約束の返事 投稿者: vlad
 梓が怒っているらしい。
 理由はよくわからない。
 初音ちゃんに、
「気を付けてね、お兄ちゃん」
 と、心配された。
「お姉ちゃん、どうも、怒りをぶつける相手を探してるみたいなの」
 って、おれか!
 でもまあ、梓が遠慮なくぶん殴れる人間というのはおれしかいない。
 千鶴さんは後が怖いし、ああ見えても優しいお姉さんである梓が楓ちゃんや初音ちゃ
んに八つ当たりをかますわけはない。
 と、なると、消去法でおれだ。
 おれは何を隠そう「鬼の力」を持つ男であるから、その気になれば梓を叩きのめして
ふんじばってヒーヒーいわせるのはそう難しいことではない。
 しかし、それこそ後が怖い。
 逃げの一手しかおれは思いつかなかった。
 とりあえず、夕方まで姿をくらましておこう。帰ってきた時には梓の怒りも収まって
いるかもしれない。せっかくの日曜日でみんなが家にいるのに外出するのはいやだった
が、梓に八つ当たり食らうよりはましだ。
 でも、梓の奴はなんで怒ってるんだろう。初音ちゃんの話によると、どうも午前中に
日吉かおりちゃんが遊びに来ていて、彼女が昼前に帰って、それかららしい。
 そういえば、かおりちゃんが帰る時に、二人と廊下で擦れ違ったな。
 梓の奴、かおりちゃんになんかされたのか?
 バ○ブで膜破られて、それで怒ってんのかな。
 だったらやり返せばいいのに……ああ、逆効果か。
 しかし、あいつ、学校では女の子ばっかりにモテてるのかな?
 梓は、スタイルもいいし、料理も上手いし、まあ、なんだかんだいって可愛いし、お
れがよくからかう男勝りな性格も、そういうのが好きな野郎にはたまらないだろうに。
 パチンコ屋とゲーセンをハシゴして時間を潰す。
 赤い空が、そろそろ闇に変わる頃、おれは柏木家に戻ってきた。
「ただいま」
 小声でいって、恐る恐る入る。
 家の中はしん、と静まり返って聞こえるのは虫の鳴き声ぐらいだ。
 縁側を歩いていると、庭に楓ちゃんがいた。
「やあ、楓ちゃん」
「……」
 楓ちゃんはおれに会釈して、庭で何かを拾っている。
「何してんの?」
 おれはサンダルを履いて下りて行った。
 楓ちゃんは何かの破片を袋に入れているらしい。
「ん……これは、瓦か……なんでこんなものが」
「……梓姉さんが……」
「え、梓」
 楓ちゃんによると、さっき、梓が突然瓦を持ってきて、庭で割り始めたという。
 チョップで十枚、踵落としで十五枚。奇声を発して瓦を割りまくる姉を恐れた楓ちゃ
んと初音ちゃんは何をいうこともできずに、それを見ていることしかできなかったとい
う。
「千鶴さんは」
「午後から、仕事上の会合があるっていって出かけました」
「ふむ」
 千鶴さんはなんといっても鶴来屋の会長さんだ。日曜といってもお誘いがかかること
はある。誰かの接待か……もしかしたら千鶴さんが接待されるのかもしれない。
「で、梓は……」
「部屋にいます。初音は晩御飯を作っています」
 本来、食事の支度は梓の仕事である。しかし、機嫌の悪い彼女の部屋に、二人とも行
きたくないのだろう。
 千鶴さんがいない今、梓に物申すのはおれしかいない。
「ところで、楓ちゃんは梓がなんで怒ってるのかわかる?」
「……おそらく」
「え、なになに」
「耕一さん、今日はなんの日ですか」
「日曜日だろ」
「……どうか、思い出して下さい。詳しいことは、梓姉さんに口止めされているのでい
えません」
 そういうと楓ちゃんはおれが呼び止める間もなく、さささささっ、と、去って行って
しまった。
 今日はなんの日って……別に特に何もないだろ。
 まあいい、こうなったら梓に直接問いただす。どんな理由があるのか知らんが、あい
つの機嫌が悪いと柏木家の空気がピリピリしてしょうがない。
「おい、梓、いるか」
 おれは勇を振るって梓の部屋のドアを叩いた。
 少しだけドアが開き、少々吊り目がちの瞳がこちらを覗く。
「耕一……どうしたの」
「お前に用があるんだ」
 その一言を聞いた時の梓の表情といったら、なんか知らないがとても嬉しそうだった。
