電動自動車が街を走る。すでに日は落ちたというのに、未だに街中は熱気に包まれていた。ヒ ートアイランド現象だ。今の世の中は前世紀に比べれば環境に配慮した社会と言えるだろうが、 この現象だけは変わっていない。各種の温室効果対策は実行に移されてかなりの時間を経ている ものの、真夏の都市部を襲う暑気を和らげるまでには至っていない。 助手席に座る春木は熱心にナビを見ている。その様子は優秀なナビゲーターというより新しい 玩具を手に入れた子供みたいだ。矢島はバックミラーに映った後部座席を見る。そこに投げ出し た書類の中身を反芻してみる。被害者についての簡単な捜査資料。報告書提出のために必要だと 上司を説き伏せて借り出したその書類に、被害者の母親が泊まっているホテルについても簡単に 記されていた。先ほど、署に戻ってきた時に矢島のすぐ横を駆け抜けていった年配の女性がおそ らくそうなのだろう。息子の死を知って取るものも取りあえず駆けつけてきた肉親。事件の度に 見る光景であり、そして事件の度につらい思いをするシーンである。 「次の角を右よ」 助手席から春木の声がする。彼女はナビに覆い被さるような格好で熱心に道を読んでいる。指 示に従ってハンドルを切る。蒸し暑い大気とネオンに彩られた闇を裂いて車は走る。目の前にホ テルが見えてきた。安さが取り柄のビジネスホテル。矢島は苦労して駐車する場所を探した。 小さなフロントで相手を呼び出し、ソファが1セットしかない狭いロビーで待つ。現れたのは やはり刑事部屋から嗚咽とともに駆け出してきたあの女性だった。虚ろな瞳でロビーを見回して いる。矢島はゆっくりと立ちあがって会釈をした。女性は僅かに頷くと矢島の正面に腰を下ろし た。自分の母親よりは若そうな、しかしかなりやつれて老けて見えるその女性に向かって矢島は まず哀悼の意を述べた。 「いくつか教えていただきたいのです。よろしいでしょうか」 「…はあ」 力ない返答だった。まだ現実を受け入れきっていないような、そんな声だった。矢島の隣に座 る春木が居心地悪そうに身動きをする。エネルギーに溢れているような彼女にとって、目の前の 女性を見るのはそれだけで苦痛なのかもしれない。 「息子さんは確か、結婚してらしたんですよね。奥さんは3ヶ月ほど前にお亡くなりになった。 間違いありませんか」 「ええ」 母親は手に持っていたハンカチを強く握り締めた。彼女が真沙子という名の息子の嫁とどうい う関係にあったかは分からない。だが、嫁に続いて息子まで亡くなったことに伴う衝撃は大きそ うだった。 矢島は手際良く、事務的に質問を重ねる。息子が2ヶ月前に職を辞めたこと。そのころから実 家ともほとんど連絡を取ろうとしなくなったこと。偶に連絡があっても亡くした妻に対する思い を繰り返すだけだったこと。母親も息子の様子がおかしいとは思っていた。一度、機会を見て様 子を見に来たいと思っていた矢先に、今回の事件が起きたのだ。 「…もっと、もっと早く来ておけば良かったんです。仕事を辞めたって聞いた時にちゃんとあた しが様子を見てやれば」 ハンカチはいつの間にか彼女の目許にあてられ、そこから動かなくなっていた。 「昔から、ちょっと情緒不安定なところのある子だったんです。でも、結婚してからは随分と落 ち着いてきて、あたしも安心していたんです。真沙子さんが亡くなった時には随分と泣いてまし てね。でももういい年なんだから心配ないって、そう思って、思い込んでいたんですけど」 「分かります。ですが、ご自分を責めるのはやめた方がよろしいでしょう」 「でも、でも」 「まだお伺いしたいことがあるんです。大丈夫ですか」 矢島はそう話しかける。彼女はハンカチを顔に押し当てたまま頷いた。 「息子さんがメイドロボを購入したのは何時でしょうか」 「さあ…詳しくは……知りません。