11月の空気が肌を冷たく刺激する。 周りは虫の声も無く、ただ静かだ。 楓は、縁側に出て、闇空を眺めていた。 もう新月に近く、深夜とはいえ、まだ月は出ていない。 もっとも、出たとしても、ほんの細く頼りない、三日月だが。 ふと楓は思う。 三日月は、満ちている時とは比べ物にならない、寂しげで弱々しい月だ。 砕けて消えてしまいそうな悲しい月だ、と。 楓は、三日月のその儚さが好きだった。でも、今は三日月の寂しさを悲しい物だ、と思う。 虫の音も、以前はあまり好きではなかった。でも、今は嫌いじゃない、と思う。 自分は少しずつ変わっている、と楓は思った。 この夏に、大切な物を手に入れたから……と。 でも、その全てを肯定することは、楓にはできない。 楓は、耕一との愛とともに、もう一つ得た物があるから………… 「楓…………」 後ろから、楓を呼ぶ声がある。 先刻から待ち続けていた声。だけど、怖れて避けていた物。 楓は微かに息を吸い、微かにそれを吐いて、それからゆっくりと振り向いた。 そこには千鶴がいた。 いつもの、優しい微笑をたたえた千鶴だ。 千鶴は、楓と目が合うのを待って、それから楓の横に静かに並んだ。 千鶴は楓の見ていた物……寂しい夜空を見上げる。 楓もまた、空に視線を戻す。 二人は、そうしてしばらくの間は無言だった。 「姉さん……」 やがて、楓が口を開いた。 周りの静寂と冷たい空気にも関わらず、楓の心臓は早く強く打っていたし、体は熱くなって震えていた。 「なあに? 楓。」 千鶴が振り向く。 その顔にはやはり微笑が浮かんでいたが、俯いている楓には見えなかった。 楓は、手をぎゅっと握りしめて体の震えを止めようとしたが、うまくはいかない。 千鶴は、その様子を黙って見ている。 楓は、二つか三つ呼吸を置いて、意を決して千鶴顔を正面から見据えた。 「私、耕一さんを愛している。」 この言葉は、これまで楓が言えなかった言葉だ。 なぜなら、それは裏切りの言葉だったから。 たしかに、千鶴は耕一の「力」の覚醒に立ち会った。 耕一と楓が愛し合っていることももちろん知っている。 だが、楓はこの言葉を言うことができなかった。怖かった。 楓は、千鶴もまた耕一を愛していることを、知っていたから。 「なぜ、今さらそんなことを言うの?」 千鶴は、穏やかな表情と声音を崩さずに言った。 楓は、千鶴ならそう言うだろう、と分かっていた。 あの日から今日まで、楓が千鶴に対してよそよそしく振る舞ってしまったことも、全て許して。 そうして、これまで千鶴がそうしてきたように、その想いの全てを微笑をかたどった仮面の下に沈めるのだ。 悲しかった。 結局自分にできたのは、この大好きな姉を追いつめることだけだった。 そんなことはしたくはなかった。でも、こうしかできなかった。 だからせめて、自分は千鶴に責められなければならない、と楓は思う。 「千鶴姉さん……耕一さんのこと、愛していたんでしょ?」 こうやって千鶴の心に踏み込むのも、わざとだ。 今日だけは、千鶴の本心を引き出さなければならない。 そのために、これまで使わなかった……使えなかった、棘のある言葉を千鶴にぶつける。 千鶴は、表情は崩さなかった。 ただ、無言だった。 「千鶴姉さんが耕一さんを愛していたこと、私、分かっていた。 でも……私も耕一さんを愛してたから……だから……裏切った。」 ひどいことを言っている、と楓は思う。 でも、これは事実だ。全て本当のことだ。 それだけ自分は罪がある。 これまで、自分はその罪から……千鶴から逃げてきた。 でも、それもここまで。 その罪の全てから逃げずに向き合おう。 それが自分にできる唯一のこと。 それが楓の結論だった。 「なぜ、そんなことを言うの?」 千鶴は、微笑を崩していた。 悲しげな、そして、僅かに怒りを含んだ表情だった。 「私は、千鶴姉さんを裏切ったの……」 楓のその声は、震えていた。 精一杯振り絞って出した声だった。 楓は、歯を食いしばって、目をつぶっていた。 それは、そうしないと涙があふれそうだったから。 「なぜ……」 千鶴は、かすれた声でそうとだけ言った。 そのまま、しばらく何も言わなかった。 楓は、ほほを叩かれるくらいの覚悟はしてたが、千鶴がそうする様子はなかった。 楓はゆっくりとまぶたを開く。 千鶴は黙ってその場にたたずんで、涙を流していた。 楓は、胸の奥を強く突かれたような気持ちになった。 押しとどめていた涙が、止められなくなってあふれる。 「ごめんね……ごめんね……姉さん……」 楓は、顔をくしゃくしゃにして泣いた。 