記憶(6) 投稿者:R/D 投稿日:1月8日(月)22時03分
 熱いシャワーを頭上から浴びる。刺激が肌を突き刺す。藤田は堪えるように立ち尽くす。顔を
上げ、小さい穴から飛び出してくる液体を見つめる。降り注ぐ湯が視界を覆っていく。藤田の頬
を伝った涙の跡が、流れ落ちる大量の水に飲み込まれる。
 歯を食いしばる。足元が消えてなくなるような感覚。しっかり存在した筈の大地が、いきなり
底なし沼になった気分だ。自分を自分であらしめたモノたちが、まるで太陽に照らされた雪のよ
うに蒸発していく。何も残らない。藤田の周りには、いまや信じられるものが全て姿を消してし
まっていた。

 昼間、マルチを送り出した後で、藤田はアパートを出た。嫌な想念が脳裏を占めていた。もし
かしたら自分の記憶が操作されているのではないだろうか。誰かが偽物の記憶を上書きしたので
はないか。バカバカしい疑念だと分かっていながら、それでも気になった。マルチの真剣な表情
と、そのメモリーに残されていた動画とを見ているうちに、疑いは膨らんだ。確認しなくては。
 藤田は電車に乗って再び自分の生まれた街に戻った。駅に降り立った時、彼は無意識のうちに
周囲に視線を配った。マルチを追っていた奴らがまだいるかもしれない。人ごみにまぎれて動き
ながら、藤田は絶えず注意を払った。追っ手の姿はなかった。
 藤田の目的地は役所だった。住民課にやってきた藤田は戸籍抄本の発行を求めた。自分の過去
を見直す。最初から全て確認し直す。それにはまず自分の生まれから調べなければならない。ご
く平凡な生まれ育ちだと思っていた自分自身を洗いなおす。その第一歩が戸籍を見直すことだっ
た。
 そして藤田は、その第一歩から予想もしない衝撃を受けた。

 気が付くと役所が閉まる時間だった。時間の経過を忘れて戸籍を見ていたらしい。いや、彼の
視界に戸籍の文章は映っていなかった。最初にそれを見た時からショックでそんなものは見えな
くなっていた。藤田の脳裏には繰り返し言葉が踊っていた。残酷に、無情に。
 藤田は私生児だった。戸籍にそう書かれていた。親はそんなことを一言も言わなかった。彼の
前では普通の親として暮らしていた。藤田もそんな疑念を抱いたことはなかった。抱く訳がなか
った。確かに片親のみの生活を変だと感じたこともあったが、今の時代、両親の離婚などで片親
だけになっている子供は珍しくない。だから彼は疑問を持たなかった。今の今までそう信じてい
た。その信頼は、根底から崩れた。彼の人生は全てが偽りと化した。
 まさか、いくら何でも、バカバカしい。つい先ほどまで疑問を抱きながらも心の底ではそう思
っていた。自分の記憶が消されたのではないかと考えながら、やはりどこかで自分の過去を信じ
ていた。自分がマルチと出会ったことはない、あれは同姓同名の別人だ。まだ、胸の中ではそう
思い込んでいた。昔からよく知っている自分がここにいる。その信念がある限り大丈夫だと思っ
ていた。
 だが、彼の人生は最初の段階からおかしくなってしまった。もはやマルチと出会ったことを否
定できるだけの足場は失われた。何もかもが闇に包まれたかのように。方角を見失ってしまった
ように。
 役所を出てふらふらと駅へ向かった。懐に収めた戸籍抄本が重い。駅前の繁華街にどのコース
を通ってたどり着いたのか、記憶がない。ネオンサインの中であてもなく彷徨った。帰ろうとい
う発想が脳裏に浮かばなかった。どこへ行けばいいのか全く分からなかった。むやみに喉が渇い
た。近くにある居酒屋に入って酒を注文した。中は近所の大学生たちでいっぱいだった。うるさ
い学生たちが騒ぐのが嫌になって、注文した酒を一気に飲むとすぐに飛び出した。行き場を無く
して電車に飛び乗った。
 アパートの近くの駅で降りた後も、どこへ向かえばいいか分からなかった。駅近くにある酒屋
の自動販売機がまだ生きていた。ありったけの小銭を投入し、ビールとカップ酒をしこたま買い
込んだ。そのまま腰を下ろして次々と中身を空けた。アルコールの匂いの中で月を見上げた。戸
籍に記された文字が脳裏を何度もよぎった。また次の缶を空けた。月は何も言わずに藤田を見下
ろしていた。
 中身を全て空にした後で、よろめく足を踏みしめて立ち上がった。何故だか涙が溢れてきた。
自分が何故泣いているのか、よく分からなくなった。仕方なく流れる涙を袖で拭いながら月夜の
道を歩いた。通り過ぎる人たちがこちらを見る。藤田は顔を伏せ、よろよろと歩き続けた。雫が
藤田の歩調に合わせてアスファルトの上に落ちた。
 気が付くとアパートの前だった。そうか、戻らなくては。そう思って鉄製の階段を上った。ノ
ブをがちゃがちゃとやっていると扉が開いた。中に人影が見えた。マルチだった。アルコールの
力で誤魔化していた記憶が再び甦った。戸籍の文字が、端末に映し出された動画ファイルが、サ
ングラスの男たちが。