でも、あたしが真沙子さんの見舞いに来た時にはもういまし た。今の若い人はよくメイドロボを利用していますから…別に不思議だとは」 「メイドロボを買った理由については何か言ってなかったんですか」 「真沙子さんが買えといったらしいです」 「あれが『メドー』だというのはご存知でしたか」 春木が言葉を挟んだ。母親が驚いた様子で彼女の方を見る。 「は? めど、ですか」 「体内に人工子宮を持つタイプのメイドロボです」 「ああ。そういうのがあるそうですね」 母親は鼻をかんだ。矢島と春木は彼女が再び話し出すのを待つ。 「…そう言えば、真沙子さんが息子とよくそんな話をしていました。彼女は、その、何ですか、 何とかいうものの影響で上手く子供が生めないらしくて」 「環境ホルモンですね」 「確かそんな名前です。だけどやっぱり子供が欲しいから、メイドロボを使おうかって」 そこまで話して彼女は顔を上げた。何かを思い出したようだった。 「…あの、それじゃもしかしてあの子の遺書に書いてあったことって、子供を残してとかいうあ れは」 「あ、それはあの」 「まさかあの子の赤ちゃんが、あのメイドロボの」 母親の表情が強張るのを見て春木が焦るのが分かった。この女性は、あのメイドロボが息子の 子供を、つまり自分の孫を身ごもっていたことに今の今まで気付いていなかったのだ。どう答え ていいのか分からなくなった春木が矢島を見る。矢島は口を開いた。 「墜落したメイドロボの体内には確かに胎児がいました。おそらく、息子さんの子供でしょう」 「その子は、その赤ちゃんは無事なんですかっ」 「いえ、残念ながら…」 矢島の言葉を聞いた彼女の全身からがっくりと力が抜けた。それは生きる目的を見失った人間 のオブジェだった。矢島の脳裏に亡妻の姿が思い浮かぶ。彼女も子供を失った時にはこんな風に 見えた。まるで何かの抜け殻のようだった。生物にとって最も基本的な繋がりである親子の絆。 それを断ち切られた時の思いは彼も身に染みていた。彼女を見ながら矢島は何時までたっても消 えない心の痛みを改めて感じていた。 彼らは別れの挨拶もそこそこにホテルを逃げ出した。夜を走る電動自動車の中で春木は黙り込 んでいる。矢島は時折ナビに視線をやりながら車を運転した。 「…あの、ごめんなさい」 春木が沈黙を破った。矢島は視線を正面に置いたまま答える。 「なぜ謝るんだ?」 「あ、その。だってその、矢島さん」 春木が口ごもる。矢島は黙って彼女が続きを話すのを待つ。ハンドルを握る手に汗がじっとり と浮かぶ。 「…矢島さん、前に奥さんを亡くしたんですよね」 表情は変えない。呼吸も乱さない。心臓のペースもだ。僅かに奥歯を少し噛み締めるだけ。矢 島は刑事として長く暮らしている間に身につけた自らを律する技術を総動員していた。彼の身体 は機械のように正確に運転を続ける。脳裏に浮かぶ記憶を追い払おうとしながら。 暑い夏。自宅への道は太陽に熱され陽炎を上げていた。必死に走る矢島の身体を常軌を逸した ような熱気が取り囲む。セミの声が喧しかった。なぜ環境ホルモンはセミには影響を与えないん だろう。そんなことをふと思った。自宅の玄関が見える。ノブに飛びつき、引き開ける。 開けた扉の向こうに、何かがぶら下がっていた。 それは振り子のように揺れていた。 その後ろから夏の陽射しが屋内に射し込んでいた。 陽射しの当たった床は白く光り輝いていた。 目の前の2本の足は黒く影になっていた。 矢島はその場に崩れ落ちた。 全身から力が抜けたかのように。 まるで何かの抜け殻になったかのように。 あれは、『メドー』の発売が正式決定した日だった。 「思い出したんじゃないですか。その、奥さんのこと」 春木の声が遠くから聞こえる。矢島は黙って正面を見続けた。その沈黙を不快感の表明と見た のか、春木が慌てて言い訳めいた言葉を連ねる。 