智子の初体験 投稿者:takataka
 編みなれた三つ編みをほどく。意外なほど豊かなロングヘアがパラリとほどかれ、網目
のあとに軽くウェーブがついて、ちょうどソバージュのように見える。
 三つ編みのひそかな楽しみである。
 彼女の全身を覆うのは白いワンピースだった。
 シンプルなデザインではあるが要所要所にレースが用いられ、清純さとある種の清涼感
をかもし出している。
 裾はふわっと広がってフレアスカートのように見える。
 こんなとき思うのは、胸はもう少し小さい方がいいということだった。そっちの方が可
憐に見えると思う。
 それはまるで涼しげな風の吹く夏の高原で、一夏のあいだだけめぐりあい、それから二
度と会うことの出来ない幻の少女――そんな風情を演出していた。


 たとえばそれは一面の花畑(イメージ映像・布引ハーブ園)。

 風に揺れる幾重もの花びらの波の中、あふれる色彩のまぶしさにふいに目を細める。

「きれいな花は、あんまり好きやあらへん」

 ものうい影がそのおもざしをすべりぬけて、視線とともに胸元に合わされた手に宿る。

「だっていつかは散ってしまうんやもの。
 その短い命のことを思うと、なんだか悲しくなるんや」

 ほんの少しきれいに咲いて、散っていく花。
 散ってしまったあとには誰も見向きもせず……。

「いつか、そんなふうに独りぼっちになってしまうんかな。
 わたしもきっと、そんなふうに」

 きゅっと握りしめるゆびさきを、温かい手のひらが包み込む。
 つたわる鼓動、あたたかい命の息吹。

「なに言ってるんだよ……オレがいるじゃねーか。
 オレは委員長を一人になんかしない――悲しい思いなんか、させない」

「藤田くん……」

 智子は潤んだ目を見られまいと視線をそらした――そらそうと、した。
 でも、目の前にいるひとの真剣なまなざしからは、どうしても目がそらせなくて。
 顔が近づくその一瞬だけ、しずかに瞼を閉じる。
 この一瞬を、永遠に忘れないように――。



「よっしゃあああああ! イメージトレーニング略してイメトレ、終了っ!」
 妄想ともいう。

 クールな外見のうちに燃えるスピリッツを秘めた女保科智子。
 週末に控えた藤田浩之とのデートに向けて目下自己改造計画推進中だった。
「なんにせよあれや、今まで藤田くんには邪険にしすぎとったからな。今までの分のお詫
びも含めて、藤田くんの前ではかわいい女の子でいたいんや。
 そのためにもっ」

 キッとベッドに目をやる。
 純白のワンピース、いまいち使いづらい籐のバスケット、端っこからほぐれて来そうで
不安な麦藁帽子などなど、週末のために取りそろえた品の数々が鎮座していた。

「よっしゃ、カンペキや」

 満足げにうなづく。
 しかし、ややあって、その顔に影が差す。

「ただひとつを除いてはな……」

 テーブルの上に置かれた、しろいプラスチックケース。
 それはちょうどマヨネーズの蓋をふたつ横に並べて繋ぎ合わせたような格好をしている。
傍らには洗浄液のボトル。
 コンタクトレンズである。

「いや、いくらなんでも高原の一夏のサナトリウム文学ふうな雰囲気演出しようって時に
眼鏡はちがうやろ!
 もっとこう、潤みがちな目元を大胆にアピールしてこそ今年の夏は頂きなんとちゃうや
ろーかっ」
 うんうん、と自分で自分にうなづいて見せる。

「さ、じゃあはめようかなー!」
 誰が聞いているわけでもないのに大声。
 しいて自分に気合を入れているのだとは、彼女自身も気づいたのか気づかないのか。
 キャップをひねる。保護液の中にひたされたごく小さなレンズが二枚。
 智子はなんとなく『魚のうろこみたいやな……』と思った。
「まあこんなんアレやで! もうぜーんぜんなんてことあらへん! もともと目に入れる
ためのもんやないかい。それを目に入れんでどないするっちゅーねん」

 だがしかし。
 智子の脳裏には不安がよぎっていた。
 ほんの小さなプラスチックのレンズ。
 しかし、それはともかくも目に入れなければならないものなのだ。
 このさい小ささは慰めにならない。単なるごみだって、どんなに小さくても目に入れば
かなり痛いのだから。
 それだけではない。聞いた話によればコンタクトは長時間つけていると角膜に傷がつい
てしまうという。
 そこからばい菌が入って眼病の元になる。
 ついには失明することもないではない。
 まさに人類が生み出した諸刃の剣。それがコンタクトレンズなのだ。

