関東藤田組 老兵 前編 投稿者: vlad
綾香に用があった。
 十月某日。浩之は肩で風切りながら来栖川SP(セキュリティー・ポリス)の本社ビ
ルに入った。
 なんだかんだいって来栖川姉妹の親しい知人と認識されている浩之であるから、社員
の応対もVIP扱いでなかなかよい気分だ。
「よっ」
「専務がお待ちしております」
「おう」
 出迎えに来たHMX─13型セリオ2にそう答えた直後、浩之はロビーに知っている
人物を発見した。
「ちょっと待っててくれ」
「はい」
 丁寧に頭を下げたセリオに背を向けて浩之は柱の方に歩いていった。
「よう」
 柱にぴったりと体をつけたその人物はびくっ、と体を震わせて、ゆっくりと浩之の方
を見た。
「な、なんだ。お前か」
「なにしてんだよ、爺さん」
 来栖川芹香の護衛兼運転手の長瀬源四郎ことセバスチャンであった。
「爺さんがいるってことは先輩が近くにいるのか?」
 キョロキョロと見回すが芹香の姿は無い。あれはあれで非常に存在感のある人なので
近くにいればすぐにわかるはずなのだが。
「それでは、私はこれで……」
 さささささっ、と素早い動きでセバスチャンは去っていった。
「あ、おい」
 浩之が制止する間に、セバスチャンは人混みの中に消えた。と、いっても頭一つ出て
いるためにどこにいるのかはわかる。
「あの、専務がお待ちしています」
 気にはなったが、セリオにそういわれて浩之は頷いた。確かに、忙しい身である綾香
をあまり待たせるわけにはいかない。
 専務室に行くと、二人の人間が彼を待っていた。
「よう、って先輩もいたのか」
 綾香が座っているソファーの向かいのそれに腰を下ろしているのは間違いなく芹香で
あった。セバスチャンは芹香が綾香と会っている間、ロビーで待っていたんだな、と浩
之は思った。
「ま、かけて」
「おう」
 綾香にいわれてそういったものの、浩之は一瞬、どっちに座るか迷った。
「……」
「ん、隣いいの?」
「……」
「ああ、それじゃお言葉に甘えて」
「……」
「え、紅茶を用意しといてくれたの? もちろんいただくよ」
「……」
「角砂糖は一個でいいよ」
「……」
「ん……うん、美味しいよ」
「……」
「あははは、そうなんだ」
「……」
「でも、それは先輩のせいじゃねえって」
「……」
「ああ、そんなに気にすることねえよ」
「……」
「なんだったら今度おれが出てってやろうか」
「あんた……」
「ん、なんだ。綾香」
「妹の私でもそこまでスムーズに姉さんと会話できないわよ」
 綾香は今更ながらつくづく感心した。
「そうか?」
 本人に自覚は無いらしい。
 浩之は自分の用事をさっさと済ませて姉妹と談笑などしていた。
「ところでさ、先輩、疲れてないか?」
 今、来栖川グループにおける芹香の位置は微妙である。
 浩之が彼女と出会った頃に会長をしていた芹香の祖父は既に引退し、今は父親が会長
職を勤めている。
 男児を得られなかったので、祖父と父は芹香に誰かを娶せて会長職を継がせようとし
たのだが、数多くの縁談を芹香が蹴り続けている状況である。
 浩之は芹香の父に、芹香の誕生日パーティなどの私的な場所で会ったことがあるのだ
が、
「藤田くん……あれはあれで聞かないとなったら聞かない子なんだよ」
 と、溜め息混じりに現会長が呟くのを聞いたことがあった。
「姉さんったら首を横に振るだけなのよね」
 とは、綾香の証言である。
 綾香はその無言で首を横に振る芹香と、それを相手に悪戦苦闘する父の姿をただ面白
がって見ているだけではなく、これを機に来栖川の体質改善を目論んでいるらしい。
「そもそもねえ、基本的に男性優位なのよ、うちは! わかってんの、浩之ぃ!」
 酒の席で浩之は時々、綾香に絡まれる。
 こうなると誰にも止められないので、浩之としては、
「はい、わかってます」
 と、いいながら酒を注ぐしかない。あまり刺激して暴れられると非常に危険なのだ。
「このまんま姉さんが会長になればね……初なのよ、女の会長っていうのは……」
 と、これはしらふの時。
 綾香は姉を来栖川グループ初の女会長にして、その力でグループ内における男性優位
の弊風を排除しようとしているらしい。
 だからといって綾香が男女平等の思想を持っていると断定するのは早計である。彼女
は今の男性優位をひっくり返して女性優位にしようと企んでいるのである。
 浩之としても芹香を会長にすることに異存は無い。芹香が頼みさえすれば反対派の粛
清も行うつもりであった。
 とりあえず、既に芹香の反対派になりそうな人間の弱味を幾つか手中にしている。浩
