記憶(8) 投稿者:R/D 投稿日:1月10日(水)23時44分
 桜の花が舞っています。
 春を迎えたこの街の、小さな公園の中で。
 ひらひら、ひらひら。
 わたしは芝生に腰を下ろし、ゆっくりと花びらを見上げます。
 わたしの膝を枕に横たわる人の顔に花びらが落ちないよう。
 安らかに休むこの人の眠りを妨げないよう。
 ひらひら、ひらひら。
 桜の花が地面に零れ落ちます。
 その横に、懐かしい人が立っています。
 昔々、とても昔に出会った人が。
 その人はこちらを見ます。
 わたしの膝の上で眠る人を見ます。
 そして、静かな表情で、ゆっくりと口を開き…



「僕は今、仕事の関係で来栖川と色々付き合いがあってね」

 佐藤はそう言うと公園の芝生に座り込んだメイドロボを見る。メイドロボの膝の上には先ほど
から気を失ったままの藤田浩之が横たわっている。メイドロボは視線を藤田に据えている。慈し
みに満ちた表情で藤田を見ている。まるで幼子を見る聖母のように。

「今回は来栖川の方から頼まれたんだ。手伝って欲しいってね。来栖川電工製のメイドロボを連
れて逃げ回っている者がいる。どうやら貴方の知り合いらしいから、何とか説得してもらえない
かって。確かに彼は僕の知り合いだ。だからこうやって来た」
「…………」
「君は知っているかどうか分からないが、君のそのボディは間違いなく来栖川電工の所有物だ。
来栖川は自らの所有物を取り返そうとしただけだと主張している。もっとも…」

 佐藤は顎で少し離れた場所にたむろしている二人のサングラスの男を指し示す。

「…あんな怪しげな格好の連中を回収係に任命したのはいただけないけどね。あれじゃ誰でも逃
げだしたくなる。同じ回収をするなら、もっと人あたりのいいヤツを使うべきだ。まあ、大企業
で組織も官僚化しているようだから、その辺りの判断力が鈍っているんだろうけど」
「…………」
「それにしても、理は向こうにあるのは間違いない。なにしろ君はどう考えても浩之の持ち物で
はない。他人の物を勝手に拾得するのは犯罪だからね」
「…わたしを」
「ん?」
「わたしを、来栖川に引き渡すんですか」

 メイドロボは俯いたまま呟くように話す。佐藤は黙ってその姿を見下ろす。緑の髪のロボット
はとても小さく見える。

「そうするのが筋だね」
「嫌です」
「え?」
「嫌です。絶対に嫌です。わたしは、わたしは絶対に嫌ですっ」

 メイドロボが顔を上げる。唇を噛み締め、佐藤の目を正面から睨み返す。

「ずっと、ずっと夢を見てきました。浩之さんと一緒にいられる夢を。いつまでも浩之さんのお
傍でお世話していられる夢を」
「…マルチ」
「やっとかなったんです。わたしの夢が、本当は一週間しか生きられなかった筈のわたしが抱い
た夢が、やっと」
「マルチ」
「もう嫌です。もうお別れするのは嫌なんです。わたしはずっと浩之さんといます。いつまでも
浩之さんのお傍に。何があっても、どんなことがあっても。もう戻りません。来栖川には帰りま
せん。わたしはずっと、ずっと」
「マルチっ」

 佐藤が上げた大声にロボットが身体を竦める。沈黙。佐藤は苦い口調で会話を再開する。

「…もう気づいているんだろう?」
「…………」
「僕を見た時に分かった筈だ。僕の姿を見た時に。あれから、君が僕らの学校へ試験運用にやっ
て来たあの時から長い年月が過ぎ去っていることに」
「…………」
「あの時、君が出会った浩之は、今では僕と同じように年を取っている筈だ。四十歳くらいにな
っているのが当然だろう。しかしそこにいる男は違う。そこにいるのは、君の膝の上に横たわっ
ている男はまだ二十歳程度だ。明らかにおかしい。矛盾している。そう思うだろう」

