記憶(5) 投稿者:R/D 投稿日:1月7日(日)22時53分
(目が覚めた時には知らない場所にいた。周りは知らない人間ばかりだった。マルチはそう説明
した。様々な機械が置いてあった場所というのだから、何らかの研究施設かもしれない。しかし
そうでない可能性もある。いずれにせよ、来栖川電工の研究所ではなさそうだ。もしそうならマ
ルチだってそれと気づくだろう。
(マルチはメーカーから出荷された時点でどのメイドロボも着用しているロゴ入り作業服を着て
いた。服が破れていたのは、マルチを取り押さえようとした連中から逃げる時にどこかに引っ掛
けたためだろう。おそらく目覚めた際には新品の作業服だったと見られる。
(つまり、目覚めた時のマルチはメーカー出荷段階にあったと考えるのが妥当だ。普通、出荷さ
れたメイドロボは梱包されたまま顧客の注文を待つ。注文を受けたところで倉庫から消費者の家
へ運ばれ、そこで目覚めとユーザー登録が行われる。通常の場合、目覚めたメイドロボの目に映
るのは、これから仕事をするユーザー宅の屋内風景だ。
(だが、マルチが見たのはどう考えても一般ユーザーの家ではなさそうだ。そもそも試作品のデ
ータを組み込んで一般顧客に売ることなどあり得ない。真っ当な方法で販売され目覚めた可能性
はないと見ていいだろう。やはり、何らかの特殊な事情があったと考えるべきだ。
(特殊な事情。犯罪。複数の人間がマルチのデータを狙って来栖川からそれを奪った。ハッキン
グしたのか、それとも物理的に来栖川の研究所に忍び込んで入手したのか。マルチのボディをど
うやって入手したかも問題だ。来栖川電工製品の中で最もよく見かけるものだけに、もしかした
らボディは別ルートで入手し、データのみをハッキングで手に入れてあのボディに入れたのかも
しれない。しかし、それよりもありそうなのは、来栖川研究所に侵入してそこのボディに入って
いたマルチのデータを身体ごと奪ったという方法か。
(他にも問題がある。本来は試験期間が終わった後で消去される筈だったマルチのデータが、何
故残っていたのか。何らかのミスでデータ消去を忘れたのか、それとも誰かが意図的に残そうと
したか。もし意図的なものならば誰がどんな目的でそんなことをしたのか。来栖川の人間がやっ
たのか、それともデータを奪った連中の仕業か。
(もしデータを奪った奴らがやったことなら、彼らは少なくとも三年前からマルチ強奪の準備を
進めていたことになる。来栖川が消す筈だったデータを何らかの方法で残し、それを三年たって
奪った。しかしそれは不自然だ。もしもそうなら三年前にデータを奪っておけばいい。わざわざ
三年待ってデータ強奪を図る必要はない。従って、マルチのデータを残したのは来栖川だという
ことになる。
(だが、それでもおかしいところがある。何故来栖川は途中で方針を変更したのか。新型の開発
に必要なデータ抽出が終われば、後は残す必要はない。試作品データを残したところで、来栖川
にとってのメリットは何もない。それに…。
(それに、俺の記憶がないことについてはどう説明すればいいんだ? マルチが出会ったのは俺
と同姓同名の別人だ。俺自身は高校時代にマルチと出会ったことはない。俺は今までそう思って
いた。いや、今でもそう思う。そう思いたい。思いたいのだが。
(…分からない。学校へ行ってもマルチは自信たっぷりに説明していた。マルチは記憶に間違い
はないと断言している。いや、メイドロボだから正確には記憶じゃなくて記録だな。確かに、人
間と違ってデジタルな記録を残しているロボットが間違うことはなさそうだ。しかし、それなら
何故俺の記憶はないんだ?
(俺は記憶喪失になったことはない。健忘症になったとも思えない。俺自身が忘れていることは
あり得ない。もしあり得るとしたら、何者かに記憶を消された可能性しかない。しかし、一部の
記憶だけを消して他の記憶に手を加えずに済ませるなんて方法があるのか? それに誰がそんな
ことをやったと言うんだ。俺の記憶を消して何のメリットがある。
(…分からない。何も分からない。あのサングラスの連中の正体も、マルチのデータが残った理
由も、俺の記憶がない訳も。まるで五里霧中だ。

