二人。 投稿者:takataka

「姉さん、勝負してみない?」

 こくん。

「…………………………」
 ……勝負です、綾香。

 へろへろ〜っと、飛ぶというよりなにか滑空してきた感じの芹香の拳を、綾香は片手で
受け止めた。
 にやり。
 チェシャ猫笑いで答える。

「おっけ、姉さん。でも勝負と名が付くからには、私も手を抜かないわよ?」







 何の用なんだよ、とたずねても、綾香の返事はどうも要領を得なかった。
「へへん、ちょっとしたコラボレーションよ」
「なんだって?」
「ま、見てのお楽しみってこと」

 綾香の黒髪がふわりとなびく。
 浩之は動悸が高まってくるのを感じた。

 なぜなら、いまの綾香は、その美しい身体を密着するレオタードに包んでいたから。
 それには見おぼえがあった。格闘技雑誌に載っていた、戦う綾香の無駄なく鍛え上げら
れた身体を包む戦闘服。
 エクストリームの女王の戴冠式。そのための正装だ。

 その身にゆらめく炎をまとい、磨きぬかれ鍛錬された野性。
 嵐の前の静謐のなか、闘いの前のこころよい緊張に満たされた獰猛さを、ぴっちりとし
た薄い生地のウェアに押し包んでいる。
 しかし見るからに弾力のある脚の筋肉や、服を着ているところからは想像もつかないよ
うな頑強な体躯、握られた拳の物語るひそかな破壊力。
 そうした要素の一つ一つが一種のオーラとなって、彼女の全身を取りまく。

「なんだかいまから試合にでも出るみてーだな」
「あら、そうよ? 言わなかったっけ?」

 キツネにつままれたような表情の浩之を、綾香はくっくっと喉の奥で笑った。





「姉さん、いい?」

 返事を待たずにドアをあける。

 午後の光の中、芹香はまばゆく光を放っているイブニングドレスに身を包んでいた。
 やわらかな日差しの下、光かがやく光暈をまとって、芹香は腕利きの職人の手で丹精さ
れた人形のようにその美しい造りのおもざしを浩之に向けている。

「………………」
 こんにちわ、浩之さん。
 かすかに微笑む。

 芹香の表情研究家ならずとも、浩之にはすぐにわかった。
 緊張のなかにも、今までにないような自信が満ちていることを。

 肩の大きく開いた大胆なデザインの下から、その衣装よりもさらに白く、芹香の素肌が
すべすべとした光を放っている。
 誕生パーティーを抜け出して、必死の思いで浩之に会いに行ったときの想い出の服だ。

「さ、あなたはそこで見てて」

 綾香の言葉に繰られるように、壁際のいすに腰をおろす。
 板張りの広い部屋。
 漆喰で彫刻の施された天井もかなり高く、古い屋敷に特有の黴のような匂いがかすかに
感じられたが、不快ではなかった。
 それよりもむしろ、記憶のひだをくすぐられるようなこの感じ。古い家はその歩みとと
もにその中に暮らしてきた者たちの思いを封じ込めている。
 大切な記憶、目には見えないアルバム。



 芹香はピアノの前に座っていた。
 ――へえ、先輩ピアノなんかひけたんだ。
 浩之は感心した。さすが良家のお嬢さまって感じの特技だな。芹香の特技といえば魔法
しか知らなかった浩之にとって、黒い大きなピアノにしがみつくようにして座る芹香の姿
は新鮮であり、なんだか可笑しくもあった。

「………………」
 曲は? と、芹香が尋ねる。
 わかってるでしょ? と、綾香はひとつウインク。

「カール・マリア・フォン・ウェーバー。よろしく!」

 ぽん、と促すように芹香の肩を叩く。
 芹香はまるでいたずらっ子をながめる母のように微笑み、ピアノに向かった。




 しずかに、あくまでもしずかに流れだす調べ、そっと目を閉じた芹香の指の奏でるゆる
やかな空気、古い記憶。
 なつかしい思い出話をするように、音楽は浩之の耳をくすぐる。

 そして、その目は部屋のまん中に立つ綾香へ向けられていた。

 最初の音が奏でられたときから、綾香はすでに浩之の知っている綾香ではなかった。
 芹香の指が鍵盤にふれる最初の瞬間、綾香は水に潜るときのように息を止めた。
 そして打鍵の響きとともに再び呼吸をはじめたとき、そこにいるのはエクストリームチ
ャンプでもなく、人をからかうのが好きな溌剌とした少女でもなく、一人の舞踊家だった。

