鬼狼伝(3) 投稿者:vlad
 車が緒方家の前に停まった。
 昨年、新築したばかりのこの家は完成当時マスコミに「緒方御殿」といわれて騒がれ
たものだ。
 いわれるほどでかくも豪華でもないと英二は思う。確かに、妹と二人だけで住むには
大きい家だとは思うが。
 ドアが外から開けられた。
 英二は悠然と車から出る。
「到着いたしました」
 この車を運転していた来栖川家の執事、長瀬源四郎が恭しく一礼している。
「あの、長瀬さん」
「はい」
「さっき、格闘技をやっていたっていってましたよね?」
「……はい、申し上げましたが」
「例えば、こうパンチを打ったとしますね」
 そういって英二は右のストレートを突き出して、それを源四郎の胸のすぐ前で止めた。
「そうしたら、普通の人はたぶん、後ろに下がるか、掌で受け止めるか、手を振って弾
くか……まあ、そんなものだと思うんですが……」
 源四郎はこの自分の息子よりも若い男のいうことに何ら心を動かされた様子は無かっ
た。ただただ関心が無いようだった。
「格闘家としては、どうしますか?」
「……」
「こうです。こう」
 そういってまた英二はゆっくりと右ストレートを放った。
「こう、ですな」
 源四郎は渋々ながら上体を動かした。
 足の位置はほとんど動かさずに上半身を、右肩を英二の方に向けるように捻って、捻
りつつ、右に反らして英二のストレートをかわしている。
「それじゃ、次はやや早めに行きます」
 英二はそういって、構えた。
「……」
 源四郎もやはり渋々と付き合って形だけとはいえ構えを取った。
 英二は、打った。
 空を切り裂いたその右ストレートは虚しく外れた。
 源四郎は、先程のように上半身を捻るようにそれをかわし、そして、同時に右拳を英
二に向けて放っていた。
 やや横から、英二の顎を狙ったパンチであった。
「こうして反撃します」
「へえ、さすが」
「あなたも……」
 英二の左手が源四郎の右に反応して上がっている。はっきりいって全然間に合ってい
ないが、反応しただけでも見事といわざるを得ないほどに源四郎の反撃は滑らかで、素
早かった。
「全くの素人ではないでしょう」
 源四郎の英二を見る目が一変している。
 今の英二の右ストレートは自分だからかわせた、と源四郎は自慢でも慢心でもなく、
そう思った。
 全くの素人ならば右ストレートが来る、とわかっていても貰ってしまっただろう。
「はは、学生時代に少しだけですけどね」
「……ほう」
 ほんの少しだけ、源四郎は、この緒方英二というミュージシャンに興味を持ったよう
であった。
「今度、機会があったら教えて下さい、色々とね」
 英二は意味ありげな笑みを唇に浮かべた。