之がその気になれば来栖川のトップの方で弁護士に連絡をとる者が続出するだろう。
 こいつはこいつで敵に回せば恐ろしい男なのだ。
 芹香は今、会長の娘として外交担当のような存在になっている。とにかく、顔見せを
兼ねて色んな他企業の人間に会っている。
 けっこう人見知りする芹香にとっては心労の溜まる仕事であった。
 浩之はそれを心配しているのである。
「……」
「え……大丈夫って……でもなあ、先輩ってけっこう気ぃ遣うからなあ」
「……」
「いやいや、おれには正直にいってくれよ」
「……」
「そうだろそうだろ」
 やはり、芹香は疲れているようだ。最近ではだいぶ馴れて、綾香の話では何度も会っ
ている人間の中に「芹香ファン」までできているという話だが、それにしても、芹香は
元々体も丈夫ではない。
「そうだ。浩之」
「なんだよ?」
「姉さん、明日休みなのよ」
「そうなのか」
「うん、だから……ほら、姉さん」
「……」
「え、なに?」
「……」
「ん……うちに来たいって? 別にかまわねえけど、なんにもねえぞ」
「あはは、別になくていいのよ、姉さん、あんたらと一緒にいたいだけなんだから」
「ふうん、そりゃ光栄なこった。そんじゃ、どうする?」
 これから特に予定が無いのなら浩之はこのまま芹香を連れていってしまおうと思って
いた。そういう類の行動力は常人を遙かに超えている男である。
「……」
「ん、そんじゃ、行くか」
「あたしもできれば後でお邪魔するわ」
「おう」
 浩之は立ち上がった。
 綾香が卓上の呼び鈴を鳴らすと、浩之が入ってきたドアとは別のドアが開いて、五人
の男たちが入ってきた。
 物腰に隙というものが全く無い。
 胸が軽く膨らんでいる。
 何をしている人間たちかは一目でわかった。
「この人たち、姉さんの護衛」
 綾香がそういって、男たちに芹香が浩之のところに行く旨を伝えた。
 男の一人が歩み出て、浩之に握手を求めてきた。
「お嬢様の護衛を仰せつかっております。升山(ますやま)と申します」
 歳は浩之より少し上だろう。
「ああ、どうも」
 浩之はその手を握り返す。
「よろしくお願いいたします」
「いや、こっちこそ頼みます。うちの事務所で先輩になんかあったらシャレにならない
からなあ」
 ところで、芹香の護衛といえばすぐに思い出すのがセバスチャンこと長瀬源四郎であ
るが、この場にはいない。
 さっき下にいたみたいだから、ここには来ているはずだ。出発にあたって呼んだ方が
いいのではなかろうか。
「セバスの爺さんはどした?」
「ああ、まだ話してなかったっけ」
 綾香がいった。
「セバスはね、入院してるわ」
「え! 入院!」
「うん……さすがにもう歳でね、これ以上、護衛の仕事を続けるのは無理なようだから
……本人の希望で、一応回復し次第、復帰することになってるんだけど……お医者さん
の話じゃもう激しい運動は控えた方がいいって……」
「……おい」
「なあに」
「爺さんだったらさっき下のロビーで会ったぞ」
「……」
「ピンピンしてたけどなあ」
「……」
「なんか、おれの顔見たら逃げるように去っていったけど……」
「な、なんですって!」
「いや、ホントの話」
 綾香は駆け足で電話のところまで行き、受話器を取った。
「もしもし……来栖川綾香と申します。はい……え! は、はい、わかりました」
 綾香は忙しない様子で、受話器と会話していたが、やがて受話器を置いた。
「セバスが、脱走したって……」
「やっぱり、な」

「ただいま」
「……」
 浩之が帰ってきた時、藤田商事の事務所には社員全員が揃っていた。
「あら、芹香さん、遊びに来たの」
 そういったのは社長席でふんぞり返っていた志保であった。
「……どけ」
「わぁったわよ……ところで、ヒロ、せっかく芹香さんが来たんだから……」
「おう、これから騒ぐぞ」
「よっし! あたしが買い出し行ってくるわ、ヒロ、金よこしなさい」
「なんでおれが出すんだよ!」
「あんた、社長でしょ! たまにはいいとこ見せなさいよ」
「……」
 そっ、と芹香がカードを取り出した。来栖川の系列のカード会社のものだ。
「えっ! 使っていいの?」
「先輩、まじいって、こんなのにカード貸しちゃ」
「こんなのってなによ!」
 と、いいつつ、志保は既に芹香のカードをしっかりと握り込んでいる。
「……」
「え……いいって? うーん……先輩、こいつを買いかぶりすぎだぜ」
「なーにいってんのよ、芹香さんには見る目があんのよ!」
 志保が勝ち誇ったようにカードを掲げて、さっさと身を翻して他のみんなから注文を
取っている。
「あーあ、おれ、知らねえぞぉ……先輩、車とか家とかの料金請求が来たらおれにいっ