 ミューズの化身、舞踊の神化、この際なんでもいい。

 浩之は息を呑んだ。ゆるやかな調べとともに綾香の腕はしなやかに持ち上げられ、そし
てまた降りる。空気の流れを乱さず、動かしているというよりはまるで風に吹かれ、水の
流れに揺られているような、そんな自然な動作。

 普段とは異なる空気が、その場を支配していた。


 そして、一瞬のゲネラル・パウゼののち――


 輝いた。
 リズムと、音色と、宙を舞う指先と、はね上げられた脚、しなやかな身体が。






 こんなふうに楽しく曲を奏でるのは、もうずいぶん久しぶりです。
 魔法にばかりかまけていて、こちらの方は最近すっかりご無沙汰していた。
 芹香はなかば夢見心地で弾きながら、記憶をたどっていった。

 そう、あの子とはじめて会った頃。






 魔法のことで頭が一杯だったあの頃、一台のピアノが突然芹香の部屋に運び込まれた。
 正直、それほど興味はなかった。

 芹香は魔法の国に住んでいた。
 そこには芹香以外は誰もいない。
 いない人間とは話すことができないから、芹香は誰とも話をしようとはしなかった。そ
れが、彼女が自分に課した義務であり、みずから負った枷だった。

 それに、ときおり魔法の話を口に出すことがあっても、まわりの人間は誰も芹香の話を
聞いてはくれなかった。子供の戯れ言と一笑に付すばかりだ。
 それが、芹香をいっそう無口にした。
 私の話なんか、誰も聞いてくれないですから。

 そんなとき、彼女の目の前に一台の大きなグランドピアノが現れたのだ。

 ためしに鍵盤を叩いてみる。
 ぽーん、と澄んだ音が鳴った。

 ばらばらに、そしてある程度の規則性をもって、弾いてみる。
 鍵盤は芹香の意図を忠実に表現し、思ったとおりの音を出してくれた。

 ――この子は、私の話を聞いてくれる。

 芹香の顔に、かすかな笑みが浮かんだ。友達、見つけた。



 練習を続けるうちにわかったことがある。
 それは、ピアノは必ずしも、いつでも芹香の味方ではないということ。
 曲を一通りマスターした頃に気づいた。
 譜面通りに音を出すことはできる。でも、それは何か違う。
 思い通りに鍵盤を叩くことと、思い通りの音色を出し、思い通りのメロディーを奏でる
こととはまったくべつのことなのだ。芹香にはじきにそれがわかってきた。

 ――面白い、です。

 努力のすえ表現力を身につけるにつれて、曲を通して何か自分なりの表現をすることが
できるようになってきた。
 うれしいときは弾むようなリズム、悲しいときは押し殺したすすり泣きを、芹香の言葉
にかわってピアノが語った。
 音楽はなんでも語ることができる。言葉に表せない感情も、絵に描いて見せることので
きない壮大な光景も。
 芹香はなんでも音楽で語った。魔法の国の不思議な情景、魔女の森の不安げな空気、魔
王の宮殿、なりひびくコウモリの羽音。
 それは芹香が胸にいだいてきたイメージの結晶だった。

 自己の内部に沈潜し、その中の光り輝くものを見たい欲求を、芹香は存分に満たすこと
ができた。
 ピアノを弾くのも、魔法の研究も、目指すところはいっしょなのだ。
 芹香にはじきにそれがわかった。そうすると、なんだかまた楽しくなってきた。

 音楽を使えば、私を表現できるかもしれない。私がどんな人間か、まわりの人にわかっ
てもらえるかもしれない。
 そんなことも考えた。
 でも、それはできなかった。足りないのだ、何かが。

 ピアノはピアノでしかない。それは芹香の気持ちをくみとり、彼女の言葉の代わりとな
って、心の中を音にして空気のなかに溶かしだしてくれる。
 でも、芹香の思ってもいないようなこと、想像してもみなかったような音色を奏でてく
れることはないのだ。芹香の指だけがふれているかぎり、それは芹香の体の一部分でしか
ないのだ。

 仕上げられなかったジグゾーパズル。
 私に足りないピースのひとかけらを、誰か持っていないでしょうか……?