 マルチが唇を噛む。強く、きつく噛み締める。佐藤はそれを見下ろしながら言葉を続ける。

「そうだ。彼は君の知っている浩之じゃない。そこにいるのは、実は君の知らない人間。赤の他
人だ」
「違いますっ」

 マルチは大声を上げる。桜の花がマルチの周囲を舞う。まるでマルチと藤田を何かから守ろう
とするかのように。舞い踊る桜の中で、マルチが叫ぶ。

「違います。ここにいるのはあの浩之さんですっ。わたしの知っているあの浩之さんですっ。間
違いありません、本当ですっ。この人が、この人があの」
「別人だ。証拠を挙げようか? 彼はきっと、君に出会ったことなどないと言った筈だ。そんな
ことは記憶にないと。そして事実、彼は生まれてからこれまで、君に出会ったことはない」
「違いますっ」
「彼の高校時代の話を聞いたかい。彼の友人たちの話を。そこには佐藤雅史というヤツはいなか
っただろう。長岡志保という名前もなかった筈さ。当然だ。そんな友人は存在しなかったんだか
ら」
「違いますっ」
「家族関係も変だったんじゃないのかい。彼はこう言ったんじゃないかな。自分は母子家庭で育
てられた。母親が女手一つで自分をここまでにしてくれた。おかしいじゃないか。僕の高校時代
の友人である藤田浩之にはちゃんと両親がいた。君が試験運用期間の時に出会った男は、母子家
庭の育ちじゃない」
「違います違います違いますっ」
「もっと決定的なことを言おう。彼の子供のころの話の中に、メイドロボが登場したことがある
だろう。おかしいよな。僕らが子供のころにはまだメイドロボはいなかった。メイドロボが急速
に普及するようになったのは、確か高校に上がる少し前だ。なのに、彼の周囲には幼稚園のころ
からメイドロボが当たり前のようにいた」
「違います…違う、絶対に…」

 マルチの声が涙で滲む。佐藤はポケットに両手を突っ込み、メイドロボを見下ろす。微かに風
が吹き、再び桜の花を舞い散らせる。公園の中に植えられた数多くの染井吉野が、マルチの思い
出の桜と重なる。桜の下で聞いたあの唄と。
 マルチは顔を上げた。佐藤に向かって挑むように決然と話す。

「…やっぱり、貴方の言うことは違います。この人は、あの浩之さんです」
「別人だよ」
「いえ。証拠があります」
「証拠?」
「そうです、DNA指紋という証拠が。わたしの中に残っている浩之さんのDNA指紋と、今こ
こにいる浩之さんとのDNA指紋は一致しています」
「…………」
「だから、だから間違いないんです。この人はあの浩之さんです。わたしが試験運用に行った時
に出会った、わたしの一番大切な人なんです」

 しばらく黙ってマルチを見ていた佐藤は、大きくため息をついた。

「…そんなことまで調べたのか」
「ええ。だから」
「何てことをしてくれたんだ」
「…え?」
「僕の口から説明するつもりだった。彼ももう二十歳だから、誰かが言わなくちゃいけない。本
当は彼女が、彼の母親が言うべきだったんだろうけど」
「あ、あの」

 佐藤は顔を上げてマルチを見た。その目は冷え切っていた。

「君は間違っている」
「…………」
「その男は君の知る藤田浩之ではない」
「でも」
「外見や声がどれほど似てようと、DNA指紋が一致しようと、それでも別人だ」
「そんなっ。そんなことはあり得ません。どうしてそんなことが」
「あるんだよ。なぜなら」

 佐藤が顔を強張らせ、低い声を喉の奥から押し出す。

「なぜなら、彼はクローンだからだ」



 舞い踊る桜の花。微かな埃と一緒に空中を揺らめく薄紅色の小さな欠片。マルチの視界を何か
が揺らめかせる。遊弋する視界の彼方に立つ男が、理解できない言葉を紡ぐ。

「今から二十年前のことだ」

 男の表情が歪んでいる。その歪んだ口が動く。

「浩之は事故に遭った。酷い交通事故だったよ。ほとんど即死だったらしい」

 男の言葉がマルチの音声認識プログラムによって翻訳される。即死。死んだ。浩之は二十年前
に死んだ。

「病院に最初に駆けつけたのは彼女、神岸あかりだった。彼女は医者に何とかして浩之を助けて
欲しいと頼み込んだそうだ。でもそれは無理だった。当時の医療技術では死にかけた人間を生き
返らせるのは不可能だった」

 神岸あかり。あの人の最も親しい友人。とても優しい女性。

「その病院に、一人野心的な医者がいた。医者は彼女に対して、ある話を持ちかけたんだ。まる
で魂を代償に力を与えようと囁く悪魔のように。浩之を生かす方法がある。貴方が協力してくれ
れば、彼を復活させるすべが。彼女はそれに応じた。そして、準備が始まった」

