継承(5) 投稿者:R/D 投稿日:7月5日(水)23時11分
 来栖川電工の来客用駐車場に辿り着き、自動車に乗り込んだところで携帯が鳴った。春木から
だった。予想通り、警備会社に当たった結果は空振りに終わったらしい。あのマンションの警備
システムから送られてくるデータを見る限り、真鍋の部屋の入り口は午前10時から警察が踏み
込むまでの間、一度も開かれなかったという。おまけに、あのフロアに備え付けられていた防犯
カメラの映像も、その時間帯に扉を出入りした人物がいないことを示していた。
 マンションを作った建設会社とデベロッパーを訪ねるという春木に対し、矢島は真鍋が2ヶ月
前まで勤めていた会社に向かうことにした。昼の陽射しの下で自動車を走らせながら考える。彼
が自殺したことはほぼ間違いない。彼が家具を売り払い、その金を子供に残そうとしていたこと
から見て覚悟の上の自殺だろう。これから訪ねるところでもそれを裏付ける証言が出てくるのは
確実だと、矢島はそう思っていた。
 つまり、我々がやっていることは無駄足となる。それはいい。覚悟の上でやってきたことだ。
上司はいい顔をしないだろうが、それで疑問が晴れるなら自分は満足だ。おそらく春木も。

 そう、問題は彼が自殺だとしても疑問が残ってしまう点にある。いや、春木はともかく、矢島
は最初から彼の自殺にほとんど違和感を感じていない。配偶者を失った男が受ける衝撃について
は、矢島もよく知っているのだ。自殺だったことが裏付けられるのは最初から予想していた。問
題は別のところにある。
 メイドロボ。『メドー』。なぜメイドロボはベランダから落ちたのか。遥か高みから地獄へと
落ちて行った堕天使のように。堕天使は神に落とされた。ではメイドロボも誰かに落とされたの
だろうか。メイドロボの自殺はあり得ない。誰もがそう言う。だが、あらゆる証拠を見る限り、
真鍋が死んだ後にあの部屋にいたのはメイドロボだけだった筈だ。
 誰かに突き落とされたなら分かりやすい。そいつを探し出して器物破損の罪を問えばいい。だ
が、その誰かがいないのだ。では事故か。それも考えにくい。ベランダの手すりはかなり高いの
だ。手すりが壊れてでもいれば事故の可能性もあるが、それもない。となると、やはり自殺にな
ってしまうのか。
 あり得るだろうか。ご主人様を失ったメイドロボがショックを受け、自ら命を絶つなどという
ことが。確かに、呼吸していないメイドロボには首吊り自殺は無理だ。あの状況で後追い自殺を
しようと思えば飛び降りる他になかろう。だが、それでも。

 クラクションが鳴る。信号がいつの間にか青に変わっていたようだ。矢島はアクセルを踏み込
んだ。モーターの回転数が上がり、自動車が速度を増す。目的の会社が近づいてきた。
 とにかく、今は自殺したと思われる男のことを調べよう。だが、そちらに一応のメドがついた
ら、むしろメイドロボに焦点を絞った方がいい。最大の疑問は、そもそもメイドロボがなぜ落ち
たかだ。メイドロボの持ち主より、メイドロボそのものについてもっと調査すべきだ。10時に
部屋に戻ってから何をしていたのか、真鍋が自殺した時には何をしていたのか、なぜベランダに
出てきたのか。隣人の聞いた『かっこう』という言葉も謎のままだ。
 矢島は自動車を降り、目的の場所へと歩き始めた。

 真鍋がかつて勤めていた会社での聞き込みには長い時間がかかった。重要な事実が明らかにな
ったからではない。刑事に聞かれた会社の連中が次々と積極的に話をしてくれたためだ。
 いいひと。それが職場の共通した真鍋観だった。上司も同僚も後輩も、あれほどいい人はいな
いと口を揃えた。親切な人でした。職場でも真面目で仕事もよくやって、他人の面倒もよく見て
いた人です。ある意味ではお人よしで、時に貧乏籤を引くこともありましたね。でも、誰からも
好かれていたし、頼られていたのは間違いありません。恨みを持つ人ですって? 彼に限ってそ
んなことはないですよ。断言できます。
 同時に、真鍋が妻を亡くした後かなり落ち込んでいたことを指摘する者も多かった。昔から愛
妻家として知られていただけに、亡くなった時の様子は尋常ではなかったらしい。会社からも大
勢の人間が葬式に参列したが、真鍋はほとんど何もできない状態だった。結局、親しい同僚らが
葬式の細かい事務を取り仕切ったという。
 かなり情緒不安定になっていた。カウンセラーに相談することを勧めた。気晴らしするよう忠
告したり、しばらく旅行に行ったらどうかと言う者もいた。彼が会社を辞めると言った時には皆
が止めようとした。優秀な人材を失わないようにするのも理由の一つだったが、何より彼の様子
に不安を覚えたからだ。辞表を持ってきた彼は、まるでもう死んだ人間のように見えたという。
退職後も相次いで元上司や元同僚が彼の部屋を訪ねて元気づけようとした。会う度に、彼の表情
から生気が抜けていった。

