記憶(1) 投稿者:R/D 投稿日:1月4日(木)00時31分
『…レシピエントは』
『準備できてます』
『ICSIを使う。そっちの用意は』
『Gゼロ期に入っています。いつでも』
『よし。始めよう』



 桜の花が舞っています。
 僅か一週間だけ過ごした校舎をわたしの視界から隠そうとするように。
 ひらひら、ひらひら。
 わたしは校門に立ち止まり、ゆっくりと頭を下げます。
 とても大切な時間を与えてくれた場所に感謝するため。
 決して忘れてはならない人と出会わせてくれた偶然にお礼するため。
 ひらひら、ひらひら。
 桜の花が地面に零れ落ちます。
 わたしが掃除した場所を覆い尽くすかのように。
 わたしは顔を上げて振り返ります。
 あの人がいます。
 わたしを見ています。
 微笑を浮かべて、優しい瞳で、ゆっくりと口を開き…

 そして、あの唄が



 それはゆっくりと足を進め坂を上っている。なだらかに斜面を描く坂は西日に薄赤く照らされ
る。傾いた太陽はどこか朧な春の空気を真っ直ぐに貫き、それの表面温度を引き上げる。手に持
った黒い携帯端末が僅かに光を反射する。
 坂道は沈黙に覆われる。上にも下にも人影はない。伸びた影が二本の脚を交互に動かす様が唯
一のアクセント。細長い棒のような影は重なっては離れ、直ぐにまた交錯する。静かな夕刻の陽
射しの中、それが生み出す足音だけが大気を震わせる。ゆっくりとした、だが着実な歩みがそれ
を丘の上に建つ建築物へと導く。
 揺らめく時。まるで永遠に続くかのような上り坂。夢遊病者のようにおぼつかない足取り。歪
んだ時空の中に閉じ込められたずっと昔のセピア色になった思い出か。過去から切り出され貼り
つけられたモンタージュなのか。現実感の乏しい風景の中を、それはひたすらに足を前に出す。
何かを追うように、何かを切望するように。
 薄紅色の小さな欠片が目の前をよぎる。それは足を止めた。何かを追い求めるように頭を巡ら
せる。それの視界域がアスファルトに覆われた路面から左右へ旋回する。再びピンクの物体が焦
点に捉えられる。小さな薄い桃色のものが重力がないかのように優雅に踊る。微かな風に舞い、
ゆっくりと坂道の横を流れている桜の花びら。そして一つ、また一つ。
 それは顔を上げた。それの頭上に樹木があった。染井吉野の枝を覆い尽くす薄紅色の輝き。風
に身を揺らす木と、緩やかにしかし絶え間なく空中へ撒き散らされる花弁がめまぐるしく光景を
変える。それの動きが止まる。身体が小刻みに、そして次第に大きく震えだす。沈黙を嗚咽が破
る。アイカメラを保護している潤滑液が溢れ出し、顔を伝って滑り落ちる。

