記憶(4) 投稿者:R/D 投稿日:1月6日(土)23時42分
「…ちょっといいかね」

 背後から聞こえた声にマルチは傍目にも分かるほど驚いて振り返った。藤田の視界に、マルチ
の後ろに立つ男の影が入る。黒いスーツに身を固めた男はサングラスに隠した視線をマルチに、
続いて藤田に向けた。頻りに舞っていた桜が瞬時、動きを止めたかのように視界から消える。藤
田は無意識のうちに歩を進め、マルチに手が届くところまで近づいた。

「聞きたいことがあるんだが」

 男は藤田を見て言った。藤田はもう一歩進み、マルチのすぐ後ろに立って答えた。

「何ですか」
「そのメイドロボのことだ。それは君のかね」

 男はそう尋ねながらゆっくりと藤田に接近してくる。スーツに押し込んだ男の体格は、服の上
からでもはっきり分かるほど盛り上がっている。マルチが藤田の背後に回りこむ。藤田はマルチ
を庇うような格好になりながら、男に強い視線を向けた。男が繰り返す。

「…それは君の持ち物かね」

 藤田の表情に躊躇いが浮かぶ。男の背後に止まった車の中から、似たような風体の別の男がこ
ちらに視線を注いでいる。サングラス越しの視線が藤田を貫く。あからさまに怪しい連中だ。し
かし。
 肩越しに振り返り、マルチを見る。マルチは視線を男たちに据えたままだ。その精緻に作られ
た顔にははっきりと怯えの表情が浮かんでいる。このメイドロボはユーザー登録している人はい
ないと言っていた。普通に購入したメイドロボは、必ずメモリー内に持ち主を登録している。そ
うでないメイドロボは販売前のものか、でなければ特殊な事情があるものとなる。
 特殊な事情。犯罪がらみ。

「どうした。君のものではないのか」

 男の声が思ったより近くから聞こえる。視線を戻した藤田はゆっくりと近づく男を見据えた。
目を隠した男の顔は何の感情も窺えない。犯罪がらみ。その言葉が目の前の男たちには最も相応
しく思える。マルチが藤田の服に背後からしがみついた。藤田は思わず声を出す。

「俺の、ものですけど」

 自分で思ったより落ち着いた声が出た。男が動きを止める。ゆっくりと振り向いて背後の黒塗
りの車に乗り込んだ男を見る。自動車の助手席に座っていた男も扉を開けて降りてくる。男は小
脇に銀色に輝くメイドロボ用の携帯端末を抱えている。
 マルチが背後から藤田を引っ張る。藤田は片手を後ろに伸ばし、心配するなと言うようにメイ
ドロボの小さなボディをぽんぽんと叩く。最初に声をかけてきた男は藤田を見ると、口元に不自
然な笑みを浮かべる。まるでロボットのようにぎこちない動き。男は言葉を紡ぐ。

「良かったらシリアルナンバーを見せてもらえないか」
「シリアルナンバー?」
「そのロボットの後頭部に刻印されている筈だ。構わないだろう」

 男は不自然な笑みのまま再び一歩近づく。マルチが背後で息を飲む。藤田は思わず振り返る。
マルチと視線が交錯する。すぐに視線を男へ戻し、断固とした口調で言う。

「お断りします」
「…何故だね」

 男は再び足を止め、歪んだ口元のまま言った。その声には笑みも愛想も含まれていない。

「他人に見せる筋合いはありませんね」
「見せられないような理由でもあるのかね」
「あんたたちこそ、見なきゃならない理由でもあるのか」

 藤田は車から降りた男を見る。携帯端末を抱えたその男は、藤田に話し掛けている男の斜め後
方で静かに佇んでいる。同じようなスーツ、同じようなサングラスをしているが、携帯端末を持
っている方が背が低い。この男は先ほどから一言も話さず、無表情のまま藤田の背後にいるマル
チに視線を定めている。

