鬼殺し 後編 投稿者: vlad
「耕一、少し出るぞ」
「はい」
 師にいわれて、耕一は立ち上がった。
 二人で連れ立って外に出たものの、目的がよくわからない。
「なんかあるんですか?」
「猛獣が出た」
「猛獣?」
「ついさっきそこで、獣に引き裂かれたような死体が見つかったそうだ」
「じゃ、さっきの警官は」
「うむ、今夜は戸締まりをしっかりとして、表に出ないようにいいに来た」
「はあ……」
 耕一は呆れた。が、この老人は、昔、虎とか熊とかと戦ったこともあるという話であ
る。
 しかし、それが猛獣などという生易しいものではないという可能性に耕一は心当たり
があった。
 もしも、「同類」ならば、自分が狩らねばならない。
「音が聞こえんか……」
 双英にいわれて、耕一は耳をすませてみた。
 耕一の聴覚に微かに音が聞こえる。
 何かを何かで激しく叩くような音が。
「行ってみましょう」
「うむ」

 家も家族も焼けていた。
 復員してきたはいいが、明日からの生活の見通しは全く無かった。
 彼には親戚が多く、それを頼っていくという方法もあるにはあったが、他のところも
楽な状況ではないだろう。
 そんなところへ転がり込んだところで厄介者になるだけだ。
 肩身の狭い思いをして暮らすなら、好き勝手にやってやるのもよいだろう。どうせ何
度も死にかけた身だ。
 自暴自棄に身をまかせ、死闘に明け暮れている内に、彼の名を知らぬ者はいなくなっ
ていた。
 そうなるとなかなかいい顔である。
 しかし、彼はいつしか戦うこと自体に喜びを見出すようになっていた。初めは純粋に
身を守るために戦っていたのだが、必要の無い戦いまでやるようになっていく。
 そして、とうとう彼は武者修行の旅に出た。
 旅費は各地の道場を破って稼ぐ。
 分捕った看板を金と引き替えるのだ。
 そして、奴と会った。
 初めは戦おうとした。
 だが、すぐに逃げた。一緒にいた、彼が十分にその実力を認めていた男が抵抗らしい
抵抗をできぬままにただの肉になってしまったのを見るまでもなく、あれと戦ってはい
けないと思ったのだ。
 その男が、自分が逃げる時間を稼いでくれたのだ。ともいえる。
 だが、後日、彼は逃げたのを恥じた。
 その男に申し訳ないと思ったのではない。
 なぜあんなに「強そうな奴」と戦わなかったのか。
 もう二度とあんな奴と戦う機会は無いかもしれないではないか。
 それから、もう二度と奴と会うことはなかった。

 あれからずっと、こんな生暖かい風が拭く夜、彼はぶらりと外に出る。
 あの時とは違い、もはや彼の命は彼一人のものではない。
 しかし、それでも、彼は忘恩を承知の上で、奴とやりたかった。
(申し訳ありません、旦那さま……)
 既に妻は他界しているが、彼には息子が一人いた。
 自分が死んだら、その息子の元に遺書が届くように手はずは整えてある。
 生暖かい風は、相変わらず吹いている。
 それに、微かに血の臭いが混じった。

