっこう悩んだ末に月島拓也を登場させました。作品の性質上、彼
     は毒電波は使えません。祐介か瑠璃子にでも封印された……ってこ
     とにしといて下さい。作中ではそのことには触れません。
     では、逃げるように失礼いたします。