あしたのために 投稿者: vlad
『お聞き下さい、この大歓声、藤田です。チャンピオンの藤田浩之が入場してまいりま
した』
 覆い被さるような歓声に、アナウンサーの声。
 それを聞きながら、矢島は妙に落ち着いていた。
「行くぞ、小僧」
 セコンドの長瀬に促され、矢島は歩み出した。
「なあ、おっさん」
「なんだ」
「勝てるかな?」
「難しい……」
 その後に、長瀬は何かいおうとしたがもう花道に出てしまったために、彼は口をつぐ
んだ。
 先に入場した浩之には比すべくもないが、矢島の入場の際にも歓声は上がった。だが、
その中に、
「おう、まあ、頑張れよお」
 と、いう類のものが混じっているのは仕方が無かった。
 この会場にいる人間の九割は、矢島が勝つなんて思っていない。チャンピオン(主役)
藤田浩之の勝利を疑っていないのだ。
 リングに入った矢島は、ガウンを脱ぎ捨てて足の屈伸運動を行っていた。
 レフリーに促されて、リング中央に行くと、相変わらず目つきの悪い浩之が待ってい
た。
「よっ」
「おう」
 いいつつ、軽くグラブを合わせる。
 双方の名前のコールなどは済んでいる。後はゴングだけだ。
 浩之は……余裕たっぷりといった感じだ。リング下にいる女の子たちに手など振って
いる。対して、矢島側にいるのはセコンドの長瀬ただ一人。これもチョイ役の悲しさか。
 やがて……。
 高らかにゴングの音が鳴り響き。
「ファイッ!」
 レフリーが腕を交差させる。
 行くぞ。
 矢島は前に出た。
 瞬間。
 脳が大きく揺れた。
 宙を泳いで背中にコーナーが当たるまで後退する。
 頬の痛みなどに構う暇は無く、すぐにボディーに来た。
 嘔吐感が喉までせり上がってくる。
 ぐらり、と矢島の体が揺れた。
 最後のそれは全く見えていなかった。気付いた時には顎に激痛が走って、矢島はねじ
れるように倒れていた。
 わっ、と大歓声がわく。
 第1ラウンド開始から僅か三秒。
 このまま終わられては損だとばかりに、ダウンした矢島にブーイングと紙一重の声援
が浴びせられる。
 矢島は立ち上がった。自分のコーナーに寄っかかって浩之は笑っていた。
 二度目のダウンは開始後一分。今度は少しは保ったが、矢島はほとんど反撃できなか
った。
 矢島は立ち上がった。もう立ち上がらない方がいいんじゃないか、とは自分でも思っ
た。所詮、あっちは主役でこっちはチョイ役である。名字だけで名前もないような奴が
あだ名まで存在するあいつに勝とうというのが土台無理なのだ。
 しかし、それでも矢島は立ち上がった。どうしても、1ラウンドだけは耐えようと思
ったのだ。
 残りの二分を、矢島は守り抜くことで耐え抜いた。だが、浩之のパンチはガードの上
からでも容赦なく矢島にダメージを与えてくる。
 ゴングが鳴った時、矢島はその場に倒れそうになる体をなんとか気力で支えた。
「ちっ、三分で決められなかったか」
 浩之が意外といった感じで呟いた。彼にしてみれば、第1ラウンドで決めるつもりだ
ったのだろう。
(安心しな……次のラウンドはもう、保ちそうもねえや)
 矢島は声にならぬ呟きを発しながらコーナーに戻った。
「よう、おっさん」
「……止めるか?」
 数十年前、セバスチャン長瀬というリングネームで東洋の悪魔と恐れられた元世界ラ
ンカーはいつになく穏やかな声でいった。
「いや、ギブアップはかっこわりぃ、KO負けで負けたいもんだね」
「そうか、ではやってこい」
「アドバイスは無しかよ」
「実力差がありすぎる。アドバイスのしようがない」
「へへ、そうかい」
「せいぜい、食い下がれ」
「おう、わかったよ」
 第2ラウンドは、第1ラウンドに輪をかけて一方的な展開となった。とにかく、反撃
をする暇も無い。下手に反撃に出ようものならそこに生じた隙に強烈なのを叩き込まれ
て一瞬で壊されるだろう。
 第2ラウンド終了間際。
「ヘイ、矢島!」
 そんな声がリングのすぐ下から聞こえたような気がした。
 ありがたい。
 というのが、素直な気持ちだった。こんなボロボロになるまで打ちのめされ、もはや
勝利とは縁遠い自分に声援を送ってくれる人がいるとは……。
「あ……」
 矢島は、次の瞬間、そんなことよりももっと別のことに全ての神経を持って行かれた。
 目の前で自分を攻め立てていた浩之が、よそ見をしているのだ。不敗のチャンピオン、
藤田浩之にあるまじき行為だ。
 それだけに、これは矢島にとって千載一遇の、最後のチャンスであった。この機に攻
めずにいつ攻める。
「うっらあああ!」
 この試合初めて、矢島のストレートが浩之の顔面を捉えた。次いで、仰け反ったとこ
ろへ追い打ちをかけ、第二撃を打ち込む。
 不意を食らった浩之は、激しく転倒した。会場が一斉にどよめく。
 浩之は敗北はおろか、ここ数試合、ダウンすらしたことが無いのだ。
 浩之が立ち上がった時、第2ラウンド終了のゴングが鳴った。
「どうしたの? 浩之」
 セコンドの雅史に問われて、浩之は苦々しげに矢島のコーナーを見て、
「あれを見て、ちょっと気が散っただけだ」
「あっ」
 それを見て、雅史は声を上げた。
 矢島は、浩之からダウンを奪ったことで、体は満身創痍なものの、精神的には満足し
ていた。
 その矢島をコーナーで待っていたのは意外な人物であった。
「あ、は、橋本先輩じゃないですか」
「今のラウンドの終了間際、リング下でお前の名前を叫んでいたよ」
「で、でも橋本先輩は入院してたはずじゃ」
「どうやら、抜け出して来たらしいな」
 矢島はかつて橋本と激しい試合をしたことがある。しかし、試合後、二人の間に友情
が芽生え、ともに主役打倒を誓ったものだ。
 橋本は、今から一ヶ月前に、浩之に挑んで敗れ、ずっと入院していたはずなのだ。
「先輩、応援しに来てくれたんですか」
「ヘイ、矢島」
 矢島は言葉を失わざるを得なかった。橋本の口調、表情、眼光、全てがどこか虚ろで
あった。
「おい、おっさん……」
「典型的なパンチドランカーの症状だ。おそらくこの前の試合で、藤田の強烈なコーク
スクリューを立て続けに頭部に受けた結果だろう」
「そんな……」
「ヘイ、矢島、You are strong man I am very ver
y strong man」
「先輩……」
「小僧、第3ラウンドだ」
 第3ラウンドは、第2ラウンド終盤とは打って変わって浩之から隙が全く消えた。
 さらに、浩之は遂に伝家の宝刀を抜いた。
 先程までとは全く衝撃が違う。
 浩之がコークスクリューパンチを打ち始めたのだ。

