記憶(7) 投稿者:R/D 投稿日:1月9日(火)22時29分
 夜汽車なんて言葉は古い映画の中にしか残っていない。現実に夜間、線路の上を走り抜ける車
両は、疲れ切ったサラリーマンを乗せている通勤電車か、鉄道会社が採算より見栄えを重視して
動かしている寝台列車くらいのものだ。中には運行ダイヤの片隅に何かの間違いで残ってしまっ
たものもあるだろう。今乗っている電車のように。
 包丁は途中で捨ててきた。あんなものを持って改札を通る訳にはいかない。追っ手の姿もない
のだから、できるだけ怪しまれないことを重視すべきだ。改札で見上げた時刻表は、目的地まで
行く最終便がすぐに出発すると教えてくれた。階段を駆け上り、がらがらの車内で大きく息をつ
く。静かな逃亡劇の始まりだった。

「…浩之さん」
「うん?」

 マルチが窓の外を見たまま声を出す。このメイドロボはいつでも遠くを見ているような気がす
る。本当はそんなことはない筈だ。浩之を見つめていることも多いし、近距離の何かに注意を払
っている場合だってある。だが、今は遠くを見ている。まるで藤田と出会う前からずっとそうし
ているかのように。

「あの人たちは、一体誰なんでしょうか」
「…………」
「どうしてわたしたちを追いかけてくるんでしょう」
「…さあな」

 藤田は嘘をついた。あの連中の正体について、彼の頭の中には一つの考えが既に固まりつつあ
る。先ほど彼らを振り切った時に見たものがヒントになった。
 あの銀色の携帯端末。それまであまり注意して見なかったが、玄関で彼らと対峙した時にその
表面に刻まれたロゴマークが藤田の視界に飛び込んできた。遠目にも分かりやすいそれは、CM
や様々な看板でよく見掛ける来栖川電工のマークだった。
 もちろん、来栖川製の端末を使っているからといって、彼らが来栖川の関係者であるという証
拠にはならない。来栖川はメイドロボメーカー最大手である。そのメイドロボ用携帯端末も、当
然ながら広く普及している。誰だって手に入れることは可能なのだ。
 それでも、ロゴ入り端末をこれ見よがしに持ち歩いているのは気になる。彼らがもし犯罪者だ
としたら、あんなに他人の印象に残りやすい物を持ち運ぶだろうか。まあ、そもそもサングラス
姿そのものが怪し過ぎるのだから、端末のロゴくらい気にする必要はないのかもしれないが。
 藤田は腕を組んで天井を見上げる。来栖川のロゴマーク。彼らが本当に来栖川の関係者だと仮
定したらどうだろうか。そうなると、彼らの主張にも一理あることになる。彼らはマルチを自分
たちの所有物だと言っている。そしてマルチは誰もユーザー登録をしていない、まっさらのメイ
ドロボだ。普通、メイドロボは購入した段階でユーザー登録を行う。それをしていないロボット
はつまり販売前の商品ということになる。販売前ならば所有権はメーカーにあるだろう。

「…そうだとしたら、俺は他人の所有物を横領したことになる」
「はい?」

 マルチの声で自分が無意識に呟いていたのに気づいた藤田は、苦笑を浮かべながら首を横に振
った。

「あ、いや。何でもないんだ」
「そうですか? でもちょっと顔色が悪いような」
「なに。普段運動していなかったから疲れただけだよ」
「本当に大丈夫ですか」
「心配ない。それより問題なのは今日の宿だな。これじゃ目的地に着くころはかなり遅い時間に
なっていそうだし」
「そうですね」
「まあ、何とかなるだろう。もうそんなに寒くないから、最悪の場合は駅で一晩明かせばいい」

 マルチに向かって笑ってみせる。マルチは微笑みを返す。

「…これから行く街で、浩之さんの親御さんが働いていたんですね」
「ああ。俺が高校生になる前あたりからだったな。仕事の都合でどうしてもそこに行かなくちゃ
ならなかったんだ」
「大変だったんですね」
「俺より向こうの方が大変だったかもな。いきなり単身赴任だし」
「…単身」
「ああ。でも、一度別々に暮らし始めると、何となく互いに疎遠になっちまうんだな。親が向こ
うでどんな生活をしていたのか、考えてみればよく知らない。何を考えて、どんなことをしてい
たのか」

