おいしいって、なあに? 投稿者:takataka 投稿日:3月13日(月)02時13分

 認知科学論考SS『おいしいって、なあに?』



 3時間目の休み時間。
 渡り廊下でマルチを見かけた。

「犬さん、犬さん、こんにちは」
「わんっ」
「今日もいい天気ですね」
「わんっ」
「ひなたぼっこはお好きですか?」
「わんっ」

 浩之はぼんやりとそのありさまを眺める。
 犬としゃべってる。
 あいつを見てるとなんかなごむよな。

「もうすぐ、お昼ですね」
「わんっ」
「お腹は空きましたか?」
「わんっ」
「そうですかぁ。うらやましいです。わたしはご飯が食べられないので、お腹も空かない
んですよー」
「わん、わんっ」

 ふーん、そうか。ご飯が食べられないと、お腹も空かない……。
 ん?
 ちょっと待てよ。マルチはロボットだよな。
 人間のエネルギー源が食べ物であるのと同じく、ロボットのエネルギー源は電気だ。
 もちろん電気が足りなくなったら、きちんと自覚できる仕組みにはなっているのだろう。
そうでないといつ電源が落ちるかわからなくて、危なっかしくてしょうがない。
 するとだ。
 浩之は逆にマルチに聞きたいと思った。

                          ・・・
    『なあ、”バッテリーが足りない”って、どんな気持ちだ?』


「えっと、それはですね……」
 目をつむって指をぴんと立て、いかにも説明してあげますよーという仕草を見せるマル
チ。
 だが。
「つまりですね、えっとですね……あのう……あれ?」
 こんがらかってきたらしい。
「えっと、電気が足りませんよーって、信号が来ます」
「いや、だからそれってどんな感じだ?」
「ええ? ……感じも何も、信号さんが来て、それを受けたわたしがたいへんたいへんっ
て図書室に充電しに行きますぅ」
 だめだコイツわかってない。埒あかんな。
 あきらめ顔の浩之だった。
「あのなマルチ。じゃあ人間が腹の減る仕組み、わかるか?」
「あうあう……わかりませぇ〜〜〜ん」
「えっとだな。まず腹が減るってことは胃が空っぽになっている状態だ。
 実際の空腹感には血液の中の養分の割合とか――いわゆる血糖値――もかかわってくる
んだが、ややこしくなるんでいったん無視しよう。
 で、胃ってのは人間が食った食べ物を入れといて消化するための袋だ。ここがからにな
ると、脳に向けて『胃袋が空ですよ』って信号が来るわけだ。ここまではお前とおなじだ
な。信号の指す内容が違うだけで」
「はいですー」
「で、オレの脳はそいつを受け取って、腹が減った、と……」

 あれ?

『胃袋が空だ』
 それはいい。
『腹が減った』
 それもまあ、いい。

 この二つはどういう関係があるんだ?
 一体なにが『胃袋が空だ』という信号を『腹が減った』という気分にしてるんだ?

 胃袋が空だという信号は脳を刺激し、脳の食欲に関する部分が興奮する。これは中学の
理科だか保健だかの授業で習った。
 でだ。脳のその部分が興奮するという具体的事実と、腹が減ったという自分の気持ち、
この二つはどういう関係にあるんだろうか。
 単純に考えれば、脳にはそれぞれ感情の動きを担当する部分があり、そこが興奮するこ
とによって怒ったり笑ったりする。
 浩之はこれを聞いていったんは『なるほどなあ』と納得したのだ。

 でも、考えてみればへんな話だよな。
 
 『腹が減った』
 
 じゃなくてマルチみたいに
 
 『胃袋が空だ』
 
 って思って何が悪い?
 どうして『腹が減った』なんだ? 『胃袋が空だ』もしくは『栄養が足りない』でいい
じゃん。それで十分生物としての用は足りるはずだ。
 この『腹が減る』っていう”感じ”は、なんのためにあるんだ?

