鬼殺し 前編 投稿者: vlad
 空気が生暖かい。
 こういう夜は出る。と、彼は思っていた。
 昨夜も、近くで獣に引き裂かれたような死体が見つかったばかりだ。
 単なる直感である。
 全く論理的根拠は無い。
 ただ、以前も、こんな夜に奴が出た。と、いう記憶だけが、その確信の裏付けだった。
「お嬢様はお休みになったか」
「はい」
 そういって、頭を垂れたのは岸山という若い男だった。彼は、自分の若い頃ほどでは
ない、という条件付きながら、この男を護衛として高く評価していた。
「長瀬さんも、お休み下さい」
「うむ」
 そういって、岸山にその場を任せ、自分の部屋に戻る……ことはせずに、ぶらりと表
に出た。
 この生温い風。
「やはり……」
 今夜は出そうだ。

「やってみなさい」
 と、いわれて、耕一はビール瓶を前にしていた。
 右手をやや後方に引き、腰をねじる。
「!!……」
 声無き気合いは確実に右手の先にまで伝わっている。
 以前にやった時は、瓶が割れずに回転してしまった。
 しかし、それを見た師は、その力に感嘆した。
 瓶は僅かに浮き、机の上をスレスレに五回転したのである。
 そして今──。
 瓶の頭が、壁にまで飛んで音を立てて砕けた。
「見事」
 瓶の「頭から下」が、一ミリたりとも元の位置から動かずに、「首」の断面から黄色
い液体と泡を噴き出している。
「祝いじゃ、飲もう」
 コップを二つ取り出した老人に、耕一は顔をしかめてみせた。
「ガラスの破片が入ってるかもしれませんよ」
「そんなもの、食ってしまえ」
  耕一は苦笑して、コップにビールを注いだ。
 コップを口にあてて傾けると、ピリリとした苦味とともに、奥歯に何か小さな固形物
が当たった。
 奥歯ですりつぶすように噛み砕いた。
「ぷはーっ……げふ」
 げっぷを漏らしている耕一を見ながら、老人はこの青年がここにやってきた時のこと
を思い出していた。
 老人老人と、呼んできたが、もちろんちゃんとした名前がある。

 伍津双英。(ごづ そうえい)

