継承(4) 投稿者:R/D 投稿日:7月5日(水)01時10分
「報告書はどうした」

 署に顔を出した矢島に上司がかけた第一声がそれだった。矢島は上司の顔を見て無視できそう
もないと判断すると、一度座った椅子からゆっくりと立ちあがった。窓を背に座る彼は矢島の方
を疑り深そうな目で見ている。窓際という言葉は一般には出世街道から外れた人間に冠されるこ
とが多いが、実際に窓を背に座るのはむしろ出世している連中だ。上司の背後から今日も夏の太
陽が顔を覗かせている。まだ朝だというのに陽射しは強い。

「何でしょうか」
「昨日言っていた報告書はどうした、と聞いている」
「まだできていません」

 矢島の無表情な返事を聞いて上司は小さくため息をついた。そして声をひそめて話しかける。

「…何やらかそうとしてるんですか、矢島さん」
「別に何も」
「嘘ついたってダメですよ。いったい何年付き合っていると思ってんですか」
「心配するな。一人の窓際刑事がちょっと仕事をサボったところでそんな問題にはならんさ」
「少しならね。でも二人がかりで日がな一日行方不明になったりしたらそうは行きません」
「何のことかな」
「矢島さん」

 上司は机の上に置いたアルミの水筒を握った。あれは彼にとって精神安定剤と同じ効果をもた
らすものなのだろう。彼は水筒を掴んだまま、さらに声を低める。

「何か引っかかりそうなんですか」
「まだ分からない…いや、正直言って、引っかからない可能性が高くなっている」
「まったく」

 彼は水筒の蓋を開けると素早く中のミネラルウォーターを喉に流し込んだ。矢島はふと窓の外
に目をやった。駐車場の隅っこで一生懸命手を振って合図を送っている誰かがいた。水筒を下ろ
した上司は小さな声で言った。

「…今日だけですよ」
「2日は欲しいな」

 外で合図しているのは春木だった。車の陰から必死に何かを訴えようとしている。どうやら上
司に見つかるより前に出てきてくれと言いたいらしい。

「いいえ、今日だけです。いいですね」
「仕方なかろう」

 もったいぶって頷き、矢島は踵を返す。2、3歩離れたところで振り向き、

「代わりに一人借りますんでよろしく」

 と言い放ち、出口へ突進した。上司の反対の声が届くより前に矢島は廊下へ飛び出し、さっさ
と駐車場へ向かう。自分の電動自動車に乗り込むと、既に助手席に座っていた春木がナビに行き
先を入力しようと悪戦苦闘していた。

「…おい、どうやって入り込んだ」
「鍵かけてませんでしたよ」
「嘘つけ、きちんとロックしたのを確認してある」
「気のせいでしょ。それより今日はどこへ行きます?」

 そう言いながら春木はバッグから取り出したサンドイッチを矢島の前に突き出した。

「…何だこれは」
「朝食です。どうせ食べてないでしょ」
「いやしかし」
「さ、あんまり時間ないんですからすぐ移動しましょ。これなら運転しながらでも食べられるで
しょうし。それとも、私が食べさせた方がいいですか」
「…………」

 矢島は渋々と車をスタートさせた。早くもぎらつき始めた太陽の下で、電動自動車はアスファ
ルトの照り返しを縫って進む。

「で、今日はどこへ行くんですか」

 春木の声にサンドイッチを飲み込んだ矢島が答える。

「二手に分かれよう。本当はコンビを組むのが常道だが、そうも言っていられないだろう」
「いいですよ。で、どうします」
「彼が2ヶ月前まで仕事をしていた会社は調べるべきだろう。彼の友人についてもだ。それに、
母親にも追加で確認したいことがある。あの部屋の中にあった家具がどうなったのか知りたい。
昨晩はいなかったが、あの夫婦が利用していた病院の産婦人科の医者にも話を聞いておいた方が
いいし、メイドロボを購入した店が判明すればそこも当たっておきたい」
「それだけじゃないですよ」

 春木は楽しそうに言いながら矢島に缶入りのミネラルウォーターを差し出した。

「密室の謎があるじゃないですか。私は警備会社のデータをきちんと調べるべきだと思います。
後はあのマンションそのものの構造を今一度チェックした方がいいんじゃないかと」
「まさか隠し通路があるとか言うんじゃないだろうな」
「どんな可能性だって検討するべきです。マンションを作った建築会社も訪ねてみたいですね」
「分かった。手分けして当たるとしよう」