 そんなとき、綾香に会ったのだった。






 生命の火花が散る一瞬。
 ストレッチのように腱が伸びる快感が全身を走りぬける。一定のテンポで、脈打つリズ
ムに合わせ、自分の体をフルに使って空間に一瞬の絵画を描く。
 長い黒髪が一拍遅れて彼女の軌跡をトレースする。
 ぱらりと広がっては、光の中で輝きを放つ。
 綾香はその全存在をもって、一瞬一瞬の刹那のなかに没入していた。



 体を動かすのは好きだった。
 頭を使うのより、多分好きだ。どっちも得意ではあるけれど。

 空手をはじめたのも、あの人に追いつきたいから、あの人に誉めてもらいたいからだっ
た。あの人の微笑みが、やさしい言葉が、頭をなでる手のぬくもりが、私を勇気づけてく
れる。
 あの人は私にはないものを持っている。それは大きな魅力だった。その一端でもいいか
らいつも触れていたくて、綾香は夢中になってあの人との接点を探し、追いつこうと努力
した。

 綾香にとって空手はいくつもある得意分野のうちの一つに過ぎなかった。
 あの人に少しでも近づき、あの人に誉めてもらうため、あの暖かい掌でそっと頭をなで
てもらいたかったから。

 他の子たちは、綾香に負けたあと最高の親友になってくれた。本当に尊敬しあえる友達
になれたのだ。
 あのひとともそんな風にしてもっと近づきたい。お互いがお互いを尊敬できるほんとう
の関係になりたい。それが綾香の思いだった。

 そして、空手であの人を倒したとき、待っていたのは失望だった。
 幼かったからだ、何も知らなかったのだ。綾香は自分にそういい聞かせた。
 幼かったのは自分だったのかあの人だったのか、それは今もってわからない。

 とにかく空手からしばらく離れていたかった。
 行き当りばったりに、近所のバレエスクールに通いはじめた。環境を変えれば気分も変
わるはずだった。

 しかし、そこで行われていたことは綾香を当惑させた。

 バレエには目的がないのだ。
 もっと言えば、倒すべき相手というものがない。
 今まで綾香のしてきたことにはいつも誰かに闘いを挑み、勝つということが含まれてい
た。勉強にしろスポーツにしろ、競い合うことの楽しさと厳しさをつねに肌で感じてきた
のだ。

 しかし、バレエには相手がいない。何かコンクールにでも出ない限りは勝ち負けはない。
 はじめは困惑した。相手がいないんだったら、どこまでやったらいいの?

 バレエスクールの先生はおかしな冗談でも聞いたかのようにくっくっと笑うと、ふいに
真剣に綾香の瞳を見据えた。

「あなたの相手は、あなた自身です。
 自分に恥ずかしくないよう、自分の心に背かないようにおやりなさい」

 今ひとつ理解できないようすの綾香に、先生はにっこりと微笑んでみせた。

「いいですか? バレエは芸術です。ほかの多くの芸術と同じく、バレエもその目的は自
己を表現すること、自分の心を広げ、より深めて、目に見える形にして表すことです。
 もっとも、心全体の広さと比べて、目に見える部分はおどろくほど少ないのですけれ
ど」

 自分の、心。
 考えてみたこともなかった。
 あの人に去られて、さびしかったと思う。でも、それだけだろうか?
 綾香は考えこむことが多くなった。






「………………」
 何だか怖そうです。
 芹香は気の強そうな少女を前に、すっかり怖じ気づいていた。

「うーん、なんだか眠そうな人ねえ。あなたほんとに私の姉さん?」
 綾香は生気のない少女を、腕組みをして飽きれたように眺めていた。

 第一印象はお互いあまりよくなかった。

 なんとか共通の話題を見つけ出そうと、綾香は芹香の部屋に遊びに行ってみた。
 芹香は大きな黒いピアノの前にちょこんとかけていた。今にもピアノに食われそうな感
じだった。

 ――ふうん、ピアノ弾けるんだ。

 綾香は後ろ手を組んでとてとてと近づいた。ピアノの前のいすにかけた芹香はおずおず
と目をそらし、うつむく。
 しばらく待つ。芹香がそっと顔を上げると、綾香の満面の笑顔が待ち構えていた。

