玄牙――流れ星玄――  投稿者:takataka


「わうっ!」
「きゃあああぁぁぁ!」

 でかい犬に追っかけられて、転がるように逃げて行く触角娘。

「す、すげえやアニキ! さすがはご近所犬社会のボス、玄太郎アニキだ!
 オレ達にできないことができるッ! そこにシビれるあこがれるゥ!」
「はっはっは、よせやいチャッピー。あんな新聞配達のヒヨッコをからかうくらい朝飯前
よ」

 磊落に笑う毛むくじゃら犬、玄太郎。
 ご近所では女性のスカートの中身を追っかけ回すスケベ犬と言われて久しかったが、犬
の仲間うちでは信望厚く、ここら辺の町内の犬たちをまとめてボスの座に君臨していた。
 そのかたわらにまとわりついているのは姫川さんちのチャッピー。まだ幼さの残る若武
者である。

「だがな、忘れちゃいけねえぜ、コイツはほんの小手調べ、戦闘訓練に過ぎん。オレ達の
真の敵……奴を倒すためのな」
「ウィス!」
「おめえ、交通事故でケガした足はもういいのか?」
「バッチリですぜ! あんな野郎アニキが出るまでもなく、このオレが滅殺してやりまさ
あ!」
「おいおい、ご主人ゆずりの滅殺か? おめえもつくづく調子のいい野郎だな」
「てへっ」

 ふうっ、と溜め息をつく。玄太郎の目は遠くを見ていた。

「おめえにもそろそろ聞かせてやる時がきたのかも知れんな……ボスの遺言を」
「ボスの……遺言?」
「昔、藤田さんちにその名も『ボス』ってピレネー犬がいてな。でっかい犬だったぜ……
身体も、心もな。
 オレはちょうどいまのお前みたいに、ボスの子分格だったっけ……」





「ボス! しっかりして下せえ、ボス……」
「へっ、オレも年だってことか。なさけねえとこ見せちまってるな」

 忘れもしねえ、ボスが息を引き取った夜。オレは最後までかたわらについていた。
 浩之坊ちゃんの前では気を張って普通にしていたボスだが、そのときはもうお迎えがき
ちまってたのさ。

「いいか玄太郎。おめえに一つ頼みがある」
「なんですボス? オレにできることだったら、なんでも」
「まあ聞け。あれはこの間のことだ……」



	「それじゃああかり、ボールとってくっからちょっと待ってろよ」
	「わかったよひろゆきちゃん」

	 ふん、くだらん。
	 あの小娘が……なんとか浩之坊ちゃんの気を引こうとしてるのがみえみえだ
	ぜ? だがおあいにくさま、浩之坊ちゃんのハートはこのピレネーのボスががっ
	ちりつかんでるってわけよ……。

	 ふて寝するように前脚にあごを預けて寝ていると。

	 ぐい。

	「いてっ」

	 耳を引っぱられた。

	「うわん!」

	 目を開くと、そこには。

	「ふふふぅ」

	 ちい、小娘が。ったくめんどくせえ……
	
	「ボスちゃん。わたし、くまちゃんだよ」

	 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……
	 ――なんだ、この気迫は!?
	 オレは思わず丸めたしっぽを股にはさんじまった……ご町内最強と呼ばれたこ
	のオレがだ。

	「がおーう。がおーう。ねっ、くまでしょ」
	
	 恐怖。そう、オレは生まれて初めて本物の恐怖ってやつを味わっていた。
	 それはまさに最強熊、赤カブト――そう、奴の伝説はここからはじまった……。

	「ボスちゃんのお耳はながいね」

	 ぐいーん。
	 左右に耳引っぱりの刑をかます赤カブト。その目は残虐そのものだ。
	 やめろ! それ以上引っぱるんじゃねえ! いてっ! マジいてえって!

	「うふふ。あのねえ、ボスちゃんにはわたしのゆめ、教えてあげるよ。
	 おっきくなったらおとなのみりょくでひろゆきちゃんをゲットして、ゆくゆく
	はぜんこくせいはだよ? ふふぅ、いいでしょう」

	 ぱ、と手が離される。
	 俺は吠えかかろうと口をあけ――。

	 みょいーん。
	
	 赤カブトの野郎は、こともあろうに俺の口を横方向にびろーんと広げやがった
	のさ。

	「くすくす。ボスちゃんのおくちはごむみたいだよ?」

	 やめろ……やめてくれ……

	「だからボスちゃん、わたしとひろゆきちゃんのあいだにわりこむのはやめてね。
	 やくそくだよ?」

	 うわああああああ! 口、口切れる!