 それだけでは誰のことだがわからない人も多いだろう。

 伍津流格闘術開祖。

 と、いえば、その筋の人間は目を見開くだろう。
 打撃技を主体とする格闘技である。今年で六十二歳になる双英が三十年かけて作り上
げた流派で、大本は彼が幼少の頃よりやっていた空手であるが、間接技、投げ技もある。
 現在では、双英は自分の道場をたたみ、直弟子を取らないようにしている。
 伍津流の技を後の世に残すのは全国に五つある弟子たちの道場に任せるつもりであっ
た。
 日々、自らの鍛錬は欠かしていなかったが、それにしたって現役の頃のような荒修行
はしない。
「すいません」
 二週間前、その男がやってきた。
 双英は軽く体を動かして、休みを入れているところだった。
「あ、どうも、玄関の方にお邪魔しましたら、こちらにいるだろうといわれまして……」
 遠慮がちにそういった男に双英は最初、あまり関心を抱かなかった。
 体つきを見てみると決して貧弱ではないが、顔付きや全体の雰囲気が穏やかで春風の
ごとくであり、あまり格闘とか戦闘とかいう言葉に合っているとは思えない。
「私に用かね」
「はい、お邪魔してよろしいですか?」
「駄目だ」
「は?」
「ここに入っていいのは、伍津流を学ぶ者か……伍津流と戦う者か、だけだ」
 ここ一年、双英は自分以外の誰をも──家族でさえも──この道場の畳を踏むことを
許していない。掃除も自分でやるのだ。
「おれは柏木耕一といいます。是非、あなたの技を教えて頂きたいんです」
「……」
「あの……」
「私は、直弟子はもうとらんよ、私の弟子が開いている道場に行くんだな」
「いや、それが」
「ここからなら、熊木の奴がやっているところが近いはずだ」
「それがですね……」
「……」
「申し上げにくいんですが……」
「……待ちたまえ」
 双英はそう呟いて、何かを考えるようであったので、耕一はその思考を邪魔せぬよう
に静寂に閉じこもって、この老人の次の言葉を待った。
「柏木耕一といったか……」
「はい……もしかして、聞いておられますか?」
「ああ、思い出した。熊木からそういう名の道場破りが来たことを聞いた」
「いや、道場破りじゃありませんよ」
 耕一は慌てて手を振る。
「おれは、ただちょっと教えてくれ、っていっただけで」
「入門したい、とはっきりいわなかったのかね?」
 そういった双英の表情に、呆れた色が浮かんでいる。それに気付かず、耕一は頷いて
いった。
「はい、ただ教えてくれっていったんです。そうしたら、いきなり組み手をやってみろ
っていわれたんで……その、おれも殴られるのはいやなんで……」
「……」
 双英の沈黙に、耕一は息を飲んだ。
 双英の頬が、ぷうっと膨らんでいる。
「あ、あの……」
「ふはははは!」
 笑い声が弾けた。
 耕一は、老人の無邪気な笑顔に釣り込まれるように、顔を自然とほころばせた。
「あの……なにかおかしかったですか?」
「いや、失礼……ただね君」
「はい」
「いきなり道場に入っていって、入門するともいわずにいきなり教えてくれ、というの
はね、道場破りと思われても仕方ないよ」
「は、はあ……そういうものですか」
「で、どうしたのかね? 君は、組み手をしたのか」
 双英が身を乗り出す。どうやら、耕一に興味を抱いてきたらしい。
「はい、なんか初段っていう人とやったんですけど」
「ほう」
「こう、正拳が来たんで、こうかわして、夢中で蹴ったら膝に当たりまして、折れまし
た」
「それで?」
「次は二段の人が出てきまして……蹴ってきたんで、防ごうと思って夢中で腕を振った
ら、その腕が膝に当たりまして、折れました」
「ほうほう、それから?」
「その後は、奥の方から偉そうな人が出てきて、うちは道場破りの相手なんてしない!
っていって、追い出されました」
「今の話、本当かね?」
「はい、全部ホントです。細かいとこには記憶違いがあるかもしれませんけど」
「そうかそうか」
 この前、熊木の方から、道場破りが来たが、ほんの少し手こずったものの追い返した。
という報告を受けていた。確かに、追い返したというのは合っている。その前に初段と
二段がやられたことは初耳だが……。
「それで、ここに来たのか」
「はい、あそこはもう駄目っぽいですし、他のところは遠いですから」
「よろしい、弟子にとるかは置くとして、とりあえずこの道場に入ることを許そう」
「あ、どうもありがとうございます」
 耕一は靴を脱いで、畳を踏んだ。当人はあまり理解しておらぬが、この老人の弟子た
ちが見たら嫉妬のあまり狂いそうな破格の待遇であった。
「まず、筋を見せてくれんかね」
「は? 筋……ですか?」
「軽く立ち合いたまえ」
「はあ、お手柔らかにお願いしますね」
 双方、構えを取った。
 耕一の構えは、我流の色が濃かった。おそらく、正式に格闘技を学んだことなど一度
もないだろう、と双英は思った。
 だが……。
 構えを取っていざ勝負、という土壇場になって、耕一の周りの気配が一変した。
 構えは素人なのに、その気だけは達人並み。
 双英は理解に苦しんだ。今まで全く戦ったことのないタイプであった。
「すまんが……少々手厳しくしても構わんか?」
 双英は構えたままいった。
「え……」
「君は……格闘技は全然やったことがないだろう。それが私にはわかる」
「……はい、経験はありませんけど……」
「しかし、君は強い。それも私にはわかるのだ」
「……」
「正直なところ……得体が知れない……君が少々怖くなった」
「怖い……ですか……」
「だから、少々本気でやっていいかね?」
 伍津双英が過去、対戦を前にして「怖い」という言葉を口にしたことは数えるほどし
かない。格闘家たる者、本当に怖くても怖いと口に出すものではない、という意見もあ
ろうが、双英はその点は正直な男だった。

 二百人組み手を日課としていたという空手家。
 二人の人間を試合中に殺したという元プロボクサー。
 戦後の荒野で名を馳せたストリートファイター。
 土佐犬。
 虎。
 熊。