 密室にこだわる春木を警備会社の入り口で下ろすと矢島は昨日訪ねたビジネスホテルへと車を
向けた。朝のうちに訪ねればチェックアウトする前の真鍋の母親を捕まえられるだろう。渋滞す
る街路をゆっくりと走る。射し込む陽射しで車内の温度が上がり始めた。
 ホテルに到着した時にはすでにハンカチをかなり酷使していた。刑事の安月給では自動車の中
でクーラーを多用して、充電回数を増やすだけの余裕はない。駐車場に車を止めると彼は急いで
冷房の効いたホテル内へと駆け込んだ。

「あ、刑事さん」

 真鍋の母親はちょうどロビーでチェックアウトの手続きをしているところだった。矢島は彼女
の用事が済むのを待つ。彼女は小さなバッグを一つ、腕に下げているだけだ。矢島は料金を払っ
て近づいてきた彼女に聞いた。

「息子さんの遺品についてお伺いしたいのですが」
「息子の遺品、ですか」
「ええ。確か通帳があったと思うのですが、今お持ちでしょうか」
「先ほど警察の方から、遺品は全部息子のマンションに戻したと連絡があったんですが」

 矢島は心の中で舌打ちした。そう言えば遺書も脚立も捜査に必要だとして警察が預かっていた
のだ。そんなことも忘れていたとは。彼は取り繕うように彼女に笑いかけた。

「…そうでしたね。これからマンションの方へ行くんですか」
「ええ、そのつもりです」
「ではついでですからお送りしますよ」
「いえ、しかし」
「お気になさらないでください。お聞きしたいこともありますし、あのマンションにも少し用事
があるものですから」

 矢島は彼女を追いたてるようにして自分の車に乗せた。運転席に座り、少し考えてクーラーの
スイッチを入れる。慎重にハンドルを切りながら助手席に座っている息子を失った母親の姿を見
る。一晩たっても彼女はまだ呆然としていたままだった。現実を受け入れられないのか、受け入
れたのだがどう反応していいのか分からないのか。
 それにしても、もう遺品を返すことが決まったとは。夏に染め上げられた路上を走りながら矢
島は唇を噛んだ。どうやら上司は矢島の報告書を待たずに事件の処理を進めているようだ。春木
の疑問を元に始めた捜査も、今のところ成果は上がっていない。このまま単なる自殺と判断され
て、事件は書類の山に埋もれていく。そんな未来図が思い浮かぶ。

 住宅街近くにあるマンションはすでに日常へと戻っているようだった。近くの公園には子供連
れの母親が集まっていた。いや、正確には母親はほとんどいない。『メドー』は通常のメイドロ
ボよりかなり割高である。子供の欲しい両親は『メドー』を購入する一方で共働きに出るのがほ
とんどだ。公園で表情豊かに子供と遊んでいるその大半は『メドー』だった。
 助手席の女性がぼんやりと子供たちを見ている。息子の小さい頃を思い出しているのか、それ
ともついに巡り会うことが叶わなかった孫のことを考えているのだろうか。矢島は駐車場に入る
と公園の見えない場所に車を止めた。

「…確かに、遺品は戻されているようですね」

 話しかけた矢島に返事もせず、母親は室内に上がった。マンションの中は相変わらず何もなか
った。真鍋が自殺していたリビングの一角に、僅かに残されていた遺品が並べてある。脚立。免
許証。通帳。彼が最期に着ていた服。メイドロボ用の充電端末とマニュアル。各種のメイドロボ
用オプションソフト。そして、ビニールシートをかけられているメイドロボ本体。彼女は遺品の
傍にへたり込むように座ると、遺品を一つずつ手にとって見始める。
 矢島は暗証ロックを調べてみた。大手警備会社が開発したタイプのもので、鍵を外すには暗証
番号の他に登録した指紋が必要だ。しかも警備会社とオンラインで接続されているため、通常の
手順以外の方法で鍵を開ければすぐに警備員が飛んでくる。矢島の自宅のに比べ、遥かに高度な
鍵だ。新しいマンションほどいい警備システムを整えている。
 もちろん、人間が作ったもので完璧なものなどない。こうした鍵でも十分な手間と金をかけれ
ば疑われることなく開け閉めするのも可能だ。問題は、それだけの手間暇をかける理由である。
金目当てだとしたら、ほとんど家具を売り払った真鍋の家に侵入したところで無意味だ。そもそ
も通帳にはまったく手をつけていない。
 すると、考えられるのは怨恨となる。だが、これまでの捜査で彼に恨みを持つ人物は見つかっ
ていない。愛妻家で、妻を失って身も世もなく泣いていた男。余り他人の憎しみを買うような人
物だとは思えない。
 リビングに戻ると母親はメイドロボ用オプションソフトを順に手に取っているところだった。
モーツァルトやベートーベンの音楽を収めた情操教育用ソフト、鶯や郭公、梟、仏法僧など様々
な鳥の鳴き声を集めたソフト、バスや消防車といった各種の乗り物の情報を収めたソフト。生ま
れて来る子供の性別がどちらでも対応できるように購入したのだろう。矢島は彼女の背後から声
をかけた。