 だいぶ前から血の臭いには気付いていた。
「これは、ひどいな……」
 双英が呟きながら千切れた肉片を避けて歩く。
「近い」
 耕一はそういうと、首らしい物体をまたいだ。
「あの角の向こうから音が……」
 耕一は、歩みだそうとする師を制した。
「おれが先に行きます」
 そして、無造作に、としか思えぬような歩調で進んでいき、その角を曲がった。
「お前……」
 そこにいたものに向かって、耕一が発した声には、湿っぽいような響きがあった。
「もう、戻れないのか……」
 耕一の問い掛けるような声に返ってきたのは、獣、いや、それ以上に危険な生き物の
咆哮だった。
 エルクゥ──。
 耕一は、その二メートルあまりの巨体を持つ生き物をそう呼んでいる。
 こいつらが「狩り」をするのなら、自分はこいつらを狩ろう。
 人として。
 エルクゥとして。
 柏木耕一として。
 こいつをやる。
 耕一は、一歩踏みだし、異常に気付いた。
 様子が少しおかしい。
「な、なんだ……」
「グオオオオオオオ!」
 鬼が叫んだ。
 狩りを前にした歓喜の叫びではない。
 苦痛に耐えるそれだ。
「だ、誰だ」
 耕一は、エルクゥの肩に腰を下ろしている人間の存在に気付いた。
 両足をエルクゥの首に巻いて胸前でガッチリと組み合わせ、自らの体を固定している。
「かあああああああっ!」
 その体勢のまま、エルクゥの頭に肘を連続して落としている。
「あ、危ない!」
 エルクゥは鋭利な爪を振った。
 しかし、その瞬間、その人物は跳躍してそれをかわし、落下する時に、頭に肘を落と
していた。
 エルクゥの膝が震える。
「かあっ!」
 両手を組んで、渾身の力をもってエルクゥの頭頂に叩き付ける。
 膝が付いた。
「あの人もおれと同じなのか……」
 耕一は思わず呟いた。彼は、エルクゥに膝をつかせる人間の存在を知らず、またそん
な人間の存在を信じてはいなかった。
「グオオッ!」
 それは咆哮ではなかった。
 明らかにそれは悲鳴だった。
 エルクゥの中に、手首から先が消えていた。
 膝をつかせた直後、そのまま再び肩に乗り、今度は目に掌を突き入れたのだ。
「かあっ!」
 もう一発行った。
 エルクゥといえど生物である以上、目つぶしは有効である。
 だが、その人物は、目をつぶすのに必死になって一つ所に長く止まり過ぎた。
 エルクゥの腕が伸びて、肩を掴む。
「まずい」
 今までは俊敏な動きでエルクゥを翻弄していたらしいが、もしあれが人間だったら、
捕まってはおしまいである。
 耕一が動いた。
 ぶん、とエルクゥが手を振った。
 肉弾が飛んでくる。
「おっと!」
 耕一は、それを受け止めた。足が地面から浮く。
 そのまま民家のブロック塀にまで飛んだ。
「よっ!」
 耕一は後ろに足を突き出して塀に付けた。
「うぬ!」
 その瞬間、彼が抱えていたものが叫んで、凄まじい速さで耕一の手から脱した。
 それは、両目を失って天に向かって吠えているエルクゥに向かって脇目もふらずに突
進していった。
「は、速い……」
 耕一の目は、なんとかその動きを追っていた。
 先程、抱き留めてわかったのだが、かなり体格の良い人物で、チラッと見えた顔から
して、相当に高齢者であるようだった。
 あのズッシリとした体からも、年齢からも予想できぬ速度で、それは飛び上がり、空
中で回転してエルクゥの頭に踵を落とした。
 さっきから、同じ箇所ばかりに攻撃を加えている。
 あそこは、人間でいう「天倒」という急所である。強く叩かれると一発で気絶してし
まうことすらある。
「耕一」
「あ、先生、下がっていた方が」
「今の、長瀬源四郎ではないのか」
「先生のお知り合いですか?」
「うむ、かなり名の知れた喧嘩屋だったが」
「かああああああっ!」
 そういっている間にも、その人物──長瀬源四郎──はエルクゥの頭に取り付いて肘
打ちを乱打している。
「グオオオオオオオ!」
 エルクゥは夢中で両腕を振り回しているが、頭部への集中攻撃が相当効いているよう
で、その腕の動きに力が無い。それに、目を失ったこともあるだろう。
 耕一の見るところ、このエルクゥは実戦経験には乏しいらしい。エルクゥのパワーと
スピードは確かに人間を凌駕しているが、ただそれだけをいきなり得ても、元の人間の
経験の有無でその実力には大きく差がつく。
 耕一が正式に格闘技を学ぼうと思い立ったのもそのためであった。
 さっき、捕まえた時に、そのまま握り潰してしまえばよかったのだ。
 そうすれば確実に仕留められるし、それは十分に可能だったはずだ。
 しかし、あのエルクゥはせっかく捕まえた獲物を放り投げてしまった。
 あれは、おそらく両目をやられて動転し、とにかくこれ以上攻撃を加えられないため
に無我夢中で遠くへ追いやったのであろう。
 両目をやられ、気が動転しているのならば、奴を倒す可能性もある。
 しかし……。
「そんなことが……」
 耕一は呆然と呟いた。
「かああああっ!」
 その間にも連打は続いている。
 危ないと見るや、すぐさま跳躍してかわし、隙を見てまた取り付く。
「素手の人間に可能なのか」
 ぱきん。
 と、音が鳴った。
