関東藤田組 英雄 中編 投稿者: vlad
 その晩、浩之がソファーに寝転がって、愛妻の膝枕という羨ましい体勢でテレビを見
ているとニュース番組で百万円の現金があるスーパーマーケットの金庫から盗まれたと
いう盗難事件を報じていた。
 そのスーパーにとっては大きな災厄だったのだろうが、この程度の事件は、日々絶え
間なく起こる大事件の間にひっそりと存在を許され、やがて忘れ去られるものである。
 かくいう浩之もニュース番組が終わった頃にはすっかり忘れて、三日ぶりに妻と会っ
た結婚間もない夫らしい思案にばかり頭を使っていた。
「あかり、寝ようぜ」
 浩之はあかりの膝から頭を上げた。
 志保がこの場にいれば「あんたら、結婚してどんだけ経つのよ」と、馬鹿にするより
も呆れるかもしれない。
 浩之は未だに妻との性行為をその行為の前に宣言するような図太さを持てないでいた。
いつも、寝よう、とか、休もう、とかいう婉曲な表現をする。図太さで形成されている
ように見えて、変に恥ずかしがりなところがこの男にはあった。
 それでことが済んでいるのは、それで浩之の意思があかりに伝わるからである。
「うん、寝よう」
 にっこりとあかりは笑った。
 最近、色気がついてきやがったな。と、浩之は思う。
 浩之は、あかりの肩に手を回して、唇を重ねた。
「浩之ちゃん……」
「お前が悪い」
 ぽつり、といって、居間を出る。
「えっ……えっ、私、何か悪いことした?」
 そういいながらあかりが着いてくるのに苦笑しながら浩之はなんだか妙に嬉しかった。
結局、あかりが自分の後ろ姿を忙しなく追い掛けてくる状態が、とても幸福に思えるの
だ。

「うぃーっす」
 翌朝。午前十時。
 出社時間が特に定められていないといっても、重役出勤といっていいかもしれない。
 さすがに、浩之はあまりでかい顔をせずにやってきた。
「おはようございます」
「よっ、おはよう」
 幸い、浩之の遅刻をなじる恐れのある志保と智子が出払っているようだ。浩之はマル
チに入れてもらったお茶など飲んでいた。
 基本的に実働部隊である浩之に定期的に決まったスケジュールはない。何か事件を抱
えていたり、スポンサーからの「指令」が無い限りは至って暇なものである。
「ヘイ、ヒロユキ、今日はのんびりネ」
 同じく実働部隊であり「切り札」でもあるレミィは普段は浩之に輪をかけて働いてい
ない。いつも本を読んだりしている。
 しかし、藤田商事の名を一躍有名にした麻薬売買組織「ハイ・ポーション」の壊滅に
はレミィの働きが大きい。
 マシンガンで武装した十四名の人間がボウガン一挺を駆使するレミィの前に敗退した
事実はその筋では有名であった。
「藤田を怒らせても、宮内は怒らすな」
 と、いう言葉が恐る恐る囁かれているという話である。
 その意味は、浩之は怒らせてもなんとか和解できるが、レミィを怒らせたら和解云々
以前に次の行動を起こす前に仕留められてしまうからである。
 一方で、彼女には、遺恨を残さないさっぱりとした性格である。という評判もあった。
どんなに激しく敵対していた人間でも、一日経てば、愛くるしい天真爛漫な笑顔で話し
かけてくる。
 ただ単にバーサクモードになっていた時の記憶が無いだけだ。という正しい事実はあ
まり知られていない。
 レミィはブツブツと「万葉集」を読んでいる。
 琴音は筆を念動力で動かして習字をしている。
 葵は、地下で訓練中だろう。
 仕方ないので給湯室で掃除をしているマルチでもからかいに行こうとしたら、志保が
帰ってきた。
 後ろに雅史を従えている。相変わらず色んなところでもてる男だ。おそらく、情報収
集の手伝いをさせられていたのだろう。
「よう、何かネタはあったか」
 偉そうにふんぞり返ってソファーに体を預けた浩之の向かいに志保が嬉々として座る。
なんだかんだいって志保は、集めた情報を他人に話すのが大好きなのだ。
「そういえば、喫茶店で一休みしてたら矢島くんに会ったわよ」
「喫茶店って、そこのか? あんにゃろ、また油売ってたのか」
「なんか、戸締まりがどうのこうの、って店の人にいってたみたい。なんでも、昨日、
空き巣があって百万ぐらい被害があったらしくて」
「それって、なんたらいうスーパーマーケットか? 確かそんなのがニュースでやって
たな」
 志保が矢島に聞いた話によると、スーパーの事務所の扉の鍵と、金庫の鍵の双方が、
いとも簡単に開けられていたという。
「ふうん、うちは事務所に現金はほとんど置いてないから大丈夫だろ」
