鬼狼伝(1) 投稿者:vlad
 決闘の場所は、夜中の公園だった。
 人通りが少ないわりに、広さがある。
 側に民家が無い。あるのはオフィスビル群であり、その時間にはほとんど人がおらず、
少々騒がしくしても気付かれる心配はほとんど無い。
 黒輝館三段。
 東京支部、次期支部長候補。
 三嶋常久(みしま つねひさ)であった。
 そこでは、彼と同門の黒輝館三段、辻正慶(つじ しょうけい)が待っているはずで
あった。
 三嶋と同じく、黒輝館東京支部に籍を置く者である。
 入門は一日違い、初段になったのも、二段になったのも、三段になったのも同日。
 公式試合での勝敗は、九戦して四勝四敗一分け。
 誰が見ても、今のところこの二人に優劣はつけがたい。
 一週間後、神戸支部との対抗戦があった。
 現東京支部長が代表に選んだのは三嶋だった。
「辞退しろ」
 と、いうのが、辻が三嶋に対していった言葉であった。
 そのやたらとストレートな言葉に対する三嶋の返答にもまた、小細工は一切無かった。
「どうしても納得がいかないなら、勝負しよう」
 これからの決闘、負けたら三嶋は代表を辞退する。
 まだ十月だというのに、身を切るような冷たい風が吹いていた。
 僅かだが遅れた。辻はもう待っているに違いない。
 入ってすぐの所だと、辻はいっていた。が、少し奥まで入ってきたのに人影が無い。
 さては別の入り口があったのか、と三嶋が思った時、後ろから足音が聞こえてきた。
 辻の方が遅れたか。
 だが、振り向いた三嶋の視線が捉えた人影は二つ。
 辻だとしたら、誰か立会人を連れてきたか……。
「黒輝館の三嶋さんだね」
 人影の一つが聞いたこともない声でいった。どうやら男のようだ。
「誰だ」
「辻さんは来ないよ」
 三嶋の眉が逆立つ。
 今日、三嶋と辻がここで立ち合うことを知っている人間はごく僅かである。上の人間
は知らない。後輩が数人、知っているだけだ。
「おれ、あんたとやりたかったんだけどさ」
 そいつは、空手や柔道の道着のズボンをはき、上半身は黒いTシャツをまとい、その
上に皮のジャンバーを羽織っていた。
 顔立ちはそう悪くない。
「道場に行ったって、あんたぐらいになるとすぐには相手してくれないだろ」
 男は、どことなく退屈そうであった。
「ぞろぞろ群がってる下っ端なんかあてがわれちゃたまらねえ」
「辻はどうした」
「そんな時にな、こいつが、面白い話を聞いてきやがった。なっ」
 そういって、そいつが笑みを向けたのは、もう一つの人影であった。
 それも男であったが、表情が柔和である。小綺麗なスポーツウェアに身を包んだその
男は、相棒とは違って人当たりのよさそうな雰囲気を漂わせている。
「あんたんとこの連中がね、話しているのを小耳に挟んだ。っていうか、まあ、おれが
頼んで黒輝館に偵察に行ってもらったんだけどな」
「随分と危険なことをする……」
 黒輝館には荒っぽい連中も多い。
「チャンスだと思ったね、今日この時間にここに来れば『やる気になってる』三嶋常久
とやれるんだからな」
 まだ、男は退屈そうだった。
「そういうわけで、辻さんにはちょっと眠ってもらってる」
「辻を、やったのか……」
「おれがやりたいのはあんただ。辻さんの方は薬で済ませたよ……」
「貴様……」
「やろうぜ、三嶋さん」
 男は楽しそうに笑った。
「お前とやる気はない」
 背を向けた三嶋を、男は追おうとはしなかった。
「そんなに穏やかな気性じゃねえだろ、あんた」
 ジャンバーの袖から、男は腕を出した。
「おい、三嶋、黒輝館三段ってのは金で買ったのか?」
 振り向いた。
「なっ、おれのいった通りだろ、受けなくてもこういえば大丈夫だって」