「まさか、骨を!」
 いかなエルクゥとはいえ、人間たちの持つ「生物」という概念からそれほど逸脱して
いる生き物ではない。やはり、頭には脳があり、それを覆う頭蓋骨があり、頭蓋骨が割
れれば非常に危険なのだ。
「うぬっ!」
 だが、苦しげに呻いたのは、源四郎の方であった。
 エルクゥの頭蓋骨ではなく、彼の肘の骨が砕けたらしい。
「やはり、無理か」
 耕一は呟き、後ろを振り返った。
 双英が棒立ちになっている。
「先生、行きます」
「……あれが、お前の敵なのか……」
 耕一は黙って頷き、師に背を向けた。
 軽快なステップを刻む。
「後はおれに任せろ!」
 耕一の体が羽毛のごとき軽やかさで舞った。
「邪魔をするでないっ!」
「うわ!」
 闇夜に走った回し蹴りに耕一は弾き飛ばされた。
 捻れながらふっ飛んだ耕一は余裕を持って着地した。
「いたたた」
 耕一が頬をさすっている。
「おお」
 双英は感嘆した。
 初めて耕一が彼の元にやってきた時、双英の拳は、耕一にろくなダメージを与えるこ
とはできなかったのだ。
「ぬあっっっ!」
 右肘はもう使いものにならなかった。
 だが、まだ左が残っている。
 残っているのならば戦うべきであった。
 まだ、戦える。
 打ち下ろした肘に、確かな手応えが伝わる。
 まだやれるのだ。
 それが無性に嬉しかった。
「源四郎……」
 初めて拳を交えたのは三十年以上前、まだ双英が武者修行の放浪者だった頃だ。
 戦う前に怖いと思った。
 そして、実際に「怖い」男であった。
 その頃と眼光が変わっていない。
「お前……いまだに現役なのか」
 ぱきん。
 と、鳴った。
「やばいっ!」
 耕一は、今度こそ駄目だと思った。
 さっきのそれに酷似したその音。
 右に続いて、源四郎の左肘までもが砕けたのだ。
「今度こそおれに任せろ!」
 耕一は跳躍しようとした。
「ぬん!」
 乏しい街灯の明かりに照らされた目は、戦意を喪失しているものではなかった。
 両腕をダラリと下げたまま、源四郎は飛び、右足を高く上げた。
 凄まじい音。
「死神の鎌……」
 源四郎の踵落としがそう呼ばれていたことを、双英は聞いたことがあった。
「ウ……グウ……」
 エルクゥから弱々しい声が漏れる。
 既に、その両膝は地に落ちていた。
「ぬうん!」
 再び死神の鎌が振り下ろされる。
 べきん。
 と、不気味な音が空気を裂く。
「どっちだ!」
 思わず、耕一は叫んでいた。
 砕けたのは、踵か頭か。
 源四郎は着地した時、右足を曲げてよろめいた。
「いい加減に止めとけって、おれに任せろ」
 駆け寄った耕一に向かって、源四郎は微笑んだ。
「やってやったわい」
「え……」
「ウ……ウ……」
 すぐ横で、エルクゥが両手を地につけていた。
 頭部から流れた血が、血だまりを作っている。
「どけい、とどめじゃ」
 耕一は呆気にとられて、源四郎に道を空けた。
 左足を思い切り曲げる。
 それを伸ばした次の瞬間、源四郎はエルクゥの上空にいた。
 空中で回った。
 左足が鋭利な鎌のように閃く。
 奴の頭を砕いた時、源四郎にはなぜかその音は聞こえていなかった。
 全てが遠い出来事のように。
 ただ、足の先に感じた柔らかい感触は、奴の脳味噌だろうか。
 耕一は、大きく息をついた。
 倒れているエルクゥに近付いていき、その顔を覗き込む。それだけではなく、揺すっ
た。
「死んでる……」
 それが、長瀬源四郎の数十年にわたる戦いの終了を告げる声であった。
 これで……現役から退ける。
「あんた、すげえな」
 耕一の声に、素直な賛嘆の響きが籠もっている。
「ほら、立てるかい」
 耕一の手が、源四郎のそれをガッチリと掴む。
「ん、そうか、腕をやっちまったんだな」
 耕一はそういって、肩を抱いて、抱き起こそうとした。
「あ、待て!」
 と、いう師の声の意味を耕一ははかりかねた。
 それがわかったのは、源四郎が倒れた体勢から左足を振ってきた時である。
「!……」
 耕一は声無き気合いとともに、肘を突き出した。
 横合いからやってきた源四郎の蹴りを肘で防ぎ、掌底を倒れた源四郎の腹部に叩き込
む。
「あ!」
「やはり……変わっていないな」
「しまったぁ」
「お前が悪いんじゃない、こいつは昔から極限状態になるまで戦った後は気が立って、
触る者には反射的に攻撃するんだ」
「いや、でも、思いっきり入れてしまいました」
 源四郎は気を失っている。
「……大丈夫だと……思う」
「と、とにかく、家に連れてきましょう。免許証か何か持ってないかな」
「それより、この場から離れた方がいいのではないか」
「あ、そうか」
 耕一は、自分の迂闊さを恥じながら、源四郎を軽々と担ぎ上げた。
 いつまでもこんなところにいては警察が来て、鬱陶しいことになる。
 ずらかろうとした時、耕一はエルクゥを見た。
 人間の姿に戻っていた。
 それほど特徴があるとは思えない青年であった。歳は、自分とそう変わらないだろう。
一体、自分と血が繋がっているのか、それとも、全く別の血筋か……。
 それを確かめる術も、暇も無い。
「ごめん」
 それだけいって、耕一は立ち去った。

