関東藤田組 老兵 中編 投稿者: vlad
 翌々日。
 浩之は、珍しいことに平日の昼間だというのに妻のあかりと一緒に歩いていた。
「浩之ちゃん、これでいいかな?」
「ああ、上等上等」
 浩之はあかりの持っている花束と果物の詰め合わせを見ながらいった。
 一見すると遊んでいるようだが、一応、社務ではある。
 今日、浩之はあかりと一緒に藤田商事代表としてセバスチャンの入院している病院に
見舞いに訪れたのである。
 昨日、綾香と電話したところによると、とうとう来栖川の前会長に「引導」を渡され
たという。
 正式に、前会長はセバスチャンの今までの労を労い、礼までいって、引退を命じたの
である。当の前会長が既に隠居していることもあって、セバスチャンはその命令を受け
た。
「昨日様子を見に行ったら、なんか生気が抜けたみたいになってたわ」
 考えてみれば、セバスチャンは芹香が生まれた頃からその世話をしている。現在、浩
之が二十五歳。
 芹香は一つ上だから二十六歳。
 その二十六年間、ほとんどつきっきりだったといっていい。
 来栖川家に仕え始めたのが戦後すぐのことらしいから、長きにわたる執事生活のほぼ
半分を芹香の世話と護衛に費やしてきたのである。
 芹香の世話は、あの老人にとっては、もはや生き甲斐であったのだろう。
 そういえば、仕事一筋の人間が定年退社した途端に生活にハリを失ってしまったとい
う話を聞いたことがある。
「なんか、趣味でもあったらね」
 病院の廊下を歩きながらあかりがいった。
「あの爺さんの趣味か……」
 真っ先に思いつくのが格闘技だが、体にガタが来て引退した人間の老後の趣味にはど
う考えても相応しくない。
「かといって……」
 あのセバスチャンが絵を描いたり社交ダンスを舞ったりしている光景はあまり頭に浮
かばない。
 葵のコーチにでもなってもらうか……。
 一応、綾香に基礎を教えたのはセバスチャンだっていってたし……。
 コーチ程度ならば、それほど体に負担はかからないだろう。
「浩之ちゃん」
「あ、おう」
 あかりに促されて、浩之は病室の前に到着していることに気付いた。
 ネームプレートにしっかりと長瀬源四郎と書いてある。
「個室か……贅沢な」
 しかもここら辺はいわゆる「VIPルーム」が並んでいる一角ではないだろうか。
 半世紀以上自分に仕えた男に対して前会長はいたせりつくせりの待遇を用意していた
ようだ。
 浩之が美作裏山(みまさか りざん)というやくざの大親分に聞いた話によると、若
い頃は、前会長とセバスチャンは主従というより兄弟分という関係だった仲らしい。
 前会長にとってはセバスチャンはともに危難を潜り合ったいわば戦友のような存在な
のかもしれない。
「爺さん、生死の確認に来てやったぞ」
「浩之ちゃん……」
 あかりが袖を引くのも構わず浩之はドアを全開にした。
「ん? トイレか?」
 空のベッドを見て、浩之が「脱走」の二文字をすぐに連想しなかったのは綾香から、
セバスチャン脱走防止のために来栖川SPの腕利きを見張りにつけておいた、と聞いて
いたからである。
「浩之ちゃん……誰か寝てる」
 あかりにそういわれた時、浩之の中で不安が生まれた。
「……おい」
 床に寝そべっているスーツ姿の男が、堂々たる体格をしていることに気付くと、その
不安は瞬間的に膨れ上がった。
「……思いっきり絞め落とされてるな……」
 しかも、衣服に乱れがほとんどない。
 いきなり決められて、ほとんど一気に落とされたのだろう。
「おい……あんた、おい」
「う……うう……」
「おい、どうした。あんた、誰よ?」
 目を開けた男は、しばらくぼうっとしていたが、やがてあんぐりと開いた口から声を
出した。
「わ、私は、来栖川SPの社員……です……」
「あの爺さんはどこ行った!」
「も、申し訳ありません」
「おれに謝ったってしょうがねえ。爺さんはどこに行ったんだ?」
「まことに、申し訳ありません。気付いた時には……首が絞められ……」