どうしようもなかった。 何度も「ごめんね」と繰り返しながら、涙を流し続けた。 「違うの……」 不意に、千鶴が言葉を紡いで、楓は泣き濡れた顔をあげる。 おそらく、楓と同じくらいに涙に濡れた顔のまま、震える声で千鶴は言葉を続けた。 「裏切ったのは私も同じ……」 楓は、えっ、と言う顔をした。 千鶴はなおも続ける。 「私も……あなたが耕一さんを愛してるのを知っていた……。 でも、それでも……耕一さんを……自分の物にしたかった……。」 そこまで言い切って、千鶴は嗚咽を上げた。 しばらくの間、その嗚咽は他に何の音もないその場を満たしていた。 少しの時間が経つ。 二人は縁側に座って、空を見上げていた。 「なんで、こうなったのかしらね?」 ぽつりと千鶴が呟く。 楓も、同じ気持ちだった。 涙も体の熱も引いて、ただぽっかりと穴が開いたように空虚な気持ちだった。 「私、千鶴姉さんのこと、好きよ。」 楓は抑揚のない声でそう言った。 その言葉は、間違いなく本当のことだ。 「私だって、楓のこと、好きよ。」 千鶴も、やはり力のない声でそう言った。 そして、千鶴のその言葉も、やはり本当の物だろう。 「あなたは大事な妹だから。」 そして、またしばらくの沈黙の後、千鶴はすっと立ち上がった。 楓は座ったまま、千鶴を見上げる。 千鶴は、いつもの微笑みを浮かべていた。 「もう寝るわ。お休みなさい。」 楓は、何か声をかけようとしたが、かける言葉が見つからなくて一度口ごもる。 それでももう一度口を開いて、歩き始めた千鶴に声をかけた。 「姉さん……!」 千鶴は立ち止まる。だが、振り向きはしなかった。 背中を見せたままで、ただ一言言う。 「幸せになりなさいね、楓……。」 そして再び歩き始める。 楓は、その背中を黙って見送った。 何も言えなかった。 言ってはいけない、とも思った。 ただ、千鶴への謝罪の気持ちは、いつまでも胸の奥にしまっておこう、と思った。 翌日。その日は日曜だった。 楓は、いつもより遅くに目覚め、朝食を取り、それから少し出掛けることにした。 今日は少々冷え込んでいる。その上、楓は寒がりだ。 だから、今年の秋初めて、愛用の灰色のコートを引っぱり出した。 そして、茶色の、やはり地味なマフラーを手に取る。 このマフラーが、耕一からの誕生日プレゼントだった。 楓が朝目覚めると、机の上に包みにくるまれたマフラーと、書き置きが置いてあった。 「誕生日おめでとう。 このマフラーは、耕一さんからのプレゼントです。 昨日鶴来屋の方に届きました。 耕一さんったら、慌てたのかしらね? ……本当のことを言えば、私、これを隠そうかと思っていました。くやしかったから。 でも、やっぱりできないから、渡します。 ごめんね、楓。 千鶴」 楓は、そのマフラーを首に巻いた。 地味な色合いだったが、自分にはよく似合ってる、と楓は思い、鏡の前で微笑んだ。 部屋を出る。 玄関に向かうまでの廊下も、この柏木邸ではそれなりに歩かなくてはならない。 その空気は外気の影響を受けてかなり冷えていたが、コートとマフラーのおかげで、 楓は寒くは感じなかった。 長い廊下を歩き終えて、玄関にたどり着く。 そこで、楓は千鶴と顔を合わせた。 少しの間、互いに沈黙する。 そして千鶴は、微笑んで言った。 「行ってらっしゃい。」 楓は、ほんの少しだけためらいの時間をおいて、微笑み返した。 「行って来ます。」 <終> −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 楓ちゃん誕生日おめでとぉぉぉぉっ!! ……ってもう遅いっ!(涙) あと数時間早ければぁぁっ!! ……お騒がせしました。 普通のSSを書くのは(そして投稿するのも)実に四ヶ月ぶりのXY−MEN(キシメン)です。 知らない方の方が圧倒的に多いでしょうから、初めまして、と言っておきましょう。 えー、今回のは楓ちゃんの誕生日の為のSSの筈ですが、全然お祝いっぽくないのは何故でしょう?(笑) 問題点 1,楓ちゃんと千鶴さんがほぼ等価に書かれている。楓SSならもっと楓ちゃんを強調せよ! 2,暗い。誕生日用なら、もっと明るいのを書くべし! 3,例によって短い。(だってさぁ、元々書く予定なかったのに、昨日の夕方いきなり思いついたんだもん。←言い訳(笑)) ……挙げるとキリがないので止めましょう。 まあ、そんなわけでこの辺でおさらば! 気が向いたらまた何か投稿するかも知れません。 ではでは!