 ――…レシピエントは
 ――準備できてます
 ――ICSIを使う。そっちの用意は
 ――Gゼロ期に入っています。いつでも
 ――よし。始めよう

「クローンの作り方を知っているかい? 完全に成熟した体細胞のDNAを元にクローンを作る
のは、哺乳類の場合は困難だとずっと思われていた。けど、やがてこの困難は乗り越えられた。
20世紀末には動物実験が成功したんだ。理論的には人間のクローンも可能になった」

 クローン。短い言葉が耳を打つ。

「まず、オリジナルとなる生物の体細胞からDNAを含む核を採取する。これがクローンの元に
なるんだ。次に必要なのは核を抜いた未受精卵の細胞質。先に採取した核をこの未受精卵の中に
入れる。その際には卵細胞質内精子注入法(ICSI)という技術が使われることもあるそうだ
よ。オリジナルの細胞がGゼロ期と呼ばれる休眠状態にある時なら、さらに成功の確率は高くな
るんだ」

 何を言っているのだろう。この歪んだ男はいったい何を。

「この細胞は細胞質こそ未受精卵由来のものだが、核の中にはオリジナルと同じDNAが入って
いる。こうして融合した細胞を代理母の胎内で受胎させれば、細胞は通常のように分裂を始め、
やがて一個の生命になっていく。この生命のDNAはオリジナルと全く同じだ。そう、浩之の体
細胞から作ったクローンは、浩之とまったく同じDNAを持つんだ」

 あの人と同じ。あの人は言ってくれた。お帰り、マルチって。

「クローンをつくる際に使われたのは神岸あかりの卵子だった。彼女の未受精卵の細胞質と、浩
之の体細胞から取った核を組み合わせ、彼女の胎内で育ってやがて生まれたのが、今君の膝の上
にいる彼だ」

 浩之さんが笑う。優しそうな顔で。そして。

「彼女は自分の苗字を変え、生まれた子供には浩之という名前をつけた。子供は私生児として役
所に届けられた。この子供には父親がいなかったから。いや、遺伝子的に言えば彼は神岸あかり
の子供ですらない。彼女との血のつながりは存在しない。だが、彼は藤田浩之の単純なコピーで
もない」

 マルチの目から零れ落ちた雫があの人の頬に落ちる。あの人は静かに眠り続けている。

「君の言う通り、彼のDNAと君がかつて出会った浩之のDNAは同じだ。しかし、DNAが同
じであっても、彼らは別の人間なんだ。一卵性双生児は同じDNAを持っている。でも彼らをコ
ピー人間だと思うヤツなど存在しない。当たり前だ。彼らはあくまで独立した人格を持つ、確固
とした一人の人間なんだから」

 次々と落ちる雫。誰かの声が頭の上から降り続ける。それに合わせるように桜の花が。

「ここにいるのは君が知っている浩之の、言わば歳の離れた双子の弟だ。そう、それは君の浩之
じゃない。君が自分のものにしていい人じゃない」

 桜の花が舞う。マルチの周囲を踊る。顔を上げると歪んだ男が悲しそうな顔で宣言した。

「彼は、君のご主人様じゃない」



 緑の髪のメイドロボは涙を流している。その周囲で回る桜の花が、佐藤の言葉に合わせるよう
に踊る。佐藤は近くに立つ染井吉野に近づき、その幹に手を当てる。

「クローンは自然界では珍しいものじゃない。この桜の木だってそうだ」
「…………」
「染井吉野は幕末に江戸郊外の染井村の園芸家が開発した品種だ。オオシマザクラとエドヒガン
を接ぎ木して作った雑種なんだ。その美しい散り際から多くの日本人に愛され、結果として挿し
木によって全国へ広がった」
「…………」
「挿し木。つまり、元になった樹木の枝を地面に挿してそこから新しい樹木を育てる方法だ。こ
の場合もオリジナルと新しい木のDNAは変わらない。つまり、クローンだ。全国各地に存在す
る染井吉野はほとんどオリジナルから作られたクローンなんだ」
「…………」
「だが、ここに立つ染井吉野と、向こうに立っている染井吉野は、やはり別物だ。同じDNAを
持っていても、この木とあの木とはそれぞれ独立した生命だ。いずれもこの世界の中で必死にな
って生き延びようとしている存在だ」
「…………」
「そこに横たわる浩之もやはり一個の人間だ。独自の記憶を持ち、独自の人生を生きてきた存在
だ。彼は他の誰でもない、自分自身の生を過ごしてきたんだ。だが、君はそれを否定した」
「…………」
「そう、君はそれを否定した。目の前にいる人間をそのまま見ようとせず、そこに別の人間を重
ねて見た。彼に別人の過去を当てはめ、彼を他人と同じものとして扱った。君は生まれて二十年
生きてきた一人の人間を、全面的に否定してしまった。本当の彼を葬ろうとした」