 別に特にムシャクシャしていたわけではなかった。
 戦いに餓えていた。というわけでもない。
 戦いならば、毎日のように組手をやっている。
「ごめん……な、さい……」
 途切れ途切れにいったその口に、正拳を叩き込んだ。
 手応えがあった。
 前歯が何本か折れただろう。
 その、どう見てもチンピラの予備軍にしか見えない高校生たちが黒帯の先に道着をぶ
ら下げて歩いている彼に、
「黒帯かよ……ホントに強いのかよ」
 と、やや大きめの声でいったことは、十分に理由になるだろう。
 だが、普段の彼ならば、そんなものは無視して通り過ぎることも可能だったはずだ。
 一週間前に手に入れた念願の黒輝館初段の称号。
 それを象徴する黒帯を馬鹿にされたことがどうにも許せなかった。
 黒輝館初段。
 張本剛(はりもと つよし)。二十歳。
 連中は公園の入り口のところにたむろしていた。
 いきなり、一人を蹴って公園の中にふっ飛ばした。
 それを追った張本を追って、全員公園の中に入ってきた。
 十月初旬。
 この時期、そろそろ日が落ちるのが早い。
 午後六時半。
 既に、辺りは闇であった。
 相手は四人、おそらく格闘技の経験は無し。
 素人だ。
 面白いように回し蹴りが決まった。
 奴らの攻撃は宙を切り、奴らは蹴り一発でダウンする。
 面白かった。
 それで、少々やりすぎた。
 だが、気を高ぶらせた張本は、倒れている奴を引き起こして蹴った。
「なあ」
 声は、張本の気を現実に引き戻す効果があった。
「あんた、力が有り余ってんのか?」
 道着のズボンに黒いTシャツ、そして皮のジャンバー。
 張本はその名を知るはずもなかったが、藤田浩之であった。
 張本の兄弟子、三嶋常久を入院させた男だが、もちろん、そのようなことも知ってい
るはずがない。
 今日は、いつもの相棒、佐藤雅史を連れていない。
 浩之は夕食前のジョギングの途中だったのである。公園の中で喧嘩しているのを見て、
思わず、引かれるようにやってきたというわけだ。
「なあ、おれとやんねえか? 勝っても負けても恨みっこ無しでさ」
 張本は、突然現れた乱入者に、胡散臭げな視線を向けていたが、やがて足で倒れてい
る男をひっくり返した。
「暗くて見えないか? 地面に倒れてる人数が」
「いや、見えてるよ……あんた、一人で四人とはなかなかやるね」
「それがわかっていておれに挑むのか」
 声に張りがある。気が、再び高ぶってきた。
「ここ何日か餓えてんだ……」
 浩之の声には渇望の響きがあった。
 今にでも「食いつき」そうだ。
「いいだろう。ルールは?」
 張本とて、好戦的な心境にある。
「喧嘩でいいだろ」
 張本の腰が僅かにだが落ちた。
 右拳が伸びた。
 少し退く。
 拳は、浩之の顔の少し前で止まった。
 これ以上伸ばそうとすれば上体を崩さねばならない。張本は右を引いた。
 右を引いて、踏み込むと同時に左……は、フェイントだ。
 軽く宙を打っただけで左は引っ込み、再度、右拳が唸った。
 浩之は、右手を上げていた。
 もちろん、張本の左拳を防御するつもりであった。
 かかった!
 と、どっちもが同時に思った。
 正確無比に顔面に向かってくる右を、浩之は辛うじて左手で弾いた。と、同時にやや
フック気味に弧を描いた張本の左が浩之の頬を叩いた。
 素早い!
 浩之は首を捻りながらそう思った。
 今のを、かわした!
 張本は絶対にクリーンヒットすると思ったパンチを外されて一瞬、当惑した。
 むろん、完全に外れたわけではない。確かに、拳が浩之の頬に接触した。が、浩之は
瞬間、首を捻り、顔を思い切り左に向けて、さらに上体を後方に反らすことによってダ
メージを最小限に止めたのである。
 拳は、浩之の頬をかすっただけであった。
 だが、浩之の体勢は後ろに向かって崩れた。
 だんっ、と踏み込む。
 右拳が来る。
 浩之はそれをガードした。よく鍛えられた腕の筋肉はその正拳突きに耐えた。
 しかし、大きく後方に飛ばされることとなった。
 遂に、浩之は背中で地を打った。
「えあっ!」
 浩之を見下ろした張本は、すぐさま右足を打ち下ろそうとした。
 突然、左足が地面から離れた。
 張本の右足が高く上がった瞬間、浩之が左足の膝を蹴ったのだ。
 左足が後方に弾け飛ぶ。
 もはや、右足を浩之に見舞ってやるような状況ではなかった。
 体勢を立て直さねば、と思った時には、浩之が天に向けて突き上げた右拳が張本の鼻
に炸裂していた。落下しているところへ入ったのでカウンターになった。
 張本の体が一瞬、宙に停止した時、入れ替わって左が打ち上げられた。
 立て続けに猛打を顔面に食らって、張本の意識が一瞬だけ飛んだ。
 浩之が横に跳ねて、張本と地面のサンドイッチの具になるのを回避した。既に張本の
目は光を放ってはいない。
 だが、浩之は容赦せずにうつぶせに寝そべった張本の後頭部に肘を叩き下ろした。
 ゆらり、と立ち上がる。
 足で後頭部をグリグリ踏んでも張本は反応しない。
「いい運動になったよ」
 屈託の無い笑顔。
 こういう状況でこういうふうに笑えるのはこの男の特技といっていいかもしれない。
 浩之は、頬を手でさすっただけで、後は何事も無かったかのように、公園を出て行っ
た。
 九人目を前に、いいウォーミングアップになった。

「なに、九人目がこっちに来やがるのか」
 翌日、昼休みの屋上で浩之は声を上げた。
 前に、雅史がいる。
「うん、そうらしいよ」
「どういうことだ」
 浩之の「十人抜き」の九人目の標的、柄谷光吉(からたに こうきち)は黒輝館神戸
支部の人間である。
 よって、浩之はそのために神戸まで遠征しようとしていたのだが。
「毎年、東京支部と神戸支部での対抗戦があるんだ。今回は東京支部でやるんだけど、
柄谷さんは神戸支部代表に選ばれたんだよ」
「それで、向こうから遠征してきやがんのか……よし、そいつはいいぞ」
 浩之の目が輝いている。
 実をいうと神戸までの交通費が「痛い」と思っていたところである。

「なあ、ちょっと来てくれるか」
 道着を着た男たちにそういわれる心当たりが皆無というわけではなかったが、やはり、
いきなりそういわれて耕一は戸惑った。
「え、なんだよ」
 男たちは五人いた。中に二人ほど耕一の知っている顔がある。
 そういえば、こいつら空手部だっていってたな、と耕一は思い出した。
 一体、なんであろうか。
 耕一が伍津流格闘術を学び始めた。というのは一部の人間は知っている。
「是非、少し教えてくれ」
 と、いうお願いであろうか。
 しかし、それにしては連中の腰が低くない。もっとも、師の許しも無く他人に教える
ことはできないが。
 空手部っていえば……張本の奴が、黒輝館で空手やってて、時々うちの大学の空手部
にも顔出してるっていってたな……。
 そんなことを考えていると、
「張本のことで話がある」
 と、いわれた。
 張本とはちょっとした知り合いではあるが、それほど深い付き合いでもないし、受講
している講義があまり重なっていないので、耕一はここ三日ほど顔も見ていなかった。
「張本がどうかしたのか?」
「とぼけるな」
 と、いったこいつは棟方(むなかた)とかいったっけ。
 などと思っている間に囲まれた。
 ごつい男たちに包囲されるのはあまり気分のいいものではない。
「来てくれるな」
 なんか勘違いされているらしい、と耕一は思いつつも、
「ああ、いいよ」
 と、いった。
 張本のことなんか知らないのだ。どうせ誤解だろうから、話し合いでどうにでもなる
だろうと、この案外平和主義な男は思っていた。

                                   続く

     どうもvladです。
     第三回となりました。
     相変わらず、自己満足の塊のような作品です。
     なんか……浩之ばっかり闘ってるな……。なんとかせねば。別に、
     浩之が主人公ってわけじゃないんです。
   
 では、失礼いたします。