 藤田の声は低くなり、最後は呟くようになった。マルチは黙り込んでいる。夜はいよいよ更け
ていく。



 公園沿いの道だった。大型トラックが勢いをつけて走っている。藤田は歩道に立ち、交通量の
多い道路を黙って見ている。隣にはマルチが立ち、藤田の手を握っている。排気ガスを巻き上げ
ながら車が次々と通り過ぎていく。藤田もマルチも黙ったまま、その情景を見つめ続ける。春の
空気が、車のエンジンから排出されるガスによって汚されていく。
 道路の脇には看板があった。交通事故多発地帯。道路がカーブして見通しがきかないうえに、
意外と人通りも多い。最近もここで事故があったのだろう、道端に小さな花をいけた瓶が置いて
ある。藤田はその花を見る。親が死んだ時、藤田は病院へ直行したため事故現場を見る機会はな
かった。あの時は誰か花を手向けてくれただろうか。それとも、あの看板だけが空しく立ち尽く
していたのだろうか。

 昨晩は駅前のビジネスホテルに泊まった。最近はメイドロボ連れの客も珍しくないのだろう。
随分と遅い時間だったにもかかわらず、フロントの人間は何も言わずに宿泊手続きをした。男た
ちから逃げてきたことによる疲労も手伝って藤田はすぐにベッドの上で眠ってしまった。夢は、
見なかった。
 起きて、最初は親が住んでいたアパートに向かった。そこにはすでに新しい人が住んでいた。
管理人に話を聞こうと思ったが、最近になって管理会社が変わったらしく昔のことは分からない
と言われた。結局、ろくに話も聞けないまま藤田はそこを去った。
 親が働いていた会社では進展があった。事故の時に駆けつけた藤田のことを上司が憶えてくれ
ていた。しかし、話の中身は落胆を覚えるものだった。事故の前後に変わった様子はなかった。
事故そのものも間違いなく交通事故であると警察が断定していた。何かやっかいなことに巻き込
まれていた様子などない。息子が大学に受かったといって喜んでいたくらいだ。
 自分の出生を含めた昔の話について質問するのは控えた。どう見ても職場の上司でしかなかっ
た人が、そんなことまで知っているとは思えない。警察の場所だけ聞いて、藤田はそこを引き上
げようとした。帰り際にその上司が言った。

『何でまた、今になってそんなことを調べようと思ったのかね』

 五十年配の上司はそう言いながらマルチを見た。その顔に不審の色が浮かんでいた。藤田は適
当に誤魔化してその場を去った。警察までの道を歩きながら藤田は隣を歩くマルチの様子を窺っ
た。マルチはにっこりと笑ってみせた。
 警察ではしばらく待たされた。昔の事故の記録を調べるのは簡単にはいかない。署のロビーで
ソファーに腰を下ろし、藤田はぼんやりと時間が過ぎるのを待った。ようやく話を聞くことがで
きた時には昼を過ぎていた。待ち時間の割に中身は簡単だった。事故の場所と内容の説明。親を
轢いたトラックは制限速度を守っていたことが判明している。事故の直接の原因は被害者の飛び
出し。公園で遊んでいた子供たちの誰かが急に飛び出し、それを止めようとした結果らしい。藤
田は事故の場所について説明を受け、警察を去った。

 会社での話も、事故の時の様子も、藤田の知る親の性格と一致していた。彼の記憶にある姿と
寸分変わらず当てはまる。それは分かっていた。事故だと知って駆けつけた時にも聞いていた話
だ。あの時はそれを聞いて、仕方ないと思うと同時に、なんでもっと要領よく生きていけなかっ
たんだというやり場のない怒りを感じた。生命というものの呆気なさも。
 だが、今は違う。自分の過去が信じていたものと違うことを知った今では。もしかしたら、藤
田がずっと親だと思っていた人物は、まったく関係ない赤の他人だったかもしれない。本当の親
だったとしても、何かを隠していた可能性がある。
 警察で確認できたのだから、ある人物が交通事故に遭って死亡したのは間違いないだろう。し
かし、その人物と自分との関係はあやふやになっている。その人物が何を知っていたのか、そし
て残された藤田浩之という人間は何者なのか。
 答えてくれ。藤田は道端に置き去りにされた花に心の中でそう呼びかけた。知っているのなら
教えてくれ。俺は何者なんだ。私生児として記録されている俺は一体、どんな人間なんだ。本当
の親は誰なんだ。俺の記憶は本当に改変されているのか。もしそうなら、マルチがかつて出会っ
た藤田浩之という人間はどんな人間でどのような生活を送っていたんだ。その男がどうして偽り
の記憶を持つようになってしまったんだ。どうしてあなたは過去を変えられた男を育てていたん
だ。頼む、答えてくれ。
 花は何も言わない。藤田の耳に入るのはスピードを上げて通り過ぎる車両の轟音だけ。彼の悩
みに答える者はいない。彼の不安を静める者はいない。彼は一人。ただ黙って立ち尽くす。