 ――仰げば 尊し 我が師の恩

 それは吹雪のような桜花に囲まれ、呆然と立ち尽くす。
 目からとめどなく流れる涙の雫。
 震える口元から押し出される言葉が春の空にゆっくりと溶ける。

「浩之、さん」



 そこに立ち寄ったのは気まぐれだった。

 久しぶりに近くへ来ただけだった。特にその場所に用事はなかった。ただ、少し時間が余って
どうしようかと考えた時に、ふと思い出した。もう二年になる。あそこは変わったのだろうか。
それとも昔のままか。
 坂道を上ってたどり着いたそこは、やはりほとんど昔通りだった。彼はゆっくりと門を入り、
散策した。休み中だったが数人の姿が視界に映った。練習中の体育会のメンバーがあちらやこち
らに。春休みの高校。暖かい空気を渡る微かな風。校舎を眺めながら、藤田浩之はゆっくりと足
を進めた。
 もう卒業から二年か。大学に入ってから、妙に時間が経過するのが早いような気がする。講義
がつまらないからか。単に遊んでばかりいるからなのか。そう言えば同じ大学へ進学した同級生
たちとも、互いに好きなように行動しているうちにいつの間にか疎遠になっている。高校時代に
はいつもつるんでいた仲間も、いまではバラバラだ。
 校舎の脇を通り、中庭へと足を踏み入れる。渡り廊下沿いには昔と同じように自動販売機が立
っていた。藤田はその前に立ち止まった。高校時代に戻ってカフェオーレでも飲もうと小銭入れ
を取り出したが、売り切れの表示が並んでいるのを見て諦めた。よく考えれば今は春休み中だ。
業者も中身の交換を控えているのだろう。
 高校時代も偶にこんなことがあった。昼休みにやってきてボタンを見ると、売り切れの赤い表
示が無情に点灯。カフェオーレは人気メニューだったからすぐになくなるのだ。その時はやむな
くオレンジジュースに切り替えたっけ。そういや、小銭を落として自動販売機の下に転がり込ん
だこともあったな。あれは取り出すのが大変だった。数人がかりでわいわい言いながら探したこ
ともあった。
 しばらくぼんやりと自動販売機を見つめていた藤田は、やがて踵を返した。白い校舎を見上げ
ると僅かに赤く染まっている。そろそろ夕刻だ。中庭を横切って校庭へ歩く。遠く聞こえる練習
の声。校門近くにある桜の木から落ちた花びらが風に乗って藤田の近くまで飛んでくる。戻ろう
か。そう思って門へ向かうと、人影が目に映った。
 その影は上空を見上げていた。いや、空ではない。それが見上げているのは桜の木だった。丘
の上を渡る風が、花びらを舞い散らせている。薄桃色の吹雪のような渦に巻かれたその人影は、
凍りついたように立ち尽くしていた。
 藤田が足を進める。特徴的なシルエットが見えてきた。耳元を飾る大きな影に気づき、藤田は
一瞬だけ動きを止めた。あれはメイドロボだ。メイドロボが桜に魅入られている。藤田の口元に
微かに笑みが浮かぶ。まるで人間のように桜に見とれるロボットか。きっと持ち主がカスタマイ
ズしたのだろう。風流な趣味の持ち主か、それとも変わり者か。再び歩き始める。メイドロボの
頭部がゆっくりと動き、藤田の方を向く。もっともよく見かける来栖川電工製のロボ。
 藤田は校門に近づく。メイドロボは彼の進路を遮るような位置に立っている。そのアイカメラ
が藤田を正面から捉えている。藤田は違和感を覚えて止まった。何かおかしい。正面のメイドロ
ボの様子が変だ。激しく降り注ぐ桜の下で、身動きせず彼を注視するメイドロボ。確か、来栖川
製品の中でも普及しているタイプの…。

「浩之、さん」

 メイドロボの発した音声が藤田の耳に届く。震える声。か細く、高く、弱い声。藤田はやっと
違和感の正体に気づいた。メイドロボが泣いている。そのアイカメラから透明な液体が零れ落ち
ている。藤田は呆然となった。ロボットが、泣く? いったい何だってんだ。何が起きているん
だ。脳裏でそんな疑問が言葉を形作った時、彼の胴体に衝撃があった。
 藤田は腕の中を見た。メイドロボがいた。瞬時にして彼の懐に飛び込んだロボットは、胴体左
右についたマニピュレーターで藤田の身体を抱え込むようにした。奇妙な声が聞こえる。それが
メイドロボの嗚咽であることに気づくまで、暫しの時間がかかった。メイドロボはしゃくりあげ
ながら言い続けていた。

「ひ、ろゆき、さん。ひろ、ゆきさ…ん。浩之、さん。浩之さんっ」

 自分の名を呼びながら泣くロボット。藤田は当惑と混乱に落とし込まれた。ただ、腕の中にい
るロボットを呆然と見やる以外に、何をすればいいのか分からなかった。

「よか、った。浩之、さん。また、また、会えた。会えて」
「あ、その」
「会うことが、できた。本当に、本当に、浩之さんと、また」
「ちょっと」
「嬉しい、嬉しいです。ご、ご主人、様。わたし、わたし、とても」
「待ってくれ、何で俺の名前を知ってるんだ」
「…え」

 藤田の腕の中で泣きじゃくっていたメイドロボの動きが止まる。ゆっくりと顔を上げたロボッ
トの目は、大きく見開かれていた。口元が微かに震える。そのメイドロボの豊かな、豊か過ぎる
表情が驚愕を形作る。藤田は困惑のままメイドロボと見つめ合う。

「…今、何と」
「だから、何でお前は俺が藤田浩之だってことを知っているんだ」
「ひ、浩之、さん?」

 メイドロボの表情が引きつったような笑みを浮かべる。

「あの、何を言っているんですか。わたしを、からかっているんですか」
「からかっているのはそっちだろう。いきなり俺にしがみついたのはいったい」
「そんな。冗談ですよね、浩之さん。まさか、わたしを忘れたなんて」
「忘れたも何も、俺は」
「マルチです。わたしです、浩之さん。わたしのことを」

 桜が激しく舞う。藤田の姿が、マルチの姿が花びらに巻かれて視界から消失しそうになる。

「俺は、お前なんて知らない」




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