「ね、あの曲弾ける? 『舞踏への招待』」

 こくん。

「やったあ!」

 綾香はうれしさに飛び上がった。
 バレエ教室でビデオを見せてもらったことがある。ウェーバーの曲に合わせて踊られる
『薔薇の精』。舞踊の神化、ニジンスキー。
 別のダンサーによる再演ではあっても、その力強い躍動感はひたひたと伝わってきた。
 しかし、男性ダンサーの踊りであることもあって、教室ではいくら頼んでもやらせても
らえなかったのだ。

 思わず芹香の手を取る。
 一瞬びくっと震えたが、すぐに弱々しくも握りかえしてきた。

「あたしあれ好きなんだ。お願いね、姉さん」

 ――姉さん。
 この子からそんなこと言われるなんて。
 芹香は困惑した。顔が赤くなってるのが分かる。でも、いやではない。
 悪い気分じゃ、ない。






 流れるメロディーの中、芹香は思い出の中の綾香と会話していた。

 自分の中のことばかりで、気づかなかった。
 広い世界。いろいろな人たち。誰かとほほえみを交わしあうこと。誰かと競いあうこと。
お互いのきもちを伝えあうこと。
 大事なことを教わりました。
 ありがとう、綾香。






 気持ちいい!!

 何よりもそのことが、踊る綾香の全身を支配していた。
 自分に与えられた力、それをなんにもじゃまされることなく思いっきり吐きだすことが
できるのはなんて気持ちいいんだろう?

 こんな気持ちは久しぶりだった。はじめて会った、はじめて共演したあの時以来だ。

 自信、自分の存在に対する無定量な信頼。綾香は子供のころから自分に与えられたもの
を存分に活かすことに生きがいを見いだしてきた。

 出来ることはなんでもやった。
 そして、なんでも出来たのだ。

 でも何かもっと違う、私にできないこと。
 やっきになって探し求めた。
 それは自分にできない『こと』ではなく、自分にはない『もの』のことなのだ。
 気づくのにそう時間はかからなかった。

 探した。必死になって探した。あの人と出会ったときだってそうだった、私にないもの
を持っているあの人。
 そして、あの人はそれを守るために、私から離れていった――。

 日本に戻ってきて、はじめて芹香と会ったとき、衝撃をかくしきれなかった。何から何
までそっくりなのに、この人はなんにも持っていない。私はなにもかも持っているのに、
この人にはなんにもないんだ。
 もしかしたら、その『なんにもない』というのが自分にできないことなんだろうか?

 しかし、それは間違っていた。

 芹香はたしかに自分のものを持っていた。綾香の持っていないもの、うまく言葉にはで
きないけれど。
 魔法がそうなのかも知れない。全くの空想の産物。取るに足りないおとぎ話だとばかり
思っていた魔法の世界について、芹香は途切れ途切れながらも熱心に話してくれた。

 現実にはない、手にもふれられず、目にもみえず、もしかしたらそんなもの全く存在し
ないのかもしれない、芹香は自分のなかにひとつの大きな世界を持っていた。

 大切なものは、目には見えないものなんだ。
 どこかで聞いた、そんな言葉が心をよぎる。

 綾香の生活。そばにいつも誰かがいて、綾香を羨望と尊敬のまなざしで眺めていた。常
に誰かと競い、勝ったり負けたりを繰り返しながら、ほかの誰かと自分の一部を共有して
いた。
 綾香はそんな生活が気に入っていたし、その中にいるうちは疑問など持ったことはなか
った。
 しかし、帰国して自分一人だけになってみると、まわりの世界と比しても遜色のないく
らい広大な自分の世界、心の中の、自分だけの世界というものを、綾香は持ってはいない
ことに気づいた。
 芹香がそれを教えてくれたのだ。たどたどしい魔法の話を、そしてピアノを通じて伝わ
る芹香の世界。それは色彩に満ちあふれた魅力的なものだった。

 そうか。
 少し照れたように笑った。
 私には、私だけのものがない。とても大事な、私だけの世界が。
 外の方ばかり見ていて気づかなかった。自分のなかにある、大切な光り輝くものに。

 ま、人付き合いは好きな方だからね、これでも。
 オープンな性格を標榜していて、人前で口にできない気持ちなんか持ったことはなかっ
た。でも、それはつまりそう言うものを持っていなかったということなんだ。