 なんだなんだ。どこが機嫌悪いんだ? それとも、瓦ぶち割って部屋で考え込んだら
機嫌が直っちまったのか。ま、それなら好都合だが。
「入るぞ」
「うん」
 梓は快くおれを部屋の中に入れてくれた。全然機嫌いいじゃないか。でも、そうなる
とおれの用件というのが無意味になってしまうんだがなあ。
「機嫌よさそうじゃないか、梓の機嫌が悪いって聞いてたんだけど?」
「機嫌がいいのは耕一が来たからさ」
 梓がはにかんでいう。
 なんか話に聞いていたのと大分違うぞ。
「おう、それでそもそもなんでそんなに怒ってたんだよ」
「それは……さっき耕一と擦れ違った時、なんにもいわなかったからだよ」
「ああ、かおりちゃんと一緒にいた時だろ。おれ、ちゃんと挨拶したぞ」
「そうじゃなくってさ……私、てっきり耕一が忘れているのかと思ってさ、腹立ててた
んだけど、でも……よく考えたらかおりがいたらいえないよな」
「え……何が?」
「……今日はなんの日?」
 梓の顔に険しさが覗いた。なんか非常に風向きがよろしくない。
「ええっと……日曜日だな」
「わかんないの?」
「あ、ああ、楓ちゃんにも聞かれたんだけどさ、どうもわかんないや、梓、今日は一体
なんの日なんだ」
「……」
「あの……梓……」
「やっぱり……」
 梓のこめかみがピクピクいっている。
 やばいな、どうも怒りというのはおれが原因らしい。それも相当怒ってるぞ、こりゃ。
「やっぱり忘れてやがったな、てめーっ!」
 いきなり梓は飛びかかってきた。おれは咄嗟に抱き留めるが……うお、重っ! これ
はかなり激怒してるぞ。
「こら、梓、首を絞めるな!」
「うるさい! 約束忘れやがって!」
「な、なんの約束だ。応援に行くっていった陸上大会は来週だろうが」
「今日はなんの日だあーっ!」
「い、いや、だからわからないって……」
「誕生日だろっ!」
「え……」
「今日は……誕生日じゃないか」
「誰の?」
「……」
「いや、わ、わりぃ、わかってるよ、今日は梓の誕生日だったな」
 なんだこいつ、おれがお祝いいわねえから怒ってやがったのか。全く子供っぽい奴だ
なあ。
 にしても……すっかり忘れてたな。まずい、プレゼント用意してないや。
 梓がおれを睨んでいる。そんなに怒らんでもいいだろう。
 ど、どうしようかな、プレゼントっていっても、いきなりそんなもん用意できるわけ
はないし、「おれがプレゼントだっ!」と、押し倒したら、それはそれで面白そうだが、
生命に危険が及ぶし。
「梓、ゴメン! 明日、なんか欲しいもん買ってやるからさ」
 こうなったら下手に出るしかねえ。誕生日忘れてたのは明らかにおれの不手際だしな。
「約束したじゃないか……」
 梓が沈んだ表情でいった。おれの生命の危険度を考えれば非常によろしいのだが、ど
うも梓らしくない。そして、おれは梓らしくない梓はいやだ。
「わ、わりぃ、約束っての覚えてねえや」
「そりゃあ、耕一にとってはその場だけの口約束だったのかもしれないけどさ……」
 こらこらこらこら、人を結婚詐欺師みたいにいうんじゃねえ。
「一体、いつの話だ」
「十年前だよ」
「……お前、そんな前の約束覚えてるわけないだろ」
 おれはやや呆れていった。十年前って、おれの親父ばかりか、梓の両親も健在だった
頃じゃないか。おれだって十歳のガキだったし、いくらなんでもそんな昔の約束なんて
覚えてないぞ。
「でも……私は覚えてたよ……」
 う……ま、まあ、そうだけどよ。
「つまり、私にとっては大切だったけど、耕一にとってはどうでもいい約束だったって
ことだよな」
「……」
 そんなこといわれてもなあ、全然思い出せないぞ、そんなの。
「もういいよ」
「は?」
「もういいからさ、出てってよ」
 見た目には普通に見えるが、これは余程腹が立ってるな。でも、ここであっさり引き
下がるのも気分が悪いな、「約束」とやらがどんなものであったか、きっちり確認して
おきたい。
「ちょっと待てよ、梓」
「出てけーーーっ!」
 ばこんっ!
