関東藤田組 藤田組血風録 投稿者: vlad
「葵、ちょっといい?」
 と、いつになくスポンサーの来栖川綾香がコソコソと藤田商事に現れたのは七月某日
のことであった。
「あ、綾香さん!」
「声が大きいわ、浩之はいるの?」
「いえ、佐藤さんと一緒にサウナに行ってます」
「真っ昼間っから男二人でサウナぁ? やっぱりあの二人って……」
「なんの御用ですか。浩之さんならそろそろ帰ってくると思いますよ」
 綾香はめくるめく妄想から脱して、葵の袖を引っ張って外に連れ出した。
「葵、話があるわ」
「えっ」
 綾香は葵に何やら耳打ちした。
「ええっ」「そんな」「本当ですか!」「ええーーーっ! そんなあ!」
 葵は時折、そのように声を出しながら綾香の話に耳を傾けていた。
「……と、いうわけなのよ、受ける受けないはあんたの自由だけど」
「……わかりました。私も久しぶりに真剣に勝負してみたいとは思っていたんです。そ
の話、お受けします」
 葵の目に決意が宿り、拳がぐっと握られる。
 綾香は自分の頼みが受け入れられたので、ほっと息をついた。
 そして、
「葵、頑張るのよ」
 綾香は葵の肩に手を置いていった。
「はいっ!」
 と、葵も気合いが入っている。
「何を頑張るんだ」
 と、いう声は、二人の肩をビクリと震わせるのに十分な効果があった。二人は今、藤
田商事の入り口からは死角になっている廊下の隅っこにいるのだが、その二人の目の前、
藤田商事の社長、藤田浩之が、タオルを頭に乗せ、親友の佐藤雅史を引き連れて立って
いた。どうやら、葵の声が彼らを呼び寄せてしまったらしい。
「ひ、浩之!」
 あんなに驚いた綾香さんの顔は初めて見た。と、後に佐藤雅史は語る。
「よう、何を頑張るんだ」
「そ、それは……」
 綾香をわざと無視して葵に詰め寄る浩之だが、葵はそういったきり、後に言葉を続け
ようとはしなかった。
 見れば、チラチラと綾香の方を気にしているようだ。どうやら、綾香に関係のあるこ
とらしい。
「葵ちゃん……おれはなんだ。そして君はなんだ」
「は、はいっ、藤田さんは藤田商事の社長で、私は藤田商事の社員です」
「そうか……ならば、法度を知っているはずだ!」
「あっ……」
 藤田商事といえど、一応、複数の人間によって構成された組織である。一人一人の人
間の群れが組織として機能するには一定の規律が必要であり、それを明文化したものが
あるのが望ましい。
 藤田商事にも規則があった。
 藤田商事局中法度全十二条、が、それである。
 1 嘘をつくのは止めよう。
 2 無闇に暴力を振るうのは控えよう。
 3 困ったことがあったら他の人に相談しよう。
 4 喧嘩はほどほどにしよう。
 4条補足 どうしてもやりたい時は表でやろう。
 5 社長に暴力を振るうのは止めよう。
 6 社長に弓矢を向けるのは止めよう。
 7 借りた金は返そう。
 8 ちゃんと家に帰るようにしよう。
 9 浮気は止めよう。
 10  給湯室の流しで頭を洗うのは止めよう。
 11 セクハラは止めよう。
  12 社長をいじめるのは止めよう。
 以上の十二条が、藤田商事の社則ともいえる局中法度である。本来は四条までしか存
在しなかったのだが、ことあるごとに追加され、現在のようになった。
 ここでついでながら述べておくが、藤田商事は株式会社であるので、本来は、藤田商
事(株)と表記するのが正しい。
 最大の株主はもちろん来栖川芹香と綾香である。実質上、彼女たちがこの会社のスポ
ンサーであるといっていい。持ち株は二人とも40パーセントという多数の株を所持し
ている。二人合わせて80パーセントである。
 次いで、経理の保科智子が残りの20パーセントの内の10パーセントを有している。
それから宮内レミィが6パーセント、社長の藤田浩之が4パーセント
 藤田商事旗揚げ当初は、来栖川姉妹の40パーセントは変わらず、残りの20は浩之
が持っていたのだが、昨年十二月八日のある事件(12・8政変)において、
「藤田くん、貸してた金返してんか」
「新しいボウガン買いたいからお金返して」
「あ、いや、あれはだな、もうちょい」
「なんやと! 借りた金返さんっちゅうのかいな!」
「いや、誰も返さないとはいってない」
「返せないんも返さないんも同じことや、返せないんなら……そや、藤田くん、この会