「浩之さん」

 横から聞こえる声に藤田は頷く。何を考えているんだ。俺は一人じゃない。ここに大切な存在
がある。俺にとって何より重要なものが。ただ一つの支え、真実へと通じる唯一の道。消された
過去を甦らせることのできる魔法使いが俺を見る。藤田はマルチを向いて笑みを浮かべる。

「何だ、マルチ」
「ここで、浩之さんの」
「ああ、俺の母親が死んだのがここだ。トラックに轢かれた」

 再び道路に視線を向ける。今もまた大型トラックが一台、彼の目の前を走り抜ける。道路の向
こうにある公園の木から空中に舞った一枚の桜の花びらが彼らの傍でアスファルトに落ちる。

「あの、どんな方だったんですか」
「え?」
「わたし、お会いしたことがないんです。浩之さんのお母さんに」
「ああ、そうか」

 藤田は空を見た。春の空はどこまでも暖かく、どこまでも青い。

「俺の母親は…俺の記憶にある親は、明るい人だった。他人に親切で、基本的にお人よしで、い
つでもどこでも笑っていたように思う」
「そうですか」
「俺が悪さをしても、いつも困ったような顔をしていたな。怒鳴られたり、叱られたりした憶え
がほとんどない」
「優しい人だったんですね」
「そうだな。苦労はしていたと思うよ。女手一つで俺をずっと育てたんだからな。でもその苦労
を顔に出さない人だった」
「え? 女手一つ、ですか」
「ああ。まさか自分が私生児だとは思ってなかったから、子供のころはずっと父親は死んだもの
だと考えていた」
「…………」
「いや、この記憶だってどこまで正しいのかは分からないな。俺はもしかしたらマルチのことだ
けじゃなくて、他の記憶も失っているのかもしれないし」
「…………」

 そうだ。自分の記憶をあまり当てにする訳にはいかない。はっきりとした証拠がある点だけを
信じて、それで行動した方がいい。そう思いながら横を見ると、マルチが深刻な顔をして正面を
睨んでいた。藤田は少し驚きを覚える。

「…どうした、マルチ」
「…………」
「何かあったのか」
「…浩之さん」
「うん?」
「他にももっと話してくれませんか。浩之さんの知っていることでいいですから」
「…俺の母親についての話で、何かおかしいところでもあるのか」

 マルチは藤田を見た。いつにない真剣な色がその目に浮かんでいる。

「お願いです。何でもいいから話してください」
「あ、ああ」

 勢いに押されるように藤田は話を続ける。マルチの目に見つめられながら。

「そ、そうだな。後は…あ、そういえば」
「はい?」
「お袋は、メイドロボがあまり好きじゃなかったみたいだな。仕事と家事を両方やるのは大変だ
からメイドロボを買ったらって近所のおばさんに勧められていた時に、そんなことを言ってた」
「メイドロボを…」
「ああ、思い出したよ。俺が小さいころに近所のガキの家にいるメイドロボが羨ましくなって、
お袋に買ってくれってねだったことがあったな。いつもみたいに困った顔をしていたけど、お袋
はついに買ってくれなかった。メイドロボなんかいらないって言って」
「浩之さんっ」

 マルチの声が高くなった。藤田は驚いてマルチを見る。

「な、何だ」
「小さいころって、あの、いつごろですかっ」
「いつごろって…確か俺が小学校に上がる前だったかな。結局、うちには俺が生まれた時からず
っとメイドロボはいなかった。俺がメイドロボの知り合いなんかいないって言ったのはそういう
理由があったからさ」
「…………」
「…マルチ?」

 藤田を見るマルチの唇が震えている。瞳が大きく見開かれている。そんなことがある筈はない
のに、目の前のメイドロボは顔面蒼白になっているように見える。マルチの様子が気に掛かった
藤田は両手を伸ばし、その肩を掴む。