「でも浩之ちゃん、おかしな話がもう一つあるんじゃない?」
「なんだよあかり」
「お腹が空いたときの感じ。これをどうして『お腹がすいた』って呼ぶようになったのか
な。浩之ちゃんの言うみたいに『栄養が足りない』って、普通言わないでしょ?」

 なるほど。あかりのいうことにも一理あるような気がする。
 人間の身体をたんに生物機械として見てみた場合、それはあくまでもホメオスタシス―
―いわゆる恒常性を維持すべく機能している。空腹感は栄養を取り入れる行動を起こすた
めのモチベーションとしてあるわけだが、それがどうして『栄養が不足しています』とい
うただの警告であってはいけないのか。

 問題を整理しよう。

 ”感じ”はなんのためにあるのか。
 五官のからの入力信号を脳で処理するときに、人間のココロはそれを『腹が減った』と
思う。こういう”感じ”はなんであるのだろうか。


	『「お腹が空く」がわからないんですよー』


 じゃあ逆にロボットの場合、電気が足りない場合は「お腹が空く」とは感じないのか?
 人間だって、栄養を保つための食物が胃にないのを感知して「お腹がすいた」と言うの
であって、ロボットだって栄養にあたる電気が足りない場合は「お腹がすいた」と感じて
何の問題もないはずだ。

「面白い話してるね」
「うっわあああああ、長い顔!」

 びくうっと飛びすさる浩之。

「……久しぶりに会ってみればずいぶんご挨拶だね」
「だってなげーんですもん! あーびっくりした!」

 長瀬主任は不快げに襟をなおした。
 どうでもいいが、研究所外に外出するときまで白衣姿なのはなかなか怪しい。

「あのう……マルチちゃんのお父さんですか?」
「お父さんね……ははは。ま、そんなもん」

 おずおずと聞くあかりに、主任はあいまいに笑いかけた。

「主任、一体何の用何すか?」
「ん? マルチの様子見に来たんだけど、キミたちが面白そうな話してるもんで、つい」

 ……これはあれだな。むかし遠足で牧場に行ったとき、柵に寄りかかって無駄話してる
と、馬が鼻面をぬっと寄せてきてえらいびっくりしたが、あれに似てるな。
 どうでもいい記憶を掘り起こす浩之だった。

「実はねえ、おいしいがわからない、というのは、かなり複雑な問題でね」
「マルチにはそう言う機能はないんですか?」
「あるよ」

 主任の答えは意外だった。

「食味センサというのはとっくの昔に実用化されてるんだよ。もっとも人間のそれよりは
精密さに欠けるけどね。テレビ番組で見たことない?」

 そう言えばなんか食べ物の特集番組で見たことがあった。米の炊き方によって味が違う、
とかいう企画で、機械のあいだに米粒はさんだりしてたっけ。

「一般に人間の味覚というのはかなり複雑な要素から構成されている。まず舌で感じるも
のだと、甘辛苦酸の四つの基本的な味。感覚器としての味覚はこれだけだ。
 でも、実際に人間が『おいしい』を感じる際にはもっと多くの感覚器官からの情報が影
響している。
 まずは触覚。舌触りとか、歯ごたえとか、のどごしとかだね。
 あと食物の見た目だね。おいしそうな盛りつけなんかの、視覚からの情報だ。目隠しし
て物を食べてみればなんとなく分かるだろう。
 あと音とか。鉄板ごと持ってくるステーキ屋とか、中華料理のおこげのあんかけなんか
は音が重要な役割を果たしている」

「ただ、視覚や聴覚からの情報は間接的なものだ。料理から発する直接情報(料理そのも
のの歯ごたえや、舌で直接検出できる甘辛苦酸の四つの基本的な味、それと空気中に発散
する匂いの分子)が味に関してとくに重要な役割を果たしている」

 なかでも特に重要なのは嗅覚だ。
 風邪ひいたときなんかにものの味がしなくなるだろう? あれは鼻づまりなどによって
鼻粘膜が麻痺して嗅覚がなくなっているからなんだ。だから、食べてるものが甘いか辛い
かくらいのことしかわからない。
 一般に味とか風味というものを考える際は、この嗅覚が一番重要な役割を果たしている。

 嗅覚は機械で再現することがことに難しい器官でもあるね。
 カメラ・マイク・タッチセンサはそれぞれわりと簡単につくれる。味覚も、入力された
刺激をたった5種類のカテゴリーに分類するだけの成分分析装置で実現可能だ。
 ところが嗅覚は、空気中に揮発してただよっている微粒子を捕まえて分析しなければな
らない、しかもその種類は味覚の比じゃない。物の匂いはまさに千差万別だからね。
 でも、嗅覚も機械化できないことはない。精密で多用途なガス分析システムを積めば再
現できる。したがって、人間とおなじような味を感じるシステムは実現可能だし、実際マ
ルチにはそれが搭載されている」