 藤田はため息をついた。家具調コタツに肘を付き、両手で頭を抱え込む。そろそろ日付が変わ
ろうかという時間。高校からどうにか逃げ出しこのぼろアパートにたどり着いてから、藤田はひ
たすら考え続けている。求めても得られない答えを探して。
 ダイニングではマルチが夕飯の後片付けをしている。皿を洗う音が微かに聞こえてくる。動揺
している藤田を気遣うかのように、アパートに戻ったマルチはわざと賑やかに話しながら仕事を
した。大騒ぎしながら料理をし、食事の間も色々と藤田に話し掛けた。テレビをつけ、くだらな
い番組を見ながらあれやこれやと話題を振ってきた。藤田は、何も答えられなかった。やがてマ
ルチも黙り込んでしまった。
 ダイニングの音が止む。マルチが藤田のいる六畳間へと足を踏み入れる。藤田はその顔を見上
げる。視線が交錯する。マルチの表情に問いかけと気遣いを見て取った藤田は、いたたまれない
気分になって目を逸らす。そのままぶっきらぼうに話す。

「…今日はもう休もう」
「浩之さん」
「考えたって結論は出ない」
「それは、そうですけど」

 マルチがコタツの横に腰を下ろす。藤田は窓を見る。カーテンの陰から外灯の明かりが見て取
れる。人間が作り上げた人工の光は、いまや地上を覆い尽くしている。作り上げたのは光だけで
はない。交通手段も、情報伝達手段も、建物も食物も何もかも。人間は自らの周囲を人工物で取
り囲んでいる。同居人でさえも。

「取りあえず、一番の問題はあの連中だ。多分、マルチが目覚めた時に周囲にいた連中の仲間だ
ろう。逃げ出したマルチを追ってきたんじゃないか」
「…………」
「ヤツらは何者なのか、何を考えているのか、それは分からない。でもきっと後ろ暗い理由があ
るに違いない。あんな連中にマルチを渡す訳にはいかない」
「浩之、さん」
「大丈夫だ。間違いなく、ヤツらは振り切った。このアパートはバレてないだろうから心配はい
らない」
「はい、浩之さんの言うとおりだと思います」
「ヤツらが俺たちを探し出す前に、あの連中の正体について調べられればいいんだけどな」
「…………」
「それと、もうあの高校には近づかない方がいいだろう。ヤツらが見張っている可能性がある。
もうマルチの記憶を調べることはできないけどな」
「…ご主人様」

 マルチは藤田を見る。藤田は視線をマルチに戻す。切なそうな表情を見ながら、藤田は明るい
声を作りながら話す。

「仕方ないさ。マルチが出会った同姓同名の別人が誰なのかを調べる方法は他にもある。無理に
危険な場所に近づくことは」
「わたしが出会ったのは浩之さんです。別人じゃなくて、そうじゃなくて」
「…俺かもしれない。それは分かっている。けど俺には記憶がない。お前に会った覚えがないん
だ。高校時代だけじゃない。生まれてからずっと、自分の人生をいくら振り返ってみても、そん
な思い出はないんだ」
「…………」

 マルチは俯いた。藤田は自分が嫌になった。ため息をつき、再び頭を抱え込む。窓の外を自動
車が騒音を立てながら通り過ぎていく。狭い部屋の中に沈黙が戻る。蛍光灯の紐が微かに振動す
る。マルチが俯いたまま、小さな声でぽつりと話す。

「わたしの記憶を、浩之さんに見せられたらいいのに…」

 記憶を見る、か。それなら俺の記憶を見せてやりたい。藤田は自嘲気味に笑みを浮かべながら
そう考える。高校時代の記憶を洗いざらいテレビに映し出し、全部チェックしてもらえいたい。
俺が正しいのか、それとも間違っているのか、客観的な判断基準があれば分かるだろう。人間の
曖昧な記憶をそうやって調べられればどれほど…

『何度も何度もメモリーを再生して』

 マルチの話した言葉が脳裏をよぎる。メイドロボのメモリーに残された藤田浩之なる男の記録
を再生していた。夢を見ている間、来栖川電工のシステムに保存されている間。マルチはそう話
していた。
 藤田は顔を上げ、勢い込んでマルチに話し掛ける。