 それに、藤田商事には罠が仕掛けてある。という噂が流布していて好んで侵入しよう
する者はいないだろう。そのような物騒なものを仕掛けた覚えは無いのだが、いつの間
にかそういうことになってしまった。
 どうやら真相は、志保が「うちの会社に忍び込もうとしたら罠が発動する」と、どこ
かででまかせをいったのが「あそこならそのぐらいはやる」と、日頃の勇名(悪名)が
手伝って事実になってしまったものらしい。
「ま、戸締まりはきちんとした方がいいわね……あんたはあかりがいるからいいけど、
あたしも気を付けなきゃ」
 ただの盗難事件であった。被害額が特に大きいわけでもないし、血が流れたわけでも
ない。
 少なくとも、自分が関わる類の事件ではないと浩之は思った。

 数日して、社長席でふんぞり返ってスポーツ新聞を読んでいると志保が来た。彼女の
顔に「話したい話したい」と、書いてあった。
「ヒロ、聞いてよ聞いてよ」
 志保は一直線に社長席の方にと向かってきた。情報を浩之に報せるのは職務上の彼女
の義務なのだが、まるで権利を行使するかのように軽やかに、にこやかに、志保はやっ
てくる。
「どした?」
「知ってるう?」
 そういいながらキョロキョロと周囲を見回す。
「なんだよ」
「義賊のお話」
「義賊ぅ……鼠小僧みたいな奴か?」
 義賊、というものが実際に存在したのかは確かではない。浩之がすぐさま連想した鼠
小僧次郎吉も、実際は義賊的なことはほとんどせずに、盗みで得た金を遊興に使ってい
たという。
 義賊などというものが大手を振っているのはやはり、小説、講談の世界であり、現実
にそのようなものが現れるというのは非現実的であり「おれは義賊だ」などという泥棒
が出現すれば、胡散臭さばかりが先に立つだろう。
「つまり……義賊気取りの馬鹿が盗んだ金をばらまいてるってか?」
 そういった浩之の表情にも素振りにも「胡散くせえぞ、おい」という心情がありあり
と浮き出ていた。
「それがね……本当なのよ、あくまでも噂なんだけどね、ほら「スラム」でね、苦しい
生活をしている老人の家にお金が投げ込まれていたとか……」
「ほう……」
 志保によると、今のところ届け出は無いらしい。
 無理もないであろう。生活に困窮しているところへ、いきなり金が降ってきたのだ。
本人が口を閉じてそのようなことがあったことすら語らぬために、志保にも正確な金額
はわからないが、一人一人にはそれほどの大金ではないのだろう。あまりの大金ならば、
誰か一人は怖くなって警察に届け出るだろうからだ。
 いきなり降ってきたその金がいわくつきのものであろうことは誰にでも想像できる。
しかし、自分が手を汚していない限りは罪悪感を感じることは少ない。
「天からの授かりもの」
 とでも思って頂いてしまえばいいのだ。
「今、あっちの方じゃ、その噂で持ちきりよ、英雄だとか大袈裟にいってる人もいるぐ
らい」
「……ふん、その野郎、調子に乗ってまたやるんじゃねえのか」
 浩之の予感は的中した。
 その晩に、とある金融会社の金庫から二百万の現金が消え失せたのである。
 そして、その翌日ぐらいから「スラム」に、昨晩、誰それのところに金が投げ込まれ
たらしい。という噂が多く流布し始めたという。
「うちにも投げ込んで欲しい」
 と、いう者まで現れた。
「ちょっと、探ってみるわ」
 浩之は特に何もやることが無かったのもあって、外出した。
 浩之は来栖川SPの本社に出向いて、データベースを使わせてもらった。既に綾香に
話が通してあったために、すんなりとアクセスできた。
「ふむ……」
 どうやら、民間警察の方でも、金融会社での盗難がその「義賊」の犯行ではないか、
と疑っているらしい。
 関連事項に、先日のスーパーマーケットの盗難事件があった。
 非常に手口が似ている上に、こちらも「義賊」の噂が流布する直前に起こった事件ら
しい。
 そうこうする内に第三の犯行が起こった。今度は第二回目と同様に金融会社から二百
万が盗まれた。
 今回は空になった金庫の中になんとも人を馬鹿にした犯行声明が残されていた。

 みんなに配るんでもらっていきます。

 会社の人間は歯ぎしりしたであろう。
 神出鬼没。
 翻弄される警察。
 などの見出しが見ようによっては「義賊」賛美の意図を持って放たれたがごとく新聞
の紙面に踊った。
 だが、民間警察だって馬鹿ではないし、幾ら鮮やかに盗みを行おうと、新たな犯行は
結局、それを追う民間警察に、より多くの材料を与えることとなる。それに、今回の犯