 彼がなぜ退職後2ヶ月経過してから自殺したのか、そのヒントも得られた。真鍋の後輩だった
女性社員が、彼から聞いた話を思い出したのだ。

「確か奥さんが入院する少し前でした。『メドー』を使う決心がついたって。奥さんとも相談し
てそうすることにしたって言ってました。やっぱり子供が欲しいからって」

 その若い女性社員は、時折鼻をすすり上げながら話した。

「人工子宮で育てた赤ちゃんは、最初の3ヶ月が肝心なんだって言ってました。3ヶ月経過して
問題なければ、ほぼ確実に出産できるって。病院の先生から教えてもらったらしいです。メイド
ロボも買って、これからって時に…」

 妻が入院する前にメイドロボを購入した。そしてほとんど間を置かず、受精卵を人工子宮に着
床させたのだろう。妻が病に倒れて入院したのはその頃に違いない。真鍋が自殺したのは妻が死
んだ約3ヶ月後。あの『メドー』が子供を孕んでから3ヶ月以上が過ぎてからだ。真鍋は単に身
辺整理のために自殺する時期を遅らせた訳ではない。彼は子供が無事に生まれると確信できるま
で待ち、それから妻の後を追ったのだ。

 再び電動自動車に乗り込んだ時にはすでに日は西に傾いていた。矢島は自殺した男を羨んでい
る自分に気づいた。彼は配偶者だけを愛していたのだ。そして彼は自らの片割れのために何の躊
躇いもなくこの世界を後にした。きっと彼の妻も彼を愛していたのだろう。二人は本当に似合い
の夫婦だったに違いない。誰が見ても欠陥のない、完全な。
 矢島は死んだ妻の後を追うことができなかった。それ以前から二人は名前だけの夫婦だった。
矢島は自らの半身を求めていた。だが、妻は違った。彼女が本当に欲していたのは矢島ではなか
った。それに気づいていながら、彼らは夫婦を続けた。プレグナンス・メイドロボの発売が許可
されたあの日まで。
 アスファルトに叩きつけられたメイドロボが矢島を睨む。ブルーのシートから覗く目が矢島の
心臓に突き刺さる。矢島は真鍋を羨んだ。そして妬んだ。彼はメイドロボを信じ、自らの子供を
託そうとしたのだ。彼は他人とロボットを信頼できる人間だった。彼の人生は裏切られることの
ない人生だったに相違ない。妻に裏切られ、ロボットに傷つけられた矢島とは正反対の。

 自動車を走らせる。西日に熱せられた車内の空気が、ねっとりとまとわりつく。



「メシでも食いに行くか」

 上司がそう話しかけてきた。署に戻り、やっつけで報告書を書き終えた時だった。最初に訪ね
たメドー社以外はすべて矢島が勝手にやった捜査だ。従って報告書にはメドー社で聞いた話しか
書いていない。ごく短いその書類を上司に手渡す。

「どうしたんですか。忙しいとばかり思ってましたが」
「忙しくてもメシくらい食う暇はある。それに腹が減っては戦はできないしな」

 上司は薄い報告書をぱらぱらとめくると自分の席に放り投げた。紙はきれいに机の上に着地す
る。矢島は上着を掴むと立ちあがった。

「行きましょう」
「ただし、安いとこで」

 刑事部屋にはまだ戻ってきていない者も多かった。空いた机の間を縫って出口へ向かい、廊下
へ歩き出す。廊下には強い西日が射し込み続けている。すぐに全身に汗が吹き出す。彼らは黙っ
て署の玄関を出ると、すぐ近くにある定食屋に入った。近づいてきた旧式メイドロボに注文をす
る。無表情なメイドロボは注文内容を繰り返すと奥へ向かった。