「見たい理由はあるとも。是非とも見たいね」

 背の高い男が言葉を続ける。いつの間にかその口元に浮かんでいた笑みは消えている。藤田の
声が尖る。

「どんな理由だ」
「特に話すような理由ではない」
「なら俺もあんたたちの要求に応じる必要はなさそうだな」
「いや、応じるべきだろう」

 それまで黙っていたもう一人の男が口を開いた。藤田はそちらを見る。男は銀色の携帯端末を
抱えなおしながら言った。

「…君は我々の要求に応じるべきだ。何故なら、そのメイドロボは君の持ち物ではないからだ」
「何をバカな」
「とぼけても無駄だ。それの所有権は我々にある」

 藤田は視線をマルチに向ける。その心に一瞬、迷いが生じる。この連中が怪しいのは間違いな
い。だが、怪しいといえばこのメイドロボだってそうだ。なぜこんなぼろぼろの服装をしている
のだろう。どうして藤田とかつて出会ったなどと主張しているのか。この学校に試験運用に来た
と主張する理由は何か。何だってこんな怪しげな連中に追われているんだ。
 犯罪がらみ。どんな犯罪かは分からない。だが、好奇心猫を殺すという言葉もある。君子危う
きに近寄らず。このメイドロボが犯罪がらみのものなら、これ以上かかわらないほうが賢い。こ
の連中にとっとと引き渡せばそれで済むことだ。後がどうなろうと関係ない。このメイドロボが
何をしたのか、これからどうなるのか、それは俺とは何の関わりもない。
 そうだ、俺は困惑していた筈だ。このロボットに、マルチに付きまとわれて困っていた。マル
チの言うことで混乱していた。こんなのがいるから自分の記憶がおかしいんじゃないかという不
安を抱いたんだ。いなくなれば、もうそんな心配をする必要はない。今までの平凡だが確固とし
た学生生活が再び戻ってくる。このメイドロボを見なくて済む。藤田の視線にマルチの顔が飛び
込んでくる。
 マルチの表情は恐怖に歪んでいた。藤田の服を掴んでいる指が強く握り締められている。藤田
の胸に痛みが走った。彼は瞬間、瞼を閉じた。口元がきつく食いしばられる。やがて男たちに振
り返った時、藤田の顔は何かを決断した者に特有の緊張感を湛えていた。

「…確かに、こいつは俺のものじゃない」
「そうだろう。ならば本来の持ち主に返すべきだ。そうは思わないか」
「ああ。あんたたちの言う通りだな」

 ため息のように押し出された藤田の言葉を受け、男たちの身体に漲っていた緊張感が僅かに緩
む。藤田の背後でメイドロボがびくりと震える。藤田は背の低い男が持つ端末を指差す。

「ところで、そいつは一体何なんだい」
「ん? これか」

 男たちが端末に視線を向けた瞬間、藤田はマルチの腕を掴むと校舎へ向けて走り出した。

「あっ」
「おい、待てっ」

 背後から聞こえる声を無視して走る。真っ直ぐ校舎を目指す。男たちに追いつかれる前に校舎
に駆け込むことができれば逃げられる可能性はある。この広い校庭さえつかまることなく逃げ切
れば。廊下と階段の入り組むあの建物の中へ駆け込めれば。藤田は全力で走る。引っ張られてい
るマルチの動きが鈍い。焦燥感が募る。荒い息の隙を見て肩越しに背後へ一瞥をくれる。男たち
がばたばたと藤田を追ってくる。距離は、とても十分に開いたとは言えない。
 走る。校舎へ向かって走り続ける。マルチの小さな悲鳴。自分の吐く息。男たちの足音。いつ
までたっても目的地が近づかない。まるで悪夢の中でもがいているように。校舎の玄関が少しず
つ大きくなる。再び背後を見る。男たちが近づいているように見える。前を見る。あと少し。藤
田は校舎の中へ飛び込む。

「な、何だ君はっ」

 扉の内側にいた教師らしい男をかろうじてかわす。マルチがよろめき、下駄箱へ衝突する。教
師らしい男は藤田をよけた時にバランスを崩したのか二、三歩たたらを踏み、開かれていたガラ
ス製の扉にしがみつく。扉は大きな音を立てて閉まり、入り口に到達していた背の高い男の顔面
に衝突する。男は顔を押さえてしゃがみ込み、後ろからきていた端末を持つ男の進路を遮る。そ
の男は端末を慌てて両手で抱え込み、その格好のまま激しく転ぶ。
 玄関近くのどたばた騒ぎを見て取った藤田は下駄箱に寄りかかっていたマルチの腕を引っ張る
と校舎内へ駆け込んだ。ここなら地の利はこちらにある。伊達に三年間、ここに通い続けていた
訳ではない。逃げる。逃げ切ってみせる。藤田はマルチと一緒に走る。後ろを振り返らずに。