「おい、その携帯端末を使えばお前のメモリーを調べることができるのか」
「え?」
「その端末だよ。それを使って記録したファイルを見られないのか。それは確か、充電だけじゃ
なくてメンテにも使えた筈だよな」
「あ、はい。でもこれを使うのは専門の保守要員で、一般の方は触れないほうがいいって」
「んなこと言ってる場合か。データの閲覧だけならまずいことにはならない筈だ。それを使って
お前の記憶を調べたい」
「わたしの、記憶を」
「お前が出会った藤田ってヤツを、俺の目で見たいんだ」

 マルチが息を呑む。藤田はマルチの目を正面から見ながら言う。

「頼む、確かめさせてくれ。俺とお前が本当に過去に出会っていたのか、それを自分で確かめた
いんだ。俺はお前と高校時代に会った記憶はない。お前が会った藤田ってヤツは同姓同名の別人
だと思っている。けど、もしそいつが俺にそっくりなら、その藤田浩之が俺と瓜二つなら、別の
可能性が生まれる」

 藤田は言葉を一度切る。マルチは問い掛けるような視線を向ける。深呼吸をして、藤田は言葉
をつなぐ。

「…俺は本当にお前と出会っていた可能性が生まれるんだ。そうなると、間違っていたのは俺っ
てことになる。俺の記憶がおかしいってことに。それを確認したい。俺は知りたいんだ」
「浩之さん」
「頼む、マルチ。お前の記憶を俺に見せてくれ」
「…はい」

 マルチは静かに頷くと、携帯端末をコタツの上に載せた。端末から端子を伸ばして手首に接続
する。藤田は端末を手元に引き寄せ、電源を入れる。OSが起動する間、藤田はマルチに視線を
向ける。マルチはゆっくりと身体を横たえ、藤田と視線を合わせると微かに笑って瞳を閉じる。
サスペンド状態に入ったのを確認し、藤田は端末のディスプレイを見る。
 コンピューターに関する知識を総動員しながら端末を操作する。それほど熱心に勉強したこと
はないが、それでもパソコンに触れる機会は多かった。基本的な手順くらいなら頭の中に入って
いる。藤田は慎重に端末を調べる。
 端末に接続している外部デバイスの一覧を見る。それらしいものを次々にチェック。メモリー
領域らしい部分を探し出す。別にメイドロボを動かすAIのシステムを調べるのが狙いという訳
ではない。単純にデータ類を蓄積している領域を探し出せばいいのだ。藤田は時間をかけてそれ
らしいところを当たっていく。
 数十分の時間をかけてどうやら記憶領域と思われる部分を見つけ出した。拡張子を確認し、動
画ファイルらしいものを探し出す。ただ、このファイルを再生するためのアプリケーションが見
つからない。メンテ用なら間違いなくそういうソフトも入っている筈だ。藤田は唇を噛み締めな
がら端末のキーボードを叩く。どこだ、どこにある。それを発見した時には、すでに端末と格闘
を始めて一時間ほどが経過していた。
 次に必要になるのは動画ファイルの中で藤田浩之が映っているのを見つけることであった。フ
ァイルネームはすべて番号と記号で記されている。適当に調べてみたら来栖川電工の研究者らし
い白衣の男の姿が出てきた。保存されているファイルの中で、前半に出てくるのは会社の関係者
が中心だった。藤田はいくつも飛ばして最後の方のファイルを選んだ。

 ――仰げば 尊し 我が師の恩

 いきなり唄が聞こえてきた。画像ファイルの中では桜が舞っている。その向こうにある校舎が
揺らめいている。手ブレのように画像は上下へ振動する。歪んだ映像が、マルチの涙のためであ
ることに気づいた時、動画像は大きく横へ動く。