「ああ、もういいや、休んでくれ」
 浩之が男を介抱している間に病室の中を歩き回っていたあかりが、何か持ってきた。
「ん? なんだそれ」
「あのね、枕の上に置いてあったよ」
 それは一枚のメモ用紙だった。

 行くべき道を失い、もはや何をしていいのかわかりません。
 とりあえず修行の旅に出ます。
 探さないで下され。
                         セバスチャン(長瀬源四郎)

「うーむ、書き置きか」
 行くべき道を失って、とりあえず修行の旅に出てしまうところとか、本名がカッコ内
に追いやられているところとか、ツッコミたいところは多々あったが、今はそれをして
いる時ではなかった。
「こうしちゃいられねえ、綾香と先輩に連絡を……」
 と、浩之がドアに向かって足を踏み出した時、
「親父、見舞いに来たよ」
 白衣姿の男がそういいながら入室してきた。
 部屋の中を見回して、頭を掻きながら呟く。
「……どういうことかなあ?」
「わりぃ、主任、おれらが来た時にゃこの状況で……」
 そういって、浩之は長瀬主任の目の前に一片の紙を差し出した。
「ふむふむ」
 呟きながら目を通した主任が溜め息をつくのにさして時間はかからなかった。

「長瀬さんを探さなきゃ」
 と、いうのがあかりの意見であった。
 雅史や、他の藤田商事の社員の考えもほぼこれに似たようなものである。
 しかし、浩之には異論があった。
「野性の生き物は死期を悟ると自分で死に場所を探して、静かにひっそりと死んでいく
ものだ。邪魔をしちゃいけねえ」
 なかなか的を得た意見であると思ったのだが、
「そんな……浩之ちゃん」
「浩之、それは……」
「探して上げなさいよ、あんた、自分が怠けたいだけでしょーが!」
 周囲の評判はあまりよろしくない。
 しかし……。
「……」
「え……セバスの爺さんを探してくれって?」
 こくり。
「わかったよ、先輩の頼みだったら地球の裏でも行っちまうよ、おれは」
 たったの四行で表現が可能なほどの短いやり取りだけで、浩之はセバスチャン(長瀬
源四郎)探索隊の編成に取りかかった。
 まず……肉体労働ということで松原葵は外せまい。
「頑張りますっ!」
 よい返事だ。
 それから……一応ロボットなんだからマルチも役に立つだろう。
「お弁当は何がいいですか?」
 ミートせんべいは止めろ。
 体力的な面に不安はあるが……超能力者、姫川琴音もいざという時のために欲しい。
「わ、わかりました。頑張って着いていきます」
 やる気だけでも上等。いざとなったらおんぶでも抱っこでもすればよしだ。
 身体能力、それから目のいいところから宮内レミィも加えるべきであろう。
「OH、今度の獲物はセバスチャンね!」
 一抹の不安は残るが、今回の件は半分猛獣狩りみたいなものなので……ま、いいだろ
う……。
 志保と雅史は全くこれとは別行動でセバスチャンの情報を集めてもらい。智子が留守
を守る。
 とりあえず、捜索隊が近場でセバスチャンの行きそうなところを片っ端から当たった
が、収穫は無し。
 修行の旅に出る、とセバスチャンは書き置きでいっていた。と、なるとやはりかなり
遠くへ行ってしまったのだろうか。
 疲れたんで休んでいたら、浩之に携帯電話に志保から連絡が入った。確定はできない
が、気になる情報を得られたという。
 それによると、先程、ごっつい老人がチンピラと揉めて、ちょっとした立ち回りがあ
ったらしい。
 その現場に浩之たちは行ってみた。都合のいいことに、現場を仕切っているのは来栖
川SPであった。
 こう見えても、浩之は来栖川SPの人間には顔が利く。
 その上に、芹香の頼みで行っている捜査のためだ。という言葉が効いてあっさりと浩
之は現場の周りに張り巡らされたロープをまたいだ。
「すげえな、こりゃ」
 いきなり目に入ってきたのはひっくり返って腹を見せている自動車だった。
 話によると、この車の中に今回の「被害者」の暴力団構成員四名が乗っていた。