「えええ?」

 意外な発言。

「マルチ、お前味わかるんじゃねーか!」
「あ、はい、そういう意味ででしたら……」
「そうか! マルチてめえオレ達をからかってやがったな。おいしいがわからないとかい
って悲劇のロボぶりを強調しやがってこのアンポンタン」
「あうあう、い、痛いです〜」
「それだ、藤田くん」
「え?」

 主任の意外な言葉に、思わずマルチの頬っぺをつねりあげたまま固まってしまう浩之。

「マルチは感覚入力である『おいしい』は理解できない。だが同じ感覚入力『痛い』は理
解している。矛盾していると思わないかい?」

…………。
 言われてみれば。

 『おいしい』と同じ伝でいけば、『痛い』じゃなくて『ほっぺに破壊的な力が加わって
いる・危険である』と感じるハズだよな。

「ナンデなんすか?」
「それはね、わたしが教えたから」
「……なんで『痛い』は教えて『おいしい』は教えないんですか?」
「そうだねえ、じゃあまず『痛い』を教えたことから始めようか。

「一つには、『痛い』は教える方も教えられる方も分かりやすいからね。痛覚ってのは基
本的にオンオフのみで、痛いか痛くないかのどちらかだ。痛さの度合ってのもあるけど、
いまはちょっと省略する。
 たとえばマルチが転ぶね。私から見て、これは痛いだろうなあ、と思う。さらに感覚モ
ニターを見れば痛覚神経がオンになっている。
 そこでマルチに『それは”痛い”だよ』と教えてやれば、マルチはその転倒によって生
じた身体に危険の及ぶ信号を『痛い』である、というふうに学ぶ。
 つまり、『痛覚神経の反応』という具体的事実と『痛い』という語が結びつくわけだ。
 そして、以後、マルチの中にメモリされた語『痛い』は、それがしめす感覚『痛覚』と
して認識される」


「じゃあ、『おいしい』もそうやって教えてやりゃいいじゃないすか」
「よし、じゃあ藤田くんにその大役をまかせよう。これの味をマルチに教えてやってく
れ」

 主任が取り出したのは水戸納豆。わら包みの本格的な奴だった。
 くうう! 主任、通だね。
 やっぱ日本人なら何を置いてもまず納豆だよな。感心する浩之だった。
 そして、とりあえず試食ターイム。

「どうだマルチ? どんな感じだ?」
「うう、にちゃにちゃです……グルタミン酸と蛋白質中心の成分に、えっと、酵母の匂い
がします〜」

 よしよし、味覚はちゃんと機能しているようだな。

「どうだ、おいしいだろマルチ?」
「そこ、道っぱたでなにしてんねん」

 どこかで見かけたおさげ眼鏡、参上。

「おお、いいんちょ」
「こんなところに店広げてなんやの。通行の邪魔やで」

 まあたしかに、学校の中庭にテーブル出して納豆試食会ってのは妙な情景ではある。

「よっ。いやな、いまちょっとマルチに教育をば」
「教育って……うっ!」

 顔をしかめ、鼻を押さえる智子。

「どうしたいいんちょ?」
「こらぁ! マルチ苛めたらあかんやないか!」
「苛めるって何だよ? オレはただマルチに納豆のうまさを……」
「納豆やてえ! そんなもん食わせよったんかこの人非人!」

 委員長、本気で逆上。

「見損なったで藤田くん。何も知らないマルチに腐った豆食わせるなんて」
「腐った豆とはなんだ! 納豆は立派な発酵食品だ、健康にいいんだぞ!」
「腐ってるもんは腐ってる! ごっつ糸ひいとるやないか!」
「なんだと! じゃあ松前漬けの立場はどうなる!」
「あれは海草の粘液やからええねんて! 納豆なんかそのものズバリ菌やないか!」
「菌がダメならシイタケだってマツタケだってダメだろ!」
「茸はええねんて!」
「くっそう、言ってやれマルチ! このわからずやの関西人に納豆のうまさを教えてや
れ!」
「なあマルチちゃん、正直に言ってええねんで。まずいやろ?」
「はうううう、わ、わかりませえええ〜〜〜ん」