 第10ラウンド。
 誰も、当の矢島でさえ、この試合がそこまで長引くとは思っていなかったに違いない。
 実のところ、第2ラウンドの終盤でダウンを奪った時に、
(これでもう満足だ)
 と、矢島は思った。しかし、廃人になった橋本が自分へ声援を送るのを見て、彼は決
意した。
(ここで止めたら先輩に申し訳ない。できるとこまで……自分の限界までやってみよう)
 そんな矢島に、浩之は段々と恐怖を覚えていたといっていい。
(寝ちまえ! 寝ちまえよ!)
 矢島が立ち上がってくる度に浩之は思った。
 そして第10ラウンドも中盤に入ってから、急に矢島のパンチが当たり出した。
(なんでだ)
 浩之は、段々と芽生えた恐怖感も手伝って、矢島に何か化け物じみたものを感じてい
た。
 そして、とうとう第10ラウンドも、矢島は戦い抜いた。
「矢島くん、こっちじゃない、あっちだよ」
 インターバルに入る時、ちょっとしたアクシデントがあった。矢島がフラフラと浩之
側のコーナーに来てしまったのだ。
 雅史にいわれて戻っていったものの、やはりその足取りは危なっかしいものであった。
「小僧、今のラウンドはなかなかよかったぞ」
「へへへ、おっさんよお、右目がほとんど見えねえや」
「なに!」