「よろしいですか」
「…………」

 彼女は黙ったまま振り返った。その目は相変わらず虚ろだ。矢島は彼女の傍に膝をつくとフロ
ーリングの床に投げ出されていた通帳を手に取った。素早く中身を確認する。預金額はそこそこ
だ。そして予想通り、会社を辞めた後も何回か入金があった。

「…前にこの部屋を訪ねたのは何時頃ですか」
「…はあ」

 母親は矢島を見ながら小さく答えた。

「真沙子さんが亡くなった時に来ました」
「その時から、部屋の中はこんなに空っぽだったんですか」
「いえ、そんなことはありません」
「ということは、息子さんは奥さんが亡くなった後に家具などを処分したのでしょうね」
「そう、なるんでしょうか」
「家具を処分したことについて息子さんは何か話していませんでしたか」
「いえ、心当たりはありませんが…」

 彼女が小さくため息をつく。視線を落として手に握った言語教育用オプションソフト入りDV
D−ROMを見る。いや、その目は実際には何も捉えていないだろう。矢島は再び通帳を見た。
金を振り込んできたのが家具業者であることを確認する。後で電話をしよう。はっきりとしたこ
とは分からないかもしれないが。

「…あの子が何を考えていたか、私には何も分かっていなかったんですね」

 矢島は顔を上げた。死んだ男の母親は無表情に呟く。

「どうしてあの子は家具を処分したんでしょう。どうして」

 矢島は悩んだ。自分の推理を話してもいい。彼は自分の子供のためにそうしたんです、と。少
しでも子供の役に立つよう、とにかく多くのお金を残そうとしたのだと。もう使うことのない家
具を処分して、子供が無事に育つ可能性を高めようと。
 結局、矢島は黙って通帳を床に置いた。死にゆく彼が唯一、気にかけていた子供はもうこの世
にいない。それをまたこの母親に思い出させるのは、かえって酷だろう。

 矢島は立ちあがって室内を見渡した。結局、ここで見つかったのは真鍋が自殺した可能性を高
める状況証拠だけだった。春木の直感も、それに従って動いた矢島の行動も、どうやら的外れに
なりつつある。だが、まだ確認しなければならないことは多い。彼は床に座り込んだままの母親
に別れを告げようとして、口を閉ざした。
 何か気に掛かる。何かが引っかかっている。この部屋の何かが。矢島は改めて部屋を見回す。

「…もう一つ、お願いがあるのですが」

 矢島はある一点を見ながらそう口に出した。真鍋の母親が顔を上げる。

「あれを、お借りしていいでしょうか」



 電動自動車に荷物を運び込み、運転席に座ったところではたと迷った。どこへ行けばいいのだ
ろうか。本来なら警察の研究所へ向かえばいいのだが、残念ながら矢島が今やっていることは正
規の任務とは言いがたい。ではどうするか。愛想のいい男の顔が頭に浮かぶ。確かにあそこに行
って頼むこともできるだろう。だが、こういう場合はできるだけ事件と無関係なところを選ぶの
が原則だ。考え過ぎだと思いながら矢島は携帯を取り出した。
 番号案内で調べた先に場所を聞き、車を走らせる。意外に近い場所に目的の建物はあった。来
客用駐車場に電動自動車を滑り込ませた矢島は、荷物を両手で抱え玄関の自動ドアをくぐった。
でかいビニールシートを持つ男が入ってきたのを見てロビーにいた人間が一斉に注目する。受付
のメイドロボは淡々とした表情で立ちあがる。矢島は荷物を受付の机の上に置くと身分証明を提
示した。

 メイドロボに案内されたのは豪勢な応接室だった。昨日訪ねた同業他社の応接室に比べると天
と地ほどの差がある。こちらの方が業界では古参だし、しかも最大手である。それだけ資産があ
るということだろう。青々と生い茂る観葉植物を見ながらそんなことを考えていると、扉が開い
て女性が入ってきた。

「お待たせしました。警察の方だそうですね」

 はっきりした口調で話す女性は矢島に名刺を差し出した。取締役広報担当と肩書きのあるその
名刺を見て、矢島は目の前の女性がこの企業のオーナー一族であることを知った。女性は優雅に
腰を下ろすと矢島を正面から見た。思ったより年配なのかもしれない。自分と同じくらいだろう
か。矢島は高校時代、この会社のご令嬢と言われていた女性が同じ学校に通っていたのを思い出
す。目の前の女性はその人と同一人物だろうか。