 ――教えの庭にも はや 幾歳

 学生服を着込んだ少年がいた。少年は唄を歌っていた。マルチの視線が上がり、少年の顔を正
面から捉える。

 ――思えば いと疾し この年月

 藤田は驚愕を抑えきれなかった。そこには自分がいた。優しく微笑みながらカメラを、マルチ
を見る自分自身が。

 ――今こそ 別れめ いざさらば

 画像が再び歪む。涙の向こうで歌い終えた藤田が何かを話している。間違いなく自分の声で、
高校時代の自分の姿で、マルチに話し掛けている。桜が舞う中、穏やかな愛情に満ちた表情でマ
ルチを見つめながら。マルチの声がする。藤田への愛情と感謝に溢れた声が、端末の中から聞こ
えてくる。狭いアパートの部屋の中に、彼らの声が木霊する。
 間違いない。これは俺だ。俺が動画ファイルの中で、マルチの記憶の中で笑っている。歌って
いる。話し掛けている。俺の記憶にないことをしている。記録されたデジタルデータの中に、藤
田浩之という男の行為がこれ以上ない正確さで残されている。俺の記憶にない行為が。俺の知ら
ない俺が。
 マルチは言っていた。間違いなく、浩之さんとは高校時代に出会っていると。俺が階段から落
ちそうになったマルチを助けたと。一緒に掃除し、マルチのために唄を歌い、マルチの最後の夜
をともに過ごしたと。そして、厳然とした証拠がここにある。俺が、唄を歌っている。

 それじゃあ、今ここにいる俺は誰なんだ? 何の記憶も持たない俺は、一体何者なんだ?



 疲れきって眠る藤田の横顔を見ながら、マルチはゆっくりとコタツの上を拭いた。その後で横
たわる藤田のためにかけた毛布の裾を整える。やることがなくなると、マルチは藤田の横に腰を
下ろした。憔悴の色が浮かぶ顔を見る。マルチの心に悲しみが湧く。

 充電を終えて目覚めたマルチが見たのは、夜明けの光の中で膝を抱え込んだ藤田の姿だった。
彼が一睡もしていないことに気づいたマルチは慌てて藤田に駆け寄った。マルチに話し掛けられ
た藤田は、引きつったような笑みを浮かべながら言った。

『参ったよ。あれは俺だ。俺にしか見えない。
『信じられない。だって俺には記憶がないんだからな。お前と高校時代に会った記憶が。
『けど、それじゃあれは誰なんだ。俺と同姓同名で、俺と同じ高校に通っていた、俺と見た目も
声もそっくりの別人か?
『そんな偶然がある確率はどのくらいのもんだろうな。ゼロじゃないだろうけど、限りなくゼロ
に近いだろう。誰も偶然とは思ってくれないくらい、低い確率だよな。
『でも、これが偶然でなかったら、お前の記憶にいるのが間違いなくこの俺なら、それじゃ俺の
記憶がないのは何故だ。
『俺の記憶がおかしいのか。それなら何故俺の記憶はおかしくなっちまったんだ。どっかで記憶
喪失になったのか。
『そんなことはない。俺は高校時代のことをよく憶えている。どんなクラスメイトがいたか、ど
いつがどんなクラブ活動をしていたか、全部思い出せる。お前と出会ったこと以外は。
『俺は他の記憶は失っていない。自分で記憶を喪失したことはあり得ない。でも、そうなると考
えられることは限られる。
『誰かが俺の記憶を消した。そうとしか思えない。でも何故、何のために。
『分からない。何が何だかさっぱり分からなくなった。なあ、マルチ。俺はどうしたらいい。俺
は一体…。

 落ち窪んだ瞳の藤田はそう呟き、やがて疲れきったように畳の上に横たわった。マルチには何
もできなかった。ただ、藤田の身体に毛布をかけることしか。それから藤田は眠り続けている。
春の穏やかな陽射しが射し込むこの小さなアパートの中で。マルチは黙って座っている。
 混乱しているのはマルチも同じだった。覚める筈のない目覚めと見たことのない人間たち。恐
怖心に突き動かされた逃走の果てに出会った藤田は、マルチとの記憶だけをなくしていた。マル
チの記憶を見せた後ですら、彼は言った。俺にはそんな記憶はない。
 マルチは信じている。目の前にいるのがあの優しい藤田浩之であることを。夢で見続けた人が
目の前にいると。マルチにとってそれは当たり前のことだった。しかし、藤田はそのことで懊悩
していた。憔悴し、疲労し、打ちのめされていた。
 本当は違うのだろうか。マルチは考える。目の前にいる藤田浩之は、マルチが試験運用中に出
会ったあの高校生ではないのだろうか。こんなに似ているのに。外見だけではなく、話しぶりも
何気ない仕草も何もかもが、あの人にそっくりなのに。
 そんなことはない。マルチはそう思う。マルチの持つパターン認識能力は人間並みに高度なも
のだが、そのマルチをしても目の前で眠っている男と、かつて出会った人との区別はできなかっ
た。ご主人様と再び出会えた。マルチにはそうとしか思えなかった。
 もっと確実な証拠はないのだろうか。目の前の人と、かつてマルチと一夜を過ごした人とが同
じであることを証明する方法は。マルチは藤田の寝顔を見つめながらぼんやりと考える。わたし
の記憶を見せても、それでも彼の記憶は戻らなかった。もっと何か別な方法は。