行で犯人は初めて自らの行動を誇るような声明文を残している。これは、明らかに犯人
に油断が生まれていることを指し示す。
 さらに、浩之は新聞を読んでいて、この度の第三の犯行に現れた変化を悟っていた。
「えーっと……なんだったっけか……」
 突然、呟いて天井を見上げた浩之に、智子が、どしたん? と、声をかけた。
 それに無言で返答した浩之の机に、琴音がお茶を置いた。
「あ、そうだ!」
 いきなり叫んだ浩之の前に、琴音が湯呑みを押し出した。
「そうだそうだ」
 浩之はブツブツいいながら湯呑みに口をつけて、まだ熱いお茶を少しずつ飲んだ。
「どしたん?」
 智子が再び聞いた。
「これこれ、これよ」
 浩之が広げた紙面には例の「義賊」の第三の犯行のことが報じられていた。
「これが?」
「この被害のあった前崎金融ってさ、やくざなんだわ、瀬島一家がバックについてる」
「え、そうなんか?」
 智子は驚いた。が、最近では非常によくある話である。
「これがまあ、結構、あくどいっていう評判があってな、綾香からの情報じゃ、来栖川
SPの方でもその内にアゲちまおうかって話も出てるらしくってな」
 悪徳金融だ。という声も小さくはない。浩之でなくとも、多少事情に通じた人間なら
ば前島金融と瀬島一家を結びつけるのは容易なはずだ。
 二回目の犯行、と目されている金融会社は特にそう悪い噂は聞かない。これは、犯人
が盗みの相手を選び始めたということではないだろうか。
「つまり……」
 智子が立ち上がっている浩之を見上げながらいった。
「いよいよ義賊気取りってことさ」
 考えてみれば、第一回目と二回目の犯行では、相手はごくごく普通のスーパーと金融
会社である。これでは幾ら盗んだ金をばらまいたところで「義賊」としては完璧でない。
やはり「義賊」たるもの、盗む相手は、あくどい手段で儲けている連中と相場が決まっ
ている。
 浩之はその犯人の首根っこをひっつかまえてやりたい衝動に駆られたが、悲しいかな、
彼は「犯人逮捕」や「犯人抹殺」はできても「捜査」というものがほとんどできない。
 結局、こそ泥じゃねえか。と、浩之は何もできない暇な身を慰めた。
「ちょっくら出てくる」
 浩之は久しぶりに雅史も連れずに一人で表に出た。
 ふと、浩之は「義賊」とやらの情報を自分の耳で聞いてみようと「スラム」の方へと
行ってみた。散歩がてら三十分ほど歩く。
 話を聞いてみると、誰それが貰ったとか、そういう話は頻繁に出回っているらしい。
最近では、ちょっと羽振りがいいと、あいつは貰ったんじゃないか、などといわれて、
それがすぐに噂になってしまうようだ。
 ついでに理緒を訪ねてみよう。と、浩之は思った。
 そう思いながら理緒のアパートの方へと足を向ける。
 もう間近というところで気になる話を聞いた。
「雛山さんとこも貰ったらしいな」
 浩之には俄に信じられる話ではなかった。
「根拠はあるのか」
 それを漏らした男は、藤田商事の社長が、いきなり不機嫌そうになったので、顔を青
くして震えだした。
「そ、そういう話を聞いただけだよ」
「誰から聞いた」
 浩之は逃げようとする男の肩に手を回した。
「やっちまうぞ」
「そ、その……あそこのガキが事故に遭ったんだ」
「なにぃ、いつだ」
「ちょ、ちょっと前だよ、けっこうひどい怪我でよ、おれら、可哀想だけど満足な治療
受けられないだろうなあ、って話してたんだ」
「どうなったんだ」
「い、いや、それがさ、そんなに貯えがあったようにゃ見えねえのに、しっかりとでか
い総合病院に入院させてんだよ、保険があるっていっても、やっぱ貰ったんじゃねえか
って……」
「いざという時のための貯えがあったのかもしれねえじゃねえか」
「み、みんながそういうんだ。おれがいったんじゃねえよ」
「ふん……失せろ」
 浩之が手を離すと男は逃げ出した。途中、何度も何度も振り返った。
 男の心配をよそに、浩之は別に拳銃を抜き放ったりはせずに、背を向けて歩き始めて
いた。
 浩之は理緒のアパートのインターホンを押した。
 ドアの向こう側で音がする。
「誰ですかあ?」
「理緒ちゃんの知り合いの藤田ってもんだ。理緒ちゃんはいるか」
「藤田さんって方は知らない人なので教えられません」
 浩之は、ほう、と呟いた。
 治安の悪い地域に住んでいるだけあって、きちんと警戒している。教育が行き届いて
いるのだろう。声からすると中学生ぐらいらしいが。