社の株持っとるやないかい、あれよこさんかい」
「え、いや、確かに持ってるけどよお」
「金が無いんやったらなんかカタ渡すんが筋やろが!」
「ヒロユキ、なんか下さいナ」
「よし、それじゃ一晩おれを自由に」
「いらんわい、そんなもん!」
「それじゃあハンティングの的をやって欲しいデス」
「いや、今のは冗談だ」
「残念デス……」
「私かて、こないなことはしたないんやけどなあ、藤田くんが借りた金返さんのやった
ら、神岸さんの方に話聞いてもらおやないかい、おう」
「ま、待て、あかりには……」
「ほしたらさっさと決めんかい! 東京湾の底に石抱かせて寝かすぞ!」
「石は重いから大変デス」
「わかったわかった。わかったから」
 と、いうようなやり取りが社長と社員二名の間にあり、借金を浩之の持ち株で精算す
ることで合意した。そして、前述したような持ち株比率になったわけである。実は浩之
は葵や琴音や雅史にも金を借りていたのだが、この三人は返済はいつでもいいといった
ために株を持っていない。浩之の名誉のために付け加えておけば、三人への借金返済は
既に終了している。
 世間広しといえども、社員より持ち株が少ない社長はこの男ぐらいであろう。
 話を戻す。
「葵ちゃん、藤田商事局中法度第一条!」
「は、はいっ! 嘘をつくのは止めよう!」
「そうだ。嘘をつくのは法度違反だ。だが、そんなのは関係ない、おれは葵ちゃんに隠
し事をされるのが辛いんだ!」
「ふ、藤田さん!」
「何があったんだい葵ちゃん、おれに協力できることならいってくれ!」
「藤田さん……」
「あー、もう!」
 綾香がじれったそうに叫ぶ。
「下手な芝居は止めなさい、話せばいいんでしょ、話せば」
 綾香の話はこうである。
 先日、知人の坂下好恵が訪ねてきた。今やエクストリーム大会決勝の常連であり、二
度の優勝経験も持つ好恵は、突然、綾香に挑戦してきたという。
 彼女は、遂に公式試合で綾香に勝ったことがない。綾香がエクストリームに出ている
間、負け続け、そして、勝てないまま、綾香は来栖川SPの専務に就任し、格闘技界か
ら去った。
 綾香は、軽くOKし、来栖川家の地下の訓練場で受けて立った。
 結果は綾香の負けである。三本勝負して一本も取れなかった。
「へえ」
 と、浩之はいった。綾香が負けたことを見たことがない浩之は、綾香の不敗神話に信
仰のようなものを持っていたので、それは意外であった。
 確かに、綾香は随分と格闘技から遠ざかっていたが。
「それで、まさか葵ちゃんに仕返ししろってんじゃないだろな」
「仕返しだなんて……好恵が葵とやりたいっていうのよ」
「坂下が……」
 坂下と葵は過去、一度だけ対戦している。と、いっても野試合である。観客は綾香と
浩之の二人であった。
 彼女たちは、それ以降、好恵が綾香の誘い(浩之曰く、挑発)に乗ってエクストリー
ムに参加してからもとうとう対戦することが無かった。
 くじ運が悪いのか、ほとんどの場合、決勝でしか当たらないとかいう状況になったり、
すぐに当たるという時も、片方が途中で優勝候補の強敵と連戦する羽目になって、結局
負けてしまったりと、とにかく、当たらないのである。
 好恵は、随分とそれを気にしていた。彼女がエクストリームに参加した理由は、綾香
と葵である。ずっと勝てなかった綾香、そして、ずっと格下だと思っていたのに自分を
負かした葵、この二人に勝つためだったはずなのに、綾香は不敗のまま引退し、葵は遂
に対戦もできないまま、彼女が就職して引退してしまった。
 好恵の無念さは浩之にも十分に理解できた。
 そして、思い余った彼女は、綾香への突然の挑戦という行動に出たのだろう。そして、
綾香を倒した今、次なる標的は葵というわけだ。
「藤田さん! 私、久しぶりに坂下さんと真剣勝負がしたいんですっ!」
 曲がることを全く知らない葵の真っ直ぐさが、浩之は無条件で嬉しかった。松原葵と
いう子はこうでなきゃいけない。
「よし! やれ、おれも付き添うからさ」
「えっ」
「あの時もおれが側にいただろ、今度もそうするよ」
「はいっ、是非見ていて下さい!」
「で、いつなんだ」
「好恵の都合で三日後」
「ようし、受けて立ってやろうじゃねえか」
 別に浩之がそこまで気負う必要はないのだが、気分はもはや葵のセコンドである。