 車窓を光が流れていく。日が暮れた街並みが煌かせる空々しいネオンサインが、車両の中にい
る数少ない人々に少しでも己の存在を主張しようとしている。椅子に腰掛けた藤田は横に座るマ
ルチを見る。高校から逃げ出した後、藤田は念のためマルチのために新しい服を購入して公園の
トイレで着替えさせた。今ではあちこちが破れた企業のロゴ入り作業服ではなく、ディスカウン
トの専門店で購入したシンプルな服を身にまとっている。
 マルチの横顔が次々に車窓をよぎる明かりに染まる。赤く、青く、白く。緑の髪の毛がその度
に色合いを変える。メイドロボを特徴付ける耳のセンサーが明かりを反射して光を飛ばす。藤田
のアパートへ向かう電車の中、マルチは沈鬱な表情のまま黙り込んでいる。
 藤田は視線を再び車窓へ向ける。繁華街を通り過ぎ、窓外の明かりが減る。暗く沈んだ外部は
鏡の役割を果たし、椅子に並んで座る藤田とマルチを映し出す。背の高い藤田と、小柄なメイド
ロボと。車両内に人は少ない。鉄路を刻む細かな音と、モーターを回す振動が規則正しく聞こえ
てくる。

「なあ。マルチ」

 正面を見たまま静かに話す。マルチは俯いていた顔を上げ、横に座る藤田に向ける。正面のガ
ラスに映ったその影もまた頭部を動かす。藤田はガラスの中のマルチに向かって話し掛ける。

「…あいつら、何者なんだ」

 呟くようなその問いにマルチは再び俯く。そして小さな声で返事をする。

「すみません。わたしにも、分からないんです」

 再び沈黙が降りる。ガラスの中のマルチは手を膝の上で組み合わせる。藤田はそれを黙って見
続ける。視線を下ろしたままマルチは再び話し出す。

「…ずっと、夢を見てました」
「…………」
「長い夢です。浩之さんがいて、わたしがいて。浩之さんの傍でわたしは掃除したり、お料理を
作ったり、お洗濯をしたり。ご主人様のためにずっと仕事をし続けて」
「…………」
「本当は違った。わたしが浩之さんと一緒にいられたのは、たったの一週間でした。浩之さんの
ためだけにお世話できたのは、僅か一晩だけでした。だから、本当はわたしが見た夢は、その僅
かな時間の繰り返しなんです。何度も何度も繰り返して、何度も何度もメモリーを再生して」

 窓の外を踏み切りが通り過ぎる。警報がドップラー効果で高い音から低い音へと音程を変えつ
つ藤田の耳元を横切る。この音はメイドロボにはどのように聞こえるのだろうか。メイドロボに
とって音とはどのように感じられるものなのだろうか。

「わたしは試作品です。あの高校で一週間の試験運用を行うためだけに作られたロボットです。
その一週間が終わったら、わたしの役目も終わりです。試験運用の間に得たデータを新製品製作
に、わたしの妹たちを作るために使う。それがわたしの役割でした」
「…………」
「だから、試験運用が終わったらわたしのデータは来栖川電工のシステムに保存されることにな
ってました。そして、新製品ができれば役割を終えてデータは消される筈でした。わたしは二度
と浩之さんには会えない筈でした」
「…………」
「それでも良かったんです。たった一週間のしかなかったのに、その間に本当のご主人様と言え
る人に出会えて、その人のために色々とお世話することができました。わたしは、とても幸せで
した」

 淡々とマルチが言葉を紡ぐ。たった一週間。試験期間が過ぎればいずれは消される、時間の限
られた存在。人の生にもタイムリミットはある。だが、終わりの時期は誰にも分からない。分か
らないからこそ人は生きていける。将来という言葉について語ることができる。
 藤田は黙ってマルチを見る。ガラスに映ったマルチの緑の髪を見る。もし、自分の生命が残り
一週間だと知ったら、俺はどうするだろう。何を考えながら時を過ごすのだろう。果たしてその
時間を幸せに生きることができるのだろうか。
 何を考えているんだ。俺はこのロボットが可哀想だなどと思っているのか。俺の隣にいるのは
人間じゃない。企業が作った試作品だ。工業製品の寿命が一週間だと言われて果たしてその工業
製品自身が悲しむだろうか。そんな訳はない。そんなことはない筈だ。だが。

「浩之さんと、ご主人様と最後の晩を過ごした後でわたしは研究所へ帰りました。研究所の皆さ
んは優しくわたしにお別れをしてくれました。そしてわたしは眠りました。研究所のシステムの
中へ行って、そして」