「そう、こういう問題もある。好ききらいだ」

 なぜかくるりと振り返ってカメラ目線の長瀬。

「『おいしい』は万人に共通のものではなく、その人間の属する文化や、人間自身の個性
によっても判断がわかれる。

 たとえば納豆。納豆のような発酵食品は基本的に腐っているといえる。そして、人間に
限らず動物は腐っているものは本能的に忌避する。しかし一度それがおいしいということ
が学習されると、以後親が子供に納豆を食べさせ『納豆はおいしい』と教えることによっ
て納豆を食べる文化というものが受け継がれて行く。
 これにはもちろんその地方の風土や文化の違い、気候区分による農作物の植生の違いな
どが大きく影響してくる。
 メイドロボはどこに合わせて設定したものだろうね?」


「………………」
「おおう先輩! ちょうどいいところに。このいけすかない関西人に納豆のよさを教えて
やってたとこだ!」
「なんやてえ」
「……………………」

「なにぃ、『わたしも納豆は、ちょっと……』だって!?」
「さすがや先輩! わたしが見込んだだけのことはあるな!」

 いつ何に見込んだ、智子。

「くっそう……大体偏食多いぞいいんちょ! ブラックコーヒーも飲めねえじゃねえか!」
「それ偏食いわんやろ!」
「じゃ偏飲」
「そんな言葉あるかい!」


「だが、その次に個性の問題がある。食べ物の好ききらいだ。たいがいの場合食べ物の好
みは藤田くんと保科さんのようにその人間の属する文化や環境で規定されるが、親は納豆
好きだが子供は嫌い、というような状況はどう説明するのか。
 親が子供に納豆を食べさせて『納豆はおいしい』と教えるときに、子供の中ではそれに
『おいしい』と意味づける作用が働く。
 だが、ここで以前に『おいしい』というカテゴリーで認識したもののことを思い出す。
それは味覚を通じて快感刺激を与えてくれたが、今度は不快な刺激を与えてくる。これは
本当に『おいしい』だろうか。
 ここで『おいしい』の反対概念『まずい』が意識されてくるわけだ。もっともこれだけ
では言語化されるまでに至らないけど。
 そして事態をさらに複雑にしているのが感覚器の慣れだ。まずいものでもそれしかなけ
れば食べるしかないし、食べているうちに不快な刺激が気にならなくなって来る。しかも、
それまで不快な刺激の奥に隠れていてわからなかった快感刺激が顔を出して来たりする。
納豆は臭みさえ気にしなければうまいからね。
 それに、成長するにつれて快不快の基準も自然と変化してくる。子供のころはまずくて
食べられなかったものが、大人になるとうまく感じるなんてこと良くあるだろ?

 さらにまずいからおいしい、といった複雑な要素もある。キミのまわりにもいるだろ、
まずいジュースばっかり好きこのんで飲んでる人。あれは味覚的にもまずいと感じている
が、それを一種の面白みとして楽しんでいる。
 これは引いた視点からいえば『おいしい』と感じていることにはならないだろうか?

 『おいしい』というきわめて主観的な概念を判断するためには、これだけ多くのパラメ
ーターがかかわっている。しかもそのほとんどは後天的な学習によって左右されるものだ。

 生まれたばかりのロボットが、味はわかってもそれが『おいしい』かどうかわからない、
というのはこういうことだ。『おいしい』は、『痛い』と違って感覚の直接的な表出では
なく、ある感覚に対して、人間の心がどのような意味づけをするか、ということからなり
立っている。
 つまり、『おいしい』が『痛い』と違うのは、それが人間の意識の表層により近い高度
な部分で処理されている感情だということだ。そのため意識的に感覚を制御する事もでき
る。まずいものを「おいしい」と思いこむことによって、いわば自己洗脳によって次第に
おいしくもなってくるわけだ。
 最初にも触れたように、より高度な処理をされているからこそ五感からの情報すべてを
駆使して感知しようとするし、複雑な分ごまかしや錯覚もおきやすい、というわけ」


「藤田くんこそ、昼休みといえばカフェオレばっか飲みくさって、どこかおかしいんとち
ゃうか?」
「なんだと! カフェオレのことを悪く言う奴はたとえいいんちょでもゆるさねえぞ!」


