言うまでもないが、来栖川邸はとても広い。 表をとおる車の音など、母屋まで届かないくらい広い。 しかもその母屋には、外出しがちな家族のほかに数人の女中、メイドロボ、そして、 かああああああああああああああああああっ!! ……執事一名。 そのため、来栖川邸というのはとても静かだ。廊下で針を落としても部屋の中で聞こえ るほどの静寂。 かああああああああああああああああああっ!! これを除いて。 こうした環境下で育つと、人間も静かになるものらしく。 来栖川芹香嬢はとても静かなお嬢さまだった。 学校から帰って、部屋に落ち着く。 お帰りなさいませ、芹香お嬢さま。声とともに緑色の物陰がゆっくりと上下する。 部屋の物音に気づいてやってきたメイドロボ、HM−12。 芹香専用機として聴力をアップしたカスタムメイド品だ。 綾香が試作品のメイドロボをどういう訳か手に入れて連れて歩いているのを見るうちに、 自分でも欲しくなって、つい衝動買いしてしまった。 いけないことだと思うけれど、買い物としては満足している。 ちょいちょい、と手招き。メイドロボはこくんと一礼して部屋に入る。 テーブルを挟んで向かい合う一人と一体。 廊下に続くぶあつい戸が閉じられると、いよいよ静けさが意識される。 「――…………ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃんんん…………――」 音のない空間ではよけいに音を意識する。かすかに聞こえるひびき、聞こえているのか それとも聞こえているような気がするだけなのか、あんまり音がないものだから、耳の方 がすこしおかしくなってあたかもなにか聞こえているような錯覚を起こしているのか。 のしかかってくるような静けさが、きゅうくつだった。 「――…………ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃんんん…………――」 超音波のような音が耳障りだ。 メイドロボの駆動音でしょうか? 芹香は思う。 それとも、耳鳴りかもしれない。両手で耳をふさぐと、手のひらが耳たぶに触れるさら さらという音がこもって聞こえる。 ――音がします。 すこし、ふしぎ。 ちょっと退屈してきた。 芹香は床にぺたんと腰かけたままずるずると移動して、メイドロボの顔をじーっと見る。 普通の人間ならたじろいでしまうところだが、メイドロボは腰が引けたりもせず、黙っ て芹香を見返している。 こんな時、買ってよかった、と思う。いつまでも好きなだけ顔を眺めさせてくれる人と いうのはいそうでいて案外いない。 綾香のセリオとは違って、さらさらした緑色の短髪に、いかにも子供子供した丸顔と、 くりくりと大きく開いた目がかわいらしい。 瞳にこれっぽっちも感情がないところが、何だかものに驚いてきょとんとしているよう だ。鳩が豆鉄砲を食らったような感じ。 何度見てもマルチさんにそっくり。 芹香は少し笑った。表情に出ないその笑いは、誰にも気づかれない。 ゆっくり手を伸ばす。 このメイドロボのメカっぽいところ(耳カバー)と餅っぽいところ(おもに、ほっぺ) に分けられた顔の、餅っぽいところをゆびさきでふにふにするのが芹香は大好きである。 もしもし、いいですか。 呼びかける声は、強化された聴力でも拾えないほど小さい。 しろいゆびさきをそうっとのばして――。 「ふに」 「ふに」 「ふにに」 にま〜〜〜〜〜〜。 今度ははっきりそれとわかる程度に、笑った。 ……買ってよかった。つくづくそう思った。 しあわせ……。 「ふに」 HM−12は、つつかれるたびに押されて微妙に首をかたむける。 なおも行為に没頭する、芹香。 「ふに」 ………………。(ひたっている) 「ふに」 ………………。(まだひたっている) 「ふにに」 ……………………。(すこし飽きてきたらしい) ふと、いいことを思いつく。 はたと手を打つが、手の動きがゆっくりすぎてぱちりとも音が聞こえることはない。 左手の人差し指と親指をこんにちわさせる。 ほら、わっかが出来ました。 