 なあ、俺と同姓同名の誰かさん。あんたはどんな気分でこのロボットと付き合ったんだ? マ
ルチが一週間の命だってのは知ってたのか。知っていたとしたら、あんたはそれに対してどう言
ったんだ? 今の俺と同じような気分になっていたのか。ここにいるのはただのロボットだ。い
くら表情が豊かで人間じみた動きをしても、やっぱりロボットだ。そう思っているのに、そう自
分に言い聞かせているのに、俺は今とても動揺している。衝撃を受け、困惑し、叫びだしそうに
なっている。
 どうなんだ、藤田浩之。あんたは俺と同じ思いだったのか。俺と同じ衝動に駆られたのか。こ
のメイドロボに、頼むから消えないでくれ、なくならないでくれと、そう懇願したのか。ずっと
一緒にいてくれと泣きついたのか。俺があの変な男たちにマルチを渡すのを躊躇ったように、あ
んたも研究所へ帰ろうとするマルチを引き止めたのか。

「…夢を、見ていました。おかしいですよね。本当はデータ収集が終わればわたしは消えること
になっていたのに、なのにわたしはずっと夢を、浩之さんの夢を見ていたんです。浩之さんの顔
を、浩之さんの仕草を、浩之さんの姿を、浩之さんの声を、浩之さんの唄を」
「…………」
「どうしてなんでしょう。どうしてわたしは夢を見ていたんでしょう。どうしてわたしは目覚め
たんでしょう。どうして」

 藤田は視線を横に向けた。俯いたまま話し続けるマルチの小さな肩が小刻みに震えている。藤
田は声を抑えて聞いた。

「目覚めた時のことは覚えているか」
「…はい」
「どこで目覚めたんだ」
「それが、知らないところなんです」

 マルチは身を竦めながら小声で話す。

「…色々な機械が沢山あって、研究所と似ているんですけど、でもわたしの知っている研究所と
は違うところでした。中にいた人たちも知らない人ばかりで」
「どんな人がいたか、覚えているのか」
「いえ。周りの人は目覚めたわたしを取り押さえようとしたんです。怖くて、相手の顔もよく見
ていません。とにかく必死に逃げ出したんです」
「どうやって学校まで来たんだ」
「すみません。それも、覚えていません。あちこち走って、歩いて、誰も知っている人がいなく
て、誰かいないかと思って。わたしが知っているのは研究所以外ではあの学校だけですから、だ
からあそこへ行って」
「学校につくまでどのくらいの時間がかかったかは」
「分かりません。学校への坂道を登っていたら桜が、あの、桜の花が咲いていて、それを見てい
るうちにずっと夢を見ていたことを思い出したんです。夢で大切な人に会っていたのを。そした
ら、そしたら桜の向こうから浩之さんが」

 マルチが顔を上げる。その目から再び涙が溢れ出る。藤田の胸の奥が軋む。一週間の命を終え
た後になって、全く予想もしない事態に巻き込まれたメイドロボ。誰も知る人のいない中で迎え
る筈のない目覚めを迎え、誰の支えも助けも説明もないままあてどなく逃げ出したの。不安と混
乱の中で初めて出会った知り合いが、いや、とても大切な人間が自分だったのだ。だが俺は。

「なのに浩之さんは知らないって、何も憶えていないって。わたし、わたしもうどうしていいか
分からなくなって…」

 マルチの頬を次々と涙が伝う。そう、俺はそう言った。俺はお前なんか知らない。ぼろぼろに
なって逃げ出したこのメイドロボの前で、俺は無情にそう断言した。そして今でも、俺の記憶は
同じことを俺に向かって言い続けている。記憶にない。こんなロボットと出会ったことはない。
知らない、知らない、知らない。

「どうしてなんですか。どうして。わたしは浩之さんのことだけ夢に見てました。浩之さんの思
い出だけでした。そのまま消える筈だったのに目覚めて、知らない人に追いかけられて、そして
浩之さんはわたしのことを知らなくて、憶えてなくて。どうして、どうしてこんな」
「…マルチ」

 藤田はマルチを引き寄せた。その華奢なボディが藤田の腕の中で震える。しゃくりあげる声が
藤田の胸に響き、小さなマニピュレーターが藤田の服を強く握る。藤田はマルチを力強く抱き締
める。目の下で揺れる緑の髪を見ながら、藤田は心の中で叫ぶ。あんたもこうした筈だ。出て行
こうとしたマルチを前にした時に。俺と同じように行動したに違いない。

 そうだろう、藤田浩之。




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