 そして、三日の間、葵は以前以上に黙々とトレーニングに励んだ。もちろん、浩之も
全面的に協力し、筋肉痛で泣くことになった。
 試合当日、浩之は約束の神社で、二人を待っていた。
 随分と早く来てしまった。まだ約束の時間まで三十分はある。
 それにしても、かつての屈辱の地であるここで勝負をしようとは、好恵にとってあの
時の敗北がもはやトラウマといっていいほどに残っているのがわかる。
 浩之が、まだ時間があるので、母校を見に行こうか、と思っていた時、神社の階段を
上がって境内にやってきた人影がある。
 葵か綾香か好恵か……浩之は人影を見やった。
 見た目は変わっているが、それが坂下好恵であることが浩之にはわかった。そんなに
外見が大きく変貌しているわけではないし、スポーツ新聞や、エクストリームの特番で
時々見かけるのでわかる。
 三十分前にやってくるとは、これも意気込みの表れであろうか。
「よう、坂下」
 と、浩之は声をかけた。
 一方の好恵。
 約束の場所にやってきた時、まず目についたのは一人の男である。サングラスをかけ、
紺色のズボンを履いて、白いYシャツを着ている。
 なんかチンピラがいる。
 と、好恵は思った。
 無視するに限る、と好恵は男と目を合わさぬようにした。そこへ、
「よう、坂下」
 と、チンピラが馴れ馴れしく声をかけてきた。好恵は咄嗟に身構えた。時々いるのだ。
「強いっていったって女じゃねえか、おれの方が強いぞ」
 とかいいながら勝負を挑んでくる男が。
 もちろん、そういう奴は基本的に無視であるが、無闇に暴力を振るうわけにもいかな
い、とはいっても、あまり気が長いとはいえない好恵であるから、人気の無い所に引っ
張り込んでの制裁を実行したことは一度や二度ではない。
「なによ、あんた」
「何を身構えてるんだ。お前は、お前が勝負するのは葵ちゃんだろう」
「……」
 葵、という名前を聞いて、好恵はだいぶ警戒を解いたが、それでも油断はできない、
といわんばかりにジロジロと浩之を見た。
「おれだよ、藤田浩之だ」
 そういって、浩之はサングラスを取った。そうすると、丁度見えにくかった目と目の
間の傷が顕わになる。先日、へまをしてアーミーナイフで切られたものだ。そのナイフ
の持ち主にはすぐさま報いをくれてやったが、ちょっと傷跡が残ってしまった。
「あんた、藤田なの?」
「おう、藤田だ。久しぶりだな」
「あんた、会社の社長やってるって聞いてたけど……」
「ああ、やってるぜ、葵ちゃんもうちの社員だ」
「とてもそうは見えないけど」
「おれはフランクな社長を目指しているからな」
 サングラスをかけてどこがフランクなのか好恵は理解に苦しんだが、それよりも気に
なるのは葵のことである。
「葵ちゃんならそろそろ来るだろ」
「葵、ちゃんと練習はしてるんだろうね、綾香はちょっと手応えが無かったよ」
 好恵は綾香が激怒するに違いないことを口にして平然としていた。いかにブランクが
あったといえ綾香を手応えが無いという好恵は相当の実力を有しているのだろう。
「おう、練習も実戦も十分だぜ」
「実戦?」
「ああ、今の葵ちゃんはナイフとか段平持った連中としょっちゅうやり合ってるからな、
お前も甘く見ない方がいいぜ」
「ふうん」
 と、好恵がいった時、
「早いわねえ、二人とも」
 綾香と葵が連れ立ってやってきた。どうやら一緒にここまで来たらしい。
「お久しぶりです。好恵さん」
 ぺこり、と頭を下げた葵のどこがどう変わっているのか、一目見ただけでは好恵は気
付かなかった。
「さっさと始めましょうか」
 好恵がウレタンナックルをはめていった。
「おう、やろうか。前みたいにレフェリーを綾香、判定を綾香とおれ、ということでい
いな……それとも、判定はいらねえか」
 浩之はチラリと好恵を見た。
「いいよ、判定なしのKO決着で」
「葵ちゃんは……」
「私はいいんですけど……好恵さんは次の試合があるんじゃ……」
「この先、二ヶ月試合は入れてないわ」
「ほう」
 と、浩之は呟いた。綾香と葵と戦うために、それだけの期間のスケジュールを空けた
のだろう。
「ようし、それじゃKO決着で行くぞ」
「はい!」
「私はいつでもいいよ」
 浩之は、葵と好恵の顔を見比べた後、綾香に視線をやった。
「うん」
 と、綾香が頷き、右手を上げる。
「レディー……ファイッ!」
 ザッ!