	 がちゃ。

	「おう、またせたなあかり」
	「あ、ひろゆきちゃん♪」

	 ぱっ。



「俺はそうやって命を取りとめた……これが、オレと赤カブトの因縁のはじまりよ」

 玄太郎は戦慄していた。
 耳引っぱりと口引っぱり。まさに生き地獄である。

「後のことは頼んだぞ、玄太郎。明日からお前が町内のボスだ……」
「アニキ、ボスのアニキイイイイ!」
「へ、泣きっ面してる場合か……しっかりしなきゃいけねえぜ、二代目ボスさんよ」
「な、なにいってんでさあボス! これ以上しゃべっちゃいけやせん!」
「いいか、これだけは頼む。俺の代わりに、浩之坊っちゃんをお守りするんだ。あの最強
熊、赤カブトの魔の手から……頼んだぜ……」

 がく。

「あ、アニキーーーーーーーーーーーーーー!!」





「ち、ちきしょう……なんてこった……」

 チャッピーは泣いた、男泣きに泣いた。
 涙なしには語れない男の歴史がそこにはあった。

「そういうわけでチャッピー! 打倒赤カブト! 覚悟はイイな!」
「もちろんでさあアニキ!」

「やれやれ、つまらん企てだな」

「な、なにぃ!! おめえは……!」

 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……。

 向こうの辻にあらわれる、褐色の影。
 手入れの行きとどいた長毛が光を放つ。

「「ジュリー!」」

 ザシャアアアアアア!

「フッ、雑種共が群れやがって」
「なんだとてめえ!」
「はやるなチャッピー! おめえのかなう相手じゃねえ。
 なあジュリー。おめえを男と見込んで頼みがある。オレ達の赤カブト討伐隊に力を貸し
てくれねえか」
「フッ」

 クールに鼻の先であしらう。純血種のプライドの高さだ。

「オレは群れるのが嫌いでな」
「一匹狼気取りやがってえええええーーーーー!」
「やめろチャッピー!」

 襲いかかるチャッピー。たしかに首筋をとらえた、と思った牙ががちんと合わさる。

「なにぃ!」
「どこを見ている、小僧」

 ドカアアアアアア!!

「ギャン!」
「チャッピーーーーーーー!」
「その小僧を連れてとっととオレの目のとどかんところにうせろ。目ざわりだ」
「きさま……オレの子分を!」
「ほう? なんだその目は。何か言いたいことがありそうだな」
「ああ、言ってやるとも。おめえ、あんなヤンキー野郎どもに飼われていい気になってる
ようだが、おめえのことをこの辺じゃなんて言ってるのか知らねえのか?」

 ぴくん、とジュリーの眉が反応する。

「あのアメリカ野郎、オバQで言えば『ドロンパ』的な役回りだとな。もっぱらの噂だ
ぜ?」
「アニキ……それじゃオレはO次郎なのかい? ば、ばけらったー……」

 目を覚ましたチャッピーがまたいらんことを言う。

「――この世にオレの我慢ならんことが、二つ、ある。
 一つはヘレンお嬢さまの矢の的にされること。そして、もうひとつは……。
 このオレをドロンパ呼ばわりすることだああぁーーーーーーッ」
「へっ、やる気かヤンキー! 返り討ちにしてやるぜ!」

「待ちな!」

 二頭のあいだに割って入るひとつの影。

「なっ……」
「おめえは……」
「どうも若いもんは血の気が多くていけねえな。玄太郎、おめえボスたるもんがそうそう
ケンカに手を出すような真似しちゃいけねえぜ。ボスってのは本丸にどっしりかまえてて
いざってときに出て行くもんだ。そうだろ?」

 うなだれる玄太郎。

「なあジュリーよ、ここはオレに免じて手を引いてやっちゃくれねえか?」
「オレはだれの命令も聞かん」
「まあまあ、そう邪険にせず。二人とも、今回はこれで手打ちにしねえか?」