 そこへ「加害者」の老人が現れ、何かの拍子に車に手をついてしまった。それで、車
体が汚れたから洗車代を払え、というお決まりの脅し文句が飛んだ。
 老人は何もいわずに暴れだし。このような状況になったらしい。
「やっぱり、あの爺さんか」
 このような芸当ができる老人に、浩之は唯一人しか心当たりが無い。
「ねえ、浩之」
「どうした雅史」
「車体がへこんでいるのとか、ねじ曲がっているのはなんとか理解できるんだけど……」
「おう」
「なんでガラスがとけてるんだろうね」
「……知るか」

 だが、セバスチャンこと長瀬源四郎はこれを境にぷっつりと消息を絶った。
 浩之としては、いよいよ捜索の範囲を拡大することを決意せざるを得なかった。
「ヒロ、ヒロ!」
 事務所に泊まり込んでソファーの上で寝ていた浩之の名を連呼しながら志保がやって
きたのが朝の七時であった。
「ヒロ、ヒロ、ヒロったら、ねえ! ヒロ!」
「うるせえなあ」
 浩之はスポーツ新聞の新作AV情報欄を熟読していたところなので不機嫌そうにい
った。
「ねえねえ、飛騨山中に変な生き物が出没してるって話聞いた?」
「変な生き物ってなんだよ?」
「山男じゃないかっていわれてるらしいわよ」
「なにいってんだ。おめえ、山男なんて……」
「なんて……なに?」
「山男なんて……いるわけねえけど、山男と見間違えられるような知り合いのことを思
い出した」
「行ってみる?」
「おう」
 浩之は立ち上がり、事務所のそこかしこで寝ている「セバスチャン捜索隊」の隊員た
ちに集合をかけた。
「もしかしたらはずれ、ってこともある。志保と雅史は続けて情報収集を頼む」
「うん」
「まかしときなさい」
「智子、留守を頼まぁ」
「安心して行ってきいや」
「ヒロユキ、行こっ!」
 と、いっているのは迷彩服スタイルのレミィ。
「おし、出るぞお」

「ぬん」
 朝日にさらされた裸体は老人のものとはとても思えぬほどに鍛えられていた。
 修行はやはり山籠もりであろう、との信念によって一週間前から山中で修行の日々を
送っているセバスチャンこと長瀬源四郎であった。
 朝一番に滝に打たれるのが日課となっていた。寒い時期だが、心頭滅却すればなんと
もない。
「うりゃあああっ!」
 蹴りの一振りで木の幹がへし折れる。
「ちぇすとおおおっ!」
 手刀の一振りで木が細く切断されていく。
「ふう」
 これで薪ができた。
「さてと……」
 セバスチャンはそばの川に向かった。
 川の中程にまで入り、静かに水面を眺める。
 セバスチャンの目に光が収束した刹那、足が跳ね上がり、それとともに一匹の魚が岸
へと打ち上げられていた。
「ふんっ!」
 二匹目。
 三匹目。
 瞬く間に岸で飛び跳ねている魚は増えていった。
 それを抱えて戻ろうとした時、セバスチャンは表情を和らげた。
「なんだ。また来たのか」
「おはよう、じいちゃん」
 そういったのは、まだ十歳にも満たない少年であった。その後ろに隠れている少女は
さらに幼い。
 この二人の兄妹がセバスチャンのところにやってくるようになったのはつい三日前ほ
どのことである。
 初めは恐る恐る遠くから見ていたのだが、やがて、兄の方が近付いてきた。
 最初はセバスチャンのことを山男だと思っていたらしい。
 セバスチャンが火を起こして魚を焼き始めると、兄妹はセバスチャンと火を挟むよう
に座った。
 兄が真二郎。
 妹が麻美。
 ふもとの街に住んでいるらしい。
「じいちゃん」
 と、真二郎はセバスチャンを呼ぶ。麻美の方は無口なのか……まだ声を聞いたことが
ない。
 それにしても、そう呼ばれるのは初めての経験であった。息子が一人いるのだが、ま
だ独身で孫はいない。
「おい、誰かいるぞ」
 声の主は、草を踏みしだきながら現れた男らしかった。
 男は三人。全員二十歳前後だろう。
 どいつも、あまり胸を張ってお天道さまの下を歩いているようには見えない。