 男は後ろの男を顧みた。
「でも……怒らせちゃったみたいだよ」
「かまやしねえって」
 ジャンバーが広がって舞った。
「預かっておいてくれ」
「うん」
 ポケットから取り出した、くしゃくしゃになった薄手の黒い手袋をはめながら、男は
三嶋の顔を見ていた。
「おれが三段になったのとおれの家のことは関係ない!」
 三嶋の実家が大地主であることは一部では有名であった。
「なんだ。あんた気にしてたのかい、あの噂」
「貴様っ!」
 だんっ、と地を蹴る。
「待ったあ! ルールは!」
「いらん!」
「OK!」
 蹴りが、下方から伸びてきた。
 遠慮も何もない。いきなり金的蹴りをかます気だ。
 空手の高段者の蹴りは凄まじい力を秘めている。木製のバットを折るところなどを、
映像などで御覧になったことがあるかもしれない。
 あれで金的を蹴られると、当然のことながら痛い。だけでなく、「その気」ならば、
殺すことも可能である。
 筆者の昔話を差し挟むことを御了承されたい。
 私が中学生の時分、知人と両手を組み合わせ、いわゆる「力比べ」をしていた。と、
いってももちろん全身全霊を傾けて互いの力を試そうというのではなく、ただふざけて
手を合わせ、うりゃあ、とか、うおお、などと叫びながら手を震わせていただけだ。
 その時、その知人の膝蹴りが私の金的を襲った。
 その膝蹴りにはスピードもパワーも無く、他の箇所に食らったらのなら特に痛みを感
じるようなものではなかった。
 だが、金的に入れば話は別である。
 私の股間を激痛が走り、私はそれに駆られるように教室の中を走り回り、廊下に出て
さらに走り、元の場所に戻って足踏みした。
「なんか大股開いてるんでちょっと蹴ってみた」
 と、いうたわけの放ったあの軽い膝蹴りがあれほどの激痛を与えるのならば、正式に
空手をやっている者の蹴りが命中すれば、その痛みたるや絶大であろう。
 それを想像した時、私は以前、「宦官はこうやって作られる」という類の詳細な記録
を読んだ時のように股間を押さえて震えた。
 以上は余談。
 男は、交差させた両腕を下に向けて構えてこれを防いだ。腕の交差点に蹴りがガッチ
リとはまった。
「はあっ!」
 その足が地に下りると同時に、三嶋の上体が前に出て互いの胸が接触するほどに接近
した。
 これほど接近した時の攻撃は限られる。
 組むか……打撃ならば肘か膝か頭か。
 打撃である。と、瞬間的に男は確信した。日頃から空手を習っているからにはここで
組んでくる可能性は低い。
 膝も無い。
 と、男は断定した。すぐ前に三嶋は蹴りを放っている。その蹴り足を下ろしながらの
動作であるから続けて蹴り技は出しにくい。
 さらに、上体が前に出ていることから、それに乗せるような肘打ちか頭突きが来る確
率が高い。
 両手の位置から、右の肘であると男は判断した。
 男が上半身を後ろに反らした時、まさに三嶋の右肘が唸った。
 男の眼前を、当たっていれば男のテンプルに大打撃を与えていたであろう肘が駆け抜
けた。
 男は上半身を元の位置に戻すと同時に左手を三嶋の後頭部の前を通過させるほどに伸
ばしてその左肩を掴んだ。
 三嶋の体が固定された。
 それによって三嶋は見えていた掌底突きをかわすことができなかった。
 男が突き上げた掌底は、思い切り三嶋の顎に激突した。瞬間、三嶋の足が浮く。
 左肩を掴まれていなければ先程の男のように、上半身を後ろに反らしてかわすことが
できたのだが、その逃げ道は塞がれていた。
 三嶋の足が地に付くか付かないかの内に、男は足払いを放った。さらに、抜け目無く
両手を前に出して三嶋の道着の襟を掴んだ。