「浩之さんっ」

 マルチの声が藤田の箍を外した。藤田はマルチにのしかかった。その服を剥ぎ取った。最近の
メイドロボにはそういう機能を持っているものも多い。そんな知識を頭の片隅で冷静に思い出し
ていたのがおかしかった。笑おうとしたが駄目だった。藤田は泣いた。泣きながらマルチを抱い
た。

 シャワーが酔いを追い払う。浴室の壁に両手をつき、藤田は視線を下におろした。自分の身体
を見下ろす。この世界に登場しておよそ二十年ほどを経過した身体だ。この身体がどうやってで
きたのか、どのように大きくなってきたのか、自分は全て心得ているつもりだった。自分という
存在がこの世界で占めるべき位置ははっきりと把握していた筈だった。
 いまや確信は崩れ去った。この世界で信じられるものはなくなった。藤田は、いや藤田浩之と
いう名前すらわからなくなった。戸籍には、親が途中で苗字を変えたことが記されていた。ここ
にいる男は、彼が二十年に渡って見慣れてきた身体の持ち主は、果たして何者なのだろう。彼が
過ごしてきた年月は、どこまでが真実でどこまでが虚偽なのだろうか。
 熱いシャワーを浴びながら口元だけで笑ってみる。お笑いだ。お前は今まで一体何を信じてき
たんだ。信じる根拠をどこに求めていた。どうしてそんなに素直に自分の記憶を信じていられた
んだ。まるで道化じゃないか。見えない服を着ているふりをした王様と同じだ。
 そうだ、何も見えなくなった。確かなものがなくなった。俺は今ここに住んでいる。今は大学
に通っている。それは間違いないだろう。そう思いたい。だが、そこに至るまでの俺の過去は何
も分からない。一切が藪の中だ。俺はどこで生まれた? 何故生まれた? それからどうやって
生きてきたんだ? 小学校は、中学校はどこに通ったんだ? そして高校は?
 マルチの瞳が思い浮かぶ。無理やり襲い掛かった藤田を真っ直ぐに見たあのメイドロボの目が
彼の心に刺さる。マルチは何も聞かなかった。ただ黙って藤田を受け入れた。あのロボットには
彼が何者か分かっているのだろう。何の疑問も抱かず、彼を信じきっているのだろう。
 試験運用でやってきた時に出会った人。マルチのために卒業の唄を歌ってくれた人。マルチの
最後の夜をともに過ごした人。マルチにとってはそれで十分なのだ。過去も、戸籍も、動画ファ
イルも、そんなことは関係ない。マルチは確信を持っている。
 藤田は握り拳を作り、タイルを敷き詰めた浴室の壁を叩いた。確信が欲しい。誰でもいいから
俺に確信を与えて欲しい。間違いのない、誰が見ても否定できない証拠を。それがあれば、俺は
腹をくくることができる。俺の脳裏にある記憶が本当なのか、それともマルチのメモリーに残さ
れたファイルこそが事実なのか。どちらであっても覚悟を決めることはできる。そのためには証
拠が欲しい。動かぬ証拠が。