 と、靴底と地面が擦れる音がした。
「さて……どうなるかしらね」
 綾香が呟いた時、好恵が動いた。非常に直線的で早い動きだ。
 葵はそれに押されるように後退を始める。しっかりと一撃一撃をさばいてはいるが、
一方的に攻撃をされている。
「ちょっと……」
「これは……終わるかもな」
 浩之は平然と呟いた。
「そんな」
 と、いった綾香が目を見開いたのは次の瞬間である。
 葵が横に飛んだのだ、と理解した時には好恵のテンプルに葵の拳が音を立てて接触し
ていた。
「止めた方がいいんじゃないか」
 浩之が綾香の方を見ながらいった。葵の攻撃はテンプルへの一撃で止まることなく、
次いでミドルキックによる腹部への攻撃、上体を折り曲げたところへのワンツーパンチ
から素早いサイドへのステップ。
 あれだ。と、綾香は思った。先程、好恵の攻撃をかわしてテンプルへのパンチへと繋
いだのは、あのサイドステップである。
 目で追うのがやっとだった。あれをいきなり目の前でやられては一瞬、どこに行った
のかわからなくなってもしょうがない。そして、葵ほどになれば、相手の隙は一瞬で十
分なのだ。
「あれは」
「ストップ!」
 浩之は綾香には答えずに、声を張り上げた。
 例のステップで後方に回り込んだ葵が、好恵の後頭部にハイキックを見舞っていたの
だ。
 好恵は、後頭部を押さえながら片膝をついていた。
「坂下、KOってことでいいな」
 うずくまる好恵に歩み寄ってきた浩之がいった。
 好恵の頭が微かに前に動いた。
「よし、KO、葵ちゃんの勝ちだ」
「好恵さん……」
 葵は勝ち名乗りを受けるよりも、心配そうに好恵の方を見た。
 好恵は、よろめきつつ葵の助けを借りて立ち上がった。
「へえ、さすがに鍛えてんな」
 浩之は感嘆した。葵の蹴りを食らって病院直行になったチンピラは何人もいるのだ。
「葵……さっきのあれはなんだ。サイドステップか」
「ええ、そうよ」
 答えたのは葵ではなく綾香であった。
「見ていたあたしも最初はよくわからなかったんだけどね」
「そうだろうな……私も葵が消えたと思った時にはテンプルに貰ってたから……」
 好恵はやや自虐的に鼻で笑った。
「葵……あんな素早いサイドステップを身につけていたとは思わなかったよ」
「藤田さんと練習したんです!」
「思わぬとこで役に立ったな、葵ちゃん」
「はい!」
「あれ? この試合のために練習したんじゃないの?」
 綾香が不思議そうに問う。が、すぐに、
「あれほどのステップは三日間の練習で身につくものじゃないわね」
 と、自らの前言を否定した。
「拳銃対策さ」
 と、浩之は事も無げにいった。
「素手の喧嘩で負けそうになると、いきなり抜きやがるのが時々いてな、そん時のため
のサイドステップさ、葵ちゃんぐらい早いと、よっぽどの名手でも無い限り当たらねえ
し、ろくに撃ったこともねえ奴だったら戸惑っちまって引き金を引く前にテンプルに貰
っておしまいだ」
「葵、あんた、拳銃持った奴と戦ったことがあるの」
「はい!」
 葵が元気にいい、好恵はうなだれていた。彼女なりにカルチャーショックのごときも
のを受けたのであろう。

「はい、浩之ちゃん、お茶」
「おう」
 その日、浩之は昼下がりの一時を相変わらずソファーに寝転がってスポーツ新聞を読
むことで時を消費していた。彼曰く、「重要な情報源」であるらしい。
 なお、本日は藤田あかり(旧姓神岸)がいるために検閲が入り、風俗面がことごとく
抜き取られている。
「なあ、あかりぃ、さっきお前が抜いたやつの裏側に見たい記事があるんだけどなあ」
「ダメ」
「んなこといわねえで見せてくれよ」
「ダメ」
「いいじゃねえかよ、それのために買ってきたんだ」
「ダメだよ」
 新婚夫婦が風俗面を奪い合っていると、葵が、遠慮がちに声をかけてきた。
「あの、藤田さん」
「なんだい、葵ちゃん」
「あの……好恵さんのことなんですけど……」
「……あいつ、まだいってんのか?」
「はい、どうしてもって」
「……しょうがねえなあ、……人手が足りねえ時だけの助っ人でいいならいいっていっ
ておいてくれ、それから、給料は安い、危険手当も安い、ってのも忘れずにな」
「は、はいっ!」
 葵は元気よくいって、机の上の電話から受話器を取った。
「しかし……あいつも、強くなるためには手段を選ばねえな」

 七月某日、坂下好恵、藤田商事に非常勤戦闘要員として入社。
                                                                  終
          
          どうもvladです。なんだかいつの間にか
          シリーズになってしまった関東藤田組です。
          一応、私の頭の中のネタの量からいって、後
          2,3回は保ちそうです。
          さて、溜まらない内に感想書いてしまおう。

 それではまた……。