 私だけのココロ。私だけの気持ち。
 私の大切なもの。

「さんきゅ、姉さん。いいこと教えてもらったわ」

 はじめての共演の後、スポーツタオルで汗をぬぐって、綾香ははじめて芹香に笑いかけた。
 芹香は不思議そうな顔をして綾香を見返したが、しばらくして、少し笑った。

 綾香が空手の道場に再び通いはじめたのは、それからすぐのことだった。






 自分の心の中、深い森にも似た謎めいた世界。すべてが自分のものでありながら、完全
に理解することも思い通りあやつることもできない。
 でも、悩みや迷いをのりこえて、奥へと分け入って行けば、かならず見つけられるはず。
 自分だけの大切な何かを、光り輝くものを。
 姉さんがそのことを教えてくれたんだよね。
 さんきゅ、姉さん。






 想い出を反芻しながらも、芹香の指はよどみなくその調べを奏でる。

 ピアノを弾いていて思うこと、それは音楽の流れが川の流れに似ているということだ。
 音符の一つ一つはひとしずくの水滴。
 それがふたつみっつと重なるにつれて、しみだし、流れ出し、ときには岩にぶつかって
しぶきを散らす。

 山あいの急流、疾風のように駆け抜ける旋律。激しく上下を繰り返す透明な飛沫。空の
青を写し、清冽な清水の匂いを流し出す。

 ゆるやかなラルゴ、幅のある川、鉛のように重く流れる通奏低音。揺り返すようなリズ
ムが気持ちをやさしい眠りへとみちびき、水の上にたゆたう安心感。

 打ち鳴らすリズムは心臓の鼓動、もっと、もっと早くなればいい、フォルテ、フォルテ、
フォルテ! 響板をゆるがせて響く低音部からかたく冷たい響きの高音部まで上りつめ、
また降りる。

 リズムが心の扉を叩く。もっと上へ、狭い部屋を抜け出して、どこか遠くの空へ、まだ
見たことのない場所へ! ああ、どうして私は空を飛んでいけないんでしょう!?

 手は無意識に鍵盤の上を踊り、その指先の一つ一つが今は彼女のものでありながら、ま
るでそれ自体別の生物であるかのように軽やかに躍動している。弾いているのではなく、
何か大きな力に突き動かされ、引っぱり回されているような焦燥感。でも、悪い気分では
ない。

 それはきっと――。

 芹香は視線の端に舞い踊る綾香の姿を捉える。
 力強く、美しく。
 撓められた発条が一気にそのたくわえられた力を爆発させるように、回り、跳び、誇ら
しく伸び上がる。

 綾香。
 私の妹、そしてもうひとりの私――。

 あなたにあえて、よかった。

 かすかなトレモロが高音部へと向かって背筋を駆け抜ける。
 もっと大きく、もっと軽やかに、心の中に流れるリズムをみんな吐き出してしまうように!
 私の中を流れ過ぎていく旋律、鍵盤の上を細い指が舞い踊る。トーンはうねる波のよう、
激しく上下し、決して一所にとどまらない。
 音楽の中を泳いでいくように、伸び上がり、かがみこむ。
 目前の鍵盤、白と黒のトーンが目まぐるしく交代する。
 もうひとつの魔法、私の指が刻み、きっと流れ出す。

 綾香の腕が、足が、まるで自分のもののように感じる。床をけり、鋭く風を切って、踊る。
 そう、あの時から気づいていた。あの子はもうひとりの自分なのだと。





 まるで全身が楽器のようだ。綾香はしびれるような快感と、背筋をこころよく刺激する
焦燥感に全身をまかせ、たゆたうように自然に躍っていた。
 それでいながら、格闘よりもさらに激しい運動をこなしているのだが、そんなことには
気づきもしない。
 腕の振り、脚の歩みに合わせて流れゆくメロディー、手と脚とで直接弦を打ち鳴らして
いるような、音楽との一体感。
 芹香の指は綾香の体であり、それは鍵盤の上を疾走する影、音楽の水面を泳ぎ渡る銀鱗
の、午後の日差しに照らされた一瞬の輝き――