「…で、どうでした」

 おしぼりで顔を拭いた上司が、一呼吸入れてそう話しかける。大勢の前では乱暴な言葉遣いに
なり、二人きりの時は丁寧な話しぶりに変える。彼は出世競争で矢島を追い抜いた時から律儀に
そのやり方を守っている。それに合わせて自分の話し方を変えているうち、矢島は彼を前にした
時だけ自分が二重人格と化してしまうような気分に襲われるようになった。

「ああ、残念ながら」
「そうですか」
「何もなし、だな。今のところは」

 持ち込んだアルミ水筒に伸びた彼の手が止まる。

「…矢島さん、悪い冗談はなしにしてください」
「冗談って?」
「今のところ、って言いましたよね」
「ああ」
「まさか、今のところは何もないがまだ続ける必要がある、と言うんじゃないでしょうね」
「良く分かったな。その通りだ」

 上司は水筒の蓋を開き、中身を傾ける。すぐに中は空になった。彼は暫く恨みがましい視線で
水筒の中を睨んでいたが、やがて諦めてテーブルの上にあるお冷に手を伸ばした。軽くあおると
矢島を正面から見る。

「何もないのに、なぜ捜査を続けるのか。その理由を説明してください」
「疑問が解けてないからだよ」
「どういうことですか」

 ガタガタと喧しい音を立ててメイドロボが歩いてきた。両手に注文した食事を持っている。こ
の定食屋は早いのと安いのが最大の取り柄である。乱暴に食事が置かれる間、上司と矢島は正面
きって睨み合いを続けていた。メイドロボはまったく気に留めた様子もなく立ち去る。

「春木は最初にこう言っただろ。なぜメイドロボはベランダから落ちたのか。まだその疑問に対
する答えは出ていない」
「まだあの男の自殺を疑っているんですか」
「いや、それは疑っていない」

 上司が妙な顔をする。矢島は木製のトレーに乗った塗り箸を握り、食べ始めた。

「彼は自殺に間違いないんですね」
「…ああ。多分…そうだ。女房に死なれて落ち込んでいた。だから…自分で首を吊った。今時、
珍しいくらい純情な奴だが、まあ不審に思うような点はない」
「それなら…」
「問題は奴じゃない。メイドロボの方だ」

 矢島は箸の動きを止める。上司は茶碗を抱えたまま矢島の顔を覗き込む。

「メイドロボがベランダから落ちた。その持ち主は部屋の中で首を括っていた。今までは、この
二つの現象に何か関連があるという前提で捜査してきた」
「…だけど、実は何の関連もなかった?」
「分からない。だが、男の死をいくら調べても疑わしい点が出てこないのなら、一度この二つを
切り離して考えてみるのもいいと思う」

 彼は矢島の顔をしばらく見つめると、わざとらしくため息をついた。

「切り離してどうするんですか。もしもその二つの現象に関連があるなら、今回の事件には殺人
の可能性が出てくることになるでしょう。でも、関連がないというなら、今度のヤマは自殺と器
物破損が同時に起きただけになる」
「そんなことは最初から分かっていた。そう言いたいんだろう」
「その通りですよ」

 上司はそう言うと忙しく箸を動かした。矢島は頷きながら口を開く。

「お前の言う通りだと俺も思う。多分、今度のヤマは解決できたとしても、器物損壊犯が捕まる
だけで終わるようなそんなヤマなんだろう」
「…ならもう止めてください。今日一日使ったんだ。十分でしょう。他にやってもらいたいこと
だってあるんですから」
「あと一日だけ欲しい」
「矢島さん、これ以上何を…」
「真鍋の母親からメイドロボの残骸を借りたんだ。あるところで調べてもらっている」
「何ですって」

 矢島を見る彼の目つきが厳しくなる。矢島は表情を変えずに返事をした。

「…メイドロボのメモリー内に残されたデータは、一定の条件付きではあるが、証拠として採用
することが可能だ。あのメイドロボのメモリーに何が残されているか、せめてそれだけでも知り
たい」
「まったく。変わりませんね、矢島さんも」