 経験から、セバスチャンはそのことを悟っていた。
「おい、山男が住んでるってのはここら辺じゃねえのか?」
「おれたちゃ、ちょいと噂の山男っての見物にきたんだがなあ、ジジイ、もしかしてお
前がそうか?」
「む……」
 人生の先達に対して口のきき方を知らぬ若僧どもだ。セバスチャンは、老人に無礼な
口を叩く男を一人知っていたが、あっちは目が濁っていない分、こいつらよりは遙かに
ましだ。
「おい、こんな山ん中で何してんだ?」
「若僧が……いきがるな」
「なにぃ……」
 男は、そう呻くや、ナイフを取り出した。
 これが最近よくいう「キレやすい若者」なのだろうか。
 どっちにしろ、進駐軍の米兵と連日ストリートファイトに励んでいた過去を持つセバ
スチャンにとっては玩具同然だ。
 仲間が宙を舞ってふっ飛んだのがセバスチャンの掌底突きによるものだということを
他の二人はわかっていたのだろうか。
「この!」
 とにかく、このジジイの仕業だ。と、いうことは理解したのか、二人の男は向かって
きた。
 一人が正面に立ってステップを踏み、その間にもう一人が後ろに回り込む。
 ある程度の知能と経験はあるらしい。
 だが、相手が悪すぎた。
 後ろから突っ掛かっていった男は、セバスチャンの首が回転して、その右目が自分を
見ているのを見た。
「あっ!」
 と、いった時にはセバスチャンの後ろ蹴りが胸に炸裂した。
 左目は、前から来る男を注視している。
 下手くそなパンチをさばいて、後ろ蹴りに使った足を戻して、瞬間、前に向かってそ
れを振る。
 脇腹にめり込んだ感触。確実にアバラが折れた。
「クズどもが、二度と来るな」
 セバスチャンの眼光に恐れをなしたのか、連中は肩を貸しつ貸されつしながら、這々
の体で逃げ帰っていった。
「ふん」
 鼻を鳴らしたセバスチャンに、真二郎は快哉した。
「すげえ、じいちゃん、強かったんだな!」
「修行しているといっただろうが、あんな連中はなんてことはない」
「……あの」
 と、その声が誰のものであるか、セバスチャンは一瞬、わからなかった。無理もない、
一度も聞いたことのない声なのだから。
 麻美が、初めてセバスチャンの前で口を開いたのである。
「なんだよ」
「……仕返しに……くるかも……」
「仕返しじゃとぉ……」
「あ、そうか!」
 真二郎は失念していたことを思い出して目と口を大きく開いた。
「あいつら、やくざの子分……みたいなもんなんだ」
「みたい? ……子分ではないのか?」
「父ちゃんが、あいつら後何年かしたら樟葉(くずは)組ってとこの子分になるだろう
っていってた」
「ふむ……」
 つまり、やくざの予備軍のようなものらしい。
 今はまだ正式な組員ではないが、その内に盃を下ろしてもらって正式に子分になるつ
もりなのだろう。
「ふん、そんな連中、来るならば来い。組手の相手が欲しかったところじゃ」
 セバスチャンは本気でそう思った。飛び道具を持ってこられない限り、チンピラの十
人や二十人は片付ける自信があった。
「すげえ、やっぱりじいちゃん強いんだ」
「うむ」
 と、力強く答えた時、急に胸が苦しくなった。
「う……」
「じ、じいちゃん、どうしたんだ?」
 膝を着いたセバスチャンに慌てて真二郎が駆け寄る。
「くそ……」
 今までも、時たま胸が締め付けられるような苦しみに苛まされたことはあったが、今
日、胸を焼く痛みは、前日までのそれの比ではなかった。
「長瀬さん、あなた、歳が歳なんだから、いつ何時倒れるかわからないんですよ、無理
をすればするほど寿命は縮むと思って下さい」
 こんな時になって、医者がいっていた言葉が思い出される。
 自分は……ここで死ぬのか……。
 五つの銃弾を体内から摘出する手術の前よりも、死を身近に感じる。
「ま、待ってろ、じいちゃん、誰か連れてくるから!」
 真二郎はそう叫ぶと、麻美の手を引いて、来た道を戻った。
                                    続く