 理緒がいれば確認がとれるのだが、理緒がいないのならばそれは無理であろう。せめ
て、理緒の弟だか妹だかの入院している病院を教えてもらって見舞いに行きたかったが
仕方ない。
 帰ろうとした時、いつぞや見た顔と出会った。
「えっと……帆村だったか?」
 以前に一度だけ僅かに顔を合わせたことがある。階段を上がってきた男は、理緒と同
じ職場で働いているという帆村由影という青年に違いなかった。
「どうも」
 向こうも、浩之を覚えていたのか、軽く頭を下げた。
「おい、おめえ、理緒ちゃんの弟だか妹の入院してる病院っての知ってるか?」
「知ってる……理緒さんも今頃行ってると思う」
「そうか、どこの病院なんだ。教えてくれ」
 帆村はやや迷った風だったが、浩之が理緒とだいぶ親しかったことを思い起こしたの
か、病院の場所を教えてくれた。
 帆村はそのまま理緒宅へと行った。
 浩之の時とは打って変わって、中の反応が違う。理緒とだけではなく、家族ぐるみの
付き合いがあるらしい。
 浩之は、少々病院の場所が遠いことを考慮してタクシーを拾った。途中で手ぶらなの
に気付いて果物の詰め合わせなど買っていく。
 それをぶら下げてやってきた浩之は看護婦に病室の場所を聞いて、そこに足を向けた。
 その四人部屋の右奥のベッドの傍らに理緒の姿を見付けて、浩之は片手を上げて近付
いて行った。
「よっ」
 浩之がベッドの上に果物の詰め合わせのカゴを置いて微笑むと、理緒は驚いて、浩之
の名を呼んだ。
「藤田くん、どうしてここが……」
「あの、帆村とかいう奴に教えてもらったんだ」
 といって、浩之は安らかな寝息を立てている女の子を見やった。どうやら、入院して
いるのは理緒の妹の一人らしい。たぶん、十歳前後ぐらいか。
「ありがとう、わざわざお見舞いに来てくれて……」
「うん……ちょっと話さないか」
「あ、うん、だったら表で」
「ああ、起こしちゃうかもしんないからな」
 浩之が理緒の妹を見ながらいった。自然と顔が綻ぶ。
「子供か……」
「えっ」
「あ、いや……表に行こうか」
 浩之は頭の中に浮かんだ自分とあかりの子供のことを打ち消して理緒を促して外に出
た。別にあかりが妊娠したわけではない。しかし、結婚してからというもの、同棲時代
にはあまり気にしていなかったそのことが奇妙なほどに身近なものとして感じられるよ
うになったのは事実である。
 廊下の椅子にかけた浩之は臨席を理緒に勧めた。
「理緒ちゃん、あの子、大丈夫なのか?」
「うん、ちょっとした交通事故だから……それに、思ったよりも設備の整った病院に入
れられたし」
「やっぱ、ここっていいとこなのか?」
 そういいながら、浩之は辺りを見回した。だいぶ、大きな病院ではある。
「うん」
「それじゃあ、安心だな」
「うん、帆村くんには感謝しないと……」
「ん、あいつがどうかしたのか?」
「あ、そうか、藤田くんには話してなかったね」
「なにが?」
「ここの入院費、帆村くんが貸してくれたの」
「へえ」
「今度、妹が高校入学なの、それで、治療費のためにそのための貯金に手をつけようと
したら、帆村くんが五十万円貸してくれたの」
「五十万……」
 そうそうできることではない。理緒とあの青年との間には、浩之が思っているよりも
太い繋がりがあるらしい。
「それっていつなの?」
 特に、なんらかの意図があっての質問ではなかった。
 理緒が答える。
 スーパーマーケットから百万円が盗まれた翌日であった。
 考え過ぎ……だよな。
「あいつとは、仲良いんだ」
「うん、ちょっと前に私と同じところで新聞配達し始めたんだけどね、いっつもボーっ
としてる子なんだ。なんか弟みたいでね……って、こういうと帆村くん怒るんだけどね」
 あの青年のことを話す理緒の仕草や表情の端々から慈しむような好意が感じられた。
自分に向けられたものではないが、それは浩之の心を自然に和やかにしていく。
 しかし、それと同時に疑惑も生じていた。ほんの僅かにだが、あの青年に感じたそれ
は、浩之の中で段々と大きくなっていった。直感、というわけではなかった。ただ、手
がかりが全く無いという状況が、浩之に、どのような些細な事柄をも疑わせたのである。
「どんな詰まらないことでも、誉められるとすっごく嬉しそうな顔するのよ、可愛いの
よねえ……って、可愛いっていっても怒るんだけどね」
 理緒がクスクスと笑いながらいった。
 浩之は幾度か、力無く相づちを打った。
                                       続