「どういったご用件でしょうか」

 彼女は落ち着いた様子で言った。矢島の隣にあるブルーのビニールシートを気に留めた様子も
ない。大物の雰囲気がある。矢島は黙ってビニールシートをめくった。昨日、アスファルトに激
突して壊れたメイドロボの首が顔を出した。女性は表情も変えずにその首をしばらく見ていたが
やがて矢島に視線を戻した。

「…メドー社の製品ですね。これが何か」
「メイドロボの内部には、そのロボが目撃したデータが一定時間残されるようになっている筈で
すね」
「ええ。どの会社の製品もそういう仕様になっています。当社のも、メドー社の製品も」
「では、このメイドロボ内のデータを調べることも可能ですね」

 女性は一瞬だけメイドロボの首に目を遣ると、腰を据えて話そうとするかのように一つ、深呼
吸をした。矢島は少しだけ身構える。妙に迫力のある女性だ。

「その質問にお答えする前に、こちらの疑問をいくつか申し述べさせていただきます」
「…どうぞ」
「警察内にそうしたデータを解析する施設はある筈ですし、専門家もいると聞いております。あ
なたが警察の人間ならそちらの方にそのロボットを持っていくのは普通だと思うのですが」
「なるほど」
「はっきり申し上げまして、貴方が本当に警察の方かどうか私は疑問を持っています」
「身分証明はお見せした筈ですが」
「世の中には様々なものを偽造する人がいますから」
「分かりました」

 矢島は口元を歪めた。この女性は単にオーナーの一族だからという理由で取締役になったので
はなさそうだ。こういう場合は素直に手の内を見せるほかないだろう。何と言ってもこちらは相
手の好意を当てにして協力を要請している立場なのだから。

「おっしゃる通り、通常の捜査ならそうします。つまり、今回のケースは通常の捜査とは少し異
なるものだと考えていただきたいのです」
「どのように違うのか、説明いただけますか」
「…正規の捜査ではない、ということです。私が個人的に調査しているのです」
「個人的に?」

 彼女の目が鋭くなる。矢島は慌てて言葉を継いだ。

「もちろん、個人的な目的のためにやっているのではありません。ある事件について、私が疑問
を抱いているということです。警察全体としてはその件を調べていませんが、私はまだ捜査する
余地があると判断しているのです」
「ある事件、ね」

 女性は少し笑った。そうするとかなりチャーミングな印象になる。この笑顔と、先ほどまでの
厳しい表情の使い分けを意識的にできるとしたら、この女性はかなりのタマだ。

「その事件とは、もしかしたらメイドロボの『後追い心中』事件のことかしら」
「何ですって」

 矢島は思わず腰を浮かした。

「先ほど、通信社がネットで報道してましたわ。自殺したご主人様の後を追って、メイドロボが
飛び降り自殺したって。人間同士がお互いに信じられなくなっている今の時代、メイドロボの方
がよほど純粋じゃないかって、面白おかしく書かれていたわ」
「何てことを」

 どこから嗅ぎつけたのか分からないが、あの事件を記事にした記者がいたらしい。単なる自殺
だけなら記事にもならないだろうが、あの状況を後追い自殺だと見立てれば確かに珍しい話にな
る。それにしても、余りにも遺族に対して無神経な記事ではないだろうか。
 憤慨している矢島を面白そうに見ていたその女性は、猫のような笑みを浮かべながら言った。

「どうやら、図星だったみたいですね」
「…ええ、そうです。でもどうして分かったんですか」
「貴方が疑問を抱いている、と聞いたからです。私もそのニュースを見た時に疑問を感じました
から」
「疑問ですか」
「はい。メイドロボが自殺などする筈がありません。まして後追い自殺など」

 強い口調で断言した後、彼女は再び表情を和らげた。今度は慈母の笑みがそこに浮かぶ。矢島
は心底恐れ入った。間違いなく、彼女はいずれトップに立つ人間だ。周囲の人間を思い通りに動
かす術を生まれながらにして身につけていたに違いない。

「ですから、お手伝いさせていただくことにしますわ」
「え、本当ですか」
「はい。当社の研究所の者に命じて早急に内部メモリーにあるデータをサルベージさせます。急
いでかかれば明日には何らかの結論を出せると思いますが」
「ありがとうございます。では、是非ともよろしくお願いします」

 矢島は立ちあがって彼女に頭を下げた。




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