「浩之さんっ」

 浴室の扉がいきなり引き開けられる。両手を胸の前で組み合わせたマルチが目を大きく見開い
て藤田を見ている。藤田は無表情のままマルチに視線を向ける。マルチは服が濡れるのも構わず
に浴室に入ると、藤田の手を掴んで引っ張る。

「来てください。お願いしますっ」

 藤田はその勢いにつられるようにマルチの後に続く。マルチは六畳間のコタツに置かれた携帯
端末へと藤田を導く。全裸のまま藤田はコタツの前に座り、端末を見る。端末にはいくつもの数
値が表示されている。ぼんやりとそれを見た藤田は視線を横に座るマルチに向ける。

「あの、最初に謝っておかないといけないんです。わたし、浩之さんに黙って浩之さんのことを
調べました。すみません、でもどうしても調べたかったんです。浩之さんが悩んでいるのを見て
何とかしたいと思って、だから」
「待ってくれ」

 せき込んだように話すマルチを遮る。

「調べたって、何を調べたんだ?」
「あの、その、この携帯端末を使ったんです。その、DNA指紋検査っていう方法を」
「DNA指紋?」
「はい。色々な人の身体の組織の一部からその人のDNAを調べる方法、らしいです」

 思い出した。メイドロボが犯罪捜査にも役立つように作られていることを。メイドロボが各種
の動画ファイルを保存するのも、それが警察の捜査に使えるようにするためだと聞いたことがあ
る。犯罪現場に人間でなくメイドロボだけがいた場合、そのメイドロボが残したデータを使うの
が捜査の早道になる。だからメイドロボにはそうした機能が多数搭載されている。おそらく、D
NA指紋検査の機能がついているのも、そうした警察からの要望があったためだろう。

「その機能を使ったのか」
「はい。あの、DNA指紋検査は、その、精液を使ってもできますので」
「しかし、俺のDNAを調べたところで何の意味が…」

 藤田の言葉が途切れる。マルチは言っていた。試験運用中に出会った藤田浩之という男とは、
最後の夜をともに過ごしたと。もし、その男のDNA指紋もマルチの中にデータとして残されて
いたとしたら。

「…マルチ」
「はい」
「どう、だったんだ」
「はい、同じでした」

 同じ。DNA指紋が同じ。

「俺と、お前がかつて出会った藤田浩之とが」
「ええ、同じです。同じ人なんですっ」

 藤田はゆっくりとマルチに顔を向ける。マルチは泣いていた。喜びの表情で、両手で口元を押
さえながら。マルチの目からとめどなく涙が溢れてくる。その目は嬉しそうに細められ、正面か
ら藤田を見ている。やっと出会えた。その目はそう語っている。やっと、とうとう。

 そう、決着はついた。確信は得られた。藤田はマルチを見ながら、ゆっくりと微笑んだ。それ
は決意の笑みだった。動かぬ証拠がここにある。俺はマルチとかつて出会った。試験運用中のマ
ルチと大切なひと時を過ごした。失われた記憶。どこかへ消えた過去。それを俺は取り戻した。

「…マルチ」
「はい」
「お帰り、マルチ」
「はい…はい、ご主人様」



 ボストンバッグに着替えを詰め込む。どうせ男の旅行準備だ。そんなに大げさなものはいらな
い。洗面用具を押し込み、マルチの携帯端末をセーターにくるんで隙間に入れる。後は何が必要
だろうか。周囲を少し見回す。

「あの、浩之さん」
「うん?」
「私は何を持てばいいんでしょうか」
「いや、いい。そんなに沢山の荷物は持っていかないからな」
「でも」
「気にするな。それより時刻表を調べといてくれ」
「あ、はい」

 過去は分かった。だが、まだ記憶は戻らない。もっと調べなければならない。藤田はマルチに
そう言った。取りあえず自分の親についてもっと調査したい。こうなってしまうと、親が死んだ
のでさえ本当に事故かどうか分からない。全て調べ直した方がいい。
 親は仕事をしていた街で交通事故に遭った。そう聞いている。ここよりは北にある街だ。まず
その街へ行ってみよう。事故現場をこの目で見て、そして親の知り合いに当たってみる。自分の
過去について知っていそうな人物を人づてに探してみるのだ。記憶を取り戻すため。
 ただ、マルチを追っていたあの連中のことが気に掛かる。藤田が本格的に過去を調べ始めれば
あの連中が再び姿を見せる可能性は高い。あの連中にマルチを渡すつもりはない。自分の過去を
取り戻すのを邪魔させるつもりもない。できるだけのことをやろう。そう自分に言い聞かせる。
 もう一度、部屋の中を見渡す。マルチが時刻表を持って近づく。そろそろ行こうか。藤田がコ
タツの上に置きっぱなしになっている戸籍に手を伸ばした時、呼び鈴が鳴った。藤田の腕が止ま
る。マルチが心配そうな表情で藤田を見る。藤田はマルチに頷き、そのままゆっくりと玄関へと
向かう。