 そう言うと上司は箸をトレーの上に勢いよく置いた。乾いた音が狭い店内に響く。

「ならその調査結果を聞きに行くのだけは認めます。でも、それだけですよ。別のヤマについて
調べてもらいたいことがあるんですから。明日は朝からそっちに回ってもらいます」
「それは弱ったな。俺は明日は風邪を引く予定なんだが」
「なっ」
「そう大声を出すなよ。正直言って、気にかかっているのはあの『メドー』のメモリーだけじゃ
ない。あれを真鍋に売った店についてとか、『メドー』の使用を決めるに当たって相談に乗った
産婦人科医なんかもまだ調べていないんだ。気になって気になって、今夜あたり熱が出そうな予
感がある」
「…矢島さん」

 彼は厳しい目をして言った。

「有給休暇を潰してもらううえに、考課にもマイナスをつけることになります。それでもいいん
ですか」
「今さら気にしないさ。とにかく、明日は休むよ。病気でな」
「分かりました。勝手にしてください。矢島さんにはもう何も言いません。ただし」
「春木は別だろ。分かってる」
「あのお嬢さんはあれで一応、キャリア採用なんです。一日だけなら目を瞑りますが、それ以上
は絶対に駄目です」
「俺もそう思うよ」

 矢島はそう言うと茶碗に残った飯をかきこんだ。飯はすでに冷めきっていた。

「…そういや彼女はどうしたんです。一緒じゃなかったんですか」
「手分けして当たったんだ。そろそろ戻って…」

 矢島の携帯が鳴った。電話に出ると、受話器の向こうから興奮した声が届く。矢島は上司の顔
を横目で見て言った。

「…そのお嬢さんからだ。すぐに来いとさ」



 電動自動車がマンションの下に辿り着いた時には既に日は暮れていた。路肩に車を止めた矢島
は、春木が玄関の近くに佇みマンションを見上げているのに気付いた。車を降りた矢島が近づく
と春木は振り返る。近くの街灯に照らされた顔が笑みを浮かべる。

「…遅いですよ」

 矢島は曖昧に頷きながら春木の傍に立つ。春木は再びマンションを見上げた。そこからメイド
ロボが転落したベランダが見える。矢島も視線を上げた。真鍋の部屋は暗くなっていた。彼の母
親はもう遺品を引き取ったのだろうか。それとも遺品は置いたまま、いったんホテルにでも引き
上げたのか。

「わざわざ来てもらってすみません」
「別に構わないさ。話したいことがあるそうだな」
「ええ。密室の件で」

 隣りに立つ若い女性を見る。矢島は背の高い男だ。斜め上から見下ろした女性の顔には、何か
に夢中になっている子供のような表情が浮かんでいた。矢島は再び視線をベランダに向ける。人
間の表情など、見る角度によってかなり印象が異なるものだ。矢島はできるだけ平坦な口調にな
るよう心がけながら、慎重に話した。

「密室、ね」
「仮説があるんです。矢島さんの判断を聞かせてもらいたいと思って」
「どんな仮説だ?」
「…警備会社に当たった結果は報告しましたよね」
「ああ。データを見る限り、入り口の暗証ロックが開かれた形跡はない。廊下を見ていたカメラ
にも人影は映っていなかった。そうだったな」
「はい。警備会社に言わせれば、あの入り口から部屋の中に出入りした可能性は万に一つもない
そうです。午前10時に真鍋と『メドー』が部屋に戻ってから正午過ぎに警察が踏み込むまで、
あの扉はずっと閉ざされていたと」
「で、お前はどう思うんだ」
「取りあえず、警備会社の言葉を信用するしかないと思います。彼らの証言を覆すだけの材料も
ないですから」

 春木は一言話すごとに小さく頷いていた。自分の言葉を一つ一つ確認しているかのように。

「つまり、入り口からは誰も出入りしなかったと」
「そうです。で、今日は午後からマンションを作った建設会社と、発注したデベロッパーをそれ
ぞれ訪ねてきました。あと、設計事務所も」
「ほう」
「みんな口をそろえて、あのマンションに隠し扉や隠し通路なんかないと言ってました」
「そりゃそうだろう」
「ええ。従ってそうした秘密のルートを通じであの部屋に出入りした者もいない。そういうこと
になります」

 言葉が途切れる。矢島は黙ってベランダを見た。マンションの壁面を飾る多くのベランダは、
屋内の明かりを映してぼんやりと闇に浮かび上がる。だが、その中のいくつかは暗く沈み込んだ
ままだ。真鍋の部屋のように。