「そう、より高度な処理といったね……実を言うとそれは少し正確な言い方ではない。
 これはまったく違った処理なんだ。ロボットに限らず、機械・数学・自然科学の教える
ところの知覚機構はその根本に『量』がある。量の大小がその内容のすべてだ。先に言っ
たマルチやセリオの五感も、つきつめれば特定の要素に反応する量的検出器に過ぎない。

 ところが、人間の主観的判断というのは『量』ではなく『質』の問題で動いてるんだよ。
ラテン語で『クオリア』と呼ばれるものだ。

 これこそがロボットの実用化、AIが人間の脳により近づくに連れて発生してきた問題
でね。AIはコンピューターである以上つきつめれば数値を扱う計算機械であり、それは
つまり数値計算に基づき量的判断を下すためのものだ。
 これでは、これだけではどこまでつきつめても『質』の問題について判断することは不
可能なんだよ。

 量的判断が機械や、数学的諸問題や、自然科学、ひいては唯物論やマルクス主義などの
中心軸になっているのに比べ、人間の人間らしい営み――芸術、文学、音楽、さらに言う
なら人生観、ある種の哲学(唯我論等)、宗教的諸観念などは、きわめて主観的な『質』
の判断によって行われている。
 だからあらゆる人間の判断基準はすべて異なるし、どれが正しいということもない。納
豆だって好きな人は好きだが、嫌いな人は嫌いだ。

 そしてこれは明記されなければならないことだが、『量』の大小から『質』の上下を導
き出すことは絶対に出来ない。これはその逆も同様。
 長編小説のほうが俳句より上だろうか? 

 そして、『質』の上下は絶対的普遍性を持たない。これは仮に人間の知覚しない場面で
も宇宙が存在している、人間には関係なく普遍的に存在している宇宙があるとして(つま
り人間原理でない宇宙があるとして)、そこには量の上下はあっても、質の上下は(その
宇宙に存在する人間ひとりひとりが持つ価値基準とは関係のない、一般法則としての上
下)存在しない。逆に言えば、人間がもし存在しなければ、質の上下という問題はそもそ
も起こり得ない。質の上下を判断できるのは人間、それも種としての人間一般や人間の間
で定めた法則などではなく、ただ判断主体としての一個人しかありえず、しかもその判断
基準はその当人にとってしか意味を持たないからだ。
 逆に言えば、『質』の上下を語ることは唯我論的な世界観の導入をもたらす。
 唯我論的宇宙観、早い話宇宙は自分自身が感じているこの宇宙しかないとする考え方で
は、その価値判断は全宇宙的普遍性を持つ。その人間にとって、宇宙は自分の感じている
『この』宇宙しかないからだ。それ以外の『自分の知らない宇宙』はありえない。森の中
で木が倒れても、見ていなかったら倒れてない、という奴だね」

 浩之と智子は言い争い、あかりとマルチがなだめに入り、すでに誰も聞いていない。
 長瀬は気づかずとうとうと語りつづけていた。

「で、実はいま言った質と量の判断における自己と宇宙の関係それ自身にも量と質の問題
が内包されていて、簡単に言うと、『人間原理宇宙』というのが質の問題をメインに据え
た宇宙観で、『人間原理でない宇宙』、つまり誰も聞いてなくても森の中で木が倒れたな
らそれはともかくも倒れたんだ、とする説は、量の問題をメインに据えた宇宙観なんだよ。

 どうもこれはどこまで言っても平行線な気がするね。量は絶対に質で代用できないし、
逆もダメ。……ところが、われわれ人間の中では奇妙なことにこの二つの宇宙観が同居し
ている。われわれは量も検知できるし、質も判断できる。もちろん究極的には論理矛盾を
引き起こすこの二つの要素の同居を、そのまんま矛盾として抱え込んだままわれわれは生
きている。