 マルチはため息をつき、立ち上がる。ダイニングへ移動し、冷蔵庫を開けた。中身は空っぽで
ある。昨晩の食事で残っていた僅かな食材は全て使い果たした。何か新しいものを買ってくる必
要がある。
 眠っている藤田を起こすのは忍びない。かと言って勝手にお金を持ち出す訳にもいかない。買
出しにはしばらく後で行くしかない。そう決めたマルチは再び室内の掃除を始めることにした。
やるべきことをしている間は余計なことで悩まずに済むだろう。マルチはメイドロボとしての役
割を果たそうと思った。

「…う、ん」

 隣室から声が聞こえる。藤田が目を覚ましたらしい。マルチは六畳間を覗き込む。短い睡眠し
か取れなかった藤田は、不機嫌そうな表情で目を細め窓の外を見ていた。その横顔にマルチの心
が痛む。藤田が悩んでいる理由の一端はマルチにある。マルチとの再会がなければ、藤田はこれ
ほど困惑せずに済んだかもしれないのだから。
 マルチは控えめに声をかける。

「浩之さん」
「ん、ああ」

 藤田が振り返る。表情を殺したようなその顔に向かって、マルチはできるだけ自然に見えるよ
うに微笑みながら言う。

「あの、冷蔵庫の中身が空なんです」
「ああ、そうか」
「お昼ご飯のために何か買ってきますけど」
「分かった」

 藤田は頷くとゆっくりと立ち上がる。身体にかかっていた毛布が重力に引かれて落ちる。藤田
はポケットから財布を取り出すとマルチに渡した。

「…俺も一緒に行こうか」
「いえ。浩之さんはお疲れでしょうから、ゆっくり休んでいてください」
「すまない」
「いいえ。それでは行ってきます」

 マルチはにっこりと笑ってみせ、藤田に背を向ける。藤田がどんな顔をしているのか気になっ
たが、一方で彼の表情を見るのも怖かった。マルチは靴を履くと急いで扉を開けた。春の暖かい
空気が流れ込んでくる。藤田を気にかけながら、マルチはアパートと駅の間にあった商店街へと
足を進める。



 確認しなくては。
 もし俺の記憶が消されているのなら。
 誰がそんなことをしたのか、それを調べなくては。
 高校時代の記憶からマルチの思い出だけを消すなんて方法があるとは思えない。
 一部分だけ選択して消すなんてことができるほど、人間の記憶は都合よくできてない。
 別の方法を使った筈だ。
 例えば、全く別の記憶を上から刷り込むとか。
 もし俺が今記憶している高校時代と、まったく別な高校時代を過ごしていたなら。
 本当は違う人生を送っていたのに、後から別の記憶を上書きされたら。
 今記憶している過去がすべて嘘だとしたら。
 そんなことができるかどうかは分からない。
 だが、マルチの思い出だけを消去するよりは可能性がありそうに思う。
 誰がやったにせよ、一介の高校生の記憶を操作するメリットは余りなさそうだ。
 それに対し、ある男の過去をすべて変えることに意義を見出す者ならいるかもしれない。
 俺はすべての記憶を偽物に置き換えられている。
 本来の俺が持っていた、何者かにとって都合の悪い記憶をすべて奪われている。
 そう、もしそうならマルチを追う者たちがいる理由も想像できる。
 マルチは俺と俺の真実の過去をつなぐ唯一の鍵。
 その鍵を俺の手に渡すまいとしている連中がいる。
 俺から過去を奪った連中が。
 そう考えれば辻褄が合う。
 俺が巻き込まれたこの異常事態に説明がついてしまう。
 バカげた考えだ。
 荒唐無稽もいいところだ。
 だが、他にうまい説明が思いつかない。
 筋の通った仮説がこれしか考えられない。
 ならば、確認してみるべきだ。
 俺の人生がどこまで本物であったのかを。
 俺が生まれた時まで遡って。