 咥えていた包みを放すと、中には。

「おめえこれは……クッキーじゃねえか! しかも犬クッキーじゃねえ人間さま用の!」
「どこでコレを?」
「なあに、学校でな。人間の匂いがしねえ緑色の変なのが掃除してたんで、ちょっと愛想
ふりまいてやったらこのとおりよ。ちょろいもんだぜ。
 どうよジュリー。コイツでは不足か?」
「くっ……まあよかろう。
 だが覚えておけ玄太郎。オレはまだお前のことを町内のボスと認めたわけじゃねえ」

 冷ややかに言い放つ、あくまでもクールなジュリー。

「心配すんな、いつか決着はつけてやるさ」

 不敵に笑う玄太郎。男のプライドがぶつかり合う一瞬であった。





 そしていよいよ決戦の日が来た。
 赤カブト討伐。ある意味前ボスの弔い合戦である。

「いいか、奴はこの時間必ずあらわれる。そこを狙うんだ」
「アニキ、ジュリーの奴結局来ませんでしたね……」
「ほっとけ、あんなすかした野郎」

 ぴんぽーん。

「浩之ちゃーん。浩之ちゃんってばー」

 来た!

「今だ!」

 飛び出す犬たち。だが、次の瞬間――。

「何いいいいいいいーーーーーーーーー!!」
「バカな! 奴は一体……!!」
「なんてこった……」

 髪型が!
 赤カブトの髪型が、お下げからショートボブへ、華麗なる成長!!

「アニキ、アニキどうしたんで?」
「あれは……」

 玄太郎は震えていた。それは恐怖からではなかった。
 怒りであった。

「あの黄色いリボン……」



	「へへえ、どうだあかり。ボスに黄色いスカーフしてやったぞ、かっこいいだろ
	う」
	「わあ、いいなあボスちゃん。わたしも黄色いおリボンしようかな……」
	「ダメだぞあかり! 黄色はボス専用の色なんだからな。シャア少佐しか赤ザク
	に乗れないのといっしょだ」
	「えー」

	 赤カブトの野郎、指くわえて口惜しがってた。生前のボスはずいぶんこのこと
	を自慢にしてたっけ……。

	「そんなあ……わたしちょっとかなしいよう……」
	「う……わ、わかった。あかり、もしおまえが将来おっきくなって、黄色いリボ
	ンがよくにあうくらいのせくしーだいなまいつになったらつけてもいいぞ」
	「本当ひろゆきちゃん!?」
	「ああ、男に二言はねえ」
	「わあい、うれしいな」



「や、野郎! ボスの思い出を汚しやがって! 許せねえーーーーー!!」
「待て玄太郎! 一人じゃ無理だ!」
「あ、アニキィーーーーーーー!」

 どかっ!

「あせるんじゃねえ! 今はやめておけ」
「な、お前は!」
「ジュリー! おめえ、やっぱり……」
「勘違いするな。オレはたまたま通りがかっただけだ」

 へっ、とそっぽを向いてみせる。顔がちょっと赤い。

「ジュリーの言うとおりだ。今日は日が悪い……。
 だが、オレが昨日隆山支部に連絡をつけておいた。いずれ援軍がやってくるだろう……
合流するまではひとまずお預けだ」

 クッキーをもってきた犬はなかなかの知恵者だった。

「分かった」

 口惜しさをかみしめつつ、すっと立ち去る玄太郎。背中に男の哀愁がただよう。
 ふ、と苦笑した。

「ジュリー、恩に着るぜ」
「フッ、くだらん」
「てめえ、アニキに向かって!」
「やめなチャッピー。今回はあいつのひとり勝ちだ」

 玄関から浩之があわてて出てくる。ほにゃっとした笑みを浮かべる赤カブト。
 玄太郎はふり返らなかった。春の朝は見上げる空が高く、蒼い。

「隆山支部か……」





「初音、何してるの?」

 柏木楓が玄関を出ると、門の郵便受けのところでぴんとはねた黄色い髪が何やら右に左
に揺れていた。

「あ、楓お姉ちゃん。これ、なにかなあ……」
「?」

 苦笑しながらひらひらと一枚の葉書を見せた。
 裏面に犬の足跡が一個。

「いたずらかなあ?」
「さあ……」




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