 彼女たちの時間だった。

 リズムとシンクロする快感。板張りの床から、自分の奏でるリズムが快い反動となって
脚の筋肉に伝わる。トウシューズがぎゅっと床で鳴り、体は宙へと舞い上がる。
 着地。とんっという軽い音とともに全身を快くゆすぶる衝撃が駆け抜けるが、かまって
いるひまはない。一瞬たりとも止まっていられる時間はないのだから。ほら、体はもう次
の動きに行きたがっている。

 格闘技に似ているな、と綾香は思った。
 ああ、そうか、だから私は踊るのが好きなんだ。

 誇りを賭けた闘いのかもし出すぎりぎりの緊張感はそこにはない。
 しかし、生命には一定のリズムがある。その隙をついて攻撃を繰り出し、かつ防御する
格闘技と、そのリズムに完全に身を任せ、上昇気流に乗って空を舞う鳥たちのように体の
おもむくままに舞い踊る舞踏はちょうど正反対の位置にあり、それゆえにとてもよく似て
いた。

 そう、これは音楽の中を飛翔する白い翼。鳥たちのように大気を泳ぎ渡っていくのだ、
行き着くところまで――。

 それに、相手がいないわけじゃない。
 このリズムを刻みだしているのは姉さん。
 もうひとりの私。

 正反対でありながら、とてもよく似ている、そんな関係。





 フィニッシュが近づいている。二人はその腕と、身体と、心にぐっと力を込めた。

 そのしなやかな腕と、驚異的な瞬発力を秘めて伸びあがる足、なだらかな曲線を描く上
体から腰にかけての力強いライン、すべては楽器なのだ。
 空を叩き、風をかき鳴らし、空間のメロディーを奏でる、美しいオブジェ。
 躍動する彫刻、その所作のひとつひとつに、何かはじけ出すようなパワーを秘めている。


 もっと高く、前へ! 前へ!
 もっと遠くへ行けるように!


 最後の一打にむけて、芹香の指が鍵盤を駆け上がる。
 綾香は飛ぶように、すべりゆくように滑らかな身のこなしで、一直線に光のさす方へ、
大きく開かれた窓へ向かう。

 風の吹く方向へ。


 そう、私は閉じこめられたくない。
 この部屋の中、狭い世界、薄暗い空気を離れて、どこかもっと遠くへ。
 力が満ちてくる。
 今なら何でもできる。




 そして……跳躍!




 …………最後の和音が響く。
 白いカーテンの揺らめきが、一瞬のドラマの余韻を残していた。






 芹香は鍵盤の上にがっくりとうなだれていた。
 綾香の姿はない。ラストの大跳躍で窓の外に飛び出したまま姿が見えない。

 浩之は何か圧倒的なものが体の中を通りすぎていったように、身も心もぼんやりとした
状態に置かれていた。

 はっと気づいて、手を打つ。
 破裂するような音が、がらんとした広間に反響する。

 たったひとりの喝采。

 それでも二人の少女たちには十分すぎるほどの報酬だった。

 芹香は夢から覚めたようにゆっくりと顔を上げる。
「………………」
 浩之さん。
 そう、名を呼ぶだけ。
 しかし、そこには他の言葉では伝えることのできない感情が込められていた。

「はぁい! ショーは終了、どうだった?」

 飛び出していった窓からふたたび飛び込んできて、とととっと駆け寄り、すっと手をさ
しあげる。
 大仰に舞台式のお辞儀をしてみせる綾香。指先が優雅な曲線を描いて、床をかすめる。
 カーテンのないカーテンコールは、それでも興奮の余韻を残す。




「もう何年かぶりだからね。でも、意外とうまくいったわ」
 スポーツタオルで汗をぬぐう綾香。汗の雫が光って、落ちる。

 そう、うまくいきましたね。
 無言のうちに芹香が肯定する。その額にも、かすかに汗がにじんでいた。

「すげーよ! 芹香も綾香も! なんか……オレ、何も言えない……」
 浩之は興奮して、言葉につまっている。何か言いたいのだが、言葉に表せないのだ。

 微笑みあう、同じ人を好きになった二人。
 それでも二人はお互いを好きでいられる。たったふたりの姉妹だから。

「あったりまえじゃない」

 綾香は芹香の肩に手を回し、ぐっと引き寄せた。
 頬と頬がふれあう。




「私たち、最高の姉妹だもの。
 ね、姉さん!」

 こくん。




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