 のぞき窓の外には、ある意味で予想通りの人物がいた。夜にも関わらず、律儀にサングラスを
した二人組の男たち。藤田はマルチに動くなと目で合図し、外に声をかけた。

「…何の用だ」
「藤田浩之君だね」
「人の名前を聞く時は自分から名乗るのが礼儀ってもんだろ。お母さんに習わなかったのか」
「事情があって名前を明かすわけにはいかない」

 背の低い方の男が淡々と受け答えする。脇には相変わらず銀色の携帯端末を抱えたままだ。背
の高い男は腕を組んだまま扉を睨んでいる。

「不躾な連中と話す理由はないな。帰ってくれ」
「そうは行かない。我々の所有物を返却してもらうまでは」
「マルチはお前らなんか知らないって言ってるぜ」
「あのメイドロボが何と言っているかは関係ない。素直に返してくれないか」
「嫌だと言ったら」
「多少、手荒な真似をせざるを得ないな」
「そうかい。じゃあ、こっちも手荒にやらせてもらうぜ」
「ほう。どうするんだね」

 男たちは余裕の表情で言った。数では勝っているという余裕からだろう。藤田はマルチを手招
きする。そしてキッチンへ向かい、包丁を手にする。あまりやりたい方法ではないが、仕方ない
だろう。ここでこの連中にマルチを奪われる訳にはいかない。過去につながる唯一の鍵を失う訳
には。

「簡単さ。切り札はこっちにあるってことだ」
「切り札?」

 藤田はボストンバッグを肩にかけ、包丁を手に握るとマルチの耳元で囁く。マルチが緊張感に
満ちた表情で頷くのを確認し、藤田は大声を上げる。

「そこをどきな。でなければマルチを壊す」
「何?」
「冗談だと思うかい? 生憎とそうじゃない。鍵を開けて扉を開いてやるから見てみなよ」

 そう言って扉を開き、素早くマルチの首に包丁を当てる。マルチが悲鳴をあげる。目の前で展
開している事態を見た男たちは、慌てたように数歩下がった。

「待て、何をしている」
「言っただろ。そこをどけって」
「いや」
「それともあんたらが探しているメイドロボの首が飛ぶのを見たいかい。いや、もっと徹底的に
壊してもいいんだぜ」
「よせ、やめろ」
「ならどけよ。早くっ」

 藤田の声に男たちが道を開くように左右へ広がる。マルチを抱きかかえて男たちの隙間を抜け
階段を下りる。男たちは一定の距離を置いてついてくるが、藤田が包丁を動かしてみせるため、
無理に近づこうとはしない。
 アパート前の狭い道路には大きな黒塗りの車が停まっている。藤田は車に近づくと男たちに言
った。

「もっと離れろ」
「…分かった」

 男たちが十分に距離を空けたのを確認し、藤田は素早く包丁を振るって車のタイヤを裂く。そ
してマルチの首筋に包丁を当てたまま、ゆっくりと後ずさりする。

「いいか、そこでじっとしていろ。俺がいつでもこのロボットを壊せることを忘れるな」
「ああ」
「よし。じゃあな、あばよ」

 藤田はマルチの手を掴むと急いで走り出した。背後から追ってくる足音はしない。マルチに聞
こえるように小さい声で言葉を出す。

「ごめんな、マルチっ」
「いえっ」
「怖くなかったかっ」
「いえ、怖くありませんっ」

 マルチの声を背後に聞きながら走る。夜の道を走り続ける。

「…浩之さんと一緒なら、何も怖くありませんっ」
「よしっ。なら俺について来いっ」
「はいっ」

 藤田は何も考えずに走る。ただひたすらに走り続ける。真っ直ぐに、真っ直ぐに。




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