てくれや」
「……」
「大丈夫……って、なんでそんなにあいつのこと信用できるのかなあ……」
 浩之は頭を掻きつつ、この場にあかりがいないのを思い出し、家に電話をして呼ぶこ
とにした。
「おう、おれだ。今から事務所で宴を催すからお前も来い」
 受話器を置いた時、丁度、志保がマルチと葵を連れて出るところだった。
「ヒロ、あんたはなんか欲しいもんあるの?」
「酒、食い物」
 女、と付け加えようとして浩之は踏み止まった。これでも一応、最愛の妻がいる身で
ある。志保が冗談と受け取らなかった場合が怖い。
 そうこうしている間に、芹香は琴音と一緒に何かやっている。そういえば、浩之の知
人の中で一番最初に芹香と仲良くなったのが琴音であった。

 三十分後、志保たちがでかい袋を抱えて帰還。
 その二十分後、あかり到着。
 さらに一時間後、綾香もやってきて宴はいやがおうにも盛り上がった。
「ヒロぉ、ちゃんと飲んでるう?」
「飲んでるよ」
 浩之はあかりに酌をしてもらって日本酒を飲んでいたのだが、騒ぎの輪から少し外れ
ているのを志保が見逃すわけはなかった。
「ふひゃひゃひゃ、あんた、たまにはあたしの酒も飲みなさいよお」
「わかったわかった」
 こうなると、手がつけられない。
「あららら、いい飲みっぷりじゃないの」
「おう」
「あーら、浩之、これどーぞ」
 綾香だ。
 こいつもこいつで酔うと御する術が無い。
 よりにもよってストレートのウイスキーがコップに並々と注がれている。
 断ろうものなら、
「あら、私の酒は飲めないってーの?」
 という具合に、非常にやばいムードを生むことになる。
「お、おう、もらうぜ」
 浩之はやや躊躇いつつも、表面張力の限界に挑戦しているがごとく水面の盛り上がっ
たウイスキーを受け取った。
 ゆらっ、と揺れる。
 一円玉一枚でも入れようものならあふれ出しそうだ。
 ずずっ、とまずは吸い取るようにコップから浮き上がった部分を飲んで、後は一気に
飲んだ。
「全く、酔っ払いどもが……」
 既に酔っ払いの領域に半分足を踏み入れている浩之は、無謀にも「飲み比べ」をやり
出した志保と綾香にうんざりとした視線を向けつついった。
「浩之ちゃん、烏龍茶飲む?」
 あかりは、結婚してからも結局、浩之をちゃん付けで呼ぶことを止めなかった。私に
とって浩之ちゃんはずっと浩之ちゃんだし……。とか高校生の頃いっていたのを聞いた
時は何をいっとるんだこいつは。と、いう程度の感想だったが、まさか妻になってまで
これが続くとは思わなかった。
 しかし、ほとんど最初から浩之も諦めてはいる。
「おう」
 浩之はあかりから烏龍茶の入ったコップを受け取り、
「あ……」
 窓を見て呟いた。
「どうしたの? 浩之ちゃ……」
 あかりは最後まで言葉を継ぐことができなかった。
「浩之……ちゃん……」
「安心しろ、怪しい奴に見えるけど怪しい奴じゃない」
 浩之は、あかりの肩を抱きながら窓の外側に張り付いているものを見た。
「浩之……あれ」
 雅史が気付いて近付いてきた。
「雅史……おれのロッカーからレミントンM870持ってこい」
「レミントンって……あのショットガンのこと?」
「弾も忘れんなよ」
「浩之……中に入れて上げたら?」
「しょうがねえなあ……レミィに気付かれてたら撃たれてたぞ……」
 浩之は呟きながら隣の窓を開けて身を乗り出した。
「爺さん……中入れよ」

「失礼いたします」
 窓から来訪したセバスチャンこと長瀬源四郎を待っていたのは二十四杯目で志保を撃
破した綾香であった。
「なにやってんのよ! セバス!」
「まあ、待て、綾香……爺さんも、いきなり病院から消えるなよ」
 そういったのは、今にもガチンコを仕掛けそうな勢いの酔っぱらいを羽交い締めにし
た浩之であった。
「おれは塵ほども心配しなかったけどな、先輩や綾香は心配してたんだからな……」
「……そうよ、まあ、大丈夫そうだからよかったけど」
「……」
 芹香がセバスチャンの側に寄って何か囁いた。
 大丈夫ですか?
 浩之にはそう聞こえた。
「……申し訳ありませんでした」
 浩之は、この男の肩幅がこれほど狭く見えたのは初めてだった。
「泣くなよ、みっともねえ」
 浩之は天井を見ながらいった。
 男なら人前で泣くな。
 浩之はそんな信念を持っていた。
 男がどうしようもなくなって泣いてしまった時、周りにいる奴はその涙を見るな。
 セバスチャンに顎を向けている浩之は、そんなことも思っていた。

                                                                   続く