それをHM−12のほっぺの頂点、頬骨のあるあたりにあてて――。 おだんご。 うっとり……。 名案。 きっとノーベルほっぺ学賞候補になれる。そういうのがあれば。 HM−12はあいかわらずされるがままだ。 はじめのうちこそなぜこんなことをするのか尋ねていたが、答えが聞こえなかったので なすがままにまかせる事にしたらしい。 しかし、と芹香は思うのだった。 このおだんごをふにふにしたら、一体どんなことに? いや、それはよくない。一線を越えてしまいそうな気がする。 でも。 芹香は顕微鏡でものぞき込むかのように指で区切られたほっぺに見入る。 つやつやとしたきめ細かなお肌。 赤ちゃんみたいに、うすく赤みがさしている。 あ、産毛。 よく出来てる……。 ――つついて。 !? おだんごに話しかけられた。 ――つついてね、芹香ちゃん。 でもでも、と芹香はまだ躊躇気味だ。ノーマルモードのほっぺをふにふにするだけでも かなりのものなのに、こんな状態のおだんごをふにふにしたら一体どんなことになってし まうのだろう。 『やらずに後悔するよりも、やって後悔するほうがいいのよ、姉さん!』(きらーん☆) 勇気が出た。 ありがとう、心の綾香。 こんなとき、芹香はいつも『心の綾香』にうかがいを立てる。 すこしコワイので、本物には聞かない。 さあ芹香、勇気を出して……。 「ふに」 ……………………じ〜〜〜〜ん。 はじめて南極に立った人と、いまの芹香、きっと同じ気持ち。 ――かあああああああああああ………… かすかに聞こえる、セバスチャンの気合。 誰か来客かも知れない。 藤田さん――? いいえ、まさか。 芹香はこの部屋に誰も入ってこられないだろうことを承知していた。浩之でさえも。 ――ごめんなさい。 ふにふにタイムもひと心地ついて、芹香はHM−12が買って来てくれたお菓子を広げる。 アンズ棒、野球スナック、ソースせんべい。 一緒にひいてきてもらった点取り占いさまは、目下芹香一番のお気に入りだ。 数が集まり次第、魔道書や古文書といっしょにファイルして保存する予定。 初めてこうしたものを買おうとしたのはいつのことだったか。たしかまだ小さいころ。 「っかああああああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!! お嬢さま! このような下賎の駄菓子など口にしてはなりません! 合成着色料やら合 成甘味料やら合成保存料やらで、みるみる体が溶けますぞ!!」 はじめての時は、そうやってセバスチャンに止められた。 むー。 芹香おかんむり。 これからはかわいくちゃん付けで呼んであげません。 あなたなんか、セバス。 もっとも、これは半日と持たなかった。 そのかわり、その呼び方をいたく気に入った綾香が自分も使いはじめて今日に至っている。 昔話はとにかく、まずはお菓子です。 芹香はアンズ棒の袋をやぶいた。 「ぴりぴり……」 普通に生活していれば雑音にまぎれてしまって耳にすることのない、ビニールの破れる音。 でも芹香はいつも聞いている。 開けてびっくり。 あ、あたり。 おめでとうございます、お嬢さま。 祝ってくれているのだろうか、HM−12が芹香の横に控えて両手をひらひらさせた。 それにしても。 セバスチャンに内緒でお菓子を買ったうえ、あたりくじまで引き当ててしまうなんて。 もしかして、不良? ツッパリ? そう。ツッパリなのかもしれない。 前からうすうす感じていた。他の女の子たちよりもスカート長いし。 長いスカートは不良のしるし。 芹香はスケバンという言葉を知らなかった。 たしか二年生に保科さんという女の子がいたけど、あの人もわたしと同じくらい長いス カートをはいていた。 あのひともきっと、ツッパリ。 お友達になれるかもしれません。芹香はそう思った。 でも。ふと心に影が差す。 「来栖川は他の子と違って、校則のスカート丈を守っていてえらいなあ」 先生にこう言われたこともあった。 ツッパリなのに。 大人は分かってくれない。 落ち着いたところで、ふにふに再開といきたい。 でも、すこし飽きました。 