「あの、本当にごめんなさい。あたしってバカですよね。あんな質問するなんて。あのお母さん をさらに悲しませることになったし。それに、矢島さんの前で言わなくてもいいことなのに」 矢島は黙ってウインカーを出した。慎重にハンドルを切る。視線を動かし、道路標識に注意を 払う。完璧な安全運転で彼は車を走らせる。夜はまだ暑い。 「…あの、矢島さんの奥さんの話、私聞いてます。それに矢島さんが左遷されるきっかけになっ たあの事件のことも」 春木がせき込んだように言葉を投げつけてくる。矢島はゆっくりとハザードランプを点滅させ ながら電動自動車を路肩へ寄せる。周囲は住宅街。沈んだ空気の中にいくつかの街灯と看板が灯 りを発する。 「私、その」 「降りるぞ」 「え?」 矢島は春木の返事を待たずにドアを開けて路上へ降り立った。ねっとりとした空気が再びまと わりつく。矢島は正面に見える看板に向かって歩いた。それは病院だった。矢島は夜間入り口か ら入ると守衛に話しかける。守衛が連絡を取る間、彼はそこで待った。灯りを落とした夜の病院 は沈黙に守られている。傍に立った春木が小さな声で話しかける。 「あの、ここに何の用ですか」 「真鍋真沙子が、あの男の妻が入院していたのがここだ。念の為と思って来てみたが、幸いに彼 女を診療していた医者が今日は当直でいるらしい。短時間でいいから話を聞いてみよう」 「は、はあ」 足音が響く。非常口を示す緑色のランプに照らされて背の高い女性が歩いてきた。白衣を身に 着け髪を短く刈った彼女に向かって矢島は身分証明を提示した。彼女は落ち着いた様子で頷く。 胸元に「榎木」と書かれた名札をつけている。 「短時間にしていただけますか。まだ仕事がありますので」 「分かっております」 榎木に向かって矢島は手早く質問をぶつけた。真鍋真沙子の病気について、入院していた時の 様子について、そして自殺した彼女の夫について。 「そうですね。とても仲のいい夫婦でした。良過ぎたといってもいいかしら。奥さんが亡くなっ た時のご主人の落胆ぶりが酷かったのを覚えています」 「かなり落ち込んでいたと聞いたんですが」 「ええ、とても。尋常ではない悲しみ方でした。カウンセリングを受けた方がいいのではないか と思ったほどです」 「それでは」 矢島はいったん言葉を切り、僅かに唇を湿らせて話を続けた。 「奥さんを失ったショックで自殺しても不思議ではないですね」 「私の専門は神経科ではありませんから確言はできませんが、そうですね。不思議ではないと思 います」 「そうですか」 真沙子の病気についても不審な点はない。榎木はそう断言した。矢島は横目で春木の様子を窺 った。彼女は遠慮しているのか、黙ってメモを取っている。矢島は再び榎木を見た。 「最後に一つ。真鍋夫婦は奥さんが入院したころにメイドロボを購入したそうですが」 「ええ。うちの病院の産婦人科が入院前からお二人の相談に乗ってました。卵子と精子の採取も うちでやった筈です」 「それじゃ、夫婦どちらもメイドロボを使うことに異論はなかったんですね」 「異論があったという話は聞いていません」 「この映像を見てください」 矢島が見せた携帯端末の映像を見て榎木は少し顔を顰めた。 「…真鍋さんが選んだのはこのメイドロボでしょうか」 「タイプは同じだと思います。まったく同じ機体かどうかは私には分かりませんが」 「分かりました。遅い時間にお手数かけて申し訳ありませんでした」 「いえ。お役に立てましたでしょうか」 無表情な女医の見送りを背に二人は病院を出た。電動自動車の運転席に身体を収め、矢島はた め息をつく。近所の住人、母親、病院関係者。そろって真鍋に自殺の可能性があったことを示唆 している。僅か半日の捜査で、春木が立てた仮説が成立する余地はかなり狭まったようだ。この ヤマが殺人罪に繋がる可能性はかなり低くなった。 