 買い物袋を抱えて帰ってきたマルチは、アパートの部屋に鍵が掛かっているのに気づいた。財
布の中にあった鍵で扉を開けると、中に藤田の姿はなかった。コタツの上には小さな紙片が残さ
れている。藤田が書いたメモだ。少し用事があるので出かける。夕方には戻る。マルチはそれを
見てため息をついた。
 買ってきた食材はそのまま冷蔵庫の中へしまい込まれた。放り出されたままになっていた毛布
を綺麗にたたんで押入れに入れる。ポケットに入れていた財布を取り出し、コタツの上に置く。
部屋の中を見渡す。もう少し掃除をしよう。他にすることもないし。
 マルチは部屋の隅々まで掃除機をかけた。玄関に放り出されていた雑巾を探し出し、窓のサッ
シを磨き上げた。窓ガラスも拭いた。畳にも雑巾がけをした。ダイニングの床も磨いた。次はキ
ッチン。それからトイレと風呂。水場をきれいに仕上げたマルチは、雑巾を絞り一息入れる。

 春の日はゆっくりと傾く。掃除のために開け放していた窓の向こうからは鳥の鳴き声が聞こえ
てくる。鳥にとって今は繁殖の時期だろう。恋人を求めて美しい唄を歌う鳥たちは、昔から人間
の関心を集め、素晴らしい歌い手として褒め上げられてきた。
 唄とは何だろうか。ロボットにとってそれはパターン認識の対象となる音声と、特定の音程に
従って奏でられるメロディから成り立つものだ。処理すべき情報の一種でしかない。他の様々な
騒音との相違は、それが言葉を形作るか否かという点だけにある。
 しかし、人間にとっては違う。唄は心の慰めであり、喜びの源であり、人によっては重要な表
現手段となる。空気の振動によって構成されたデータの塊であると同時に、感動を人々にもたら
す。ただの騒音とは根本から異なる。
 それは受け止める側の心の違いでもある。人間はある種の音は単なる騒音として無視し、ある
種の音は音楽として熱心に聞く。唄を受け止める心がなければ、唄もただの雑音でしかない。人
間がいて初めて唄がある。人間とともにあり続ける。
 マルチにとってもそれは同じだ。マルチの中にある擬似思考アルゴリズムは、あたかも心があ
るかのような反応を見せるために作られている。それは唄に対しても同じ反応を見せる。マルチ
が受け止められる唄こそが、マルチにとっての唄になる。
 藤田の唄はまさにそうだった。マルチはそれまでにも、様々な場所で唄を聞いていた。街中に
は賑やかな音楽が溢れ、研究所の中でもテレビからコマーシャルソングが流れていた。しかし、
いずれもマルチにとっては雑音と同じものだった。一週間の試験運用期間が終わる最後の瞬間ま
で、マルチは唄を知らなかった。藤田が歌ってくれたあの唄を聞くまで。

 そして、あの唄が

 マルチは無意識のうちに口ずさむ。繰り返し再生した藤田の声とともに。唄は心を豊かにする
という。唄は感受性を高めるという。それが本当かどうか、マルチには分からない。ただ、マル
チは歌う。
 桜が舞う。校舎が見える。幸せな、とても幸せな時。それを幸せと感じるのはロボットの中に
組み込まれたプログラムの指令に基づくのかもしれない。マルチが感謝の思いを抱いたのも、全
てはメーカーの考え通りなのだろう。それでもマルチは歌う。あの唄を。

 日が暮れる。窓の外が暗く沈む。時計は回る。藤田が帰ってきたのは日が落ちてかなり時間が
たってからだった。彼は酔っていた。
 扉まで迎えに来たマルチに藤田は抱きついた。マルチの声を聞かず、その身体を無理やりに押
し倒した。そのままがむしゃらにマルチの中へ入ってきた。マルチは藤田の顔を見た。藤田は泣
いていた。彼の瞳からとめどなく涙が溢れていた。マルチはその顔を強く抱き締めた。二人はそ
のまま絡み続けた。ダイニングの冷たい床の上で。藤田は嗚咽しながらマルチの中で果てた。

 藤田の身体にのしかかられ、その体重を全身で感じながら、マルチはあの唄を口ずさむ。




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