 その列に、今、新たに柏木耕一の名前が加わった。
「……いいですよ」
 耕一は、双英の問いにそう答えた。自分の「回復力」を思っての返答だった。
 双英の右正拳を耕一は「何かが左で動いた」としか認識できなかった。
 思いっきり顔面にそれを貰ってすぐに左が腹部を襲ったが、耕一はそれに対しても無
反応であった。
 耕一が何をしたかというと。
 攻撃に出たのである。
 真剣勝負の野試合の数は百試合を越える双英にとって、それは極めて非常識な行動で
あった。
 自分の拳が外れたのならばまだわかる。
 だが、自分の拳はクリーンヒットしたのだ。あのタイミングであの場所に入ったら、
間違いなくダウンするはずなのだ。
 ただ、殴った時に、丸太を叩いたようなズッシリとした重い感触がした。まるで人体
とは思えないような……。
 耕一の攻撃は何の変哲も無い右のパンチであった。大振りで隙だらけのそれを余裕を
持って防御した双英は、それが自分の二本の腕などには荷が重いものであることを知っ
た。
 背中が、壁に接触した。
 耕一と双英の間の距離は十メートル近い。
「耕一といったな……」
「はい」
 双英が尻を畳の上に落としたのを見て、耕一は戦意喪失と見なして構えを解いていた。
「君に……果たして人間が編み出した技が必要なのかね」
「……」
 無言。
 だが、耕一が沈黙の中にいたのは、そう長い時間ではなかった。
「必要なんです。おれは、まだまだ弱い」
「君は、何と戦う気だ」
 無言。
 そして、今度の沈黙は長かった。
 たっぷり五分は静寂が道場を支配していた。
「同類です」

 あれから二週間、耕一は双英の教えることを驚くべき早さで吸収していった。まさに
師匠冥利に尽きる弟子とでもいおうか、とにかく耕一の成長は急速であった。
 問題はあった。
 双英の弟子たちである。
 双英に道場を開くことを許された五人の弟子たちが、憤懣やる方なしといった表情で
乗り込んできたのが三日前だ。

「一体、どういうおつもりです。もう直弟子はとらんといったでしょう」
 いきり立って叫んだ男に、耕一は見覚えがあった。確か、耕一が「道場破り」に行っ
たことになっている道場の主、熊木という男だ。
「とることにしたんだ。文句があるか」
 双英は速攻で開き直った。
 師の命令は絶対と見えて、五人の男たちはとりあえず、その件については納得するし
かなかった。
 しかし、
「そうなると我々は、その青年の兄弟子ということになるな」
 と、近畿の方で道場を持っているという久地という男がいった。
 この男、格闘技の腕だけでなく「政治」や「ビジネス」の腕も立つとの評判である。
「兄弟子として、この機会に少し稽古をつけてやってもいいのではないかな」
 その提案に、他の四人は色めき立った。
 彼らは、師匠の「腕」と同時に「目」にも信頼──というより信仰のようなものを持
っている。
 その師がここまで入れ込む人物、となれば、余程の素質を持った者に違いない。
「しかし、誰が」
 と、誰からともなく上がった声に、久地は嘲笑ともとれる笑みを面上に浮かべつつい
った。
「それは……面識のある熊木でどうだ」
「む……」
 熊木の表情が歪んだのも当然であった。
 久地は、暗に、
「お前のとこの道場の人間が二人やられたのは承知しているぞ、結局、そのままでそい
つを帰したこともな……名誉を挽回しないままでいいのか?」
 と、いっていた。と、いうより、そういっているのだと、熊木が確信した。
「いいだろう」
 カッ、と目が開いた。
 久地にはめられた。と思うと同時に、チャンスであると思った。
 熊木は絶対に自分が負けると思うほど弱気な男でもないし、自分の腕に自信を持って
いないこともなかった。
 先日の「道場破り」の時は、まさか道場主の自分が相手をするわけにもいかず、弟子
にまかせて自分は裏で見ていた。確かに強いと思った。自分以外の者では勝てぬのでは
ないか、との危惧を抱いた。
 そこで、熊木は「弟子が勝手にどこの馬の骨とも知れぬ道場破りの相手をしていた」
というような芝居を打って、耕一を追い返したのである。
 手こずるかもしれないが、所詮は素人。あれから師の手ほどきを受けたといっても、
たかが一週間と少しでは……。
 熊木はそう思っていた。
「では、審判は私がやろう」
 そういった久地に、熊木からの凄まじい視線が注いだが、久地は知らぬ顔であった。
「二人とも、思い切りやれ」
 双英がいった。
「全力でな」
 改めて、耕一に向かっていった。
 耕一は頷き、全力でやってみた。
「はじめ!」
 の、声をかけた久地の顔が、三十秒後には血の気の無い青ざめた色に変わった。
 それは、他の三人の弟子たちも同様であった。
「こ、これはさすが先生が見込んだだけあって見事な腕、どうやら我らなどが稽古をつ
けるまでもないようだ。いや、さすがは先生」
 青ざめた顔のまま、久地はにこにこと笑いながら耕一と、そして何よりも双英を誉め
讃え、この場をなんとなくうやむやにしてしまった。
 熊木は、その久地の態度に怒りを顕わにすることはできなかった。
 血にまみれた熊木の顔からは、意思の力は感じられなかった。
 耕一のことを強い、と思った瞬間に逃げに転じた久地は狡猾であった。が、結局、久
地のような男は「生き延びる」という能力には長けていても格闘家としてはそれほどに
「怖い」存在ではない。
 実際に本気で立ち合えば、仮にも伍津双英の教えを受け、道場を持つことを許された
ほどの男である。そこそこ善戦するに違いない。
 だが、満身創痍になるほどの戦いぶりはしないであろう。後日、後遺症を誘うような
怪我を負うことは絶対に無い。そうなる前に、ギブアップして逃げてしまうだろうから
だ。
 だから、結局、久地のような男は、本気の格闘家にとっては「怖くない」相手なので
ある。
 その久地も、若い頃は無鉄砲でがむしゃらで、師である双英に突っ掛かってくるよう
な野性があったのだが、道場主になり、金が入り、「ビジネス」に目覚めてからは、そ
のようなことは無くなった。もはや、久地は格闘家ではなく経営者であった。