 ここでおかしなことが起こる。それではどうして人間のみが特別なのか? 人間だって
ニューロンの神経生理学的反応をデバイスとした数値計算機械ではないか、ということ。
 生物機械論、ひいてはマルクス主義的・唯物論的な観点からいくとそういうことになる。
 ここから二つの論議ができる。つまり人間は単なる計算機械ではなく、それ以上に何ら
かの数値に出来ない要素がかかわっている。
 よって、そのすべての機能は数値に還元することが不可能であり、したがって人間と同
じ心をAIに持たせることは不可能であるとする意見。これは生気論などど言われる議論
で、AI工学の始まる以前から哲学方面ではしばしば話題になった話だ。
 これはかなり説得力がある。数値計算機械は矛盾を矛盾のまま放置しておくことを良し
としないからだ。人間の視点から見ればあきらかにパラドックスであると判断されようと
も、とにかく解が得られるまで計算しつづける。アラン・テューリングの停止定理では、
これを「任意のテューリング・マシンの停止する点を定めることは出来ない」としている
けど……。

 そしてもうひとつ。神経生理学的機械である人間にそのような機能が備わっているのだ
から、電子工学的機械であるAIがそれを模倣できないはずはないとする意見。実を言う
とこの中でも意見が二つに割れてて、『質的判断』は量的に解明可能であり、したがって
模倣できるという意見。もうひとつは、質的判断は解明不可能であり量的概念に記述しか
えることは出来ないが、人間という前例が現に存在する以上、何らかの手段によって模倣
可能であるという意見。
 実はこの後者の方の意見は、先に言った生気論と共通している。『数値に還元できない
なんらかの要素』が人間には存在しているという点だ。
 それが、こちらの話では、数値的に未解明な要素(生気)でも、数値的計算機械上で再
現可能である、とされている。なぜなら、現実的にはともかくも神経生理学的機械がその
ような要素を乗せて動作しているわけだから……ということ」

 ここでようやく一息ついた。肝心な点を通り過ぎたからだった。
 あとは、まだまだ未解明の闇の中。

「考えれば考えるほど、不思議なことだねえ。きわめて不思議だ……」

 にやり。
 長瀬は意味ありげな笑みを浮かべながら振り返る。タネは全部明かしましたよ、と得意
げな魔術師のように。

「だから! 食ってみろって! 痛いのは最初だけだから! すぐよくなるから!」
「なにゆーてんねん、食えるわけないやろ! なんや藤田くん沸いとんのか!」
「んだとこのおっぱいメガネ! 略してメガネパイ!」
「他のゲームのネタ引っ張ってくるとはええ度胸しとるやないかいコラ」
「浩之ちゃんも保科さんも、もうやめようよー」
「うるせえ! 自分ひとりだけいい子になろうとしやがってこのレッドブル!」
「そやそや! 犬は犬らしゅう庭でも駆け回っとかんかい、ハウンドドッグ! その辺で
フォルテシモでも熱唱しとき!」
「ひ、ひどいよー」

 かくん、と長瀬のあごが落ちる。

「あ……もうだれも聞いてないのね」
「あ。わたし聞いてますー」

 はいはいーっと手を上げる。
 マルチがいつのまにか戦線離脱していた。

「よしよし、マルチはいい子だねえ。……で、分かったかい?」
「いいえ! ぜんぜんさっぱりぷーなのですー!」

 はきはきといい返事。

「………………そっか。一瞬でも期待したわたしが……」
「でも主任? セリオさんはすっごくじょうずにお料理作れますよー」
「あ、あれはね。工場でレトルトパックの食品作ってるのと同じやり方だから」
「ふぇ?」
「だからね、『ロボットにとって』おいしいが分からなくても、『人間一般にとって』お
いしいであろう物を作ることはできる。
 ロボットは人間の感じる感覚に基づいた成分配合の基準と、成分検知器の分析結果を比
較して、「これは人間にとっておいしいものであろう」ことを推測は出来るんだ。
 たとえば、セリオにも量的検出器としての味覚はある。
 セリオは一流コックのデータをダウンロードしてそのコックが作るのとおなじ味を再現
できるというのは知ってるね」
「はい」
「でも、いくら材料の分量を同じに揃えたって、材料の質にはばらつきがあるし、必ずい
つも同じ味のものが出来るってわけじゃない。
 そこで料理人の味見が必要なわけだ。だから、セリオにも味を検知する機構はある」
「はわー……そうなんですか」
「でも、セリオさんはわたしとおなじでおいしいのがわからないんですよね? 味見なん
か出来るんですかぁ?」
「『おいしい』を理解している必要はないよ。人間にとっておいしいかどうかわかればい
いんだから。あらかじめ記憶された完成品見本となるたけ近い成分組成であることが確認
できればそれで大丈夫。
 このばあいセリオの味覚は純粋に成分分析装置として機能している。本人にとっておい
しいかどうかはまったく関係ない」
「はわわ……」
「ただ料理人の味見は違う。ここで何が行われているのかというと、材料や調味料の量的
検出よりむしろそれらの総和としての『風味』や『味わい』、つまり質としての判断をし
ている。
 だから、正確に言えばセリオの作る料理は、そのような味見が出来ないぶん元データよ
り幾分劣る。ただ、計測可能な限り元データの分析結果とあわせるよう精密な検知システ
ムで成分分析を行いながら調理しているので、実際人間の感じられるレベルではほとんど
同じ物が出来てくることになる。まあ、ものすごい食通とか、料理記者歴何十年の人に試
食してもらったらまた違うかもしれないけどね」
「わ、分からないけど分かりましたー……」