 マルチが呆然と佐藤を見る。その顔からは表情が全てそぎ落とされている。

「もちろん、我々にも責められるべき部分があるだろう。野心のままにクローン手術を行った医
者も、その過去を息子に説明することなくこの世を去った神岸あかりも。僕自身もそうだ。あか
りちゃんから相談を受けていたのだから、早めに彼に事実を説明するべきだったんだろう」

 マルチの視線が遠くへ向けられる。舞い散る桜を越え、その先の空へ。

「もっと早く教えておけば良かった。こんなことになると分かっていたら。二十年前、浩之が事
故に遭ったとき、あいつは来栖川電工に行こうとしていたんだ。来栖川へ行って、高校時代に試
験運用でやってきていたメイドロボの後継機を買おうとしていたんだ」

 空は青く、朧に輝く。春の陽が世界を照らす。

「来栖川も試験機のデータを残していた。多分、浩之にデータを渡そうとしたんだろう。彼が事
故死したため、保存していたデータは宙に浮いた。まさかそのデータが何かの間違いで新しいメ
イドロボのボディに入力されるなんて。そのメイドロボが来栖川の工場から逃げ出すなんて。そ
のうえ、神岸あかりの息子がそのメイドロボに出会ってしまうなんて」

 遠く彼方から、美しい唄が聞こえてくる。

「君さえいなければこんなことにはならなかった。浩之は、そこに横たわっている浩之は、いず
れ自分の過去ときちんと向き合うことができた筈なんだ。なのに君はそれを邪魔した。実在の人
間ではなく、データに残された人間だけを見た。彼をここまで追いつめた。君さえいなければ」

 ワタシサエ イナケレバ

「…君が目覚めなければ、学校へ行かなければ、そこで彼に会わなければ。君が浩之を求めて彼
を否定しなければ、こんなことには…」

 そして、あの唄が

「恨むべきは君ではなく、君のデータを残した来栖川の開発担当者なのかもしれない。だが、そ
れでも。それでも君さえ…」
「――めもりーヲ、初期化シマス」

 微かな音が聞こえた。



 仰げば 尊し 我が師の恩
 教の庭にも はや 幾歳
 思えば いと疾し この年月
 今こそ 別れめ いざさらば



 浩之は夢を見ていた。高校時代の夢だった。
 彼の前にマルチがいた。マルチは楽しそうに笑いながら掃除をしていた。
 モップを持ち、廊下を必死に磨いているマルチを見ながら、浩之も笑った。
 なんだ、やっぱりそうだったんだ。
 俺が忘れていただけじゃないか。
 そうさ、俺は出会っていたんだ。ちゃんと同じ時を過ごしたんだ。
 マルチと。



 互いに睦みし 日頃の恩
 別るる後にも やよ 忘るな
 身を立て 名を挙げ やよ 励めよ
 今こそ 別れめ いざさらば



 唄が聞こえる。桜の花がひらひらと舞い落ちる。
 今日はマルチの卒業式だ。たった二人きりの。
 マルチは泣いている。泣き虫なんだなお前は。
 でも、その気持ちは分かるさ。これが最後だなんて耐えられないよな。
 なあ、最後に俺の家に来てくれないか。
 俺はお前を離したくない。ずっと抱き締めていたいんだ。
 マルチ。



 朝夕 慣れにし 学びの窓
 蛍の灯火 積む白雪
 忘るる 間ぞ無き 行く年月
 今こそ 別れめ いざさらば



 桜が舞う。
 マルチの瞳に涙が溢れる。
 マルチが駆けてくる。
 浩之は両手を広げる。
 遠くからあの唄が聞こえる。
 マルチのために歌った唄が。
 マルチと一緒に歌った唄が。

 そして、あの唄が



 聴こえて来るのはあの唄 遠い日覚えたあの唄
 聴こえて来るのはあの唄 お前は口づさみ歩く
                    ――「SUPER STAR?」じゃがたら

                                       完


http://www1-1.kcn.ne.jp/%7Etypezero/rdindex.html