「入り口や秘密の通路はない。消去法で考えると、残された出入り口は一つだけです。あのマン
ションに出入りできる唯一の『ユダの窓』は」

 春木は矢島を見た。彼女の視線を横顔に感じながら、矢島はマンションから視線を外そうとし
なかった。

「…ベランダです」

 矢島はゆっくりと春木に向き直った。彼女は生真面目な顔で矢島を見ている。しばらく沈黙が
続いた。矢島は口を開く。

「ベランダは隣室とつながっていないタイプのものだ。ベランダ同士の間には2メートル以上の
距離がある。羽根でも生えていない限り、第三者がベランダから出入りするのは難しいんじゃな
いか」
「普通に考えればそうです。でも、他の可能性がない以上、ベランダについてもう少しよく考え
てみる必要があると思います」
「考えてみたのか」
「はい。最初は隣室のベランダとの間にロープか何かをさしわたす方法を考えました。メイドロ
ボを突き落とした直後に、そのロープを伝って隣室のベランダへ移動したんじゃないかって。で
も、それは無理だと思います」
「ああ。そんなことをしたらものすごく目立っただろうな」
「マンションの壁面をクモ男みたいに横へ移動していたら、きっと誰かの目に触れたでしょう。
確か、メイドロボが墜落した瞬間に、目撃した隣室の女性が悲鳴を上げたんですよね。近くにあ
る別のビルの住人に確認したら、悲鳴が聞こえた瞬間にこのマンションを見たけど、ベランダか
らベランダへ移動するべくロープを渡っていた人間などいなかったと断言してました」
「ならば、やはりベランダから出入りするのは無理だったことになるな」
「ええ。出入りするのは無理だったと思います。でも、あの部屋に出入りしなくてもベランダか
らメイドロボを落とすのは可能だったかもしれません」

 口をつぐむ春木を見る。彼女は視線を外そうとしない。矢島もまた彼女の目を見たまま問いか
けた。

「…どういう意味だ」
「ロープについて考えているうちに思いついたんです。メイドロボを突き落とすのではなく、引
き落とすことはできないかって」
「何だって?」
「こういうことです。犯人は、いえ、犯人たちは、あの部屋の上下の部屋を確保したんです。上
の部屋に待機した犯人Aは両端に重しをつけたロープを持ち込みます。そして、何らかの方法で
メイドロボをベランダへおびき出します。同時に犯人Aと、下の部屋にいる犯人Bもベランダに
出ます」
「それで」
「ベランダにいるメイドロボに向かって犯人Aがこう呼びかけます。『手すりに寄り掛かる格好
をしろ』と」
「…隣室の女性が聞いた『かっこう』という台詞は、その時のものだったと言うのか」
「はい。そしてメイドロボはその命令に従います。ロボット三原則の第二原則、ロボットは人間
を傷つけない限り、人間の命令に従わなくてはならない」
「お前が何を言いたいか分かったような気がするよ。ベランダの手すりに寄り掛かったメイドロ
ボの上から犯人Aが重しをつけたロープを落とす。ロープの真ん中あたりがメイドロボの首筋に
引っかかり、両端の重しは下の部屋で待つ犯人Bの目の前まで落ちてくる」
「…そして重しを掴んだ犯人Bがそれを思い切り引っ張る。ロープに引っ張られたメイドロボは
バランスを崩して手すりから空中へ投げ出されます。その瞬間に犯人Bがロープの両端のうち片
方から手を離せば、メイドロボはロープに絡まることなく落ちていきます」
「最後に犯人Bはロープを回収。かくして誰もいないはずの部屋からメイドロボが墜落するとい
う不思議な現象が起きた、という訳か」

 矢島は大きく息をつくと再びマンションを見上げた。春木もつられたように上を向く。夜の空
は薄汚れた闇に覆われている。昨日の昼、彼らが見上げる空から『メドー』が落ちてきたのだ。
重力という名の神に吸い寄せられるように。