 智子は容器からレンズを取り出し、指に乗せたまま固まっていた。
「さあ! では! いざ!」
 レンズを乗せた人差し指を目に近づける。
 高鳴る鼓動。
 背中を汗がつたう。
 いま智子の視界にあるのはレンズと指。それ以外の様子は遠く背景の一部となっている。
 レンズはぐぐっと近づく。そしてそのまま眼球へ――。

 ぺたん。

「だああああああ! まぶたに貼りつけてどうすんねん! 目ぇあけな!」
 いつしか目を閉じていた。

 気を取り直して再チャレンジ。
「どりゃあああああああ」
 ぺたん。
「たりゃあああああああ」
 ぺたん。
「もいっちょおおおおお」
 ぺたん。

「やっとる場合かああああ!」
 智子、キレる。

「びびったんちゃうからなー! お前なんぞこわないわ!」
 びしっと指をつきつける。
 とりあえず精神的優位だけは確保しておきたかった。
「大体アレやで、こんな鋭利なガラス玉を眼球にえぐりこむなんて、なんちゅう野蛮でえ
げつないシロモン思いついたんや! こんなん絶対東京もんの発明や! 違いあらへん!」

 とりあえず都合の悪いことは東京もんの仕業。
 この辺なんでもゴルゴムの仕業な仮面ライダーブラックあたりと同列だ。


 そして、コンタクトレンズ一式を前に腕組みして考え込む智子。
 額に流れる汗ひとすじ。
 その目の表情は、眼鏡のレンズの乱反射でうかがい知ることは出来ない。

「ま、はじめてのときはなんにしろ痛いもんやしな……」
 浩之とのはじめての夜を思い出し、一人で赤面。

 ぽんっ
「そや、縛ってみたらどやろ」

 やってみた。
 机の上にコンタクトレンズ。
 両手がんじがらめ。
 で、誰がレンズをはめるのか。

「うっがああああああああ!!」

 拘束状態で大暴れ。
 やる前に気づくべきだった。
「きょ、今日のところはこのくらいにしといたるわ!」
 またしてもびしっと指をつきつける。
 よし、精神的優位を確保した、と思いながらもどこか敗北感を拭い去れない智子だった。



 そしてつらい日々が続いた。

「うりゃあああっ」
 ぶんっ。
 自分に気合を入れるため、眼鏡をその辺に放り投げて裸眼で生活してみる。

 すっ
 その眼鏡は芹香が拾った。
「…………」
 すちゃっ(装着)
 ふら〜〜〜〜
 がんっっ(柱に激突)

 その後、眼鏡は無事志保によって回収されたのだった。


 そして、プールの目洗い蛇口で洗眼。
「……いくで」
 きゅっ。
 蛇口全開!
 じょわーっ
「っっっっっっだー! 目が! 私の目がー!」

 世界ではじめてコンタクトレンズ入れた人と、世界ではじめてナマコ食った人はどちら
が根性あったのだろうか。
 智子は塩素のしみる目を押さえて、ふとそんなことを思った。



 だが、荒行のかいあって。

「藤田くん?」

 浩之は目をまん丸にしてこちらを見ている。
 目の前のどこか現実感を感じさせないような少女に見とれているのだ。
 かすかな風にあおられ、ふわりと広がるウェーブのかかったロング。
 清楚な白さが目にまぶしく、まるで妖精の衣のような純白のワンピースをまとい、去年
の夏の匂いをまとわせた麦藁帽子が、整ったおもざしに微妙な陰影を与えている。

 そして、浩之を見上げる潤みがちな瞳。
 無粋なガラス板を通さずに直接見つめる瞳の色は、高原に咲く一輪の花のようにひそや
かに輝いている。

 コンタクトが痛くて涙が止まらないのは秘密だ。

「ふふふ、驚いてる驚いてる」

 口元に手をやって、くすくすと笑う。
 浩之の前でこんな姿を見せるのは初めてだから。

「お前……」

 ふるえる指先。智子はそれを期待をこめて見守り――。


「だれ?」


 かちん。

「だれってなんじゃああああああああああああああああああ!!!!」