 むづかしい話の炸裂に暫くぽーっとなっていたマルチは、ふいに我に返る。

「でもでも、わたしにはあんまりややこしいことはわからないですけど……」

 つんつん、と人差し指をつつき合わせて、さびしげな上目づかい。

「おいしいってどんな感じか、知りたいです……」

 そうか、知りたいか。長瀬はマルチを見ながら、ため息をひとつ。
 ロボットでありながら、人間の役に立たないことに欲求を示しているマルチ。
 ”心”を再現するための情報収集用ロボットとしては、少しデフォルトが情緒的過ぎた
ろうか?

「そのために、人間の中で暮らしながら、すこしづつ勉強していくんだよ」
「わたし、『おいしい』が分かるようになるんでしょうかー?」
「そうだねえ……」
 よそを向いて、ぽりぽりと頬を指先で掻いて。
「そうなったらいいね」
 ぽすっ、とマルチの頭に手を置く。
「あ……」
「いつか、キミと藤田君がひとつのテーブルを囲んで、同じ料理をおいしいと感じながら
食べることが出来たら……楽しい、だろうね」
「はいっ!」
「がんばりなさいよ。学習結果次第では、何とかなるかもしれない」
「はい! がんばりうますぅ!」




「この腐れ豆食い! 明日の太陽は藤田くんのためには輝かんものと知りや!」
「だまれ非国民! 帰るぞあかり。おーい。あれ……?」
 いつもと違った表情を浮かべた幼なじみが、校門の隅で小さくなって、ひざを抱えて。

「♪あーいがー、すべーてさー……ぐすっ」

 ほんとに熱唱していたり。




 さて、その頃もう一体のメイドロボとその主人――オチ要員二名はというと。

 ことん。
 セリオは箸を置く。無表情ななかに戸惑いの色が浮かんでいる。
「これが『おいしい』なのですか? 私がいままで出会った味とはだいぶ違うようですが……」
「そうよセリオ。何しろこの温泉地でも一番の旅館、鶴来屋謹製の懐石膳なんだから。こ
の味をちゃあんとおぼえて、あとで私に作ってね」

 学校ブッチして急遽隆山に飛んだ綾香とセリオは、いまこうして旅館『鶴来屋』内の料
亭にいた。
 以前隆山を訪れた際に口にした老舗『鶴来屋』の味は、いたく綾香の気に入った。
 そこでセリオにその複製を命じたところ、「――できません」とのつれない返事。
 サテライトサービスには、どうしたことか鶴来屋調理部のデータはなかったのである。
 なかったというか、何らかの外的圧力で消された痕跡があった、とセリオは言った。

「――データのラベルと番地は残っているのですが、中身は消されたようです。この部分
のデータは、かなりの高次のレベルでアクセスしないと改変できないハズなのですが……」
「ま、いいわ。とにかく食べて食べて」
「――はい」
「うふふふ、これであの鶴来屋の味がいつでも食べられるのね……」



	「た、大変だああ! 会長がまた調理場に!」
	「なんだって、すぐやめさせろ!」
	「バカ、声が大き……もう、手遅れ……客に……」



「なんだか裏が騒がしいわねえ。静かな落ち着いた日本旅館だったはずなんだけど」
「――ごちそうさま」
「はいおそまつさまー。どう、セリオ。再現できそう?」
「――お任せください綾香さま。完璧に再現できるでしょう」
「やったあ」


 ……合掌。




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