継承盃 投稿者:takataka
 それは壁であった。
 高く、厚く、絶対に越えられないかと思わせる、圧倒的な壁。
 ――しかし。
 今日、越えてみせる。
 来栖川綾香、あなたを。
 坂下好恵は深く息を吐き、よし、と気合を入れた。




 その日、道場では一年に一度の催しが行われようとしていた。
 この日のために下部の門下生が道場の床を拭き清め、すすを払い、畳を返した。
 すがすがしい空気。まさしく、その日にぴったりの陽気だった。




「――それでは、本年もいよいよ押し詰まってまいりました」
 好恵があいさつに立った。

「押忍!」
 ずらりと正座した門下生たちの気合いが轟く。
 押して忍ぶと書いて、オス。
 坂上忍と書いて、さかがみしのぶ。
 脈絡はないが。

「本日をもって、わが道場の稽古納めとさせていただきます」
「押忍!」

 坂下好恵。
 この道場でも最強といわれる空手家。
 しかし、それは今年からのことだ。去年までの年末の稽古納めのあいさつは――。

 来栖川綾香。

 好恵の心中をちくりと棘が刺す。
 この栄誉は綾香が空手を去ったことにより与えられたものだ。
 だから。
 だからこそ――認めるわけにはいかない。
 今日、越えてみせる。
 綾香を。
 ふだんのけいことは別に、自力で鍛えてきた技を、今日この日、初めて明かすのだ。

「それでは、以下のものをあいさつにかえさせていただきます……」

 言葉を切るとともに。

 ざわり。
 空気が、まるで手で触れられるかのようにはっきりと揺らいだ。



 ヅラ。
 ヅラだった。



 坂下好恵。
 その頭にかぶられた、長髪のヅラ。

 しかも、あの毛先にわずかにウェーブのかかった髪形は。
 ――まさか!?


 ふぁさっ(髪かきあげ)


「はぁい、みんなぁ。元気してる?」



 !!
 来栖川綾香の、モノマネ――。

 しかも!!
 クリソツ!!

 おお。
 おおお。
 おおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉ……。

 地鳴りのような音が響き渡る。全員が、腹の底から感動のうなりを上げていた。



 今までこの道場では、来栖川綾香のモノマネは決してやってはならないという暗黙の了
解があった。
 だって本人に知れたらブン殴られそうで怖いJAN。
 それは綾香の去りし後も、固く守られていた。
 まさに鉄の掟。
 それが断ち切られた瞬間だった。



 わき上がる喝采の中、好恵は静かにヅラをとった。

「さあ、次にやりたいものは!?」

 ポツリポツリと手が挙がり、やがて手の波が道場を埋めつくす。
 今日この日、この道場で、綾香のモノマネが解禁となった瞬間であった。

 ヅラが手から手へとわたり、思い思いのモノマネが炸裂する。


「ん〜、私と姉さんってこれでもよく似てるのよね☆」
「をを、似てる似てる!」
「じゃあ顔面芸やります。はい!」
「うおおぉぉ、ネコ口! それだぁ!」
「………………」
 ふるふる。
「方向性違うけどそれもアリだぁ!!」


 大いに沸く門下生たち。
 道場はもはや、ちょっとしたスター対抗モノマネ選手権と化していた。
 それはこの道場のトップの座が好恵へと移動したことを如実に示していた。


 しかし。


 好恵は、ふと一人だけ手をあげていないのに気づいた。
 松原葵。
 誰よりも綾香にあこがれていた少女だ。
 だが。

 引いていた。
 引きやがりまくっていた。
 私どうしたらいいかわかりませんとでも言いたげな他人行儀な表情に、一筋の汗の雫が
伝って落ちた。

 ――気に入らない。
 気に入らないわね、葵。
 好恵のこめかみにぴくりと血管が浮かぶ。

 ぱさっ。
 ヅラを放った。

「葵、次はあなたよ」

 かわいらしい面立ちがさっと青ざめる。
 その顔面に一発叩き込んでやりたい衝動を押さえつつ、好恵は言い放った。
「期待してるわ。あなたが一番綾香に近かったからね」
「そんな、私、とてもできません……」
「やるのよ!」
 やらんと地獄やぞコラァ、という意を言外ににじませて凄む好恵。

 追い詰められた仔狐のようにびくっと震えあがった葵は、そろそろとヅラに手を伸ばす。
 つくづくプレッシャーに弱い娘だった。



「えっと……は、はろはろぉ……なんちゃって……」



 空気が凍りついた。
 液化窒素のように冷たい視線が注がれ、畳の上を冷気が這う。

 似てねえ。
 全っ然似てねえ。これっぽっちも。

 ぶう。
 ぶううううう。
 ぶうううぅぅぅぅぅぅぅ、ぶぅぅぅぅぅぅぅぅ……

 ブーイングの嵐飛び交う中、葵は真っ赤になってしゃがみこんでしまった。

 ――葵、あなたのその自信のなさ……それこそがあなたの弱さ……。

 好恵は目を伏せた。
 葵はすっかり青ざめ、判決を待つ死刑囚のようにちぢこまっている。

 かわいそうだが、これも掟だ。
 好恵はすっと息を吸い込み――。


「バツ・ゲーーーーーーーーーーーーームどんどんどんぱふぱふぱふ!!」


 ただちに門下生が葵に飛びかかって取り押さえる。
 こういうときのチームワークは抜群だ。

「さて、葵……これ全部、残さず食べなさい」

 好恵は、ひとかかえはありそうな大皿に山盛りになった餅――安倍川、いそべ、からみ
の三種混合――をどんっと据えた。

「いや……いやです! こんなに食べられるわけないじゃないですか!!」
「問答無用!」

 体育会系の罰ゲームとは、なんかやたらと食べさせられるのが多い。
 大食いチャレンジの店に連れていかれるとか。
 そう言えば綾香も、大盛り激辛ラーメン早食いを得意としていた。
 相撲の新弟子も、山のようなちゃんこを半べそかきつつビールで流し込むという。
 格闘家の基本である強い身体を作るには、とにかく食うことが肝要なのだ。

「さあ!! ぐーーーーっと!」
「きゃあっやめてくださむぐぐぐぐぐぐぐぐぐ……」




「う〜〜〜〜ん……」

 ぱったり。

 大の字になって倒れる葵を見て、好恵は決意を新たにした。

 ――綾香、いつかあなたを倒す。
 そして、この罰ゲームを……

 ふ、と小さく笑って、小さな包みを投げてよこした。
「武士の情の胃腸薬よ。……取っておきなさい」




「うう……出そう……」
 鉛のように重くもたれる胃を押さえ、葵は伝い歩きしながら帰途についた。

 やっぱり、私、綾香さんについていこう……。
 このままじゃ身体が持たない。
 エクストリーマー松原葵の第一歩はこうして歩みだされたのだった。




「葵いいいいいいぃぃぃぃぃぃ! なぜ空手を捨てたあああああ!」

 葵の転向を知った好恵は、荒れた。
 荒れ狂った。
 その間のことは、『火の七日間』として道場史に残ったという。
 いわく、自業自得。



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