どうしたものかー。 『姉さん! 『押してだめなら引いてみろ』よ!!』(ちゃきーーーん♪) 心の綾香が背中を押す。 さんきゅ、綾香インマイハート。 浩之の口調を真似てみたりもする。 ――さっきのはほんとうに藤田さんでしょうか? まあ、それはそれとして。 狩猟の時間だ。 何にも知らずぼんやりしている、HM−12。 これからどんな恐怖が自分を襲うかも知らずに――。 芹香は背徳的な快感が背中を走りぬけるのを感じた。 HM−12のほっぺ。そのユーザーのみに許された、至福のもちもちスポット。 芹香の魔の手が伸びる。 いま、すこしだけ、悪い魔女のおばあさんの気分。 すっ…… 「むに」 つまむ。 そして。 「みょーん」 引く。 「うにーーーん」 さらに引く。 「にょみょーーーーーーーん」 もっと引く。 ――芹香ひゃま、これ以上の牽引は、皮膚コーティングを損傷するおひょれがありまひゅ。 律儀にもしゃべろうとするHM−12。 ごめんなさい。 手を離した。 「しぺっ」 あ、元通り。 本当によく出来てる……。感心する芹香。 いっそのこと、『あれ』を試してみましょうか。 きのう寝る前に思いついた、比類なきほっぺワザ。 いいのかしら。芹香は躊躇した。 この扉を開けてしまえばもう後には引き返せない。そんな気がする。 『姉さん、いっとけ?…………』 心の綾香が、ぽんと肩に手をおく。 『……せっかくだから!!』(親指ぐっ&笑顔ストライク) ありがとう、心の綾香。 深く息を吸い、吐く。 ごめんなさい。芹香は今日、鬼になります。 HM−12のほっぺに、両手を伸ばす。 「むゅ」 指先をそろえたまま、両手ではさみこんだ。 あ、おもしろい顔。 でもこれからが本番。 両手に静かに『気』を込めて――。 たってたって(はさんだまま上下ぐにぐに) よっこよっこ(同じく左右むにむに) まーるかいて(両手で円を描くように) ちょんっ(両手を一気にふりおろす) …………扉を、開けてしまった。 HM−12はまだショックからさめやらぬ様子で、ほっぺに手をあてがって、もの思わ しげにうつむいている。 恐怖のほっぺワザ、名づけて、 『たてたてよこよこまるかいてちょん』。 芹香は自分の行為におののいていた。 ――なんておそろしいワザでしょうか。 もしかしたら、このワザでエクストリームに出られるかもしれない。 でも、いまはやめておきましょう。芹香はふるふると首を振った。 綾香からチャンピオンの座を奪ってしまうのは、ちょっとかわいそう。 他にとりえのない子だし……。 わたしには、いまの暮らしが合っています。 だから、いまはまだこのままで。 そして、芹香の今日の決意は――。 ――明日は、メカっぽいところにチャレンジ。 ------------おまけ-------------- 「正門前で誰か大騒ぎしてると思ったら浩之だったのねえ……全く懲りないんだから。セ バスが入れてくれるとでも思ってるのかしら? まあ、そんなところがアイツらしいんだけどね」 綾香は足を止めた。 目の前に立ちふさがるHM−12。 芹香のメイドロボ。 「どうしたのよあんた。姉さんは?」 HM−12は返事もせず、両手をみずからの頬にあてがうと―― 「むゅ」 綾香はくるりと回れ右して立ち去ろうとした。 世の中関わりあいにならないほうがいいこともある。 「――綾香さま」 振りかえるとそこには、オレンジ色の流れる長髪と、涼しげなまなざし。 HMX−13セリオ。 「あ、いいとこに来たわね。なんだか姉さんのメイドロボ……」 言い終わらぬうちに、 「むゅ」 「……セリオ……? あんたまでいったい――」 はっ。 綾香の鍛え上げられた動物的直感が危険を察知する。 逃げなきゃ! 振りかえる綾香のすぐ背後にせまるHM−12。 もちろん、 「むゅ」 「ひっ、セ、セリオぉ……なんとかして……」 「むゅ」 「ひいぃぃ!?」 じりじりと迫りくるロボ軍団。 「むゅ」 「あ、あ、……きゃあああああああーーーーーーーー!!」 「むゅ」http://plaza15.mbn.or.jp/~JTPD/