「おい、どうしたマルチ」
「ひ、浩之、さん」
「おいっ」
「お、教えてください、浩之さん。あの、高校時代の、お友達のことを」
「友達?」
「はい、浩之さんの仲が良かったお友達のことを」
「何でまた」
「お願いです浩之さんっ。教えてください。ほら、いつも一緒にいた佐藤さんとか、仲良くして
いた長岡さんとか」
「…佐藤? 長岡? おいマルチ、何を言っているんだ」
「知らないんですか、浩之さんっ」
「待て、落ち着け。それが俺の高校時代の友人の名前なのか。もしそうなら、やっぱり俺の記憶
は」
「本当に憶えていないんですか。佐藤雅史さんも、神岸あ…」

「そこまでですよ」



 振り返った藤田の背後に、あのサングラスの男がいた。今日もまた小脇に銀色の端末を抱えて
いる。その男を視界に捉えたとたん、藤田はマルチの腕を掴んで走り出した。

「待ちなさいっ」

 男の声を無視して車道へ飛び出す。警笛を鳴らす車を無視して車道を突っ切る。マルチの悲鳴
がいくつもの音に重なる。横合いから飛び出した車を紙一重でかわす。マルチを抱きとめるよう
にしてトラックから引き離す。大騒ぎを引き起こしながら藤田は車道を渡りきり、公園の中へと
駆け込もうとする。

「そこまでだっ」

 公園の入り口に横合いからもう一人の男が飛び出してきた。マルチが叫ぶ。藤田はマルチを男
が出てきたのと反対方向へ突き飛ばす。

「逃げろ、マルチっ」

 そう叫んで藤田は男へ正面から突っ込む。真っ直ぐ来ると思っていなかった男は藤田に衝突さ
れて、たたらを踏む。バランスを崩した男をなお押しながら藤田はもう一度叫ぶ。

「逃げるんだっ」

 藤田の足が路面に転がった石を踏む。足が宙を蹴り、藤田の上半身が傾く。いつの間にかバラ
ンスを取り戻していた男は藤田を無理やり振りほどく。藤田の身体が一瞬だけ空中に浮かび、上
半身からアスファルトの上に落ちる。

「浩之さんっ」

 衝撃音。路面に倒れこんだ藤田の動きが止まる。傍に立っている男が慌てた様子で藤田の上に
屈み込む。マルチは悲鳴をあげて藤田に走り寄る。男を突き飛ばすようにして倒れた藤田に覆い
被さる。藤田の身体の温もりがマルチのボディ表面のセンサーを刺激する。

「やめてください。お願いです、やめてくださいっ」

 マルチの剣幕に押された男は立ち上がって二、三歩下がる。マルチはうつ伏せになった藤田の
顔を覗き込む。目を固く閉じた藤田はマルチの呼びかけに答える様子がない。

「浩之さんっ。しっかりしてください、浩之さんっ。お願い、目を覚ましてっ」
「やめるんだ」
「嫌っ。浩之さん、浩之さんっ」
「落ち着け、揺すらない方がいい」

 誰かがマルチの肩を掴む。マルチはそれを振りほどこうと身もだえする。肩を掴んだ者はそれ
を気にもとめずにマルチを藤田から無理やり引き剥がすと、屈み込んで藤田の顔を覗く。瞼を指
で開いてしばらく藤田の様子を見ていたその人物は、やがて小さくため息をつくと身を起こす。

「…大丈夫だ。衝撃で気を失っているだけだろう」
「あ、あの」
「心配いらないよ。じきに目を覚ますさ」

 男はそう言って振り返った。マルチのアイカメラに中年に差し掛かった男の容姿が映る。四十
歳前後だろうか。男を見たマルチの顔に訝しげな表情が浮かぶ。

「…久しぶりだね。えーと、確か名前はマルチだったかな」
「え?」
「憶えていないかい。君が試験運用で僕らの高校にやって来た時に会っただろう」

 マルチの顔が驚愕に歪む。目の前にいる男の正体が分かった。マルチのセンサーシステムの中
にあるパターン認識プログラムが一人の人間の名前を導き出す。かつての若かった時の姿と、今
の年輪を重ねた姿とがマルチの中で一つに重なる。

「あ、あなた、は」
「ああ。佐藤雅史さ。二十何年ぶりになるのかな」




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