 ぶん殴りやがった。本気だ。
 おれは這々の体で梓の部屋から脱出した。
 梓の部屋から這い出したおれの目の前に楓ちゃんが立っていた。
「楓ちゃん……」
「耕一さん……思い出せなかったんですね」
「う、うん、楓ちゃんは十年前のおれと梓の約束のこと知ってたの?」
「はい、私、その場にいましたから」
「そ、そうなんだ。一体、どんな約束だったんだい」
「それは……私の口からいうことはできません」
 楓ちゃんは素っ気なくいって自分の部屋に戻っていった。
 おれは部屋に帰って転がった。
 思い出せない。
 十年前の約束っていったってなあ。十年前っていったら……そうだ。梓が靴を川に落
として……そうだ。ここら辺、記憶がすっぽりと無くなってるんだよなあ。千鶴さんは、
おれが無意識に鬼に覚醒したことを記憶の奥底に封じ込めたからだっていってたけど…
…約束って、もしかしてあの時のことかな。
 ……いや、あれは確か今から十一年前のことじゃなかったか……うん、そうだ。おれ
がまだ九歳の時だ。だったら違うか……なんなんだ一体。
 おれはいつの間にか眠り込んでいた。
 夢を見た。
 今から十年前の柏木家の庭で、十年前のおれが、十年前の梓と楓ちゃんと一緒にいた。
 それをおれが高いところから見ているような感じだった。
「耕一、耕一、お前、向こうの学校に好きな女の子とかいないのかあ?」
 ちっこい梓がいった。そういや、あいつちょっとマセてたかな?
「……」
 ちっこい楓ちゃんは、ちっこいおれのことをじっと見つめて、おれの返答を待ってい
るようだ。
「特にいないよ」
 うん、確かにおれはそういった。っていうか、おれはあの頃、異性の人間にそういう
類の興味を抱くことって無かったんだよなあ。当時中学生だった千鶴さん(当然、その
頃から美人)にも漠然とした憧れのような感情しか持たなかったし。
「それじゃあさ……誰をお嫁さんにするかはまだ決めてないの?」
 その梓の問いに、高みのおれは苦笑したい気分だった。いくらなんでも十歳の時に、
人生の伴侶を決める奴はいないぞ。
「うん、だって、お嫁さん貰うのなんてずっと先のことだろ」
 うんうん、確かにいった。
「だったらさ、私はどうかな?」
「え、梓?」
 あ、そうだそうだ。そういえばおれ、梓にプロポーズされたような気がする。
「うーん、十年ぐらい経ったら考える」
「じゅ、十年だな」
「うん、十年後」
「じゃあさ、明日が私の誕生日だからさ」
「うん」
「私の十八歳の誕生日に返事してくれよ」
「うん!」
 ……思い出した。……確かに約束した。
「耕一はどんな人をお嫁さんにしたい?」
「お母さんみたいに料理が上手い人がいいな」
「そ、そうか……それじゃ、私、練習して料理上手くなっておくから」
「うん」
 ……思い出した。……確かにそんなこといった。
「姉さん、いいな」
 そんな声を聞いて、おれは目を覚ました。
 枕元に楓ちゃんがいる。
「今の夢は、楓ちゃんが?」
「どうも……耕一さん、すっかり忘れているようなので」
「あ、ありがとう。お陰ですっかり思い出せたよ」
「耕一さんは忘れていたんでしょうけど、姉さんは本気だったんですよ。料理の練習を
し始めたのもあれからだし」
 み、耳が痛い……。
「私、あんなことがいえる姉さんが羨ましかった」
「……」
「私も約束したかったのに……何もいえないで……」
「……楓ちゃん」
「耕一さん、行くんでしょう」
 楓ちゃんが寂しそうに微笑んでいった。
「ああ、行ってくる」
 おれは立ち上がり、部屋を出た。
「姉さん、いいな」
 その声はもしかしたら、ただの空耳だったのかもしれない。
 おれは梓との約束をすっかり忘れていた。なぜか?
 それは、梓とのそんな約束はおれにとっては非常に現実的ではないものだったからだ
と思う。
 なぜなら、当時、おれは梓が自分の伴侶になるなんて天地が逆しまになってもあり得
ないと思っていたからだ。
 あの時、梓はおれにとっては弟だったから。
 でも、今は違う。弟ではない、妹でもない。
「よし、行くぞ」
 おれは気合いを入れた。さっきの梓の状態から考えてまともな話し合いになるまでに
十発や二十発は殴られそうだ。それでもおれは行くことにした。
「おい、梓、話がある」
 おれは、約束の返事をするためにドアをノックした。

                                   終

          どうもvladです。自分でも怖いぐらいに
          進みます。まあ、書けなくなるまで書き続け
          ます。
          作品からは読み取れないかもしませんが、私
          の好きなリーフキャラは梓と初音ちゃんと琴
          音ちゃんです。あと柏木耕一、こいついい奴
          ですよ。

 それではまた……。