ハンカチで額を拭いながら矢島は考えた。真鍋は明らかに追い詰められていた。妻が亡くなっ た時からずっと。にも関わらず彼が3ヶ月も自殺せずにいたのはなぜか。一つ考えられるのは生 命保険だ。彼は妻の後を追うと決めていながら、なお残される子供のことも気にかけなければな らなかった。普通なら子供のためを思って自殺を思いとどまるだろう。いや、そうでなくても人 間はそう簡単に死ぬことはできない。自分もそうだった。 いずれにせよ、真鍋は残される子供のために自分に生命保険をかけた。そのための手続きその 他で死ぬのを遅らせたのだろう。覚悟の上の自殺だった。そうとしか思えない。 「矢島さん」 春木の声に矢島は横を見た。彼女は黙って矢島を見ている。その目を見ているうちに、なぜか 矢島は彼女がさっきの話を蒸し返そうとしていることに気づいた。死んだ妻の話と、彼が出世の 道を踏み外したあの事件の話を。 矢島は乱暴にハンドルを掴み、アクセルを踏み込んだ。ウインカーを出す暇もなく車は走行車 線へ弾き出される。矢島は前を見たまま無表情な声で言った。 「家はどっちだ」 「え?」 「今日はもう遅い。あとは明日にしよう」 「え、でも」 「送っていく。家は?」 闇と沈黙に沈む玄関を開ける。簡単な暗証ロックだけの入り口。有能な空き巣なら簡単に突破 できるだろう。だが、突破してもそこには何もない。家の中には簡素が家具が僅かばかり。それ に必要最低限度の衣類と書類。冷蔵庫の中には缶のアルコール飲料ばかり並ぶ。中年の男やもめ が一人暮しをすればこうなるという見本のような屋内を見て、矢島は喉に巻きついたネクタイを むしるようにほどく。 上着を取ってしまうとやることがなくなった。仕方なく冷蔵庫を開ける。右手でしばらく缶を 弄ぶが、やがてアルコールを摂取する気すら失せた。疲れた足を引きずりベッドに腰を下ろす。 呆然と闇を映す窓を眺める。他に考えることがないので事件のことに思いを巡らせる。 真鍋の部屋は見事なまでに何もなかった。この世を去る前にできるだけ身の回りをきれいにし ようとしていたかのように。覚悟の上の自殺。そう思える。立つ鳥後を濁さずの言葉通りに彼は この世界から消えていったのか。 だがそれはそれで変だ。確かに自殺に当たって周囲を整理する者は多い。しかし、まるで引越 し直前のように屋内をほとんど空っぽにした例は聞いたことがない。死んでしまえば家具がある かないかは彼にとって何の関係もなくなる。いや、むしろあの部屋にあった家具などは、亡き妻 との思い出の品々であった可能性が高い。妻の後を追うなら、そうしたものたちに囲まれて死に たいと思うのではないだろうか。 矢島は自分の家の中を見渡した。真鍋の部屋ほどではないが、やはり家具も荷物も少ない。だ が、これは矢島が生き延びようと苦闘した結果なのだ。妻を思い出させる品物を見るのに耐えき れず、矢島は次々と家具を売り払った。売れないものは捨て、知り合いに譲り渡した。壁や床が 次々と剥き出しになれば、彼の心に痛みを呼び起こす記憶も薄れると思って。 真鍋は違う。彼は死ぬまでの間、妻との思い出に浸っていたかった筈だ。それとも、そうでは なかったのだろうか。例えば、彼の自殺が発作的なものだったらどうだろう。矢島と同様に彼も 生き延びようとしていた。だから家具も荷物も消していった。だが、今日になって何かが急に彼 を追い詰めた。そうは考えられないだろうか。 矢島は今一度、真鍋の部屋を思い浮かべた。ある物体の存在を思い出し、たった今立てたばか りの仮説を放棄する。彼は脚立を使って死ぬ準備をしていた。発作的に死のうと思った人間がわ ざわざ脚立を用意するだろうか。それとも彼は他の荷物や家具を処分したのに脚立だけ残してい たのだろうか。ありそうにない仮定だ。 ならばやはり彼は死ぬつもりだったのだ。