「たっぷり食べて下さいね」
「はい、いただきます」
 耕一は、双英の奥さんの作った夕飯を嬉々として口中に入れた。
「あなたが初めてなのよ、うちの人が母屋の方に連れてきたお弟子さんって……よっぽ
ど気に入られてるのねえ、あなた」
「ん……そうっすかねえ」
 耕一はすっかりくつろぎ体勢に入っていた。けっこうこういう順応性は旺盛な男だ。
「そういや、先生はどこに……」
「なんか……お巡りさん来て、それと話してるわ」
「警官が?……」
 耕一は、なんとなくいやな予感を感じつつも、飯を食うのだけは止めなかった。
 やがて、双英がなんだかウキウキとした様子で戻ってきた。
「耕一、なかなか面白そうな夜になりそうだぞ」
「は……どうしたんですか?」

 警官の姿が多い。
 なんでも、殺人事件があったらしい。
 警官に職務質問されると面倒なので、身を隠しつつ歩く。
 獣に引き裂かれたような死体が見つかったそうだ。
「出たな……奴が……」

                                    続く

   次回予告

   好恵はその男が危険であることを、生物的な本能で察していた。
  「三井さん」
   彼女の隣にいるその男は、目線で好恵に「下がっていろ」と、いった。
  「どうやら、おれがお目当てらしい」
   三井は、好恵が通っている道場でも一二を争う猛者だ。大会で優勝したことだっ
  てある。
   心配は要らないはずだ。でも、その男は危険なのだ。いくら三井でも危険なのだ。
  「お前、何者だ?」
   三井がいった。
  「伍津流、柏木耕一、立ち合いが望みだ」
                          (大嘘です)

    どうもvladです。
    以前「格闘技の知識が無い」といっておきながらこんなの書いてしま
    いました。
    「知識は無いが意欲はある」んですねえ、これが……。
    これを書くにあたっては、他のSS作家さんたちの「それ系」の話を
    幾つか読んで勉強したんですが……ちょっと緊迫感に欠けるかなあ…
    …。でも、実は一番参考にしているのは「餓狼伝」だったりする。(獏)
 
       あ、そんで、すぐ上にある次回予告は大嘘ですが、続くのは本当です。