「…面白い仮説だ。だが、俺には納得できない」

 矢島の声を聞いても春木は何の反応も見せなかった。

「そもそも、犯人がそんな手間暇かける理由が不明だ。罪に問われるとしても、たかだか器物破
損に過ぎない。なぜわざわざそんなことをするんだ」
「…………」
「メイドロボを破壊する目的も分からない。これまで犯罪者がメイドロボを破壊した事例を見る
と、ほとんどはメイドロボに何か目撃されたか、あるいは犯行を阻止されそうになったとか、そ
ういった分かりやすい事情があった。だが、お前の仮説の通りだとすると、その部分も説明でき
なくなる。そもそもあの部屋に侵入していない犯人たちにとって、メイドロボに目撃されて困る
などという事態は起きないはずだ」
「…その通りなんです」

 春木は頷いた。短い髪が微かに揺れる。困ったような口調で話し続ける。

「さっきの仮説を考えたところで真鍋の部屋の上下を実際に訪ねてみました。上の階に住んでい
たのは子供が二人いる家族で、昨日の昼は母親が子供を室内で遊ばせながら入り口のところで隣
人と井戸端会議をしていたそうです。彼女も『メドー』を使っているんですが、あの時間は買い
物に行かせていたとか。ロープを持ってベランダで待ち構えていた人などいなかったと、彼女も
隣人も口をそろえていました。下の部屋は年配の女性独り暮らしです。昨日の昼、部屋にいたの
は自分一人だと主張してました。残念ながら、あの女性にはロープを力いっぱい引っ張る力はな
さそうでしたね」

 一気にまくし立てた春木は再び矢島の方を見ると言葉をつないだ。

「つまり、ベランダも『ユダの窓』じゃなかった、ということになりそうなんです。あの部屋は
確かに密室だった。いえ、言葉の本来の意味で密室だったんです。あの部屋には本当に誰も出入
りしていないし、誰かが外からトリックを使ったのでもない。そうとしか思えないんです。なら
ばどうしてメイドロボは転落したのか。それを知るにはもう、メイドロボそのものについて調べ
るしかないんです」

 春木の言葉に意表を突かれた矢島は、思わず彼女の方に振り返りその顔をしげしげと眺めた。
口元を引き締めた若い女性は、何かの宣誓でもするかのように胸を張って言った。

「捜査の方向性を変えるべきです。あの『メドー』についてもっと詳しく調べることが重要だと
思います。まず、遺族からメイドロボの残骸を借り受けてそのメモリーを」
「もう借りた」
「…え」
「すでに調査も依頼してある。明日には一応の結果がでるだろう」

 春木は口を開けたまま凝固していた。矢島はわき上がりそうになる苦笑を必死に押さえながら
外見は淡々と説明を続ける。

「後は実際に『メドー』を販売した店を探し出すこと。それに『メドー』を使うよう真鍋夫妻に
提案した産婦人科医に当たるのも必要だな」
「…や」
「もう一回メドー社を訪ねる必要もありそうだ。それだけやって、もしも何の情報も得られない
なら、その場合は諦めるしかないかもしれん」
「矢島さんっ」

 春木がいきなり矢島の手を掴む。仰天した矢島の様子を気にも留めず、彼女は掴んだ彼の手を
ぶんぶんと振り回した。

「凄い。本当に凄いです。やっぱり矢島さん、私が思った通りの人でしたねっ」
「別にそう凄い訳でも…」
「じゃ、明日から早速そちらの方を当たりましょうっ。今日みたいに手分けしますか? 私はど
こを当たりましょうか」

 興奮する春木から無理やり手をほどいた矢島は、低い声で言った。

「いや、もう手伝いはいらない」
「…え?」
「残りは俺一人でやる。お前は通常の業務に戻れ」
「な、何を言って」
「二人がかりでやる程のことでもない。いや、二人も投入したらむしろ人材の無駄遣いだ」
「矢島さん」
「結果は教えてやる。手柄になっても独り占めするつもりはない。それでいいだろう」
「待って」
「分かったら今日はもう帰れ。明日はいの一番に署に行って、皆に今日のことを謝っておくんだ
な」
「待って」
「いい子だから言われた通りにしろ。このヤマにこれ以上かかわっても功を上げるのはほとんど
無理だ」
「待って」
「ダメだ。本来の仕事に帰るんだ。いいな」
「矢島さんっ」
「話は終わりだ」

 背中を向けた矢島に向かって春木の悲鳴がこだまする。

「逃げるのっ」

 矢島は足を止めた。背後から激しい息遣いがする。矢島は低い声で呟いた。

「…ああ。逃げさせてもらう」

 生暖かい空気がねっとりとまとわりつく。矢島は振り返ることなくその場を歩み去った。




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