 双英は一ヶ月後、長瀬源四郎からの電話を受け取った。
「すまぬ、お前が助けてくれたようだな、岸山に聞いた」
 あの後、耕一と双英は源四郎の免許証を見付けて、そこに書いてある住所に源四郎を
連れていったのである。
 名だたる来栖川家の屋敷だということに驚きつつも、戸を叩くと、中に招き入れられ、
岸山とかいう男に会った。そこで、源四郎がもう数十年もの間、ここに住み込みで働い
ている執事であることを聞いた。
 その岸山に源四郎を預け、自分は昔の知り合いの伍津双英であると告げて、帰ってき
たのである。
「礼が遅れてすまん、あれからずっと入院していたのでな……」
「いや、礼など……」
「ところで、あの時の青年はなんだ」
「私の弟子だ」
「そうか……実は頼みがある」
「なんだ?」

 耕一は、道場の中で一通りの運動を終えて師が来るのを待っていた。
 しかし、今日に限って遅い。
 やがて、ようやく師が姿を現した。
「どうしたんです?」
「昔の知り合いから突然、電話があってな」
「そうですか」
「耕一、今度の日曜、ここで試合をやれ」
「は、試合ですか? 別にいいですけど、一体誰と……」

 来栖川家には特設のトレーニングルームがある。
 格闘技にのめり込んだ御令嬢のために作られ、拡張されたものだ。
 今も、その御令嬢がトレーニングのためにやってきた。
「あら」
 トレーニングルームでは、源四郎が黙々とバーベルを上げていた。
「精が出るわね」
 と、いった直後、顔が硬直した。
「ちょ、ちょっと、それ二百キロあるんじゃないの!」
「はい、ございますが」
 いいながら、平然とバーベルを上げ下げする。
「あなたももう歳なんだから、無茶しない方がいいんじゃないの」
「お言葉ですが、お嬢様」
 頬を汗の雫が滑った。
「私はまだ現役ですぞ」

                                   終

     どうもvladです。
     思ったよりも早く後編が書き上がりました。これだったら今回まと
     めて書き込めばよかったかな……。
     この作品のテーマは「素手の人間がエルクゥに勝てるか」でした。
     それで、素手でエルクゥに勝てそうな人間に登場してもらうことに
     しました。前編での課題だった緊迫感は……うーむ、精進します。
     前編の方は羽目外し過ぎてリーフの二次創作とはいいがたいものに
     なってしまったので(耕一にビール瓶斬りやらせたり、オリジナル
     キャラ出しまくったり)後編では、オリジナルの連中の大半に消え
     てもらいました。
     「耕一」「エルクゥ」「セバスチャン(源四郎)」の、三つを押さ
     えたんで、これならなんとかリーフの二次創作と呼べるだろう……
     と、思っております。
     長々とあとがきを装った戯れ言を書いてしまいました。

 それではまた……。