 柔道の小外刈りによく似た形であったが、もちろん細かい部分は違うし、柔道では倒
れ込むと同時に顔に掌を当てて、相手の後頭部を地面に打ち付けるなどという型は無い。
 ゴンッ。
 と、いう重々しい音にたった一人の観戦者は思わず目を閉じた。
「待って! もう!」
 目を開けた瞬間、叫んでいた。
 彼の友人が右手を振り上げていたのである。
 それを下ろした時、三嶋の体が一回だけ震えた。
「終わったぜ……やっぱなかなかだったな。ほれ、あの金的蹴りの後の肘打ち、あれ、
なんとかかわせたけどよ、貰ってたら一発でこっちが終わってたぜ」
「浩之、最後のは……」
「あん、最後に掌底叩っ込んだのがやりすぎだってか? やりすぎなもんか、あいつ、
まだ目を爛々と光らせてよ、左手でおれの襟掴んで引き寄せて、右をぶち込むの狙って
やがったんだぜ」
 浩之と呼ばれた男は人差し指と薬指で額の汗を拭った。
「へえ……」
 男は素直な感嘆を漏らして、動かなくなっている三嶋の顔を上から覗いた。
「やっぱり、黒輝館の三段だけあるね」
「おう、見た目にはおれの『圧倒的勝利』だったけどよ、一歩間違えればやばかったな」
「うん、じゃ、黒輝館三段、三嶋常久さんを撃破と……」
 そういって、その男はメモ帳に何かを書き込んでいた。
「どうだ雅史、確かあと二人だったよな」
「うん、十人抜きまで後二人だよ、ええっと……後は黒輝館神戸支部の柄谷光吉(から
たに こうきち)三段と……」
「おい、待て」
 浩之は、雅史と呼んだ男に、メモ帳を指差しながらいった。
「その最後の奴。外して、誰か他の奴見繕っておいてくれ」
「うん、わかった……知ってる人なの?」
「いや、又聞きだけどな」
 大胆不敵、傲岸不遜を体現(自称)する浩之が雅史の選んできた相手を拒否するのは
初めてであった。
 雅史が理由を知りたそうにじっと見るので、浩之は重い口を開いた。
「おれよ、こないだ先輩んとこの爺さんにそれ見せたんだよ、五人抜いた時だったかな」
「長瀬さん、なんていってた」
「特に何も……ありゃ小僧がはね回ってる……ぐらいにしか思っていやがらねえな……
ただよ、その最後の奴の名前見たらよ」
「うん」
「今のおれじゃ百パーセント無理だから止めろとさ」
「……」
「おれはな……こう見えてもあの爺さんのことはそういう方面に関しちゃ信用してるん
だ。たぶん、本当に勝てないんだろ」
 雅史は浩之のそんな言葉を聞いたことが無かった。
「だから、その最後の奴はもうちょい修行を積んでからにするわ」
 雅史から受け取ったジャンバーに両腕を通しつつ浩之はいった。
「うん、わかった」
 そういうと雅史は、メモ帳に二本の横線を引いた。
 伍津流 柏木耕一
 という名前が消される。
「さて……祝杯を上げようか、雅史」
「うん」
「来週は神戸に遠征だ」
「うん」
 浩之と雅史が去った後、三嶋の体がぴくりと動いた。
 寒かった。
 敗者に吹き付けるのはただただ寒い風のみであった。

                                    続く

     どうもvladです。
     この作品は、私が先日本家の方に出した「鬼殺し」という作品の設
     定を一部流用して書く格闘SSです。
     本家の方に出すにはあまりにもリーフの二次創作という範囲から外
     れる恐れがあるのでこちらに出しました。以前より、こっちの方に
     もコンスタントに作品を出したいという願望があったせいでもあり
     ます。
     題名からわかると思いますが夢枕獏氏の「餓狼伝」に影響を受けて
     います。