「浩之、最後の方にちょっともらっちゃったね」
「わかった。あの野郎、右目がもう見えなくなってやがんだ」
「えっ」
「それで、紙一重でかわそうとしていたおれにパンチが当たったってわけさ。目が見え
ねえための微妙なズレが、却って命中率を高めることになったんだ」
「それじゃあ」
「おう、次のラウンドで決めてやる」
 第11ラウンド開始のゴングが鳴り、矢島と浩之はリング中央にやってきた。
 先制した矢島のパンチはことごとく空を切った。浩之が余裕を持って大きくかわし始
めたのだ。
 矢島の体勢が崩れたところへ情け容赦ないコークスクリューが突き刺さる。
 早くもダウン。と、思われた瞬間、浩之は前に出た。
(今まで、こいつをチョイ役だと思って甘く見てた。もう油断はしねえ、このラウンド、
とことんやってやる)
 矢島は連続でパンチを食らってコーナーにまで追い詰められた。コーナーで背中をバ
ウンドさせて前に倒れるところへ、突き上げるような浩之のコークスクリューが炸裂し
た。
「おら、どうだ!」
 もはやボクシングのパンチというような洗練さは失われていた。浩之は冷静さをかな
ぐり捨てて、いや、地に戻って矢島をめった打ちにした。
「どうだ。てめえ! 沈めよ! 沈んじまえよ!」
 矢島はコーナーを背にしているところへ、前から雨霰のごとく浩之のパンチを注がれ
て、倒れようにも倒れられずに、そして反撃もままならずに打たれていた。
 数十発も、コークスクリューを叩き込んで、浩之は退いた。
 矢島は、ふらり、と一歩前に出たが、すぐに前のめりに転倒した。
「ワーン、ツー、スリー」
 刻々と刻まれるレフリーのカウントを聞きながら、浩之は自分のコーナーの方へと歩
いて行った。雅史がいて、そしてあかりがいて、みんながいる。戦いを終えて、ようや
くあそこへ帰れる。
「セブン、エイト、ナイ……」
 どうして、カウントを止める。
 おおおーっ、と観客がどよめいている。
「ファイッ!」
 振り返った浩之の前方で、矢島は立っていた。
 まだ戦いは終わっていなかった。自分は、またあの戦場へ戻らなければいけない。
 何度も何度も立ち上がってくるあの男と戦いに……。
「お前は……」
「……」
「お前はなんだっ!」
 浩之は前進した。もう奴は限界のはずだ。もう一発……もう一発食らわしてやれば、
あいつは倒れる。そして、終わるのだ。
「浩之!」
 不用意に突っ込んでは……と、叫ぼうとした雅史が絶句した。
 伸びきった浩之の右ストレートの上に、矢島の左腕が乗っていた。
 クロスカウンターだ。浩之が思いきり前のめりに突進していたのでこれは相当に効い
たはずだ。
 ダウンした浩之がカウントセブンで立ち上がった時、丁度、第11ラウンド終了のゴ
ングが鳴った。
「浩之……」
「なあ、雅史……」
「どうしたの、浩之」
「あいつはもう、死んでるんだよ。だって、あれだけコークスクリューをぶち込んだん
だぜ、生きてるわけがねえ、矢島は死んだんだ。おれは、死んだ矢島と戦っているんだ。
あいつがくたばるわけがねえ、なんてったってあいつはもう死んじまってるんだから」
「浩之! 落ち着いて! 得点では圧倒的にこっちが勝ってるんだ。判定に持ち込めば、
絶対に勝てる! 矢島くんがもう死んでるなんて、そんなことあるわけないじゃないか」
「だったら……だったらあいつは、死ぬのが怖くはないのか? おれは……おれは死ぬ
のが怖い。おれには愛する、おれを愛してくれるあかりがいて、雅史がいて、志保の奴
がいて、みんながいる。あいつは……矢島には死んだ時、悲しんでくれるような人間は
いないのか……」
「セコンドアウト!」
 レフリーの声に雅史は浩之を心配そうに見ながらも離れた。
「浩之、このラウンドが最後だから!」
 その声が、果たして浩之に届いていたのだろうか……。
 第12ラウンドは互いに虚ろな目をした両者が激しく打ち合う展開となった。矢島は
最後まで倒れなかった。
 激しく、試合終了のゴングが打ち鳴らされる中、矢島と浩之は、それぞれのセコンド
に羽交い締めにされながら、なおも前進しようとしていた。
 ようやく、二人が落ち着いた頃、マイクを持ったレフリーがリング中央にやってきた。
「判定……藤田!」
 びしっ、と浩之を指差す。
 大歓声の中に、ポツリポツリと、
「おい、見てみろよ」
 と、何かを恐れるような声が混じり始めた。
「髪が真っ白じゃないか……」
 勝者のはずの浩之の頭髪は、ことごとく白く変色していた。その表情もどこか虚ろで、
どこからどう見ても、勝者だとは思えない姿であった。
「小僧……よくやったな」
 長瀬は、コーナーで椅子に座ってだらりと全身を投げ出している矢島にいった。
「よくやったよ、お前は……おい」
 長瀬は矢島の様子に異変を感じてその肩を揺すった。
「燃えたよ……」
「なに?」
(燃え尽きちまったよ……真っ白にな……)

                                   終

          どうもvladです。やってしまいました。
          元ネタはホセ・メンドーサ戦です。
          やっぱり、ジョー、全巻揃えようかなあ。

 それではまた……。