生命保険の件からもそう考えた方が自然だろう。そ して自殺する理由としては妻を追うことしかない。彼にとっては妻と殉死する感覚だったのでは ないか。子供を残しても構わないとまで思いつめた理由は、愛していた妻以外にあり得ない。 しかし、そうなるとまた家具の不在が説明できなくなる。なぜ彼はほとんど全てを処分したの だろう。何か特殊な理由でもあったのだろうか。例えばその家具が何かに汚染されていたとか。 いや、それもおかしい。これから死のうという人間が多少の汚染を気にするのか。そんなことよ り思い出の方が大切ではないだろうか。それならなぜ彼は家具も荷物もきれいさっぱり処理した のだろうか。 矢島はベッドに横たわる。そう言えば彼は会社を辞めていた。いったいどれだけの蓄えがあっ たのだろう。少なくとも約2ヶ月、彼は自分と、お腹に子供を持つメイドロボの双方を養ってき た。それだけの預金は持っていたのだろうか。もしかしたら預金が余りなくて、だから家具を売 って食いつないでいたのだろうか。 一つの考えが浮かぶ。矢島は一瞬、凍りついた。次に低く口笛を吹く。そうだ、意外と単純な 理由かもしれない。彼は自らに生命保険をかけて死んだ。その金の受取人は直接には母親あたり かもしれないが、本当は生まれてくる子供のために残したものに違いない。遺書にも書かれてい た通り、彼は子供のことを気にしていた。そのために生命保険を残そうとしたほどに。おそらく それだけではない。子供に残せるものは何でも残そうとした筈だ。家具を売り払って蓄えを作る ことだってしたのではないだろうか。 明日、母親に確認をしよう。遺品は彼女が持っている。確か、彼の寝室には預金通帳もあった 筈だ。それを見れば分かるだろう。 矢島は目を閉じた。バラバラになったメイドロボの虚ろな瞳がいきなり思い浮かんだ。その瞳 が昔の事件で矢島が狙撃したメイドロボの目と重なった。慌てて瞼を開く。鈍い色の蛍光灯が網 膜に像を結んだ。 『…矢島さんが左遷されるきっかけになったあの事件』 春木の声が耳元で響く。あの事件。下腹部をずたずたに切り裂かれていた女性の事件。人工子 宮の研究者が関係していた、あの悪夢のような事件。矢島は犯人の男を殺し、その男が自前で作 っていたメイドロボを破壊し、そして胎児を殺した。 犯人を殺したことが過剰防衛に問われた。警察は身内に対しては甘いとはいえ、矢島のしたこ とは見逃せるものではなかった。辞めさせられることはなかったが、彼は左遷された。皮肉にも 矢島が出世コースから外れてしばらくすると、『メドー』計画が明らかになった。 矢島は再び目を閉じる。浮かびそうになる妄想を必死に払いのける。あの若い女性刑事ですら 自分の過去を知っていた。いや、それは警察部内では有名な話なのだろう。あの事件も、その後 妻が自殺したことも。そして、彼がメイドロボを憎んでいることも。中でも人間を差し置いて妊 娠する機能を持つに至った『メドー』を心の奥底で呪詛していることすらも。 春木の目が思い浮かぶ。矢島は木石ではない。自分に好意を抱く異性の視線を見れば、それが 何を意味するかくらいは察しがつく。だから逃げた。春木を彼女の自宅に送り届けると、後も見 ずに車を走らせた。 怖いんだ。あの時のような思いをもう一度繰り返すかもしれないとそう思って。夏の日。ぶら 下がった2本の足。陽射しと陰。あの時、矢島は壊れた。今ここにいるのは、かつて矢島と呼ば れた存在が砕け散った後の欠片に過ぎない。彼の半身は永遠に失われた。二度とあんな思いをし たくはない。 メイドロボが睨む。銃を向けられたメイドロボが胎児を守るように下腹部を押さえて。憎しみ に満ちたその目を幻視しながら、矢島の意識は闇に飲まれて行った。http://www1.kcn.ne.jp/~typezero/rdindex.html